手が届くなら本心(12-1)
エレベーターを降りて、先輩の家に戻った。
「電気ついてるな」
先輩の声のトーンが一気に下がる。電気をつけてたことをすっかり忘れてた。
「僕が消し忘れたんです」
「そうか。よかった」
きっとお父さんが部屋に入ってると思ったんだろう。
先輩は部屋に入るとベッドの上に乗ってたカードを適当に避けてダイブした。うつ伏せで枕に顔を埋めてる。入り口のところで声を掛けてみた。
「あの、先輩」
「なに?」
顔をこっちに向けてくれた。だいぶ熱も冷めてきたようで、顔色がいつもと同じだ。
「風呂入ってきたらどうですか?」
「そ、そんな汗臭かった? ごめん!」
起き上がって正座してくださった。そして、箪笥から服を取り出して、
「風呂入ってくる!」
一目散に飛び出ていった。まるで風のごとき速さだった。本当に汗臭いのが気になって行ったのかな。まぁ行ってしまったので確認のしようがない。
さて、何をしよう。お父さんに会うのは気が引けるな。荷物の整理でもしよう。明日着る物を出して……えーと。
終わってしまった。何かやってないと、色々考えてしまいそうになっていやなんだよなぁ。そういえば、藤井先輩からメールが来てたな。返しておこう。
メールの文面を改めて見てみる。小谷先輩と仲良く、か。できてる、よな。その旨を書いたメールを送信、と。ケータイを閉じて、リュックの上に放り投げる。大輔が今夜電話してくるって言ってたけど、まだだな。こっちから電話してみようかな。
「ふーっ。気持ちよかった!」
部屋の入り口を見ると、濡れ髪の先輩が突っ立っていた。
「早いですね」
「あんま長い間入ってっとのぼせっからさァ」
さっきから思ってたけど風呂入る前から妙にハイテンションだ。先輩は机の前の椅子にどっかりと座る。僕はカードが乱雑に散らばってるベッドの端に、壁を背もたれにして足を伸ばして座った。
「もう寝る?」
眠そうなそぶりを見せてないのにそんなことを言われた。壁に掛かってる時計を見てみると、時間は九時過ぎだった。いつもは十一時くらいに寝るけど、長旅とバスケで疲れた。いくら昼寝しててもつらい。
「横になります」
「電気つけてても平気?」
その心配だったのか。明るくても今日は余裕で寝られる。そのことを伝えると、先輩は布団の上に乗ってたカードを集めて、透明のプラスチックケースに片付けた。
「ちょっとどいて」
言われるがままにどいて、ベッドメークを始めた先輩を傍観してた。
「完成」
綺麗にセットされたベッドを見るとダイブしたくなってしまう。気持ちをグッと堪え、タオルケットの上に静かに横たわる。まだ寝ないという意思表示だ。仰向けになってると電気の明かりが目に来る。変化のない視界に先輩の顔が入ってきた。なんて思ってたら、目を細めてほくそえんできた。何か面白いことでもあったのかな?
