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手が届くなら未来(7-2)

 誰も居ない廊下を体育館に向かって後戻りしてると、曲がり角のところで度の強そうな丸眼鏡をかけたおばちゃんに出くわした。ステンレス製のいかにもなバケツを両手に持ってて、ピンク色の服を身にまとってる。きっとこの高校の清掃員だろう。
「ちょっとああた、廊下を走るなんて危ないじゃない! 何考えてんの」
 何考えてるって言われても……
「人探しのことしか頭にないです」
 おばちゃんは両手に持ってたバケツを床に下ろして、ズンズンと前に出てきた。顔が近いよ。鼻息が荒くて顔に掛かる。僕の気にしすぎかもしれないけど、加齢臭を嫌ってか化粧品のにおいがキツい。
「あたしがもうちょっと速くここを歩いてたらああたとぶつかってばっしゃーんだったわよ。そしたら一面水浸しになるは、あたしはびしょびしょになるはでさぞかし大変だった。もしかしたらこの眼鏡も割れてたかもしれないわ。そんときは弁償してもらうかんね。若い子はもう少しそこんところ考えてくれないのかね」
 身振り手振りも交えながら、終わりがあるんだろうかと思うくらい息もつかせてくれなかった。というかバケツがひっくり返ったら僕もびしょぬれになると思うんだけど。自分のことしか考えてないのか。
「すみません、急いでるんで」
 最善なのは間に受けずこの場から逃げることだ。こういう人ってガヤガヤと言いたい放題だけど、不思議なことに引きとめはしないんだよな。
「待ちなさい。話はまだ終わってないのよ。最近の子は人の話も聞けないのかしら。あたしが若い頃は……ああた、どこへ行くつもり?」
 急に静かになったと思ったら行き先を聞いてきた。それくらいなら答えてやるか。後ろに居るおばちゃんに振り向かずに返答した。
「体育館です」
「あら残念ねえ。体育館はもう閉まっちゃったわよ。これからあたしがモップ掛けくらいはするつもりだけど、それも明日かしら」
 嘘だ。じゃあ先輩たちはどこに行ったんだ?
 小谷先輩が行きそうなところじゃなく、柊が行きそうなところか。もしかしたらもう帰っちゃってるかもしれないな……。体育館に居ると思い込んでたから、他に心当たりはない。僅かな希望をおばちゃんにかけてみるか。
「おばちゃん、背の高い人と背の低い人って見かけませんでしたか?」
「おばちゃんって、誰のことかしら?」
 素知らぬ顔をしておでこに手を当て辺りを見回してる。心底ウザい。
「翔平さん!」
 遠くで叫んだのは佐藤さんだった。ちょっとびっくりした。早歩きでこちらに近づいてくる。おばちゃんも後ろを向く。辿り着いて少し息切れしてるのが可愛らしく思えた。
「あらあら、ガールフレンド?」
「無理に横文字使わないで良いです」
「使ってないでしょ」
 おばちゃんとコントを交わすと、佐藤さんが不思議そうに首を傾げて僕に近づいてきた。僕にしか聞こえないように耳に手を添える。佐藤さんが背伸びしてそうやってると思うと胸がときめいた。だけど直後に男が居るんだと思うと、複雑な気持ちになった。
「この方、誰です?」
「この高校の清掃員だと思うよ。きっと」
「きっとじゃない。れっきとした清掃員よ。もう軽く五年はやってるわ」
 軽くなのかそれ。と心の中でツッコんでおいた。口に出すとややこしくなるからな。さっきので実践済みだ。
 佐藤さんに事情を説明すると、「うまくやってみる」と囁いた。佐藤さんはおばさんと正対して、視線を少しもそらさずに口を動かした。
「おばさま、背の高い人と背の低い人……対照的な二人を見かけませんでしたか?」
 さすがだ。自然とそうなってたとは思えないほど、態度も口調からも気品が感じられる。でもその気品がどこか遠い場所に居るように感じちゃうんだよな。同学年だと思えないのはそこからだろう。必死の訴えをしたにも関わらず、おばちゃんの態度は変わらなかった。
「たとえが大雑把すぎてあたしには分からない。もっとこう顔はイケてるけど、背は低い〜とか、顔は残念だけど背は高くて素敵〜とか具体的に言ってくれないとおばさま分からない」
 くそ……どこまでも見下しやがって。僕ならまだしも佐藤さんにまでそんな態度を取るなんて。おばちゃんって本当、女子中高生みたく男の顔しか見ないんだな。ひどい。
 って、待てよ。おばちゃんのたとえは捉えようによっては柊と小谷先輩みたいじゃないか?
「黙りこくってどうしちゃったの」
 おばちゃんの方を向いて、勢いよく頭を下げた。
「その二人のこと教えてくださいっ!」
「二人って……いやねえ。何も言ってないじゃない。たとえよたとえ」
 目が泳いでるぞ。隠し事ができない主義なんだな。
 二人の居場所を知ってることは絶対分かってるだろうに頑なに拒否する。ここまでバレバレなのにどうして口を割ってくれないんだ。佐藤さんも加勢するが、無為だった。
「意地悪」
 もうどんな手を使っても教えてくれないだろうと思い、佐藤さんと一緒にその場を去ろうとしたら
「ああた、T中の子でしょ。Y中とは関わらない方が良いに決まってる」
「僕だって当事者です」
「知る覚悟はあるの? 二年前のこと」
 背後から声が聞こえる。さっきまでとは比べ物にならないほどの真剣さが含まれてる。僕は振り返っておばちゃんの背中越しに決意を伝えた。
「あります」
 小谷先輩と向き合うことを拒絶して良かったことは何一つない。逃げてばっかで前を向いてなかった自分を振り向かせてくれたのは先輩だった。過去のことを気にして、後ろを振り向きかけてる先輩を今度は僕が向きなおさせてあげるべきだ。
 おばちゃんは横を向いて壁を……壁の向こう側にある体育館を指し示した。
「体育館裏よ」
「ありがとうございます」
 おばちゃんは僕の心の機微を感じ取ったのか素直に場所を教えてくれた。あ
「佐藤さん、こんなこと言っちゃったけど」
「平気です。覚悟がなきゃ私はここに居ないから」
「うん。それじゃ行こう」
 おばちゃんに別れを告げ、僕たちは一目散に体育館裏を目指して走った。


