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手が届くなら錯誤(11-5)
 先輩と一緒にマンションの敷地内に入っていく。結構大きい。八階建てぐらいだ。もちろん、あのボロい前の先輩の家とは比べ物にならないぐらいピカピカだ。でもさすがにオートロックではなかった。
 入り口の扉をくぐると日陰だからか涼しい。そしてこの小奇麗なエレベーターに乗る。先輩は六階をポチッと押した。エレベーター内では一言も交わさないまま、目的の階に着いた。先輩に続いて降りると、長い廊下を歩いていく。
「ここ」
 はあ。605号室だった。きちんと「小谷」の表札がかかってる。鍵を開けてもらって中に入ると、むわっとした空気が顔を伝う。
「上がって」
 一瞬誰の家に来たのか分からなくなってた。これが新しく小谷先輩が住む家か。パッと見そこまで狭くないように思う。やっぱ転勤で一時的にここに住むことになったって訳じゃないか。分かりきってたことなのに少し残念に思った。
「傘は傘立てにな。つか、天気予報でずっと晴れなのに傘持ってくるなんて不思議な奴だなァ」
 雨の心配なんか全くないのに持ってきたこのビニール傘。先輩に届けたかった物の一つだ。
「先輩が貸してくれたやつですよ。返しに来ました」
 先輩の目が大きく見開かれ、その後すぐに呆れ顔をされた。
「お前……ばっかだなァ。そんなんどこにでも売ってるだろ」
 でもその後、柔らかな微笑みをしてくれた。
「ありがと」
 その言葉に気持ちが満たされる。傘、持ってきて良かったな。
「それにしてもあちー。俺、着替えてくっからリビングで待ってて」
 そう促されてリビングに足を運ぶ僕。明るい。マンションってもっと暗いイメージがあったから意外だ。対面キッチンの前には四人掛けテーブルに二つの椅子がある。ここでお父さんと向かい合って食べてるのかな。とりあえずコンビニで買ってきたものをテーブルに置き、辺りを見回してみた。
「これって」
 部屋には観葉植物だらけ。ベランダにもプランターからよく分からないものが生えてる。先輩のお父さんは家庭菜園が好きなのかな。ふとある光景を思い出した。前の先輩の家……そういえば枯れた観葉植物が雑然と並んでたな。お父さんが手入れしてただろうから、居なくなって誰も世話をしなくなって枯れてしまったんだろう。可哀想に。ここは狭くないとはいえ、前の先輩の家が大きすぎたから全部持って来れなかったんだろうな。
 それにこれって。リビングと繋がってる和室には、前の先輩の部屋にあったクリスタル座卓がソファーの前に置かれていた。すごく違和感があるけどここしか置く場所がなかったんだろうな。ソファーの上には花柄の座布団が乗っていた。これも先輩の部屋にあったやつだな。
「お待たせー」
 昔を懐かしんでると先輩が着替え終わってた。いかにも夏らしい水色のシャツがまぶしいです。先輩はキッチンに入っていく。
「翔平はなんか飲み物いる?」
「あ、いいです。買っちゃいました」
「そっか。先に確認すればよかったな」
 なんだか申し訳ないことをしてしまった。先輩は麦茶とコップを一つ持ってきて椅子に腰かけた。
「翔平も座りなよ」
 言われるがままに先輩の反対側の椅子に恐る恐る腰を落ち着ける。正面には先輩が居る。照れるというか、恥ずかしい……訳でもない。もやもやする。
「いっただきまーす」
 先輩はコンビニ袋から弁当を取り出し、開けていく。割り箸を両手で割って、チキン南蛮にかぶりついた。結局チキン南蛮にしたのか。食べずにじっと見てる僕のことに気づいたのか箸の動きを止めた。
「食べないのか? あ、それとも冷房? この暑さに慣れちゃったからさー」
「あ、別にいいです」
 そういうことではなかった。まぁほんのちょっと冷房をつけてほしい気はあったけど、先輩がつけなくて良いなら僕もその意向に従うまでだ。先輩はあのボロい家に住んでたから夏は暑く、冬は寒いというのを体感してたからこういうのには強いんだろう。
