手が届くなら決意(10-1)
僕は小谷先輩のお母さんに促されて先輩の家に上がった。この前来たときに無断侵入したリビングだ。あのときとあまり変わりはない。先輩はもうこの家に戻ることがないのかな。
「はい、どうぞ」
どうして先輩はあのとき嘘をついたんだろう。今日は七月三十一日で八月一日はどう考えても明日だ。電話を置いてる棚にかかってる、今どき珍しい日めくりカレンダーを見ても赤い字で「31」とでかでかと書かれている。ためらったように見えたのは嘘を考えていたから?
いや、違う。まだ引っ越し先には行ってない。どこかに出かけただけだ。先輩のことだ。ありえる。
「翔平くん?」
先輩のお母さんが心配そうにこちらを見てくる。目の前には透明のコップに麦茶がなみなみと注がれていた。
「あ、すいません。ありがとうございます」
先輩のお母さんは柔らかく微笑むと向かい側の席に座った。テーブルと椅子はどこにでも売ってそうな木製のもので黄色い。先輩のお母さんは僕にも注いでくれた麦茶を一口飲んで、静かにテーブルへと置いた。コップを持つ手は離さないまま
「このこと……知らなかった?」
唐突に訊いてきた。
「知ってました。ただ……ただ」
考えるより先に口が動いていた。だけど、その先が言えない。先輩が嘘をついたなんて、とてもじゃないけど無理だ。先輩のお母さんの気持ちを考えるとどうしても気が引ける。先輩のお母さんはしばらく何も言わない僕に苛立ちを隠せない様子だ。
「翔平くんの態度からすればなんとなく分かる。あのバカ息子、何考えてるんだか」
バカ息子。本当にそうなのかな。意味もないのに嘘をつく必要はない。薄情だったかというとそれはないはずだ。大体、そんな感情があったとしてもあそこまで事情を知られて嘘をつく道理なんてない。先輩の考えてることが分からない。
どうして嘘をついたんだろう。
やっぱりここに戻ってきてしまって、思考が無限ループする。先輩のお母さんは眉尻を下げて渋い顔をする。
「見送りがないなんておかしいと思ってた。今日発つことを誰にも教えてないなんてねぇ……」
「小谷先輩にも何か考えがあるんだと思います」
それはきっと今の僕には理解できない考えなんだろう。別れるのが寂しいとか、T中の人たちとはもう完全に関わりを絶ちたいとかそんな単純な理由なんだろうか。ふと転校することを告白してきた先輩の姿が脳裏に浮かんだ。
――本当は言わないで行こうとしてたけど、裏切られたって思われると嫌だからさ
先輩のクラスの教室で言ってた。『裏切られた』って嘘をつかれても裏切られたって思う。これは本心じゃなく裏をかいてのことで、裏切らないって思わせておいて最終的には裏切られた形を作ったのか? 僕と付き合ってたのは本心じゃなく、僕の反応を楽しんでたのか? もうこうなってくると収拾がつかなくなり、猜疑心が渦巻く。
「あ、和室に行っても良いですか?」
「別に良いけど、どうかしたの?」
「ちょっと気になることがあって」
ショックがでかすぎて『あのこと』を忘れていた。僕が立ち上がると先輩のお母さんも居ても立ってもいられないのか立ち上がった。先輩の部屋に続く階段を素通りすると後ろをついてきた先輩のお母さんが不思議そうに訊ねてくる。
「隆太の部屋に行くんじゃないの?」
「それだったら最初から『先輩の部屋』って言いますよ。行きたいのは一階にあるあの殺風景な和室です」
和室の前まで辿り着いてふすまに手をかける。前来たときに見た部屋の隅でうずくまってる小谷先輩の姿が浮かんで、動きが一瞬止まってしまった。ゆっくりと開けて中に入る。真っ直ぐ一直線に進んでジグソーパズルの上に乗っかってるカードを拾い上げた。先輩のお母さんが口元を手で覆って目を見開いた。
「そのカード、隆太が大切にしてた」
「大切に?」
「そう。バスケ以外に夢中になれる唯一の趣味みたいで私に話すことはなかったんだけど、そのカードを手に入れたときだけは嬉しそうに報告してきた」
お母さんは先輩のことを思い出してるようで、窓越しにどこか遠くの方を見つめていた。本当にレア中のレアみたいだからお母さんに報告するのも頷ける。だけどどうしてそんな貴重なレアカードを家に残して行ってしまったんだろう? 忘れたなんてことは考えられない。そもそもここに置く時点で意図的だ。先輩の行動には不可解な点が多すぎる。このカードに何か手がかりが残ってれば……と思ったんだけど、このカードゲームに興味がなければただのカードだ。