 初夏の日差しを浴びながら人様の高校を駆け抜ける。駐車場に数台停まってる車を横目に見ながら考える。
 おばちゃんの言ってたことが本当とは限らない。僕たちに嘘をついたところでおばちゃんには何の不利益もない。もし、おばちゃんが僕たちのことを考えてくれてたら本当の場所は言わないはずだ。「Y中とは関わらない方が良いに決まってる」って言ってる。僕の決意が伝わってても、おばちゃんが僕にそうして欲しくないと考えてるのなら……。
 そんな不安をよそに体育館裏には四人の姿が見えた。周りがあまりにも静かなのと、足音がうるさかったために一斉に見られた。だがすぐに元に戻る。
 体育館を背にしてるのが柊で、相対してるのは小谷先輩だ。その間に植木先輩と部長が居る。ここからだと柊の顔しか見えない。と言っても遠すぎてぼやけてる。部長だけがこちらにのそのそと来て、事情を伝えに来た。いつもと違って目がキリッとしてる。それだけで緊迫した状態だと言うことは悟られた。緊迫感に息切れしてたのがどこかへと消えていく。
「一触即発状態だ。一つでも間違えたら傷害事件に発展してもおかしくない」
 部長は当事者たちをチラチラと見やりながら声を落とした。小谷先輩は血の気が多いのは分かってたけど、ここまで柊に執着するのは二年前のことと、他人のことを放っておけない性格だからだろう。部長の合図で少し前に出ると会話の内容が聞こえてきた。
「もう一度聞く。芳野を怪我させたのはお前なんだろ? 正直に言えよ」
 小谷先輩の声は怒気が篭ってる。それもそうだ。事実だと思いこんでるのなら現行犯みたいなものだからな。興奮するのも分かる。柊はそれに反応せず、腕組みをしたまま顔を背けてる。間に居る植木先輩がフォローをした。
「なぁ隆。せめて決め付けはやめようぜ」
「先輩だってこいつに怪我させられたんだろ。どうしてそんなに平静を装ってられんだよ」
 やっぱそうだったんだ……。ある程度予想はしてたけど、素直に受け止められない。それは植木先輩が根に持ってなさそうなのと、Y中にも良い人が居るからだと思う。
「そうだな。でも怪我をさせられたからって昔のことをずっと恨み続けるのは筋違いだ。当人である俺が恨みを持ってるならまだしも、隆が恨みを持つ理由はない。俺のことを思ってそう言ってくれてるなら嬉しいよ。だけどそうでもないのに言うのはおかしいんじゃない?」

