手が届くなら決意(10-4)
小谷先輩の家は何度来ても風格のある家だな、と思う。だっていまどきインターホンがない家なんて希少だ。だから小谷先輩の家に来るたび、時代を感じてしまう。
先陣を切って大輔が扉をどんどんと叩き、「ごめんくださーい」と声を張り上げる。しかし家からは何の音も聞こえてこない。まさか誰も居ないのかな。小谷先輩のお母さんは仕事が忙しいらしく、こないだ行ったときは一人息子が先に引っ越してしまうから無理に休みを取ったって聞いたからな……。先輩が学校から帰ってくる時間にはもう帰ってきてるみたいだけど、今はまだ真昼間だ。お天道様が真上におらっしゃる。お母さんが家に居ないなんて考えもつかなかったな。
大輔もどうやらこのことに気づいたようで、熱中症にならないようひさしの下に避難してこれからのことを話し合う。
「大輔って小谷先輩のケータイ番号知ってるんでしょ? なら本人に直接訊いた方が早くない?」
「ダメ。電話しても繋がらないし、メールも返ってこない」
小谷先輩のお母さん以外に情報を知ってそうな人……。部長はないか。芳野先輩も、というか僕たちに連絡くれないってことは部員全員知らないか。
「佐藤に電話してるってことは通じてないわけではないんだよなあ。メールも読んではいるけど、意図的に返さないだけなのか。俺らってそんなに信用なかった?」
そのほかに小谷先輩と親しい人。顧問は知ってても、小谷先輩が僕たちに言いたがらないことを優先して、教えてくれないだろう。となると……植木先輩か。
「なあ、ちょっとくらい反応してくれてもいいだろお」
「植木先輩だ!」
「きゅ、急に大きい声出すなって」
僕が大声を出すことは珍しいのか大輔は驚いた様子を隠しきれてない。
「その、植木先輩って誰?」
大輔は眉間にシワを寄せて思い出そうとするが、出てくる訳がない。名前だけは聞いたことがあるだろうけど、あんな一瞬じゃ記憶にないはずだ。考えてても一向に答えは出ないだろうから、僕は答えを教えた。
「市中総体のY中と対戦したときに、大輔が早く帰ったんだよ。そのとき」
「それでか! もの凄く弱々しいけど、聞いたことのあるような名前だったのは。それで、その人が隆先輩と親しいのか?」
「それはそうなんだけど、一つ問題が」
「何?」
ここまで言っておいて言いにくかった。話してる間に気づいた唯一の問題であり、最大の難題だった。それは
「連絡先を知らない」
「ええええ!」
これはもう大輔の叫びが小谷先輩の家の前でこだました。
「知らないくせにそんな提案するなんておかしいだろ」
「いやだって唯一の頼みの綱だし」
「でも連絡先知らないなんてもってのほかだ! 希望が見えたと思った矢先にそれはない」
こうなるともう止められない。僕は心静かに大輔の説教を受けた。
ひとしきり言い終えて疲れたのか、大輔は深いため息をついた。別にそんな責められることでもないような気がしてきた。
「小谷先輩のお母さんとは連絡が取れるんだから、それまで待ってよう」
「あのなあ」
怒る気力もなくなったみたいだ。結局、小谷先輩の家の前で三十分近くも居た気がする。あれだけ騒いでたら通報されてもおかしくないな。足早に帰ろうとした途端、玄関のところで鉢合わせた。小谷先輩のお母さんと。お母さんは吃驚したが、直後に暗くくすんだ表情になった。
「……翔平くん、それにお友達の」
「大輔です!」
元気よく自分の名前を声高らかに宣言した。大輔はすぐに弁明を始める。
「住居侵入しようとかって魂胆ではないです」
「それはないと思ってるから安心して」
小谷先輩のお母さんは安心を与えようと無理に笑おうとしてる。この感じじゃ分かりきってるけど、確認するまでは諦めきれなかった。
「お母さん」
「ちょうどよかった。帰ってきたら連絡しようと思ってたの。――隆太はここに戻ってこない」
想像してたことだけど、現実を突きつけられるのはこれほどまでにつらいことだったのに気づかされた。
「ご馳走様でした!」
「ここまでしてもらってすみません」
「いいのいいの。隆太の大切な友達なんだから」
流れでそうめんをご馳走になってしまった。今日は午前中の練習でそのあと佐藤さんとのことがあって、ただでさえ帰るのが遅くなったというのに、小谷先輩のことをもっと訊きたくて上がらせてもらったらこの始末だ。遠慮したんだけど、先輩のお母さんも食べてなかったみたいで、一緒に食べた。お中元が小谷先輩の分も考えて贈られてきたっていうのもあるから、って調理中に寂しそうに言ってたのが印象的だったな。