「目ショボショボしてる。ホント眠いんだね」
「先輩は眠くないんですか?」
視界からアウトして再び椅子に座った。僕は身体を横に向けて先輩の方を見る。
「翔平が来てくれたから元気もらった」
満面の笑みに顔を背けたくなってしまう。すると、おもむろに立ち上がって部屋の扉を閉めた。そのまま扉に寄りかかってる。急にどうしたんだろう。
「でさ、翔平は俺のことどう思ってんの?」
一直線に見てくる視線が今は痛い。僕はどう思ってるか。先輩に対しての思いは色々とありすぎて何から言ったら良いか迷うくらいだ。ただ、その中でも一番強く思ってるのは。さっきの先輩みたく起き上がって正座になった。先輩のことを見上げる。視線が絡んで、外してはいけない気持ちになる。
「先輩は僕の……憧れです」
先輩は俯いてぎゅうっと目を瞑った。何度も思ってたけど、口には出さなかった。他の人は先輩のことを「隆」だったり「隆先輩」って呼ぶけど、僕は「小谷先輩」と呼び続けてる。それは気恥ずかしかったからだと思ってたんだけど、敬意を表してのことなんだと思う。
今頃恥ずかしさが込み上げてくる。顔が紅潮してる気がする。先輩はゆっくりと目を開けた。
「ありがと」
唇が小さく動いた。
「でも、俺なんかが憧れでいいのか?」
「そんな謙遜しなくても」
言ってから思った。謙遜するような人だから僕の憧れなんだろう。
「そうだな」
柔らかに微笑んで、その場に座り込んだ。足を伸ばして、手を開いて力なく太ももの上に乗せてる。視線を揺らがせ、焦点が定まってない様子だ。
「怖かったんだ。俺のこと嫌いなんじゃないかって。心の底からの笑顔を俺に見せてくれないから、表面だけの付き合いなのかと思ってた」
あのラベンダーの香りだったり、必死になって俺を笑わせようとしてくれたことか。あれはむしろ、頭おかしくなったんじゃないかって心配した。
「だから、俺はもう無理しなくなったのかな。偽りの自分を演じずに接する。昔の俺にはできて、今の俺にはできないこと。俺こそ翔平に憧れていたのかもしれない」
先輩は徐々に身体を縮めて、体育座りの姿勢になってしまった。俯いてて、表情が窺えない。先輩の言葉に胸が熱くなった。「偽りの自分」って、人を手助けするときのこととか、お父さんと接してるときなんだろうな。僕は確かにそんな気持ちになったことはない。じゃあ先輩はこっちに来るまで「偽りの自分」を演じてたってことなんだろう。それでも僕が笑ってくれなくて、頭がおかしくなるのは頷ける。今頃になって昔の自分を悔いる。
先輩の姿があまりにも切なくて、声をかけるのがためらわれる。僕に言えることなのか、僕だからこそ言えることなのか、それは分からない。でもこのままじゃいけない。だけど自慢の後輩と言ってくれた先輩だ。そんな先輩のことを見捨てることはできなかった。僕は立ち上がって先輩の前まで歩み寄った。正座すると床がカーペットだから地味に痛い。
「先輩はそのままの先輩で居てください」
僕に優しく接してくれたその姿は忘れもしない。今とは接し方が違う。ただ、今の先輩も昔の先輩も先輩であることに変わりないって思った。考え方の違いで接し方にも違いが出てるのは事実だ。でも、僕と仲良くなろうって気持ちは今も昔も同じはずだ。
「そのまま?」
先輩は捨てられた犬が人を見上げるような目で見てきた。直視するのがつらいけど、僕は引きつった笑顔を返した。
「はい。僕の望みです」
また顔を俯けてしまった。恥ずかしいと思ったらからなのかな。だったら良いな。
ふぅ。僕にできることはここまでだ。後は先輩自身がどうにかすることだ。布団の上でタオルケットを胸の辺りまで被って横になった。扉の辺りから負のオーラが漂ってくるのが分かる。壁を向いてオーラを感じないようにする。目を瞑って全てを遮断する。
電気がついてて、人の気配を感じるからなかなか寝付けない。普段と違うベッドで寝るっていうのもあるかな。
そんなことを考えてたら物音がした。扉を開ける音かな。反対を向いてみる。やっぱり扉が開いてる。それ以外に音は聞こえなかったから、外には出てないだろう。眠気はきてるから、僕は再び目を瞑った。
目が覚めた。目の前は……壁。真っ暗というほどでもなく、薄暗い青さだ。まだ朝じゃないみたい。振り返って部屋の様子を見てみる。
「えっ?」
先輩は長座布団を敷いて寝てて、見たことないタオルケットを被って背中を向けてた。僕に遠慮したのかな。そんな気遣いしなくて良かったのに。先輩は寝返りを打ってこちらを向いた。寝てるって分かってても緊張する。
僕も寝返りを打って、先輩と同じ方を向いた。わざわざ起こしてまで、入っていいよ……ってなんだか恋人同士みたいだ。想像してみたら……ない。もう寝てるんだし、いいや。時計は四をさしていた。もう少し寝てて大丈夫だな。
再び目が覚めた。外はもう完全に明るい。時間はっ!