机の上に広がっているジグソーパズルの下に何か隠れてないか見ても何もない。前に来たときと変わっていたのはカードが置いてあるかそうでないかの違いだけだった。……ん、待てよ。このジグソーパズルを置いていくのも不自然な気がする。先輩の私物のはずなのに、なんで持っていってないんだろう。
これ以上ここに居ても仕方がないのでリビングへと引き返す。その道すがら前に居る先輩のお母さんに訊きたいことが浮上してきた。
「小谷先輩のお母さんはいつ行くんですか?」
少しも振り向かず、整然と答えてくれた。
「旦那と隆太のところ、だよね。仕事の都合上、今年の十月か遅くても来年の四月までには行くよ」
来年の四月? それなら無理して今引っ越さず、お母さんと一緒に高校入学してから引っ越せば良かったはずだ。そうしなかった理由って一体……。ダメだ、僕って小谷先輩のこと分かってたつもりで全然分かってなかった。何を考えて、何を思って行動してるのか見えてこない。
さっきまで座ってた椅子に再び腰を下ろす。先輩のお母さんの表情は冴えない。不肖の息子を持ったからだろうか。僕は気になってたことを訊いてみた。
「来年の四月だったら先輩は卒業するまでT中に居られたじゃないですか。それなら」
「あの子はね」
凛とした声で遮られたと思ったら直後、けたたましい電話の呼び出し音が鳴り始めた。先輩のお母さんは一言僕に断ってから電話に出た。電話の主が誰かは分からない。結構遠くで話してるから男性か女性かも分からない。って、人様の電話を盗み聞きしようなんて失礼だ。でもそれ以外にすることはなく、気にしないでいようとするほど気になってくる。
先輩のお母さんは穏やかな調子で話していたのが止まり何も話してない。雰囲気からして相手が一方的に話してる風でもない。どうやら電話先の人の交代待ちみたいだ。
「こんのバカ息子っ!」
突如怒鳴り声が家中に響き渡った。あまりにも唐突すぎる事態に身体がビクッと震え上がって、胸が早鐘をつくのが手に取るように分かる。もしかして電話の主は先輩?
「転校するって周囲の人に言いふらして調子に乗ってんじゃないでしょうね! それでいて今日こっちを出ることを誰にも言ってないなんてお調子者のバカでしょうよ! それでカッコイイとか思ってんでしょ! それは激しい思い違いよ。背高くてモテるからってやっていいことと悪いことがあるの。常識をわきまえなさい」
なんか途中に変なこと言ってたけど先輩のお母さんは言いたい放題で、正論だと思った。電話越しの声は反論する様子はなく静かだ。こんなお母さんと二人で生活するのもいやだな。ちょっと納得できた。僕は強張ってる身体をなんとか動かして、電話がある場所へと近づいていく。先輩のお母さんは僕に気づいたのか、電話口を手で押さえて「代わる?」と訊いてきた。先輩の真意が分からなくて少し怖い。だけど知りたかった。僕はゆっくりと縦に首を振った。先輩のお母さんは僕の名前を言わずに「代わる」とだけ伝えた。電話越しには先輩の声が聞こえてきた。
『だれ?』
約一週間ぶりに聞く声は震えていた。もうこの声も聞けなくなっちゃうのかな。
「僕です」
先輩は「あ」と小さく言った。電話の向こうで生唾を飲む音がかすかに聞こえた。
『翔平、だよな?』
「はい」
意気消沈してるみたいで声の調子は明るくならない。お母さんに怒られた影響か。
訊きたいことがありすぎて、何から言おうか迷っていると先輩の方から話してきた。
『ごめん』
弱々しくそう言うと少し間を開けて続けた。
『うそついちゃって』
自覚してたんだ……。返す言葉が見つからない。本心を隠して「別にいいですよ」なんて言えない。かといって強くも当たれない。先輩はもうあっちに行ってしまったのだから。これが先輩と話す最後のチャンスだと考えたら、僕の印象を悪くしたくなかった。やり場のない気持ちを押し込めようとする。
僕はどうして電話に出たんだろう。先輩の弁明を訊くため? 嘘をついた理由を訊くため? いや、そんなのは口実だ。直感で先輩と話したかったからだ。
