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手が届くなら未来(7-1)

 ノックをしたのは先頭に居る小谷先輩だった。
「どうぞ」
 ノックをする人も、それに対して答える人も昨日と同じ。だけど、ムードが全然違う。
 保健室には一番最後に入って、後ろ手で静かに扉を閉めた。
 うわっ、涼しい。窓は閉めきっててカーテンも半分閉まってる。クーラーがガンガンだ。昨日はつけてくれなかったのに。
 入って一番最初に目に入ったのは足を痛めた芳野先輩だった。僕が昨日座ってた長椅子の端っこで、痛めた左足を木目のテーブルの横にある丸椅子の上に乗せてる。あれから結構経ったけど、まだ痛むのかな……。芳野先輩の向かい側には顧問がテーブルの上に肘をついて座ってる。その隣にはいそいそと何かを書いてた手を止め、昨日と同じだと思われる白衣を着て
「おっ、ぞろぞろと来たね」
 殊勝な態度とは程遠いことを言ったあの養護教諭だった。まぁお世話になってるんだから、良い気にさせておこう。
 僕が昨日寝てたベッドには、佐藤さんと――植木先輩だと思われる人が並んで座ってた。ちょっと恨めしい。観衆に居た男女はこの二人だったんだろう。男の人は右手を上げて立ち上がった。
「来たかー。待ってたぞ」
「植木先輩! 用事ないのはこの二人だけだったよ。知ってるだろうけど、現在の部長と俺が可愛がってる一つ下の後輩である翔平」
 やっぱこの人が植木先輩だったのか。
「君が翔平くんか。話には聞いてたよ」
 植木先輩は目を細めて優しそうな表情を浮かべたが、細まった瞳の奥はぐらりと揺れた気がした。僕はその意図を汲み取れなかった。
 僕も直接的ではないけど、少しは聞いたことがある。植木先輩は、芳野先輩たち三人が座ってるテーブルの隣に同じように並んでる長椅子に腰掛けた。顔を上げて僕を見てくる。
「隆が溺愛しちゃってるみたいで、正直大変っしょ?」
「そんなことないです。尊敬できる先輩ですよ」
「良い後輩を持ったな」
 そう言って無邪気な笑顔を見せた。高校2年生か。小谷先輩と並んだら同級生に見えるかもしれない。それだけ小谷先輩は大人びてて、植木先輩は歳相応に見える。
「積もる話もあるでしょうけど、それくらいにしておいて」
 養護教諭が痺れを切らした。本当に男勝りで、ちょっとこわい。ざわざわしてた室内はすっと静かになった。養護教諭は顧問の方を向いた。
「先生、これで全員ですか?」
「……全員、ですね」
「よし、それじゃみんな座って」
 言われるがままに、養護教諭たちが座ってるのと同じテーブルと長椅子がもう一つ並べてあったのでそこに座った。
 僕は部長と並んで座ったため前には植木先輩が居る。小谷先輩は芳野先輩の隣に腰をかけた。すなわち養護教諭の前だ。見た目に騙されるな! 見た目は女、性格は男だから。養護教諭は右手を丸めて口の前に持っていき「おほん」と咳払いをした。いかにも嘘っぽい。顧問がやるとそれっぽく見えるんだけどな。
「芳野くんは熱中症です」
 きっぱりと言いきった。
「熱中症には諸症状があって、その一つである『足が攣る』という症状が出ました」
 テーブルの上に置いてあるメモを見ながらだけど、なんかかっこよく見えるぞ。僕たちが入ってくるまで書いてたのはこれのことだったのか。
 昨日僕に診断を言い渡したのは一対一だったから砕けてたんだ。これだけ大勢を前にしたら誰だって萎縮しちゃうよな。
「幸い芳野くん自身の判断が迅速だったので、処置はできましたが……」
「が?」
 養護教諭の目の前に居る小谷先輩が聞き返す。
「あのまま試合に出ていたら、最悪の事態は免れなかったでしょう」
 重い。空気が重い。
 クーラーの稼動音だけが静かに聞こえる。
 聞き返した小谷先輩も俯いて押し黙ったままだ。養護教諭は斜め向かいに居る芳野先輩に身体を向けた。
「熱中症だという自覚症状はなかったみたいだけど、足を攣ったときの痛みがいつもと違ったみたいね」
「はい。ベンチで座ってても気分が悪くて、足の痛みも引いていかないので先生に一言告げてから体育館を出て、そこから記憶が定かじゃないんです。気が付いたらベッドの上でした」