 僕も自分で買ったものを取り出して食べ始めた。半月くらいこんな生活してるのか。家にお母さんが居ないっていやだな。その後も黙々と食べながらも先輩をちらりと見る。本当にうまそうに食べてる。相当お腹が減ってたのか、食べ終わって炊飯器に入ってたご飯まで持ち出してきた。食べ盛りだからなぁ。いくら暑くてもこの歳で僕みたく食欲が湧かないのは珍しいと思う。
 結局は僕も先輩もペロリと平らげてしまった。
「ふう、食った食った」
 そして麦茶を飲み干した。先輩はベランダに目をやるので、僕もつい見てしまった。
 ……何もなかった。先輩を見ると、ベランダというよりその向こうの空を見てる感じだった。右手はコップを握ってて、左手は椅子の背もたれにかけてる。あなたはモデルですかと突っ込みたくなってしまった。こんな格好が様になってる中学生は見たことがない。
「先輩、さっきの話の続きを教えてください」
 ピクリと反応して、コップを握ってる手を強めた。
「翔平が俺に会いに来てくれたのは嬉しいよ。けど、こんな俺のためになんで来た?」
 途中でこちらを向いてきてびっくりする。それは豹変したときのような表情だった。ここで負けてはいけない。先輩の目を見返した。
「先輩は自分を過小評価しすぎです」
「俺はここに来る日を偽ったり、県大会の日に無断で欠場した。こんなどうしようもない俺のことなんか」
「どうしようもなくない! それは不義理なことではあるけど、そんなことで先輩不信になったりしない」
 コップを握る手がより一層強くなる。こめかみにも青筋が立ってきた。ここで退いちゃいけない。先輩は左手を軽くテーブルに叩きつけた。
「だって、どうしようもないだろ! お前に心の底から笑って欲しくてラベンダーのにおいつけたり、バカやったりさ」
 先輩は唇を震わせる。視線も落ちてきた。
「それでも……それでもお前は笑ってくれなかった。こんなの先輩失格だろ。だからいっそ俺のことは綺麗さっぱり忘れてほしかったんだよ」
 決して声を荒げてる訳じゃない、先輩の悲痛な想いがそのままこもったかのような声に僕は心打たれた。それと同時に僕は先輩に対しての言動を思いだす。
 放課後にたまたま校内で会ったときのあのハイテンションっぷりとラベンダーの香り、練習中の休憩時間や、先輩の家に行った日、そして中総体。どれを取っても僕は心の底から笑ってる記憶がなかった。先輩の機嫌を取ろうと必死だった。そんなことに気づけなかった自分……いや、先輩と自然体で接してなかった自分がたまらなくいやになった。
 ――普段通りに接すれば良いんじゃない? 私はそうして欲しいと思うよ
 不意におばさんの言葉が脳裏に浮かんだ。そうしてれば歯車が噛み合ってたんだ。自責の念に駆られる。
 はあ。小さなため息が出た。
 意識すればするほど笑うってできなくなる。先輩はなかなか僕が笑ってくれなくてもどかしい思いをしてたんだろう。今、偽の笑いをしたって意味がない。きっとやり残したことってこのことだったんだろう。僕のことで先輩にそんな重荷を背負わせてたなんていやだな。転校が近づいてきたからおかしくなったんだとばかり思ってた自分を悔やむ。
 視線をテーブルからベランダに移す。今日も今日とて晴れ渡った空。外から聞こえてくるセミの声はやっぱり地元とは違う。こっちのセミの方がひ弱そ
「なあ、翔平」
 唐突に声をかけられ振り向く。別に低くて凄みのある声のトーンではなかったから気楽に見ることができた。先輩はコップを両サイドからガシッと握ってこっちを向いてた。手が大きいからコップが小さく見える。もちろん真剣な表情だ。
「俺だって忘れようと思ったんだ。隣県なら年に何回か会ってもいいと思うが、ここは地味に遠い」
 そのことについては充分承知してます。体験済みです。先輩は何も入ってないコップに目を移す。