長い沈黙。相手の姿が見えないから何を考えてるのか、何をしてるのかすら分からない。この状態じゃ無駄に電話代がかかってしまうと思いつつも、次の言葉が発せない。先輩のお母さんがこの状況にたまりかねたのか「代わる」と言って手を差し出してきた。僕は何も言わないまま受話器を手渡した。
思わずその場にへたり込んでしまった。矛盾してる。印象を悪くしたくないのに無言で代わるなんて……だけど、頭に何も浮かんでこなかった。自分のへたれぶりに嫌気が差す。どうにか踏ん張ってもといた椅子まで戻った。
僕と電話を代わった先輩のお母さんは受話器をそっと戻し、その場で僕に声をかけてきた。
「隆太にはきつく言っておくよ。それほど遠くない距離だから改めてこっちに来させる」
きりりと上がった眉に決然とした意志を感じられる。その必要があるかどうかは僕が判断することじゃない。先輩のお母さんは世間体を意識してるんだろうな。急にふらりと消えるなんて常識がなってない。それに時期を明言せずに漠然と「転校する」ってだけ伝えられてたら僕たちの心構えができない。
なんて思いながらも内心は嬉しかった。また先輩と話す機会ができる。会う機会ができる。
その後先輩のお母さんと麦茶を飲みながら盛り上がった。先輩のお母さんは仕事で忙しいらしく、今日は息子が引っ越すということで無理に休みをとったみたいだった。いつも面倒を見れてないから今日だけはって。夜まで仕事が長引くこともあるらしく、事前に分かってるときはカレーとかを作り置きしてるみたいだけど、突発的なときは先輩が自炊をしてるという話も聞けた。先輩が料理してる姿……想像できないな。どんな料理を作るんだろう。激しく気になる。
三十分ほど語らったところで日も落ちてきて今日はお開きになった。電話がかかってきたせいで先輩がどうしてお母さんと一緒に来年の四月までここに残らなかったのかは訊けなかったが、有意義な時間だった。
「隆太がこっちに来る日が決まったら連絡するよ」
明朗快活なお母さんだ。先輩の家に来てもあまり会う機会がなかった理由も分かったし、人柄も見えてきて今日は楽しい一日だった。軽く会釈をして外に出ようとすると呼び止められた。ん、なんだろう。言い残したことでもあるのかな。
「傘忘れないで」
言われてみれば持ってない。手ぶらだ。どこで落としたのか自分の行動を振り返ってみる。家に来て外から和室を見て先輩が居ないことに気づき……そのときだ!
僕はあまりのショックで傘を落としてしまったんだ。放心状態のまま家に上がり込んだから傘のことなんてすっかり忘れてた。
「ありがとうございます」
礼をする。無造作に落ちてた傘を取って振り返るとそこには先輩のお母さんが居た。つっかけサンダルを履いて僕の後についてきたみたいだった。何か用なのかな。
「どうかしましたか?」
人差し指を一本立てて上を指差す。空?
「今日こんな晴天なのにどうして傘持ってるのかと思って、気になっちゃってつい」
闊達に笑いながら訊いてきた。笑いを堪えて訊かれるよりよっぽど良い。僕は先輩の傘を借りてるということを説明した。
「なら預かっておこうか?」
「そのお心遣いはありがたいですけど、先輩に直接渡ししたいんで遠慮しときます」
先輩のお母さんは納得した様子で玄関まで引き返していった。良かった。話の分かる人で。玄関の前で再度別れた。
少し歩いたところで先輩が住んでた家を見上げる。先輩がまたこのオンボロの家に帰ってくるんだ。ここに帰ってくるんだ。先輩の姿を見れるんだ。今度こそちゃんとした別れ方をしたいな。先輩のことを考えれば考えるほど浮き立つ気持ちに拍車がかかる。
自転車が走る音や車が走り抜ける音に現実に引き戻され、再び歩き始める。言われてみて思ったけど、今日傘を持ち歩いてるっておかしいな。確か予報で降水確率は0%だったな。でも不思議と恥ずかしい気持ちは湧き上がってこなかった。
「はい、どうぞ」
どうして先輩はあのとき嘘をついたんだろう。今日は七月三十一日で八月一日はどう考えても明日だ。電話を置いてる棚にかかってる、今どき珍しい日めくりカレンダーを見ても赤い字で「31」とでかでかと書かれている。ためらったように見えたのは嘘を考えていたから?
