HomeNovel << Back IndexNext >>
手が届くなら未来(7-3)

「先輩」
「なんだよ、俺を笑いにでも来たのか」
 少しだけこちらを振り向き、自嘲めいたように口角を吊り上げた。だがすぐに表情は失われた。突然のことに悲しみとか悔しさとかそういう感情がまだ生まれてないんだろう。
「芳野先輩から伝言があるんです」
 胸につかえるものがあってつらいけど、そう言いきっても小谷先輩の表情は一切変わらなかった。いろんなことが頭を駆け巡って耳に入ってないんだと思う。僕だってそういうときがあったからな。
 反応がない小谷先輩に構わず僕は続けた。
「保健室で先輩が居なくなってから言ってました。――俺は植木先輩のときとは違ってY中には何もされてない。俺の注意不足だと隆に伝えたい。今日のY中は正々堂々と勝負してきた――って」
 やはり小谷先輩は微動だにしなかった。僕は小谷先輩の前に移動した。
「自分が考えてたことと事実の相違をすぐに認められないのは分かるよ。だけど、芳野先輩とか柊や植木先輩の真剣さを見てきて、事実だって実感できた」
「うるせェよ」
 小さく吠えた。
 長いことお世話になってる小谷先輩に辛辣な言葉を浴びせてしまった。僕を睨みつけてくる瞳にやはり生気はない。
 この人は……目の前で縮こまってるこの人は卵のようだった。外は硬くて強がってるけど、殻を突き破ってしまうと中身は軟らかく、脆い。
 僕は一度この人の殻を突き破ってる。中総体前に小谷先輩の家に上がったときだ。核心に触れてしまうと精神状態がおかしくなってしまう。これ以上何か言ってしまったら、おしまいだ。でもここまで言ってしまっ
「お前に俺の何がわかるんだよっ!」
 小谷先輩はそう叫ぶとおもむろにこちらに近づいてきて、僕の肩を激しく揺さぶった。握る手にも力が篭ってて痛いくらいだ。涙が溢れ出てる。
「なあ! 答えてくれよ」
 悲痛な叫びに、表情に僕は何の言葉も浮かばなかった。


 やがて落ち着いてきたところで、小谷先輩は泣き明かしたように腫れた瞼をそっとなぞった。そして視線を伏せた。
「できれば、できることなら翔平には俺の過去を知らないでいて欲しかった」
 そう言い残してその場を立ち去ろうとする小谷先輩を部長が呼び止めた。
「どこに行くんだ?」
「保健室」
「俺も一緒に戻っていいか?」
「訊くことでもないだろ」
 短い会話が途切れると小谷先輩と部長、それから佐藤さんの三人は保健室に戻っていった。僕は小谷先輩と一緒に戻れるような気分ではなかった。いろんなことが頭を駆け巡ってさっきの小谷先輩のような状況に陥っていた。
 僕が取った行動、果たして正解だったんだろうか。小谷先輩を助けるつもりが現実を突きつけて逆に苦しくさせてしまった。考えればすぐ分かることなのに冷静な判断ができなかった。問い詰められたときに何か言い出してれば変わってたかもしれない。
 植木先輩、僕に宛てた言葉ではないけど言ってたよな。「過去に縋るな」って。もう縋ってる。未来は変えられるとも言ってた。だけどもう修復できる自信はない。小谷先輩と笑って過ごすのは到底無理なんだと思う。
「翔平くん、だっけ」
「はい」
 自分の名前が出てきたことによって骨髄反射してしまった。この場には植木先輩と僕だけか。
「あいつさ、強がったりするのは得意中の得意なんだ。それこそ心を許してる相手以外には全く隙を見せないくらいにね」
「知り合って間もない頃はそうでした」
「だろ。それで心を許してる相手には信じられないくらい別人になる。なんと言うか尊敬の念を感じる」
「昨今で言う『ツンデレ』ってやつですか」
「はは、そうだな」
 植木先輩は軽やかに笑うと腕組みをして空を仰ぎ見た。
「隆は寂しがりやなんだ。並み外れるくらい孤独になることを怖がってる。二年前、バスケ部に入ってすぐ実力の片鱗を見せた。顧問が見逃すはずもなく中総体のスタメンに一時的に入ったものの、他の部員とは壁を作って隔ててる感じだったな。みんな毎日声を掛けてもそっけない返事ばかり」
 そうだったんだ。今の小谷先輩しか知らないと考えられないな。むしろあっちから絡んでくる場合が多いのに。植木先輩は続ける。
「バスケはチームプレーだから、部員と交流のない隆はスタメンから外されてそれから練習に来なくなった。もちろん中総体当日は来たけどな。そして……翔平くんももう分かってるだろうあのことが起こった」
 そう言って足を指し示した。無理をして筋断裂してしまったことか。植木先輩は大きく息を吐いてこちらを向いた。精悍な顔つきに日の光が映える。
「きっと人を信じることができなかったんだろうな。俺をこれだけ慕うのは、初めて自分を信用してくれたからなんだと思う。さっきはずっと信用してきた俺に否定されるのが怖くて弱気になってた」
 弱気か。弱気と言えば小谷先輩の家に上がったときに弱気になったのって
「たぶん植木先輩のことだと思うんですけど、先輩みたくなれないって前に言ってました。僕に心配を掛けないように頑張ってるって」
「隆らしいな。自分のことで心配をかけたくないって言ってた?」
「言ってました」
 植木先輩は目を細めて微笑んだ。
「そりゃそうだろうな。隆は知らず知らずのうちに自責しちゃう面があるから、『俺が悪い』とか『俺のことでお前が』って思いつめるんだよ。自分のことで迷惑をかけて身近な人が離れていくのが怖いんだと思う。もしかしたら二年前のことは俺以上に隆には重く圧し掛かってる事件なのかもな」
 小谷先輩を想う気持ちが声にも顔にも表れてて、密な関係だということが伝わってきた。僕と小谷先輩は、植木先輩と違って一年も長い間過ごしてるのにここまでの関係にはなってない。一緒に過ごした時間だけが全てじゃないんだと思い知らされた。
「さー、帰るか。早くしないと今度は俺らが心配される番になっちまう」
 冗談っぽくそんなことを言う植木先輩は僕が最初に考えてたように人格者だったみたいだ。小谷先輩が尊敬するのも頷ける。
 口調や信念を受け継いでるんだなって今の会話の中だけでも何度思ったことか。それほど小谷先輩は植木先輩のことを尊敬してるんだと思うと胸が痛んだ。だって今までに信用できる人が居なかったっていう裏づけになってしまうから。
「どうかしたかー? 置いてっちゃうぞ」
「今行きます!」
 さっきまで僕が立ってたあたりに植木先輩が居て手を振ってた。この場を動かなかったのは考え事をしてたっていうのもあるけど、小谷先輩に会いたくないって気持ちがあったからかもしれない。駆けつけると頭をぽんぽんと優しく叩かれた。
 ……ああ、誰とでも仲良くやるっていうのは植木先輩の教えなのかな。僕みたいに性格が暗くて絡みづらいようなやつとでも。