もう八時だ。壁掛け時計から視線を落とすと、先輩が居ない。寝させてもらってるのにこんな遅くまで寝てたなんて申し訳ない。
僕は起き上がって、軽く手櫛で髪をとかして準備万端だ。よく見てみると先輩と一緒に長座布団とタオルケットもなくなってた。この時間にはもう起きてるんだ。部屋を出て、リビングに一直線に行く。トイレに行きたいけど、何も言わずに行くのも忍びない。リビングに入って先輩の後ろ姿が見えたので挨拶をする。
「おはようございます」
「おはよう」
「ああ、おはよう」
遅れて先輩のお父さんの声がした。今日はちゃんと椅子に座って向かい合ってたんだ。ただ、先輩は真っ直ぐ座ってるけど、お父さんは少し斜めに座っててベランダの方を見てる。
「座ったら?」
先輩はそう言ってテーブルの下にあった丸椅子を出してくれた。こんなところに椅子があったのか。進められるがままに僕はゆっくりと腰を落ち着けた。
テーブルの上には何も物が乗っていない。何か話してたのかな。テレビもついてないし。
「翔平くんも起きてきたことだし、朝ご飯にしようか」
お父さんの提案に頷きかけたところで先輩が制止してきた。
「話はまだ終わってない」
「客人の前でする話なのか?」
あ、あの二人とも声のトーンが低いのですが。お邪魔であれば退く覚悟です。先輩は僕をチラッと見て、再びお父さんに視線を移した。
「翔平がいるからこそだ」
「なんですかそれ」
「聞いてれば分かる」
先輩は視線をお父さんから動かさなかった。
「そこまで言うなら仕方ないな」
お父さんは腕組みをして聞く姿勢に入った。体勢はこっちに傾けてないけど。
「こっちに来たのは俺の意思で決めたことだ」
急に重い話だ。二人とも眉根を強く寄せている。ものすごくこの場に居づらい雰囲気だけど「僕が居るからこそ」話すという部分が気になる。ぐっと我慢して、先輩の話を聞く。
「でも、ここに来るのが近くなるたびに、あっちに残りたい気持ちが強くなっていった」
淡々と話す先輩に対し、お父さんはようやく身体をまっすぐにして聞き入る体勢に入った。
「一番は友達の存在が大きかったんだと思う。だけど、父さんに言ったら困るだけかなって……そう、思って」
先輩はつらそうに眉根を寄せて、俯いた。お父さんが優しげな声をかける。
「隆太には迷惑かけっぱなしだな。俺が転勤族じゃなければそんな思いを」
「それでいいって。他の人だったらこんな経験、滅多にできない」
震えた声音に無理やり作ったようなくしゃくしゃの笑顔に僕は涙が出てきそうになった。先輩はそのまま続ける。
「俺を救ってくれたのは父さんだ。恩返ししたい気持ちもあったから、何も言えなかった」
恩返し? 救う? 初めて聞いた。
「だけど」
そこで口を噤んでしまった。先輩を見てみると唇をかみ締めてつらそうな表情を浮かべてる。僕が口を挟むべき問題ではない。先輩自信が切り開かないといけない。
先輩は胸の辺りをシャツ越しにぎゅうっと強く掴んで不安を打ち消そうとしてる。頑張れ!
「俺の気持ちを――伝えておきたかったんだ」
下がってた目線がすうっと上がって、お父さんと向き合ってる状態になった。手も自然と下りていく。沈黙がこの場を支配する……と思いきや、お父さんが重い口を開いた。
「ありがとう。そこまで言ってくれて」
そして小さく礼をした。何この親子水入らずの場。ものすごく居づらいのですが。新手の嫌がらせ?
「ありがとな。翔平のおかげだよ」
真顔で言われた。でも、それが心からの感謝の気持ちだということはすぐに分かった。
「何で僕が?」
素直な疑問だった。僕はここに来ただけで何もしてない。先輩は一度頷いてから、口を開いた。
「笑ってくれることだけが全てじゃないと思ったんだ。真剣に意見をぶつけ合える仲、それが一番良いことなんじゃないかって。いくら仲が良くても言わなきゃ伝わらない。なんとなく思っててもそれは確かなことじゃない。翔平が俺のことをどう思ってるのか聞いて分かった。言わなきゃ伝わらないってことがさ」
先輩の真剣な声音と雰囲気に僕の心は打たれた。それと同時に昨日のことを思いだして、少し顔が熱くなった。こんなことを思ってたなんて分からなかった。言ってくれなきゃ分からないんだな。
「でも、なんだかんだ言って俺はこっちに来て良かったよ。少しは成長できたかなって自分では思ってる」
先輩はへへと愛想笑いをして頬をポリポリとかいた。この経験も自分の糧にしていってるんだな。
「言ってくれてありがとう」
お父さんは深く頷いて、生唾を一つ飲んだ。そして手を上げて?
