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手が届くなら我(5-4)

 ふと目を覚ましたとき、初めに視界に入ったのは体育館の高い天井ではなく、低く圧迫感のある白い天井だった。それにさっきまでの騒々しい音も聞こえない。話し声もなく静かだ。消毒液のにおいと共になんかの花の匂いが鼻に入ってくる気がする。
 まさかここって……。周りを確認するために身体を起こそうとすると視界がぶれて頭がくらくらする。思わずまた寝そべってしまう。このベージュ色のひらひらなものはカーテンか。なんとか寝返りを打って、カーテンを開けようとする。でも起き上がれないので少ししか動かない。誰か気づいて……。
 カーテンを何度も開け閉めして音を出してると、ようやく気づいたのか「お」と誰かが声を上げて保健室でよく聞く足音を出して近寄ってくる。カーテンに手が掛かるとそこから顔も出てきた。見たことない女性だ。
「よっ、元気?」
「元気じゃないですよ。というかあなた誰ですか。馴れ馴れしいです」
「少年、これを見ても分からないかっ?」
 するとその女性は僕の死角にあった身体を見せた。――白衣だった。
「もしかしてこの学校の?」
「そーよ。君はここの在校生でもないのに、そこのベッドを使ってるわけ。ていうか本来だったら来ることのない保健室に来てるの。もうこの高校入っちゃったら? 私もここが中総体の会場ってことでなんで土日に出勤して養護の仕事しなきゃいけないんだかと思ってるし、苦しみを分かち合おう」
 ず、ずいぶんと若くて快活な方だ。養護教諭はベッドの傍にある丸椅子に座って足を組む。スカートの中……見えないか。
「どうしてそうなるんですか!」
 う。叫ぶと意識が遠退きそうになった。顔を歪ませながらも何とか堪える。
「どう? 君は一過性の貧血だと判断したのよ」
「といわれてもなんと答えれば」
「状況よ。ここに運ばれてくるまでどうだった?」
 手のひらに顎を乗せてニコニコして訊いてくる。そんなに自信があるのか、恫喝したいのか……。ここは正直に答えよう。僕には一過性の貧血とかっていうのよく分からないし。
「何も覚えてないです。試合が終わってから今まで意識がありませんでした」
「ビンゴ! だけど君は貧血と言ってもかなりひどかったみたいだね。でも寝てれば治るわ。若いんだし。それでさ、長時間立ってることってあった?」
「ない……です。スタメンで最初から最後までずっとやってるのは今日が初めてでしたし」
「間違いないわね。かぁ〜! 今日の酒は美味くなりそうだ」
 診断が合ってたってだけで顔から嬉しいオーラが出すぎです。せっかくの化粧が台無しです。というか高校の教諭が酒のことなんて言ってて大丈夫なのか? 大学の先生ならまだしも……いや、大学でも危ういか。養護教諭は組んでいた足を解いて、両手を膝に勢いよく乗せて立ち上がった。僕も仰向けになる。なんか見下されてるみたいで嫌だな。
「起き上がれ……ないよねぇ。うちの生徒だったら無理にでも起こすんだけど」
 今の一言で一気にこの高校に行きたくなくなった。元から行く気はさらさらなかったけど。でもこの人は一部の生徒には好かれそうな性格をしてるな。大輔だったら上手く相槌を打って円滑に話しを進めそうだ。養護教諭は網戸も掛けずに開いてる窓の方に向かって歩いていき振り返ると、両肘を引っ込めて窓のサッシに掛ける。
「で、どうする? 君を待ってる子が二人くらい居たような気がするけど、会ってみる? もう少し休んでないと治まらないだろうしね」
 数十人の話ならまだしも二人で記憶が曖昧なのはどうかと思うぞ。
「その二人って今どこに居ますか? 暇なら会いたいです」
「体育館で試合を見てるように言っといたけど、見てくるわね」
「お願いします」
 養護教諭が立ち去ってガラガラと扉を開ける音が聞こえて、扉を閉めると出る小さな音がして足音が遠退いていく。あっちのペースに完全に飲み込まれてたな。
 完全に人の気配がなくなったとき、まさか僕の知り合いじゃなかったらどうしようとか無駄な不安に駆られた。養護教諭が肘を掛けた窓を見ると校庭が見えなくてえらく牧歌的な風景が広がったが、車が走る音で台無しになった。やっぱ都会なんだな。
 さっきの養護教諭はいい加減な人だとは思うけど、締めるところはちゃんと締めてるな。所々で本音をぶちまけてるけど、部外者の僕を心配してくれてる。僕の意見もちゃんと尊重してくれるし。
 あの養護教諭には寝た状態で話しても何の問題もないけど、知り合いとは寝たまま話したくない。再び起き上がろうとすると、頭に硬く平べったいものがコツンと当たった。こっちは貧血で頭に血が回ってないのに何のイジメだよ。振り返って見てみると置き時計と花瓶が平たい板の上に置いてあった。
