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手が届くなら立場(9-2)

 一階にある三年生の教室。恐れ多くて廊下ですらほとんど歩いたことはない。委員会とかは職員室と二年生の教室がある二階で主にやってる。
 初めて入る三年生の教室は独特の雰囲気が漂っていた。夏休みに入るということもあって、机は整頓さされて横には何もかかってなくて、黒板も綺麗に拭かれていた。どの教室だって掃除がされて同じ状況なのに、三年生――小谷先輩が過ごしてる教室なんだと思うと胸が高鳴った。別に悪いことはしてないというのにここまで胸が高鳴るのはわざわざ僕を止めてまでってこともあるんだろうな。
「あんま固くなるなって。俺も二年のころは三年の教室って入ってはならない領域だと思ってた」
「フォローになってないと思うんですけど」
 先輩は寂しげに笑う。
「そっか。誘ったはいいけど、実は緊張してる」
 緊張か。このぎこちない笑顔はそういうことだったのか。先輩も緊張するんだなぁ。
 先輩は窓際の一番後ろの席に座った。
「ここ一度座ってみたかったんだ」
 そう言って、机に伏せて窓の方を向いた。僕の位置からは表情が見えないから、にやけてるのかも泣いてるのかもわからない。どんな表情をしてるんだろうなと思ってると勢いよくこちらを振り向いた。
「そういう意味じゃないからな!」
 何を焦ってるんだろう。意味が分からず、ぽかんとしてると続けた。
「別に好きな子が座ってるとかそんな不埒なことは断じて思ってない」
「分かってます」
 僕も断じてそんなこと思う訳ない。あれだけ佐藤さんと仲が良いのを見たら、破局した方が不可解だ。進路が目前に見えてきて彼女が居ない方が集中できるからとかそんな理由なのかな。
「俺のはやとちりだったか。すまん、一人で興奮して。翔平も座れよ」
 前の席をとんとんと叩く。ここに座ってくれってことか。僕はおどろおどろしくもその席の椅子を引き、横向きに座った。
「そこ、俺の席なんだ」
 座った途端に言われて、思わず立ち上がりそうになった。
「嫌?」
 いやじゃない。全然いやじゃない。逆に座ってみたかった。さっきのは尊敬してるばかり、立ち上がりそうになっただけだ。
「いやじゃないです。先輩ってこの場所で授業受けてるんだなって思えて嬉しいくらいです」
「なら良かった」
 先輩は窓越しに外――校庭を見る。僕もそっちに視線を移した。昼休みや平日の放課後は賑やかだが、今日ばかりは誰も居なくて静まりかえってる。
 一向に話す様子が見られないので、声をかけてみる。
「あの、先輩」
「もう腹も減っちゃってるよな。早く帰りたいよな」
 振り返って掛け時計を見てみると時刻は午後の一時半だった。言われるとお腹が空いてきた気がする。緊張で忘れてた。後ろでは「ちゃっちゃと済ませたいよな」とか独り言を言ってる。
「翔平」
 その声で振り返る。真剣な顔つきになってた。
「俺自身もあんま折り合いつけられてないんだけどさ、翔平には伝えなきゃいけないって思って」
 そこで俯いてしまった。重い空気が漂う中、ガラガラと扉の開く音がした。誰か来た!
「おや、隆太くんに翔平くん」
「先生か。びびったー」
 入ってきたのはバスケ部の顧問だった。先輩は安堵する。なんか九死に一生を得たって感じだ。
「びびった、じゃないですよ。生徒はもう帰ってなくてはいけない時間です」
「今日ぐらいいいだろ」
「駄目です」
 ん? 今日ぐらい? なんでよりにもよって今日なんだ?