パンパン!
「遅くなってしまったけど、ご飯にしよう」
急に大きな音を出すからびっくりしてしまった。お父さんは得意気な顔をしてる。
「何か作るんですか?」
ルンルン気分なお父さんは僕の言葉に耳を傾けてくれず、キッチンに入っていった。その姿を一緒に見てた先輩が呆れた表情を浮かべる。
「父さんは料理になると別人になっちゃうから」
「そうなんですか」
意外だ。お母さんに家事は全部任せてそうな感じなんだけどな。
「休日はいつもこうなんだよ」
どんな料理を振る舞ってくれるのか楽しみだ。さっきまでの重苦しい雰囲気が一変した。
「ごちそうさまでした!」
小谷家は理想の朝食のようで、ご飯、味噌汁、玉子焼き、それと昨日届いたポテトサラダだった。でもあれだけ気合入れてた割りに申し訳ないけど、普通だった。でも男の人が作ったことを考えると良いのかもしれない。よくよく振り返ってみると、お店とかは別にして基本的に僕は女の人が作った料理しか食べてない。そういった意味で新鮮というか、違和感があったんだろう。
お父さんは食後の一杯のお茶に口をつけて、湯飲みを手に持ったまま訊いてきた。
「翔平君はいつ帰るんだい?」
テーブルを挟んでるのがお父さんと先輩で、僕はその間に座ってる。お父さんに身体を向けた。
「今日です。午前中にはここを出ようかなぁと」
「午前中? 昼は?」
右側から若い声が聞こえてきたので今度はそっちを向く。先輩は僕ともう少し居たいのかな。でも
「駅弁か何かでなんとかします。予想以上にお金使わなかったんで」
他にも色々と理由はあったけど、駅弁を一度食べてみたいっていうのが大きかった。
「そうか」
それだけ呟いて、しょげてしまった。先輩には新たな居場所がある。僕はその邪魔をしに来たんじゃない。
「次っていつクラブの活動あるんですか?」
「明後日だな。明日は暇だなァ」
その遠くを見る目は、明日まで僕が居てほしいっていう意思表示ですか。
「明日から部活が始まるんですよ」
「部活か。そういや部長になったんだよな」
「はい。副部長は大輔なんですよ」
「副部長なんて、そんな制度あったっけ?」
首を傾げてくる。そっちの驚きだったのか。
「今回は居るみたいです」
「副部長がいない部活も珍しいからな。妥当なんじゃないか」
認めてくれたのかな。部長になって嬉しい反面、不安も大いにある。
「僕が部長で務まるものなのか、不安です」
「そこまで重圧感じなくていいんじゃないか」
先輩は窓に視線を移して逡巡し始めた。
「植木先輩も部長だった。あの人から直に学ぶことは多かったし、部員にも積極的に接してたよ。でも前の部長はその逆だろ? 背中で引っ張っていってくれたよな」
頷く。先輩は何が言いたいんだろう。
「二人とも違うタイプだったけど、どっちも良かったと思ってる。翔平が考える理想の部長像があるならそれに近づいていけばいいし、ないなら自然体でいればいいんじゃないか?」
まさにその通りだと思った。部長になったから何か変えるっていうのはいやだな。このままの自分でやっていこう。そんなことを考えられる先輩は遠い存在だな。なんて思ってると先輩の顔が綻んだ。