「友達って言っても、もう隆先輩はT中の生徒じゃ」
「何言ってるの。友達はいつまで経っても『友達』でしょう?」
先輩のお母さんに押し切られてしまう。大輔もいつもなら食い下がるところだけど、そう思いたいからなのか反論はしなかった。僕と大輔は並んで座っていて、前に先輩のお母さんが居る。先輩のお母さんは麦茶を一口飲んで、脇にコップを置いた。
「強く言ったんだけどね。あんな別れ方したら合わせる顔がないって。自分がそうしたって言うのにね」
先輩のお母さんは顔を上げてため息を一つついた。息子のことでも思い出してるのかな。
僕も思い出そう。七月三十一日のことを。小谷先輩と電話した日だ。あのときは小谷先輩と話せる! って思ったものの実際には受話器越しで、あれは緊張というのかな……何も話せなかった。そういえば、こっちに来る約束をしてるのを見なかった。後で来るように連絡したけど、ダメだったのかな。あのときは小谷先輩に会えるということに浮かれてて、そんな些細なところまで気にしてなかった。
沈黙が続く。なんて返したらいいのか言葉が浮かんでこない。
「そ、そりゃ隆先輩にも事情ってものがありますからね」
大輔が必死のフォローを入れたが、逆効果だったようだ。雰囲気が悪くなった。
小谷先輩に会いたい。どうしてこんなことをしたのか。僕と小谷先輩はそんなに仲良くなかったのかな。うわべの付き合いだったのかな。そうだとは思いたくない。思いたくない、けど、不安が増していく。ギリギリまで転校することを隠してて、出発する日を偽って、今は連絡を絶ってる。こんなの『友達』なんかじゃない。連絡手段は電話もメールも通じないんじゃ会うことしかない。
「小谷先輩が来ないんじゃ、こっちから会いに行く」
「え、ええええ」
僕の真面目な提案に大輔は声を上げて驚き、先輩のお母さんは驚きはしたがすぐに穏やかな顔になった。大輔はテーブルに肘を付いて僕に向き直った。
「どういう発想だよ」
僕も大輔の方に向き直る。
「単純明快。電話もメールも通じないなら直接会う」
「いやいや、そこまでして会いたいのか?」
「大輔は知りたくないの? 小谷先輩がなんでこんな大それたことをしたのか」
「そりゃ気になるけど……会うまでして詮索することか?」
「する。気になるから」
大輔は首を振ってため息をついた。というか、疲れたって表現の方が合ってるか。
「それはいいけど、交通手段とかどうすんだよ」
「大輔が居るから大丈夫」
「いやいやいや。俺、まだ行くって言ってないけど」
「行かないの?」
「どうすっかなあ。まあ行ってやらんでもないぞ」
素直じゃないな。自分も行きたいくせに。でもさすがに場所が分からないんじゃどうしようもない。先輩のお母さんは前に「それほど遠くない距離」って言ってたから、たぶん大丈夫だろう。
「話がまとまったみたいね」
先輩のお母さんは立ち上がってメモ帳とボールペンを持ってきた。そして達筆な字で住所を書き始める。たまに大人の人で字を簡略化しすぎて読めない人が居るけど、先輩のお母さんはそういうタイプじゃなかった。良かった。書き終わった住所を見てみる。M県……結構遠いぞ。二つほど地方を跨ぐ。先輩の家は結構転勤してるのか、感覚が鈍ってると思う。もちろんM県以降の住所を全く知らない。僕は地図を読むのが苦手だから頼りになるのは大輔だけだ。
「電車乗り継ぎだったり、夜行バスといろいろ交通手段はあるから、お金と相談して」
「ありがとうございます」
「一応転校先の学校も書いておいたから、迷ったらこれを目安にするのも良いはず」
先輩のお母さんは地図まで持ち出してきてくれて、熱心に場所を教えてくれた。ここまでしてくれるとなんだか気が引けてくる。それにしても僕たちにどうしてここまで優しくしてくれるんだろう? 先輩のお母さんからしてみたら息子の単なる友達でしかないのに。でも、こう考えるとつじつまが合う。路頭に迷ってるであろう先輩を導いてくれるのは親でも先生でもなく、同じ立場の『友達』しか居ないっていうことだ。
話が一段落したところで、僕はほしいものがあった。
「和室に行っても良いですか?」
「隆太の部屋じゃなく一階のこと?」
「はい」
さすが、勘が良い。でも僕が立ち上がって行こうとすると、「待って」と言われて止められた。どうして?