「忘れるってのは大げさかもしんねェけど、こんだけ離れてたら会うのも一苦労だ。ならいっそ忘れた方が気楽だと思った」
 最後は消え入る声に違和感を覚える。おかしい。絶対にそんなこと思ってない。
「会えなくたって忘れることはないじゃないですか」
 僕の言葉に、先輩はつばを飲み込んで目を閉じた。色々と考えをめぐらせてるのかな。
「だな。お前が来たら忘れることができなくなる」
 思わず言葉に詰まる。これだと先輩と仲違いしてるみたいだ。そんなことをしにここへ来た訳じゃない。ふと思い立つ。この展開なら『あれ』が役立つんじゃないか。僕はおもむろにリュックから一枚の封筒を取り出した。夜行バスに乗り込む前に見た写真だ。写真は数枚入ってるけど、まだ一枚しか見てない。先輩と一緒に見よう。
「先輩、これ」
 そう言って封筒をすっと差し出した。先輩はチラッと目を移して、そろりと手に取る。
「これは?」
「T中バスケ部の写真です」
 そう言うと封筒を持ってた手がピクリと反応して躊躇してしまった。しくった。これは言うべきではなかったか。僕としては二人で写真を見て思い出に浸りたい。だけど、ここで見るように促しても意味がないと思う。そうすると僕の意見を押し付けてしまうことになるから。先輩が決めるべきことだ。
「やっぱ駄目だ俺」
 先輩は右手で顔を覆い隠した。どんな表情をしてるんだろう。隠れ切れてない唇はわなわなと震えてる。そして深く息を吐いた。
「吹っ切ったつもりだったんだけどな」
 右手を顔から離し、封筒の中身を確認する。先輩の表情は切ないような悲しいような複雑な表情だった。封筒から出てきたのは六枚の写真だった。テーブルに広げて二人で鑑賞する。僕が見た一枚も含め、ほとんどが試合中のものだったが、市中総体の表彰式後に一同で撮ったものが一枚入ってた。
「みんな、元気してんのかな」
 先輩はボソッと呟いたがあえて何も言わないでおいた。そういうことは自分で確認していただきたいからだ。さっきとは打って変わって穏やかな表情になってる。個人的には写真も良いけど、これを見てる先輩がどう思ってるかの方が気になる。先輩の一言一言に適当に相槌を打つ。やっぱこれで良かったと思う。『忘れる』なんていくらなんでも寂しすぎる。
 それに忘れて欲しいなんて言うべきじゃないし、考えてむなしくならないのかな。そういった経験がない人にとっては「忘れられる」ってそれほどこわいことではないのかも。僕は小学校の頃にイジメられた経験がある。クラスメートに話しかけても無視され――存在を忘れられた。でも今考えてみるとあれは「イジメ」ではなかったのかも。靴隠されたりとか暴力振るわれたりみたいに直接的なものではなかった。僕がネガティブ思考なのはそこから来ている。先輩が豹変したときに印象が強かったのもそのためだと思う。また僕の存在がいやがられてるんじゃないかと思って。……ダメだ。いやな記憶を振り返るのはやめよう。
 でも先輩はどうして「忘れてほしい」って言ったんだろう。そんなはずないのに。その証拠を僕は持ってる。先輩が写真を見てる間に僕はリュックからもう一つの物を取り出した。
「先輩、いや、隆……先輩」
 僕は先輩の『友達』としてここに来てるんだ。
 ――俺んちに遊びに来てる『友達』なんだよ
 先輩の家に行ったときに先輩が言ってたことだ。そう、思いたい。先輩の友達なんだと思いたい。僕は届けに来た。先輩が大切にしてたカードを。
 先輩は僕が名前で呼んだことと、カードを目にしてハッとしたみたいだった。僕はカードを先輩に手渡す。
「忘れて欲しいなんて思ってない。このカードの存在が物語ってる」
 先輩は受け取ったカードを手からこぼし、なぜか僕をまじまじと見てくる。そして視線だけを伏せた。
「なんつーか、ごめん」
 軽く握りこぶしを作った右手を口元に当てる。僕はその真意を図りかねた。わざわざ持ってこさせてごめんってこと? それとも気遣ってくれてごめんってこと?