「部長格になったことない俺が言うのはおこがましかったかな」
「そんなことないです。ありがとうございました」
その後は先輩の身の上話など、お父さんを交えて話したから新しい情報も多かった。別れるのが名残惜しいな。帰ってからは電話やメールでやり取りはできても、姿は分からない。表情の変化や仕種が見えない。そういった意味で直接会って話すのと電話じゃ感じることが違うな、って思う。
「電気ついてるな」
先輩の声のトーンが一気に下がる。電気をつけてたことをすっかり忘れてた。
「僕が消し忘れたんです」
「そうか。よかった」
きっとお父さんが部屋に入ってると思ったんだろう。
先輩は部屋に入るとベッドの上に乗ってたカードを適当に避けてダイブした。うつ伏せで枕に顔を埋めてる。入り口のところで声を掛けてみた。
「あの、先輩」
「なに?」
顔をこっちに向けてくれた。だいぶ熱も冷めてきたようで、顔色がいつもと同じだ。
「風呂入ってきたらどうですか?」
「そ、そんな汗臭かった? ごめん!」
起き上がって正座してくださった。そして、箪笥から服を取り出して、
「風呂入ってくる!」
一目散に飛び出ていった。まるで風のごとき速さだった。本当に汗臭いのが気になって行ったのかな。まぁ行ってしまったので確認のしようがない。
さて、何をしよう。お父さんに会うのは気が引けるな。荷物の整理でもしよう。明日着る物を出して……えーと。
終わってしまった。何かやってないと、色々考えてしまいそうになっていやなんだよなぁ。そういえば、藤井先輩からメールが来てたな。返しておこう。
メールの文面を改めて見てみる。小谷先輩と仲良く、か。できてる、よな。その旨を書いたメールを送信、と。ケータイを閉じて、リュックの上に放り投げる。大輔が今夜電話してくるって言ってたけど、まだだな。こっちから電話してみようかな。
「ふーっ。気持ちよかった!」
部屋の入り口を見ると、濡れ髪の先輩が突っ立っていた。
「早いですね」
「あんま長い間入ってっとのぼせっからさァ」
さっきから思ってたけど風呂入る前から妙にハイテンションだ。先輩は机の前の椅子にどっかりと座る。僕はカードが乱雑に散らばってるベッドの端に、壁を背もたれにして足を伸ばして座った。
「もう寝る?」
眠そうなそぶりを見せてないのにそんなことを言われた。壁に掛かってる時計を見てみると、時間は九時過ぎだった。いつもは十一時くらいに寝るけど、長旅とバスケで疲れた。いくら昼寝しててもつらい。
「横になります」
「電気つけてても平気?」
その心配だったのか。明るくても今日は余裕で寝られる。そのことを伝えると、先輩は布団の上に乗ってたカードを集めて、透明のプラスチックケースに片付けた。
「ちょっとどいて」
言われるがままにどいて、ベッドメークを始めた先輩を傍観してた。
「完成」
綺麗にセットされたベッドを見るとダイブしたくなってしまう。気持ちをグッと堪え、タオルケットの上に静かに横たわる。まだ寝ないという意思表示だ。仰向けになってると電気の明かりが目に来る。変化のない視界に先輩の顔が入ってきた。なんて思ってたら、目を細めてほくそえんできた。何か面白いことでもあったのかな?