「カードを届けてくれるの? それならここにあるよ」
と言って先輩のお母さんは電話があるところまで行って、カードを持ってきた。先輩が大切にしてたレアカード。先輩のお母さんはカードの端を持って眺める。
「これを忘れていくなんてね。お母さんが持っていくとでも思ってんのかな」
独り言のようだった。先輩のお母さんはハッと我に返って僕に差し出してきた。
「よろしくね」
「はい」
和室に行く目的はカードだけではなかった。あのジグソーパズルも届けたい。大切なラバーブレスを入れてた箱のジグソーパズルだ。忘れ去られたものなのかもしれないけど……。でも冷静になって考えてみると、あれをあのまま運ぶのは大変だ。崩して持っていくにしても500ピースもの大きいやつで、復旧させるにはかなり苦労しそう。小谷先輩には悪いけど、カードだけ持っていこう。
その後、小谷先輩のことについて少し話した。土手で見たおばちゃんを助ける心や植木先輩との関係を知ってるから、小谷先輩の義理堅さは半端ではない。それなのにこんなことするなんて考えられないよ。何を考えてるんだろう。何か裏があるって思いたいけど、出てくる考えは本心なのかな、とか僕たちとはもう一切関係を絶ちたいのかな、とかマイナス方面のことばかり浮かんでくる。
小谷先輩のところに行くことは決まったけど、なんだかスッキリしない気持ちで小谷先輩の家を後にした。
「隆先輩の本心を暴いてやるぞお!」
「なに一人で盛り上がってんのさ」
僕は隣で騒いでる大輔を制した。そんな気分ではなかった。だいぶ日が傾いてきたが、まだまだ暑い。やっと家に帰れる……。今日は長い一日だった。
「だって気にならないか?」
「さっきと立場逆になってるね」
「行くと決まったら、とことんまで隆先輩の本音を訊いてやろうぜ」
大輔は力強く親指を立てた。まだ話しそうな雰囲気だったので放っておいた。静かになるまで聞いてやるか。
「俺の親は過保護すぎて嫌気が差してきたからそれから逃れるためにこっち来たけど、隆先輩はどうしてまた早く行っちゃったんだろうな。早い話が父親のそばにいるか、母親のそばにいるか、だろ? そして父親を選んだ。転校すること以上のメリットがあるのかな」
「小谷先輩は父親に歯向かえないって言ってたよ。それに後悔してるとも言ってた」
「ドメスティックバイオレンスってやつか。でもあざみたいなものってなかったよなあ」
「精神的ってのも考えられるよ」
「うわ。それ殴られるよりやだ」
大輔は露骨に嫌そうな顔をする。そりゃそうだよな。精神に攻撃を与えてくる方が暴力より厄介だ。それは何より僕が分かってる。
僕は踵を返し、大輔に振り向く。ここどこだか分かってんのかな。僕の家の前だぞ。
「で、なんでここまで来たの?」
「いつ行くかとか決めないとならないだろ」
「今日は疲れたから寝させて。そのことなら明日にでもしよう」
「ちぇっ。まあいいや。じゃあなー」
「また明日」
大輔は不貞腐れてすぐに帰っていった。
僕は足早に家に入って、リビングに行く。
「ただいま」
「おかえり。遅かったねえ。お昼は食べたの?」
「食べたよ。今日は疲れたから寝る。おやすみ」
「あら、熱でもあるんじゃないの?」
夏に外から帰ってきたら誰でも暑いと思う。そんな自覚はないから「ない」と告げて僕の部屋がある二階に上がっていった。
荷物を置いて即座にベッドに横たわった。幸せだ。目を閉じて考える。
大輔は親元を離れてるのに元気だよな。僕だったらそんな生活できるどころか、考えることすらできない。想像したくない。でもどうして小谷先輩はデメリットの多い父親を選んだんだろう。僕たちの知らないメリットでもあるのか、それとも大輔が言うようにドメスティックバイオレンスに反抗できないからなのか。
僕はかなり疲れが溜まっていたのか、小難しいことを考えてるうちに眠っていた。
先陣を切って大輔が扉をどんどんと叩き、「ごめんくださーい」と声を張り上げる。しかし家からは何の音も聞こえてこない。まさか誰も居ないのかな。小谷先輩のお母さんは仕事が忙しいらしく、こないだ行ったときは一人息子が先に引っ越してしまうから無理に休みを取ったって聞いたからな……。先輩が学校から帰ってくる時間にはもう帰ってきてるみたいだけど、今はまだ真昼間だ。お天道様が真上におらっしゃる。お母さんが家に居ないなんて考えもつかなかったな。