「みんなのこと忘れるなんてできないよ。でも」
 グーにしてる手をそのままで話してるから声がくぐもって聞こえ、だんだんと俯いていく。話の続きを真剣に聞こうと思って、テーブルの上に乗せてる手を膝に動かした。背もたれを使わず背筋もぴんとする。これだけ良い姿勢をすると思わず入学式のことを思い出してしまう。いけない、今は先輩の話を聞くんだった。先輩は口元に当ててた右手を左腕の手首辺りを掴んだ。相変わらず俯いてる。
「父さんの期待も裏切れない」
 僕の予想は外れてたようだ。先輩は悲哀に満ちた表情で言った後はぎゅっと目を瞑った。先輩の中で友達を取るか、父親を取るかのせめぎあいがあり葛藤があったんだろう。それはあまりにも現実的過ぎて僕の胸に、頭に痛いほど響いた。
 僕がイジメられたときはクラスメートはもちろん、先生も信じられなかった。「イジメられた」から話しかけてくる先生やクラスメートが居たけど、イジメがあったからこそそうしてきただけであって問題が解決されたらどうせまた話しかけてこないんだろうなって思ってたからだ。でも親にはそれがない。等身大の僕をありのまま受け入れてくれる。大輔や小谷先輩に惹かれた原点はここなんだろう。
 先輩はお父さんって言ってたけど、先輩のお父さんってどんな人? 会ったことがない。友達とお父さんだったら僕もお父さんを選ぶと思う。家族の絆はやっぱり強い。
 先輩が虚ろな目でこちらを見てくる。
「俺なんか今日おかしい。シャワー浴びて気分転換してくる」
 それだけ言い残し、コンビニの袋にゴミを詰めコップと一緒にキッチンへ持っていき、残ったご飯茶碗と僕の分まで片付けてくれた。
「ありがとうございます」
 そしてすぐさま廊下に行ってしまった。
 僕もなんかおかしかった。こっちに来た理由を探るってだけなのに無駄な言い争いをしてしまった。先輩と一緒に居られるのは嬉しいはずなのに、今はそれが億劫で仕方がなかった。藤井先輩と小谷先輩の三人で行く夏祭り、どんな思い出になるのかすごく不安だ。
 膝に向けてた視線をテーブルに移すと無造作に置かれた写真、そしてカード。僕は表彰式後の一同が写ってる写真に目がいった。手にとって凝視する。芳野先輩は怪我があったから応援に回ってたけどこのときは一緒に写ってて、バスケ部全員が揃ってる写真はこれが最後だった。
 ……いやだな。今は先輩のことを考えたくない。僕は立ち上がり窓辺に立った。白のレースカーテンの向こうには雑草が生えてるプランター、なのか? 僕は園芸に詳しくないから分からないが、花とかも咲いてる。本当に先輩のお父さんは園芸好きなんだな。見てると癒される。車が走る音、セミの鳴き声、こういった自然の音にも癒され、る。
「わっ」
 僕が自然を堪能してると、急に生活音がしてきてびびった。それはインターホンの音だった。緊張感が高まる。先輩は今シャワー中だ。出られない、というか出たらそれはそれで問題だしそれ以前に気づいてないかもしれない。居留守って思われてもいやだから出るか……って僕が出たら大問題だ。しかも顔見知りとかだったら尚更だ。ここは息を潜めよう。居るのは先輩だけという設定だ。
「宅配便でーす! どなたか」
 なんだ、宅配便か。それならそうと早く言ってくれ。宅配便ならさして問題ではない。ほっと胸を撫で下ろしてると
「小谷隆太様? 俺宛てか」
 うわああああ。
「何やってんですか先輩!」
「何って、荷物受け取っただけだ。なんかおかしい?」
「それ、それ! その格好!」
「男の裸見てそんな興奮すんなよ」
 いやいやいや。下はジャージはいてるから良しとしてだ、上はなんだ。バスタオルしか羽織ってないぞ。先輩は何食わぬ顔をして届いた段ボール箱をテーブルに乗せた。
「いいじゃん、別に。俺も女の人だったらさすがに躊躇したが、男だぞ? 問題ないだろ。それにまた来てもらうのも忍びない」
 なんなんだこの人。おかしい。でもやっぱ優しい。この時代には珍しいくらい優しい。というか義理堅いか。
「いつもは父さんの名前で送ってくるんだけどなァ」
「これ、なんですか?」
 なんとか平静を取り戻して疑問を投げかけてみる。小谷家に送られてきた段ボール箱は2リットルペットボトルが六本入る大きさのものだ。
「クール宅急便で母さんが週一回送ってくんの。男二人暮らしだから健康を案じてのことなんだろうけど、ポテトサラダ」
 え? そんなもの送れるの? と開封を待ち望む。先輩は手際よくカッターで梱包に使われたガムテープを切っていく。……未だに上半身裸で。まぁ夏だからその気持ちも分からないでもない。
 そしてダンボールの封が全て切れて中からお出まししたのはポテトサラダが詰まったタッパーが二つと、紙切れ?
 先輩はガシガシとバスタオルで頭を拭きながら二つ折りにされたその紙切れを開いた。と同時に頭を拭いてる手も止まった。
「それは?」
「別に。何でもいいだろ。写真貰っていいんだよな? カード、ありがとな」
「あ、はい」
 返事をすると、先輩は写真が入ってた封筒に紙切れ、カード、そして写真全てを素早く入れてそそくさと廊下に歩いていった。あの紙切れ、何が書いてたんだろう? 気になるけど、立ち入っちゃいけないような感じだよな。若干のもやもやを残しつつ先輩を待った。

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