いや、違う。まだ引っ越し先には行ってない。どこかに出かけただけだ。先輩のことだ。ありえる。
「翔平くん?」
先輩のお母さんが心配そうにこちらを見てくる。目の前には透明のコップに麦茶がなみなみと注がれていた。
「あ、すいません。ありがとうございます」
先輩のお母さんは柔らかく微笑むと向かい側の席に座った。テーブルと椅子はどこにでも売ってそうな木製のもので黄色い。先輩のお母さんは僕にも注いでくれた麦茶を一口飲んで、静かにテーブルへと置いた。コップを持つ手は離さないまま
「このこと……知らなかった?」
唐突に訊いてきた。
「知ってました。ただ……ただ」
考えるより先に口が動いていた。だけど、その先が言えない。先輩が嘘をついたなんて、とてもじゃないけど無理だ。先輩のお母さんの気持ちを考えるとどうしても気が引ける。先輩のお母さんはしばらく何も言わない僕に苛立ちを隠せない様子だ。
「翔平くんの態度からすればなんとなく分かる。あのバカ息子、何考えてるんだか」
バカ息子。本当にそうなのかな。意味もないのに嘘をつく必要はない。薄情だったかというとそれはないはずだ。大体、そんな感情があったとしてもあそこまで事情を知られて嘘をつく道理なんてない。先輩の考えてることが分からない。
どうして嘘をついたんだろう。
やっぱりここに戻ってきてしまって、思考が無限ループする。先輩のお母さんは眉尻を下げて渋い顔をする。
「見送りがないなんておかしいと思ってた。今日発つことを誰にも教えてないなんてねぇ……」
「小谷先輩にも何か考えがあるんだと思います」
それはきっと今の僕には理解できない考えなんだろう。別れるのが寂しいとか、T中の人たちとはもう完全に関わりを絶ちたいとかそんな単純な理由なんだろうか。ふと転校することを告白してきた先輩の姿が脳裏に浮かんだ。
――本当は言わないで行こうとしてたけど、裏切られたって思われると嫌だからさ
先輩のクラスの教室で言ってた。『裏切られた』って嘘をつかれても裏切られたって思う。これは本心じゃなく裏をかいてのことで、裏切らないって思わせておいて最終的には裏切られた形を作ったのか? 僕と付き合ってたのは本心じゃなく、僕の反応を楽しんでたのか? もうこうなってくると収拾がつかなくなり、猜疑心が渦巻く。
「あ、和室に行っても良いですか?」
「別に良いけど、どうかしたの?」
「ちょっと気になることがあって」
ショックがでかすぎて『あのこと』を忘れていた。僕が立ち上がると先輩のお母さんも居ても立ってもいられないのか立ち上がった。先輩の部屋に続く階段を素通りすると後ろをついてきた先輩のお母さんが不思議そうに訊ねてくる。
「隆太の部屋に行くんじゃないの?」
「それだったら最初から『先輩の部屋』って言いますよ。行きたいのは一階にあるあの殺風景な和室です」
和室の前まで辿り着いてふすまに手をかける。前来たときに見た部屋の隅でうずくまってる小谷先輩の姿が浮かんで、動きが一瞬止まってしまった。ゆっくりと開けて中に入る。真っ直ぐ一直線に進んでジグソーパズルの上に乗っかってるカードを拾い上げた。先輩のお母さんが口元を手で覆って目を見開いた。
「そのカード、隆太が大切にしてた」
「大切に?」
「そう。バスケ以外に夢中になれる唯一の趣味みたいで私に話すことはなかったんだけど、そのカードを手に入れたときだけは嬉しそうに報告してきた」
お母さんは先輩のことを思い出してるようで、窓越しにどこか遠くの方を見つめていた。本当にレア中のレアみたいだからお母さんに報告するのも頷ける。だけどどうしてそんな貴重なレアカードを家に残して行ってしまったんだろう? 忘れたなんてことは考えられない。そもそもここに置く時点で意図的だ。先輩の行動には不可解な点が多すぎる。このカードに何か手がかりが残ってれば……と思ったんだけど、このカードゲームに興味がなければただのカードだ。