大輔もどうやらこのことに気づいたようで、熱中症にならないようひさしの下に避難してこれからのことを話し合う。
「大輔って小谷先輩のケータイ番号知ってるんでしょ? なら本人に直接訊いた方が早くない?」
「ダメ。電話しても繋がらないし、メールも返ってこない」
小谷先輩のお母さん以外に情報を知ってそうな人……。部長はないか。芳野先輩も、というか僕たちに連絡くれないってことは部員全員知らないか。
「佐藤に電話してるってことは通じてないわけではないんだよなあ。メールも読んではいるけど、意図的に返さないだけなのか。俺らってそんなに信用なかった?」
そのほかに小谷先輩と親しい人。顧問は知ってても、小谷先輩が僕たちに言いたがらないことを優先して、教えてくれないだろう。となると……植木先輩か。
「なあ、ちょっとくらい反応してくれてもいいだろお」
「植木先輩だ!」
「きゅ、急に大きい声出すなって」
僕が大声を出すことは珍しいのか大輔は驚いた様子を隠しきれてない。
「その、植木先輩って誰?」
大輔は眉間にシワを寄せて思い出そうとするが、出てくる訳がない。名前だけは聞いたことがあるだろうけど、あんな一瞬じゃ記憶にないはずだ。考えてても一向に答えは出ないだろうから、僕は答えを教えた。
「市中総体のY中と対戦したときに、大輔が早く帰ったんだよ。そのとき」
「それでか! もの凄く弱々しいけど、聞いたことのあるような名前だったのは。それで、その人が隆先輩と親しいのか?」
「それはそうなんだけど、一つ問題が」
「何?」
ここまで言っておいて言いにくかった。話してる間に気づいた唯一の問題であり、最大の難題だった。それは
「連絡先を知らない」
「ええええ!」
これはもう大輔の叫びが小谷先輩の家の前でこだました。
「知らないくせにそんな提案するなんておかしいだろ」
「いやだって唯一の頼みの綱だし」
「でも連絡先知らないなんてもってのほかだ! 希望が見えたと思った矢先にそれはない」
こうなるともう止められない。僕は心静かに大輔の説教を受けた。
ひとしきり言い終えて疲れたのか、大輔は深いため息をついた。別にそんな責められることでもないような気がしてきた。
「小谷先輩のお母さんとは連絡が取れるんだから、それまで待ってよう」
「あのなあ」
怒る気力もなくなったみたいだ。結局、小谷先輩の家の前で三十分近くも居た気がする。あれだけ騒いでたら通報されてもおかしくないな。足早に帰ろうとした途端、玄関のところで鉢合わせた。小谷先輩のお母さんと。お母さんは吃驚したが、直後に暗くくすんだ表情になった。
「……翔平くん、それにお友達の」
「大輔です!」
元気よく自分の名前を声高らかに宣言した。大輔はすぐに弁明を始める。
「住居侵入しようとかって魂胆ではないです」
「それはないと思ってるから安心して」
小谷先輩のお母さんは安心を与えようと無理に笑おうとしてる。この感じじゃ分かりきってるけど、確認するまでは諦めきれなかった。
「お母さん」
「ちょうどよかった。帰ってきたら連絡しようと思ってたの。――隆太はここに戻ってこない」
想像してたことだけど、現実を突きつけられるのはこれほどまでにつらいことだったのに気づかされた。
「ご馳走様でした!」
「ここまでしてもらってすみません」
「いいのいいの。隆太の大切な友達なんだから」
流れでそうめんをご馳走になってしまった。今日は午前中の練習でそのあと佐藤さんとのことがあって、ただでさえ帰るのが遅くなったというのに、小谷先輩のことをもっと訊きたくて上がらせてもらったらこの始末だ。遠慮したんだけど、先輩のお母さんも食べてなかったみたいで、一緒に食べた。お中元が小谷先輩の分も考えて贈られてきたっていうのもあるから、って調理中に寂しそうに言ってたのが印象的だったな。
「友達って言っても、もう隆先輩はT中の生徒じゃ」
「何言ってるの。友達はいつまで経っても『友達』でしょう?」