「目ショボショボしてる。ホント眠いんだね」
「先輩は眠くないんですか?」
視界からアウトして再び椅子に座った。僕は身体を横に向けて先輩の方を見る。
「翔平が来てくれたから元気もらった」
満面の笑みに顔を背けたくなってしまう。すると、おもむろに立ち上がって部屋の扉を閉めた。そのまま扉に寄りかかってる。急にどうしたんだろう。
「でさ、翔平は俺のことどう思ってんの?」
一直線に見てくる視線が今は痛い。僕はどう思ってるか。先輩に対しての思いは色々とありすぎて何から言ったら良いか迷うくらいだ。ただ、その中でも一番強く思ってるのは。さっきの先輩みたく起き上がって正座になった。先輩のことを見上げる。視線が絡んで、外してはいけない気持ちになる。
「先輩は僕の……憧れです」
先輩は俯いてぎゅうっと目を瞑った。何度も思ってたけど、口には出さなかった。他の人は先輩のことを「隆」だったり「隆先輩」って呼ぶけど、僕は「小谷先輩」と呼び続けてる。それは気恥ずかしかったからだと思ってたんだけど、敬意を表してのことなんだと思う。
今頃恥ずかしさが込み上げてくる。顔が紅潮してる気がする。先輩はゆっくりと目を開けた。
「ありがと」
唇が小さく動いた。
「でも、俺なんかが憧れでいいのか?」
「そんな謙遜しなくても」
言ってから思った。謙遜するような人だから僕の憧れなんだろう。
「そうだな」
柔らかに微笑んで、その場に座り込んだ。足を伸ばして、手を開いて力なく太ももの上に乗せてる。視線を揺らがせ、焦点が定まってない様子だ。
「怖かったんだ。俺のこと嫌いなんじゃないかって。心の底からの笑顔を俺に見せてくれないから、表面だけの付き合いなのかと思ってた」
あのラベンダーの香りだったり、必死になって俺を笑わせようとしてくれたことか。あれはむしろ、頭おかしくなったんじゃないかって心配した。
「だから、俺はもう無理しなくなったのかな。偽りの自分を演じずに接する。昔の俺にはできて、今の俺にはできないこと。俺こそ翔平に憧れていたのかもしれない」
先輩は徐々に身体を縮めて、体育座りの姿勢になってしまった。俯いてて、表情が窺えない。先輩の言葉に胸が熱くなった。「偽りの自分」って、人を手助けするときのこととか、お父さんと接してるときなんだろうな。僕は確かにそんな気持ちになったことはない。じゃあ先輩はこっちに来るまで「偽りの自分」を演じてたってことなんだろう。それでも僕が笑ってくれなくて、頭がおかしくなるのは頷ける。今頃になって昔の自分を悔いる。
先輩の姿があまりにも切なくて、声をかけるのがためらわれる。僕に言えることなのか、僕だからこそ言えることなのか、それは分からない。でもこのままじゃいけない。だけど自慢の後輩と言ってくれた先輩だ。そんな先輩のことを見捨てることはできなかった。僕は立ち上がって先輩の前まで歩み寄った。正座すると床がカーペットだから地味に痛い。
「先輩はそのままの先輩で居てください」
僕に優しく接してくれたその姿は忘れもしない。今とは接し方が違う。ただ、今の先輩も昔の先輩も先輩であることに変わりないって思った。考え方の違いで接し方にも違いが出てるのは事実だ。でも、僕と仲良くなろうって気持ちは今も昔も同じはずだ。
「そのまま?」
先輩は捨てられた犬が人を見上げるような目で見てきた。直視するのがつらいけど、僕は引きつった笑顔を返した。
「はい。僕の望みです」
また顔を俯けてしまった。恥ずかしいと思ったらからなのかな。だったら良いな。
ふぅ。僕にできることはここまでだ。後は先輩自身がどうにかすることだ。布団の上でタオルケットを胸の辺りまで被って横になった。扉の辺りから負のオーラが漂ってくるのが分かる。壁を向いてオーラを感じないようにする。目を瞑って全てを遮断する。
電気がついてて、人の気配を感じるからなかなか寝付けない。普段と違うベッドで寝るっていうのもあるかな。
そんなことを考えてたら物音がした。扉を開ける音かな。反対を向いてみる。やっぱり扉が開いてる。それ以外に音は聞こえなかったから、外には出てないだろう。眠気はきてるから、僕は再び目を瞑った。
目が覚めた。目の前は……壁。真っ暗というほどでもなく、薄暗い青さだ。まだ朝じゃないみたい。振り返って部屋の様子を見てみる。
「えっ?」
先輩は長座布団を敷いて寝てて、見たことないタオルケットを被って背中を向けてた。僕に遠慮したのかな。そんな気遣いしなくて良かったのに。先輩は寝返りを打ってこちらを向いた。寝てるって分かってても緊張する。
僕も寝返りを打って、先輩と同じ方を向いた。わざわざ起こしてまで、入っていいよ……ってなんだか恋人同士みたいだ。想像してみたら……ない。もう寝てるんだし、いいや。時計は四をさしていた。もう少し寝てて大丈夫だな。
再び目が覚めた。外はもう完全に明るい。時間はっ!