 顧問に押されて外に追いやられた。顧問も出てきて教室の鍵を閉めた。
「他のとこにいちゃダメ?」
「いくら隆太くんでも無理なものは無理です。学校外だったら大丈夫ですよ」
 いつも穏やかな印象がある顧問には見えない。試合がもうすぐあるし、ぴりぴりしてるのかな。
「できればこの学校で伝えたかったんだけどな」
 儚げに笑う先輩の表情が印象的だった。僕に伝えたかったのは学校に関することなんだろうか。
「そこまで言われて追い出すなんて先生、鬼みたいじゃないですか。いいですよ。終わったら職員室に来てくださいね」
「先生、話がわっかるー。じゃお言葉に甘えさせてもらって」
 再び三年一組の扉を開けてもらって中に入る。顧問は空気を読んでその場から立ち去った。先生、本当ありがとう。
 僕たちは教室に入ってさっきと同じように座った。先輩は一心にこちらを見てくる。
「ごめんな。俺が不甲斐ないばっかりに」
「いいです。それより何の話なのかが気になります」
「どっから話したらいいのやら……」
「そんな込み入ることなんですか?」
 悩み相談なのかと思ってたら
「まァ、そうだな。――俺さ、転校することになったんだ」
 違った。転校って……ずいぶんとあっさりだ。先輩は少しでも和やかにしようとしてるのか、引き攣った笑いを見せた。この状況、しかも先輩の性格だ。冗談で言う訳がない。
「いつ、ですか?」
 そう言うと先輩は机に突っ伏してしまった。首筋から背中にかけて哀切が漂う。キツいことを訊いてしまったのかな。僕は先輩の姿を見てられなくて、奥に目をやる。
 教室の後ろには棚があって、そこに通学用カバンや自分の荷物を置く場所がある。終業式だからといって、ここだけは綺麗ではなく少し物が入ってる棚が見受けられた。棚には白いシールに自分で書いた名前が張ってあって、誰の棚であるかは一目瞭然だった。小谷先輩の棚には、何も入ってなかった。
 棚の上には花瓶や本がいくつか並べられてた。その中の一冊、「進学の手引き高校ガイドブック」なるものが見えた。やっぱり三年生の教室は違う。……転校。この中学から転校するってことなのかな?
 手前に居る小谷先輩に視線を戻す。先輩は突っ伏したまま窓の方へゆっくりと首を向けた。震えた声色が無音の教室に響く。
「この学校に来るのは今日で最後かな」
 先輩としては普通に言うつもりだったんだろうけど、すごく不安定で何か言ってしまったら今にも壊れてしまいそうだ。ここは先輩がまた何か言い出すまで我慢してよう。
 夏の訪れを感じさせるセミがせわしく鳴き始めた。それにしても、今日で最後って急にそんなこと言われても……僕はどうすれば良いんだろう。あんまりだよ、どうして今になって言い出すんだろう。もっと早く言ってくれれば先輩との一日、一日を大切に過ごすことができたのに。落ち着いてきて、色々と考えられるようになってきて事の重大さに気づいた。
「鳴いてる。今年もまたここのセミの鳴き声が聴けて良かった」
 だいぶ感傷に浸ってる。先輩は顔を上げて、今にも崩れそうな笑顔を見せた。
「翔平には行く前に言っておきたかったんだ。だから言えて良かった」
 先輩の左目から一筋の涙がこぼれた。涙を拭って生唾をごくりと飲む。
「本当は言わないで行こうとしてたけど、裏切られたって思われると嫌だからさ」
「裏切られたなんて思いませんよ」
 咄嗟に否定したけど、夏休み明けて小谷先輩が転校したって話を聞いたら裏切られたって思ってしまうかも。先輩はたおやかに笑った。
「本当か? ま、いいや。――ってことでこの制服を着て、みんなと会えるのは今日が最後。最後にこの教室で翔平と話せて良かったよ。俺、この学校で一番仲良いの翔平だと思ってるから」
 思わず赤面してしまった。先輩とは同性だけど性別とか関係ない。「好き」みたくストレートに言われてないけど、先輩と一番仲が良いなんて中学入学前じゃ考えられなかったことだ。
「わり。こんなこと言ったら別れがつらくなっちゃうよな」
 別れ……。もうすぐ来ちゃうのか。いやだ、先輩と離れたくない。卒業式まで一緒に居られると思ってたから、まだまだ接する機会はある。そう思ってた。口が勝手に動く。
「別れたくない。まだ先輩と別れたくないよ」
「俺もだよ。転校することが決まってからやれることはやってきた。――ただ、一つやり残しちまったけど」
「やり残した? それなら今からでも」
「腹減ったよなァ。よし、帰るか!」
 先輩が話を途中で切ったのは、僕のお腹が鳴ったからだ。なんでこんな重要な場面で鳴くんだ。成長期の自分の身体を恨む。でも何を言っても押し切られそうだったので、無駄な抵抗はやめておいた。
 先輩は少しの間教室に一人で居たいということで、先輩を教室に残して僕は廊下に出た。