先輩のお母さんに押し切られてしまう。大輔もいつもなら食い下がるところだけど、そう思いたいからなのか反論はしなかった。僕と大輔は並んで座っていて、前に先輩のお母さんが居る。先輩のお母さんは麦茶を一口飲んで、脇にコップを置いた。
「強く言ったんだけどね。あんな別れ方したら合わせる顔がないって。自分がそうしたって言うのにね」
先輩のお母さんは顔を上げてため息を一つついた。息子のことでも思い出してるのかな。
僕も思い出そう。七月三十一日のことを。小谷先輩と電話した日だ。あのときは小谷先輩と話せる! って思ったものの実際には受話器越しで、あれは緊張というのかな……何も話せなかった。そういえば、こっちに来る約束をしてるのを見なかった。後で来るように連絡したけど、ダメだったのかな。あのときは小谷先輩に会えるということに浮かれてて、そんな些細なところまで気にしてなかった。
沈黙が続く。なんて返したらいいのか言葉が浮かんでこない。
「そ、そりゃ隆先輩にも事情ってものがありますからね」
大輔が必死のフォローを入れたが、逆効果だったようだ。雰囲気が悪くなった。
小谷先輩に会いたい。どうしてこんなことをしたのか。僕と小谷先輩はそんなに仲良くなかったのかな。うわべの付き合いだったのかな。そうだとは思いたくない。思いたくない、けど、不安が増していく。ギリギリまで転校することを隠してて、出発する日を偽って、今は連絡を絶ってる。こんなの『友達』なんかじゃない。連絡手段は電話もメールも通じないんじゃ会うことしかない。
「小谷先輩が来ないんじゃ、こっちから会いに行く」
「え、ええええ」
僕の真面目な提案に大輔は声を上げて驚き、先輩のお母さんは驚きはしたがすぐに穏やかな顔になった。大輔はテーブルに肘を付いて僕に向き直った。
「どういう発想だよ」
僕も大輔の方に向き直る。
「単純明快。電話もメールも通じないなら直接会う」
「いやいや、そこまでして会いたいのか?」
「大輔は知りたくないの? 小谷先輩がなんでこんな大それたことをしたのか」
「そりゃ気になるけど……会うまでして詮索することか?」
「する。気になるから」
大輔は首を振ってため息をついた。というか、疲れたって表現の方が合ってるか。
「それはいいけど、交通手段とかどうすんだよ」
「大輔が居るから大丈夫」
「いやいやいや。俺、まだ行くって言ってないけど」
「行かないの?」
「どうすっかなあ。まあ行ってやらんでもないぞ」
素直じゃないな。自分も行きたいくせに。でもさすがに場所が分からないんじゃどうしようもない。先輩のお母さんは前に「それほど遠くない距離」って言ってたから、たぶん大丈夫だろう。
「話がまとまったみたいね」
先輩のお母さんは立ち上がってメモ帳とボールペンを持ってきた。そして達筆な字で住所を書き始める。たまに大人の人で字を簡略化しすぎて読めない人が居るけど、先輩のお母さんはそういうタイプじゃなかった。良かった。書き終わった住所を見てみる。M県……結構遠いぞ。二つほど地方を跨ぐ。先輩の家は結構転勤してるのか、感覚が鈍ってると思う。もちろんM県以降の住所を全く知らない。僕は地図を読むのが苦手だから頼りになるのは大輔だけだ。
「電車乗り継ぎだったり、夜行バスといろいろ交通手段はあるから、お金と相談して」
「ありがとうございます」
「一応転校先の学校も書いておいたから、迷ったらこれを目安にするのも良いはず」
先輩のお母さんは地図まで持ち出してきてくれて、熱心に場所を教えてくれた。ここまでしてくれるとなんだか気が引けてくる。それにしても僕たちにどうしてここまで優しくしてくれるんだろう? 先輩のお母さんからしてみたら息子の単なる友達でしかないのに。でも、こう考えるとつじつまが合う。路頭に迷ってるであろう先輩を導いてくれるのは親でも先生でもなく、同じ立場の『友達』しか居ないっていうことだ。
話が一段落したところで、僕はほしいものがあった。
「和室に行っても良いですか?」
「隆太の部屋じゃなく一階のこと?」
「はい」
さすが、勘が良い。でも僕が立ち上がって行こうとすると、「待って」と言われて止められた。どうして?