 屋内に入ってクールダウンすると意識が頭に回ってきた。清掃員のおばちゃんに会ったらまたガミガミ言われるだろうな……ってそんなことはどうだって良い。
 体育館裏で知った真実でほとんどのことは理解できた。でも一つ気になることがあった。隣を歩く植木先輩に問いかけてみる。
「小谷先輩がラバーブレスは植木先輩との絆って言ってましたけど、どういうことなんですか?」
「隆がそんなこと言ってたか。でもなあ」
 植木先輩は「うーん」とうなって、返答に困ってる感じだ。僕の方を向いて引きつった表情をした。
「どうしても知りたい?」
「迷惑でなければ、ですけど」
「翔平くんは隆の愛弟子みたいだし、良いか。細かいとこまで話すと長いから、かいつまんで話すよ」
 植木先輩はあたりを見回して、緩慢と壁に近づいてもたれ掛かった。僕は植木先輩の斜め前に位置を取った。植木先輩は腕組みをして前を見据えた。眼差しの向こうにはうっすらと校門が見える。
「俺が怪我した日は勝ってね、その日の夜に筋断裂を起こした。翌日の試合に俺が出られるわけもなく急遽、隆の出場が決まったんだ。さっきも言ったようにその頃の隆はどうしようもないほど個人プレーが好きでな、俺は怪我を押して隆を呼び出した」
 個人プレーか……。小谷先輩が「昔の俺を見てるみたいだった」って個人プレーのことだったのか。植木先輩は自分の手首を見下ろした。
「そのときに渡したのがラバーブレス。二つ着けてるだろ」
「不思議だったんです。何で無駄に二つも着けてるんだろうっていつも思ってました。やっぱ意味があるんですか?」
「俺が意味をつけたから、自分で言うのも恥ずかしいんだが。――『自分』と『他人』って意味合い。バスケはチームプレーが肝心で他人との絡みが必要。自分と他人が絡めるようにって願いを込めた」
 それが絆か。やっと納得できた。植木先輩が怪我をせずに済んでたら今の小谷先輩はなかったのかもしれない。孤独にバスケを続けてたかもしれない。そう考えると、不謹慎だけど植木先輩が怪我をしたのは結果的に良かったんだ。
 どちらにせよ、二人のうち一方が不幸せにならないともう一人は幸せになれなかった。あまりにも歯車が噛み合いすぎて、残酷な運命だと痛感した。
 僕と大輔の関係……気が合っていることに無性に不安を覚えた。
「これでいいかな?」
「十分です。ありがとうございます」
「気を取り直して行きますか」
 なんだか胸につかえてたものが綺麗さっぱり取れた。これで僕たちの関係はフェアになったよね。小谷先輩も僕も隠し事はもうない。腹を割って話し合える仲になったはずだ。小谷先輩に会う勇気が湧いてきた。
 僕は植木先輩から訊いたことを胸に、再び保健室の前に突っ立った。

HomeNovel << BackIndexNext >>
Copyright(C) 2009 らっく All Rights Reserved.