 そうか、ベンチでうなだれてたのは出場できない悔しさじゃなくて、気分が悪かったからなんだ。昨日の僕と似たような状況だな。っていうか、まだ詳しく話は訊いてないのか。よく「熱中症」って言いきれたな。その勇気は尊敬する。
「あまりにも保健室に人が来ないもんだから巡回してたのよ。そしたら芳野くんが虚ろな目で校内を徘徊してるもんだから慌ててベッドまで連れてって今に至る、と。記憶が定かじゃないって相当ヤバかったみたいね」
「付き添いをつけなかったのは間違いでしたか……。先生、反省です」
「そこまで気に病むこともないですよ。今はこうして快方に向かっているんですから。脱水症状も起こしていたみたいで、こんなに暑い中、毛布を被って寝てても汗を全く掻かなくて不安でしたよ。まぁ若いだけあって回復もかなり早いです」
 確かになんともなさそうにしてるな。いつもと違うのは足を伸ばしてるってことか。
「今回のことは、試合前にきちんとストレッチをしなかったことと、水分補給をしなかったことが原因じゃないでしょうか。これからは気をつけるように。以上です」
 やっぱこの養護教諭って患者の症状を診るのが好きなんだな。芳野先輩の症状を話してるとき、目が輝いてた。所々に垣間見えるがさつな態度とは正反対の患者を診る実直さ。きっと天職なんだろう。診断結果が合ってたときのカタルシスを得てるだけにも見えるけど、楽しんでやってる。僕や小谷先輩のバスケみたいな……ものではないのかな。
 ――今はな。バスケを好きになれない
 一試合目の前日に何かに怯えながら言ってた。それに今日のこともあったし、ますますバスケのこと嫌いになっちゃったのかな。
 ん、ちょっと待てよ。そういえば、その前後で「俺は先輩みたくなれない」とか「ラバーブレスは俺と先輩の絆」とか妄言吐いてたな。もしかしてその先輩が植木先輩なのか? 先輩の人生を大きく変えた人物。それが正に目の前に居るこの人なのか。
 見た目は、短髪で野球部に居そうな感じだ。熱血とかそういう言葉が合いそう。背は小谷先輩と同じくらいか。がっしりとした体つきで縞々のポロシャツがよく似合う。見た目だけだと部長っぽく見えるな。
「最悪の事態ってどんなことですか?」
 植木先輩を見てたら、小谷先輩が声量を抑えて養護教諭に訊ねた。養護教諭は渋い顔をする。訊かれたくないことなのかな。
「もう免れたわけだし、どうだっていいでしょそんなこと」
「どうでも良くないです。そんなこと……じゃないです」
 軽やかにかわそうとした養護教諭に先輩は食いついた。先輩は保健室に入ってからずっとローテンションだ。芳野先輩は大切なチームメートであると同時に、同級生だからな。ムキになるのも無理はないか。周りの人たちは、僕を含め誰一人として口を閉ざしたままで養護教諭に全てが託された。
 養護教諭は観念したように軽くため息をつくと、芳野先輩に向けてた身体を小谷先輩の方に向き直って正対した。
「そこまで言うなら仕方ないわ。芳野くんがそのまま試合に出続けてたら足以外にも腕や腹部にも痛みが走ったと思う。それに加えて脱水症状も併発してたわ。意識が朦朧とした状態になって自覚症状も消えたかもしれない。無理をしてたら筋断裂してた可能性もあるわ」
 聞き慣れない言葉に戸惑ってしまった。肉離れとは違うものなのか? などと思ってたら、僕以外の全員が一斉に竦み上がったような顔をした。僕の勉強不足が露呈してしまった……。みんなの反応からするに筋断裂って危険な状態なんだろう。
「筋断裂って言ったら……」
 小谷先輩はポツリと呟くと、植木先輩を一瞥してから急に立ち上がって保健室を飛び出て行った。風が舞う。先輩の過去と関係があるのかな、顔つきが尋常ではなかった。
「やばい! もしかしたらあいつ。早まりやがって」
 小谷先輩に一瞥された植木先輩がこれまた常軌を逸する言動で、小谷先輩が乱暴に開けていった扉の前まで走る。壁に手を掛けたところで
「隆の後を追います」
 そう言い残して走り去って行った。