「転校、か」
 まさか小谷先輩が転校するとは微塵も思ってなかったから衝撃だ。これまでひた隠してきたんだな……。先輩が豹変したあの日やラベンダーの香りがした日、中総体のプレッシャーでとち狂ってるのかと思ってたけど、こんな裏があったんだな。Y中と対戦した日、先輩も僕ももう隠し事はないって思ってたけど、僕の早とちりだったみたい。今度こそ、本当に腹を割って話せる仲になったかな。僕と一番仲が良いって言ってくれたんだ。隠し事なんてもうないはずだ。そういえば豹変したあの日の帰り道に言ってたな。
 ――女がいるとろくなことがないからやめといた方がいいぞ
 やっとこの言葉の意味を理解できた。転校するってことは離れることになる。佐藤さんと会う回数も激減して、このままの関係じゃ続けていけない、だからそう言ったのかな。近々転校するってことで先輩は情緒不安定になってたのかもしれない。今までのことを思い返してみると、ラバーブレスをくれたり泣き出したり、佐藤さんとの密会で言ってたあのことも納得がいく。先輩であろうと転校するって不安の方が大きいんだろうな。でも三年生のこの時期に転校する人はなかなか居ない。単に引っ越すからとかそういうんじゃなく、親の都合なのかな……。
 ほどなくして先輩が教室から出てきた。
「待たせたな」
 三年一組の教室に鍵をかけて、職員室へ向かう。階段を登っているところで一つ疑問が湧き出る。転校するならなんで委員会に出てたんだろう。無意味だ。
「なんで委員会出たんですか? もう意味ないんじゃ」
「俺は出てないよ。職員室で顧問とダベってただけ。仮にバスケ部が全国大会まで行けたとしても、俺はもう出場できないから、顧問とゆっくり話してられるのもこれが最後かなって」
 そう話す先輩の姿は輝いて見えた。顧問と話していて何か得るものがあったのかな。そんなことより、出場できないのか。じゃあ勝っても負けても次の県大会が先輩と同じコートに立つ最後のチャンスなんだ。
「顧問って若いのに人間ができてますよね。話してて楽しい」
「なんだその上から目線。言いつけちゃうぞ」
「やめてください」
「うそうそ」
 こんな他愛ない会話が幸せに思える。もう会えることもなくなっちゃうのかな。考えられないや。
 職員室に入って顧問を呼ぶ。
「ほい、鍵」
「隆太くん話せましたか?」
「もちろん。俺を見くびってるの?」
「そういう訳じゃないですけど、それなら良かったです。晴れ晴れとした表情から窺えましたよ」
「んじゃ俺は世話になった先生方に挨拶してくる」
 僕には先輩がウキウキしてるように見えた。心のつかえが取れたのかな。先輩の支えになれたかな。顧問が近寄ってきて、二人して先生たちに挨拶回りしてる小谷先輩を見やる。
「翔平くん、そういうことですので、よろしくお願いします」
「はい。もうちょっと早く言ってくれたら嬉しかったんですけどね」
「まあまあ。隆太くんも考え抜いて出した結論のようですから、甘く見てやってください」
 先輩は先生たちに「まだ残ってたのか」などとからかわれながらも、終始笑顔で挨拶回りを終えて戻ってきた。僕はこんな挨拶して回るなんてあらゆる意味で無理だな。
「また県大会で会うことになるけど、学校ではこれが最後になる。お世話になりました!」
 清々しい礼に僕は心打たれた。今日でこの学校に来るのが最後。その整理がついたんだろうな。僕たちは静かに職員室を出て、校舎に別れを告げた。
「飯食って帰る?」
「飯ってお金もって来てるんですか?」
「そうだった。……と言いたいところだけど、遅くなるのは目に見えてたし、今日は家に誰も居ないから五百円玉一枚だけ持ってきちゃった」
 ズボンの右の前ポケットからすっと五百円玉を取り出した。
「不良先輩め」
「今日ぐらい許してくれるっしょ。で、行く?」
「無碍にできませんよ」
「お。翔平も不良じゃねェか」
 不良、ねえ……。さっきの三人組を思い出してしまう。そういえば佐藤さん、あれからどうしてるかな。僕のことなんかもう構ってくれないんだろうか……。先を歩いてる能天気な先輩が訊いてくる。
「何食う? つっても二人で五百円じゃコンビニのおにぎりくらいか」
「それで良いですよ」
 実は高校生だったり、社会人が食べてるのを見て僕も食べたいと思ってた。母さんに言ってもお手製のおにぎりが一番安いんだからそれを食べてれば良いでしょ、と言い聞かせられてきた。
 今の時代、コンビニは少し歩けばどこにでもある。僕たちは通学路から少し外れたコンビニに入っていった。

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