机の上に広がっているジグソーパズルの下に何か隠れてないか見ても何もない。前に来たときと変わっていたのはカードが置いてあるかそうでないかの違いだけだった。……ん、待てよ。このジグソーパズルを置いていくのも不自然な気がする。先輩の私物のはずなのに、なんで持っていってないんだろう。
これ以上ここに居ても仕方がないのでリビングへと引き返す。その道すがら前に居る先輩のお母さんに訊きたいことが浮上してきた。
「小谷先輩のお母さんはいつ行くんですか?」
少しも振り向かず、整然と答えてくれた。
「旦那と隆太のところ、だよね。仕事の都合上、今年の十月か遅くても来年の四月までには行くよ」
来年の四月? それなら無理して今引っ越さず、お母さんと一緒に高校入学してから引っ越せば良かったはずだ。そうしなかった理由って一体……。ダメだ、僕って小谷先輩のこと分かってたつもりで全然分かってなかった。何を考えて、何を思って行動してるのか見えてこない。
さっきまで座ってた椅子に再び腰を下ろす。先輩のお母さんの表情は冴えない。不肖の息子を持ったからだろうか。僕は気になってたことを訊いてみた。
「来年の四月だったら先輩は卒業するまでT中に居られたじゃないですか。それなら」
「あの子はね」
凛とした声で遮られたと思ったら直後、けたたましい電話の呼び出し音が鳴り始めた。先輩のお母さんは一言僕に断ってから電話に出た。電話の主が誰かは分からない。結構遠くで話してるから男性か女性かも分からない。って、人様の電話を盗み聞きしようなんて失礼だ。でもそれ以外にすることはなく、気にしないでいようとするほど気になってくる。
先輩のお母さんは穏やかな調子で話していたのが止まり何も話してない。雰囲気からして相手が一方的に話してる風でもない。どうやら電話先の人の交代待ちみたいだ。
「こんのバカ息子っ!」
突如怒鳴り声が家中に響き渡った。あまりにも唐突すぎる事態に身体がビクッと震え上がって、胸が早鐘をつくのが手に取るように分かる。もしかして電話の主は先輩?
「転校するって周囲の人に言いふらして調子に乗ってんじゃないでしょうね! それでいて今日こっちを出ることを誰にも言ってないなんてお調子者のバカでしょうよ! それでカッコイイとか思ってんでしょ! それは激しい思い違いよ。背高くてモテるからってやっていいことと悪いことがあるの。常識をわきまえなさい」
なんか途中に変なこと言ってたけど先輩のお母さんは言いたい放題で、正論だと思った。電話越しの声は反論する様子はなく静かだ。こんなお母さんと二人で生活するのもいやだな。ちょっと納得できた。僕は強張ってる身体をなんとか動かして、電話がある場所へと近づいていく。先輩のお母さんは僕に気づいたのか、電話口を手で押さえて「代わる?」と訊いてきた。先輩の真意が分からなくて少し怖い。だけど知りたかった。僕はゆっくりと縦に首を振った。先輩のお母さんは僕の名前を言わずに「代わる」とだけ伝えた。電話越しには先輩の声が聞こえてきた。
『だれ?』
約一週間ぶりに聞く声は震えていた。もうこの声も聞けなくなっちゃうのかな。
「僕です」
先輩は「あ」と小さく言った。電話の向こうで生唾を飲む音がかすかに聞こえた。
『翔平、だよな?』
「はい」
意気消沈してるみたいで声の調子は明るくならない。お母さんに怒られた影響か。
訊きたいことがありすぎて、何から言おうか迷っていると先輩の方から話してきた。
『ごめん』
弱々しくそう言うと少し間を開けて続けた。
『うそついちゃって』
自覚してたんだ……。返す言葉が見つからない。本心を隠して「別にいいですよ」なんて言えない。かといって強くも当たれない。先輩はもうあっちに行ってしまったのだから。これが先輩と話す最後のチャンスだと考えたら、僕の印象を悪くしたくなかった。やり場のない気持ちを押し込めようとする。
僕はどうして電話に出たんだろう。先輩の弁明を訊くため? 嘘をついた理由を訊くため? いや、そんなのは口実だ。直感で先輩と話したかったからだ。