「カードを届けてくれるの? それならここにあるよ」
と言って先輩のお母さんは電話があるところまで行って、カードを持ってきた。先輩が大切にしてたレアカード。先輩のお母さんはカードの端を持って眺める。
「これを忘れていくなんてね。お母さんが持っていくとでも思ってんのかな」
独り言のようだった。先輩のお母さんはハッと我に返って僕に差し出してきた。
「よろしくね」
「はい」
和室に行く目的はカードだけではなかった。あのジグソーパズルも届けたい。大切なラバーブレスを入れてた箱のジグソーパズルだ。忘れ去られたものなのかもしれないけど……。でも冷静になって考えてみると、あれをあのまま運ぶのは大変だ。崩して持っていくにしても500ピースもの大きいやつで、復旧させるにはかなり苦労しそう。小谷先輩には悪いけど、カードだけ持っていこう。
その後、小谷先輩のことについて少し話した。土手で見たおばちゃんを助ける心や植木先輩との関係を知ってるから、小谷先輩の義理堅さは半端ではない。それなのにこんなことするなんて考えられないよ。何を考えてるんだろう。何か裏があるって思いたいけど、出てくる考えは本心なのかな、とか僕たちとはもう一切関係を絶ちたいのかな、とかマイナス方面のことばかり浮かんでくる。
小谷先輩のところに行くことは決まったけど、なんだかスッキリしない気持ちで小谷先輩の家を後にした。
「隆先輩の本心を暴いてやるぞお!」
「なに一人で盛り上がってんのさ」
僕は隣で騒いでる大輔を制した。そんな気分ではなかった。だいぶ日が傾いてきたが、まだまだ暑い。やっと家に帰れる……。今日は長い一日だった。
「だって気にならないか?」
「さっきと立場逆になってるね」
「行くと決まったら、とことんまで隆先輩の本音を訊いてやろうぜ」
大輔は力強く親指を立てた。まだ話しそうな雰囲気だったので放っておいた。静かになるまで聞いてやるか。
「俺の親は過保護すぎて嫌気が差してきたからそれから逃れるためにこっち来たけど、隆先輩はどうしてまた早く行っちゃったんだろうな。早い話が父親のそばにいるか、母親のそばにいるか、だろ? そして父親を選んだ。転校すること以上のメリットがあるのかな」
「小谷先輩は父親に歯向かえないって言ってたよ。それに後悔してるとも言ってた」
「ドメスティックバイオレンスってやつか。でもあざみたいなものってなかったよなあ」
「精神的ってのも考えられるよ」
「うわ。それ殴られるよりやだ」
大輔は露骨に嫌そうな顔をする。そりゃそうだよな。精神に攻撃を与えてくる方が暴力より厄介だ。それは何より僕が分かってる。
僕は踵を返し、大輔に振り向く。ここどこだか分かってんのかな。僕の家の前だぞ。
「で、なんでここまで来たの?」
「いつ行くかとか決めないとならないだろ」
「今日は疲れたから寝させて。そのことなら明日にでもしよう」
「ちぇっ。まあいいや。じゃあなー」
「また明日」
大輔は不貞腐れてすぐに帰っていった。
僕は足早に家に入って、リビングに行く。
「ただいま」
「おかえり。遅かったねえ。お昼は食べたの?」
「食べたよ。今日は疲れたから寝る。おやすみ」
「あら、熱でもあるんじゃないの?」
夏に外から帰ってきたら誰でも暑いと思う。そんな自覚はないから「ない」と告げて僕の部屋がある二階に上がっていった。
荷物を置いて即座にベッドに横たわった。幸せだ。目を閉じて考える。
大輔は親元を離れてるのに元気だよな。僕だったらそんな生活できるどころか、考えることすらできない。想像したくない。でもどうして小谷先輩はデメリットの多い父親を選んだんだろう。僕たちの知らないメリットでもあるのか、それとも大輔が言うようにドメスティックバイオレンスに反抗できないからなのか。
僕はかなり疲れが溜まっていたのか、小難しいことを考えてるうちに眠っていた。
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