もう八時だ。壁掛け時計から視線を落とすと、先輩が居ない。寝させてもらってるのにこんな遅くまで寝てたなんて申し訳ない。
僕は起き上がって、軽く手櫛で髪をとかして準備万端だ。よく見てみると先輩と一緒に長座布団とタオルケットもなくなってた。この時間にはもう起きてるんだ。部屋を出て、リビングに一直線に行く。トイレに行きたいけど、何も言わずに行くのも忍びない。リビングに入って先輩の後ろ姿が見えたので挨拶をする。
「おはようございます」
「おはよう」
「ああ、おはよう」
遅れて先輩のお父さんの声がした。今日はちゃんと椅子に座って向かい合ってたんだ。ただ、先輩は真っ直ぐ座ってるけど、お父さんは少し斜めに座っててベランダの方を見てる。
「座ったら?」
先輩はそう言ってテーブルの下にあった丸椅子を出してくれた。こんなところに椅子があったのか。進められるがままに僕はゆっくりと腰を落ち着けた。
テーブルの上には何も物が乗っていない。何か話してたのかな。テレビもついてないし。
「翔平くんも起きてきたことだし、朝ご飯にしようか」
お父さんの提案に頷きかけたところで先輩が制止してきた。
「話はまだ終わってない」
「客人の前でする話なのか?」
あ、あの二人とも声のトーンが低いのですが。お邪魔であれば退く覚悟です。先輩は僕をチラッと見て、再びお父さんに視線を移した。
「翔平がいるからこそだ」
「なんですかそれ」
「聞いてれば分かる」
先輩は視線をお父さんから動かさなかった。
「そこまで言うなら仕方ないな」
お父さんは腕組みをして聞く姿勢に入った。体勢はこっちに傾けてないけど。
「こっちに来たのは俺の意思で決めたことだ」
急に重い話だ。二人とも眉根を強く寄せている。ものすごくこの場に居づらい雰囲気だけど「僕が居るからこそ」話すという部分が気になる。ぐっと我慢して、先輩の話を聞く。
「でも、ここに来るのが近くなるたびに、あっちに残りたい気持ちが強くなっていった」
淡々と話す先輩に対し、お父さんはようやく身体をまっすぐにして聞き入る体勢に入った。
「一番は友達の存在が大きかったんだと思う。だけど、父さんに言ったら困るだけかなって……そう、思って」
先輩はつらそうに眉根を寄せて、俯いた。お父さんが優しげな声をかける。
「隆太には迷惑かけっぱなしだな。俺が転勤族じゃなければそんな思いを」
「それでいいって。他の人だったらこんな経験、滅多にできない」
震えた声音に無理やり作ったようなくしゃくしゃの笑顔に僕は涙が出てきそうになった。先輩はそのまま続ける。
「俺を救ってくれたのは父さんだ。恩返ししたい気持ちもあったから、何も言えなかった」
恩返し? 救う? 初めて聞いた。
「だけど」
そこで口を噤んでしまった。先輩を見てみると唇をかみ締めてつらそうな表情を浮かべてる。僕が口を挟むべき問題ではない。先輩自信が切り開かないといけない。
先輩は胸の辺りをシャツ越しにぎゅうっと強く掴んで不安を打ち消そうとしてる。頑張れ!
「俺の気持ちを――伝えておきたかったんだ」
下がってた目線がすうっと上がって、お父さんと向き合ってる状態になった。手も自然と下りていく。沈黙がこの場を支配する……と思いきや、お父さんが重い口を開いた。
「ありがとう。そこまで言ってくれて」
そして小さく礼をした。何この親子水入らずの場。ものすごく居づらいのですが。新手の嫌がらせ?
「ありがとな。翔平のおかげだよ」
真顔で言われた。でも、それが心からの感謝の気持ちだということはすぐに分かった。
「何で僕が?」
素直な疑問だった。僕はここに来ただけで何もしてない。先輩は一度頷いてから、口を開いた。
「笑ってくれることだけが全てじゃないと思ったんだ。真剣に意見をぶつけ合える仲、それが一番良いことなんじゃないかって。いくら仲が良くても言わなきゃ伝わらない。なんとなく思っててもそれは確かなことじゃない。翔平が俺のことをどう思ってるのか聞いて分かった。言わなきゃ伝わらないってことがさ」
先輩の真剣な声音と雰囲気に僕の心は打たれた。それと同時に昨日のことを思いだして、少し顔が熱くなった。こんなことを思ってたなんて分からなかった。言ってくれなきゃ分からないんだな。
「でも、なんだかんだ言って俺はこっちに来て良かったよ。少しは成長できたかなって自分では思ってる」
先輩はへへと愛想笑いをして頬をポリポリとかいた。この経験も自分の糧にしていってるんだな。
「言ってくれてありがとう」
お父さんは深く頷いて、生唾を一つ飲んだ。そして手を上げて?