長い沈黙。相手の姿が見えないから何を考えてるのか、何をしてるのかすら分からない。この状態じゃ無駄に電話代がかかってしまうと思いつつも、次の言葉が発せない。先輩のお母さんがこの状況にたまりかねたのか「代わる」と言って手を差し出してきた。僕は何も言わないまま受話器を手渡した。
思わずその場にへたり込んでしまった。矛盾してる。印象を悪くしたくないのに無言で代わるなんて……だけど、頭に何も浮かんでこなかった。自分のへたれぶりに嫌気が差す。どうにか踏ん張ってもといた椅子まで戻った。
僕と電話を代わった先輩のお母さんは受話器をそっと戻し、その場で僕に声をかけてきた。
「隆太にはきつく言っておくよ。それほど遠くない距離だから改めてこっちに来させる」
きりりと上がった眉に決然とした意志を感じられる。その必要があるかどうかは僕が判断することじゃない。先輩のお母さんは世間体を意識してるんだろうな。急にふらりと消えるなんて常識がなってない。それに時期を明言せずに漠然と「転校する」ってだけ伝えられてたら僕たちの心構えができない。
なんて思いながらも内心は嬉しかった。また先輩と話す機会ができる。会う機会ができる。
その後先輩のお母さんと麦茶を飲みながら盛り上がった。先輩のお母さんは仕事で忙しいらしく、今日は息子が引っ越すということで無理に休みをとったみたいだった。いつも面倒を見れてないから今日だけはって。夜まで仕事が長引くこともあるらしく、事前に分かってるときはカレーとかを作り置きしてるみたいだけど、突発的なときは先輩が自炊をしてるという話も聞けた。先輩が料理してる姿……想像できないな。どんな料理を作るんだろう。激しく気になる。
三十分ほど語らったところで日も落ちてきて今日はお開きになった。電話がかかってきたせいで先輩がどうしてお母さんと一緒に来年の四月までここに残らなかったのかは訊けなかったが、有意義な時間だった。
「隆太がこっちに来る日が決まったら連絡するよ」
明朗快活なお母さんだ。先輩の家に来てもあまり会う機会がなかった理由も分かったし、人柄も見えてきて今日は楽しい一日だった。軽く会釈をして外に出ようとすると呼び止められた。ん、なんだろう。言い残したことでもあるのかな。
「傘忘れないで」
言われてみれば持ってない。手ぶらだ。どこで落としたのか自分の行動を振り返ってみる。家に来て外から和室を見て先輩が居ないことに気づき……そのときだ!
僕はあまりのショックで傘を落としてしまったんだ。放心状態のまま家に上がり込んだから傘のことなんてすっかり忘れてた。
「ありがとうございます」
礼をする。無造作に落ちてた傘を取って振り返るとそこには先輩のお母さんが居た。つっかけサンダルを履いて僕の後についてきたみたいだった。何か用なのかな。
「どうかしましたか?」
人差し指を一本立てて上を指差す。空?
「今日こんな晴天なのにどうして傘持ってるのかと思って、気になっちゃってつい」
闊達に笑いながら訊いてきた。笑いを堪えて訊かれるよりよっぽど良い。僕は先輩の傘を借りてるということを説明した。
「なら預かっておこうか?」
「そのお心遣いはありがたいですけど、先輩に直接渡ししたいんで遠慮しときます」
先輩のお母さんは納得した様子で玄関まで引き返していった。良かった。話の分かる人で。玄関の前で再度別れた。
少し歩いたところで先輩が住んでた家を見上げる。先輩がまたこのオンボロの家に帰ってくるんだ。ここに帰ってくるんだ。先輩の姿を見れるんだ。今度こそちゃんとした別れ方をしたいな。先輩のことを考えれば考えるほど浮き立つ気持ちに拍車がかかる。
自転車が走る音や車が走り抜ける音に現実に引き戻され、再び歩き始める。言われてみて思ったけど、今日傘を持ち歩いてるっておかしいな。確か予報で降水確率は0%だったな。でも不思議と恥ずかしい気持ちは湧き上がってこなかった。
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