「どうして――どうして、先輩はそこまで優しいんだよッ!」

 小谷先輩は感情が燃え立ってきたのか声が裏返った。植木先輩は冷静に対処する。
「俺は別に優しくなんかないよ。あの時の俺はキャプテンとしての務めを全うしただけ。きっかけは柊だったかもしれないけど、こんな身体になっちゃったのは俺の判断でその後、無理をしたから」
 それきり粛然としてしまった。植木先輩って本当に人格者だな。こういう人を慕う理由は十分に分かる。小谷先輩がここまで食らいつくのは植木先輩を深く尊敬してるからだろう。その尊敬する人を壊したのが柊。ってことか。僕も小谷先輩の立ち位置だったらこうしてると思う。小谷先輩が怪我をさせられてバスケが一生できない身体にさせられたとしたら……そう考えるだけで嫌になる。
 静かな空気を破ったのはこの問題を作った張本人の柊だった。
「帰っていい? だんだんと野次馬も増えてきたしさ」
 野次馬……。植木先輩はかろうじてセーフとして僕たち三人は本当野次馬だよな。
「今日のことはホントにお前の仕業じゃないのか?」
 小谷先輩は当惑した感じで柊に問いかけた。
「断じて違う。誓ってもいいぞ。今日は正々堂々と勝負した。……プレゼントも用意してあるから、明日はオレたちを退けた分までしっかりやれ」
 そう吐き捨てるとしっかりとした足取りで去っていく。僕と部長の間を抜けると、背の低さが際立った。「今日は」ってところに引っ掛かりを覚える。やっぱ二年前は植木先輩を怪我させたのは本当のことなんだ。プレゼントの用意っていうのも気になるな。
 小谷先輩は俯いて握り拳を作ってる。寂しげな背中を植木先輩が軽く叩いた。
「気にすんなって。もう二年も前のことだろ?」
 柊が乗った車だろうか、車の排気音がやけに気になる。つらくて見てられないって言うか、目を背けたい。あんなに強くて、さっきまで血気盛んだった小谷先輩が悄然としてる。まるで中総体の前日に先輩の家に上がったときみたいだ。
「……もう二年も前とか、過去の話にしちゃっていいの? 先輩の身に起こったことは事実なんだよ」
 あのとき以上に弱々しい声音は、植木先輩への尊敬の念が窺い知れる。それだけ本気で考えてるってことだから。佐藤さんは見てられないらしく、後ろを向いてしまった。
「ああ、そう、だな」
 植木先輩は背中をさすってた手を止め、言葉を失ってしまったようだ。やがて考えが整理されたのか思いを告げるように言葉を紡いでいく。
「俺は怒りの感情を忘れてたのかもしれない。隆にそう言われてなんかむしゃくしゃしてきた」
 ここで一呼吸置いた。
「でも俺はやっぱり柊のことを許してしまう。このことが起こった当初に何かしてれば違ったかもしれないけど、最初に言った通り、二年も前のことを蒸し返してどうこう言うのは筋違いだと思う。それに過去にこだわってたって何の意味もないだろ。バスケで言えば記録に縋るんじゃなく、記録を作るんだ。俺ら人間は未来を生きることしかできないんだからさ」
 飽くまで先のことしか見ない姿勢に僕の心が打たれた。僕にだって通ずるところがある。過去を振り返っても何の得もなかった。感傷にひたることはできても、未来には何の意味も残さない。
 過去は変えられないけど、未来は変えられる、よな。
 僕は自然と小谷先輩の近くへと歩み寄ってた。先輩の瞳には全く生気が宿ってない。まずは未来に希望を持たせるために芳野先輩の思いを伝えよう。

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