パンパン!
「遅くなってしまったけど、ご飯にしよう」
急に大きな音を出すからびっくりしてしまった。お父さんは得意気な顔をしてる。
「何か作るんですか?」
ルンルン気分なお父さんは僕の言葉に耳を傾けてくれず、キッチンに入っていった。その姿を一緒に見てた先輩が呆れた表情を浮かべる。
「父さんは料理になると別人になっちゃうから」
「そうなんですか」
意外だ。お母さんに家事は全部任せてそうな感じなんだけどな。
「休日はいつもこうなんだよ」
どんな料理を振る舞ってくれるのか楽しみだ。さっきまでの重苦しい雰囲気が一変した。
「ごちそうさまでした!」
小谷家は理想の朝食のようで、ご飯、味噌汁、玉子焼き、それと昨日届いたポテトサラダだった。でもあれだけ気合入れてた割りに申し訳ないけど、普通だった。でも男の人が作ったことを考えると良いのかもしれない。よくよく振り返ってみると、お店とかは別にして基本的に僕は女の人が作った料理しか食べてない。そういった意味で新鮮というか、違和感があったんだろう。
お父さんは食後の一杯のお茶に口をつけて、湯飲みを手に持ったまま訊いてきた。
「翔平君はいつ帰るんだい?」
テーブルを挟んでるのがお父さんと先輩で、僕はその間に座ってる。お父さんに身体を向けた。
「今日です。午前中にはここを出ようかなぁと」
「午前中? 昼は?」
右側から若い声が聞こえてきたので今度はそっちを向く。先輩は僕ともう少し居たいのかな。でも
「駅弁か何かでなんとかします。予想以上にお金使わなかったんで」
他にも色々と理由はあったけど、駅弁を一度食べてみたいっていうのが大きかった。
「そうか」
それだけ呟いて、しょげてしまった。先輩には新たな居場所がある。僕はその邪魔をしに来たんじゃない。
「次っていつクラブの活動あるんですか?」
「明後日だな。明日は暇だなァ」
その遠くを見る目は、明日まで僕が居てほしいっていう意思表示ですか。
「明日から部活が始まるんですよ」
「部活か。そういや部長になったんだよな」
「はい。副部長は大輔なんですよ」
「副部長なんて、そんな制度あったっけ?」
首を傾げてくる。そっちの驚きだったのか。
「今回は居るみたいです」
「副部長がいない部活も珍しいからな。妥当なんじゃないか」
認めてくれたのかな。部長になって嬉しい反面、不安も大いにある。
「僕が部長で務まるものなのか、不安です」
「そこまで重圧感じなくていいんじゃないか」
先輩は窓に視線を移して逡巡し始めた。
「植木先輩も部長だった。あの人から直に学ぶことは多かったし、部員にも積極的に接してたよ。でも前の部長はその逆だろ? 背中で引っ張っていってくれたよな」
頷く。先輩は何が言いたいんだろう。
「二人とも違うタイプだったけど、どっちも良かったと思ってる。翔平が考える理想の部長像があるならそれに近づいていけばいいし、ないなら自然体でいればいいんじゃないか?」
まさにその通りだと思った。部長になったから何か変えるっていうのはいやだな。このままの自分でやっていこう。そんなことを考えられる先輩は遠い存在だな。なんて思ってると先輩の顔が綻んだ。
「部長格になったことない俺が言うのはおこがましかったかな」
「そんなことないです。ありがとうございました」
その後は先輩の身の上話など、お父さんを交えて話したから新しい情報も多かった。別れるのが名残惜しいな。帰ってからは電話やメールでやり取りはできても、姿は分からない。表情の変化や仕種が見えない。そういった意味で直接会って話すのと電話じゃ感じることが違うな、って思う。
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