 なんだなんだ、何が起きたんだ、説明して欲しい。一歩遅れて部長も保健室を出て行った。先に出て行った二人とは違って律儀に扉を閉めて。僕も後を追おうとしたら顧問に止められた。
「大丈夫ですよ。今の隆太くんなら思いとどまってくれます」
 僕は誰も座ってない長椅子に力なく腰を下ろした。余りの出来事に、みんな驚いた様子を隠せない。僕も隠せてないと思う。少しの間廊下の熱気が入ってきたことと、驚きの連続でちょっと熱っぽいかもしれない。
「思いとどまるとか、早まるとか、自殺でもする気かい?」
 問題の発端である養護教諭が何食わぬ顔をして当然の質問を顧問にぶつけた。僕もそう思ってたところだ。
「三年生、特に植木くんと小谷くんは『筋断裂』に関して暗い過去を持ってますからね。それに今日の相手はY中です。怒りの矛先がY中に向かうのは頷けます」
 全然話が見えてこない。事情を把握してる芳野先輩は三人の後を追いたそうにしてるが足がそうさせてくれない。佐藤さんも半分くらいは事情を分かってるのか、俯いてる。何も分からないのは僕と養護教諭だけか。
「Y中って言うと風の便りに聞いたくらいだけど、悪い噂が絶えないらしいわね。校長も見てみぬ振りだとか。どうせそういう学校はすぐ廃校になるんでしょうけどね」
 そういうことがあるのは聞いてた。でもなんでY中に怒りの矛先が向くんだろう。確かに悪い連中かもしれないけど、中には良いやつも居た。
 小谷先輩とは因縁がありそうな柊慶介。あいつに何かされたのか?
「芳野くんの話を聞くに、本当にストレッチ不足と水分補給を怠ったことが原因のようですから、この件にY中は絡んでないでしょう」
「そうですよ。俺は植木先輩のときとは違ってY中には何もされてない。俺の注意不足だと隆に伝えたい。今日のY中は正々堂々と勝負してきた」
 二年前のY中ってかなりの悪人みたいだな。
「そしてT中は勝った。日ごろの行いが悪いからこうなってしまうんでしょう。今は更生してても昔が駄目だったら叩かれる。一度やってしまった過ちはそう簡単には取り戻せないってことですね」
 どうやら「二年前のあのこと」が見えてきたぞ。
 柊が植木先輩に対して何かをやって、それを知った小谷先輩はこの二年間ずっと柊のことを憎んでたんだ。三人と筋断裂っていうのは深い関係がありそうだな。部長も、小谷先輩が「中一の頃は……」って言いかけてたから、このことで小谷先輩は大きく変わったんだろう。
 真相を知るためには筋断裂がどんな程度の怪我なのかを知っておかなきゃいけないな。
「筋断裂って肉離れとは違うものなんですか?」
 養護教諭は顧問と芳野先輩に目配せをした。二人はそれに呼応して頷く。養護教諭は前を見据えたまま腕組みをした。
「肉離れ程度のものではないわ。部分断裂した場合でも受傷部分を固定して安静にしてなければならない。完全に断裂した場合は主に手術で治療していくの」
「完全に断裂した場合ってバスケせ……スポーツをしてる人はどうなるんですか?」
「完治したとしても、治療期間のブランクや、断裂する前とは身体の状態が変わるでしょうからパフォーマンスは同世代の人よりは落ちるでしょうね」
 ある程度予想してた。バスケ選手と言っても答えは変わらないのに、断定されないようにスポーツをしてる人に言い換えた。たぶん、植木先輩が筋断裂したバスケ選手だと無意識のうちに考えてたからだと思う。
「やっぱ、やっぱり僕行ってきます。小谷先輩に、芳野先輩が言いたかったことを伝えてきます」
 いつの間にかそう言ってた。身体も勝手に動き出しててもう扉に手を掛けてた。
「そんなぞろぞろと」
「先生、行かせてやってください。保健室にこんなぞろぞろと居ても意味ないですよ」
 芳野先輩がフォローに入ってくれた。ありがとう、先輩。伝えてくるよ。
「翔平さん、私も」
 ごめん、佐藤さん。今は一刻も早く小谷先輩に会って、誤解を解かなきゃいけない。このままじゃ罪のない人に被害が降りかかるかもしれない。僕は身体が勝手に動き出すのを止められなかった。

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