 ……無意味だ。病院みたく膝の辺りに置くとかすれば寝たままでも時間の確認や花の鑑賞ができるというのに。しかもこんなところに置いてて大丈夫なのか? 置き時計を手に取ろうとしても外れない。両端は少し離れるんだけど。もしかしてこれって耐震マットでもつけてるのか。同様に花瓶も動かなかった。取り付け位置が激しく間違ってるのはこの際無視するとして、地震があっても危険じゃないようにはされてるんだな。
 そんなことをしてると頭がくらくらするのもだいぶ治まってきた。上半身だけ起こして待ってると、また足音が聞こえてきた。話し声も聞こえる。養護教諭が出て行ったときと同じ音も聞こえると話し声もやんで、足音だけが大きくなる。カーテンのシルエットには二つの影が見えた。そしてそのどちらかがカーテンを一気に開けた。
「翔平っ! 会いたかったぁ! 急に倒れるから何事かと思ったよ」
「ごめんごめん。倒れる気は全くなかったんだけど逆らえなかった。……って、あれ」
「どうした?」
 僕の視界に入ってるのはにたにたと笑ってる養護教諭と、感動の再会を果たした大輔。もう一人はどこだろう。
「大輔一人? 二人居るって言ってたから大輔と小谷先輩だと思ってた」
「ああ、隆先輩は顧問と一緒にどっか行っちゃったよ」
 疑いの眼をあの養護教諭に向ける。じっと睨みつけてるとどうやら根負けしたようで口を割ってくれた。
「私は知らないわよ。ここまで運んできてくれたのは小谷くんと助川くんってことだけしか知らない。うるさいと君が起きちゃうと思ったからここから出したってだけ」
 本当みたいだな。怯えちゃってる。さっきは僕が恫喝されかけるところだったのに今は逆だ。
「まぁいっか。大輔、他の部員は?」
「予定通り先に帰ったよ。ここに残ってるのはお前と隆先輩と顧問、それと俺だけ。帰りは電車で良いって言ったけど、この先生がな」
「そーよ。ここから駅まで歩けるようになるなんて夕方まで眠りこけてもムチャよ」
「だから隆先輩のお袋が最初のやつらを送り終わったらまたここに戻ってきて送ってくれるって」
 なんという素晴らしいタッグなんだ。今日が初対面なのに息が合ってる。でも夕方まで眠りこけるってのはない。また寝たとしてもおやつ時には起きるだろう。
 適当に返事をすると、場が沈黙して静かになる。網戸も閉めてない窓から車が走る音が聞こえ、気まずいのでその方を向くとずいぶんとゆったりとした足音がする。不法侵入者とかだったら危ないな。窓から校舎に入られてしまう。今の僕だったら為す術なく取り押さえられて人質にされる自信がある。あ、それ以前に高校に侵入しても意味ないか。
 沈黙は続き、外から聞こえる足音が大きくなってきて窓の向こうに影が見えた。
「せんぱいっ!」
 咄嗟にそう叫んだら、一瞬頭がくらりとした。小谷先輩は僕に気づいて吃驚する。大輔は窓に引き寄せられるようにして走り出した。
「どこ行ってたんですか? 俺色んな意味で心配しちゃいましたよ」
「すまん。ちょっとな」
「もしかして第一志望の高校がこことか?」
 大輔は悪戯っぽくそう訊くと先輩は困惑した表情を見せた。前も高校受験の話をしたときは鬱っぽくなってたから、進学に対して不安とかそういうものがあるのかも。
「立ち話もなんだし、入ってきたら?」
 先輩が返答に困ってると養護教諭が割って入った。その勇気、僕に分けて欲しい。
「あ、そうさせてもらいます。それにしても今日は暑いですね。夏も間近だと肌で感じます」
 そう答えたのは先輩ではなかった。そう答えたのは涼しい顔をした顧問だった。跨げる高さの窓を超えて保健室に侵入してきて、僕が居るベッドの傍に近づいてくる。
「心配しました。いきなりスタメンでフル出場はキツいですよね。翔平くんのこと何も考えてなくてすみません」
「僕の方こそいきなり倒れてしまって面目ないです」
 顧問と一対一で話すと不思議な感覚に捉われて改まってしまう。話し方とか仕種がそうさせてしまうのかな。丸椅子があるというのにわざわざ床に膝をついてるということからして普通の人ではないことは確かだ。
「それより、先生は小谷先輩と一緒だったんですか?」
「ええ。ちょっとした用事がありましてね」
「用事? 今朝のことと関係ありそうですけど」
「翔平は詮索しなくてよし。これ以上心配させたくねェし」
 大輔と談笑してた先輩が急に入ってきた。そんなに聞かれたくないことなのか。先輩は普通の人らしく丸椅子に座った。先輩も変な考えを持ってるけど、顧問が居ると翳んで見えてしまう。
「俺のことはどうだっていいが、翔平は大丈夫なのか? 卒倒するから何事かと思った」
「僕なら大丈夫です。心配御無用」
 先輩には無用なことで心配されたくないって僕は思ってる。――そう、なのかな。先輩もそう思ってるのかな。視線を正面に向けて伏せる。無意識のうちに指組みしてた。視界には、いやでもラバーブレスを腕に二つ着けてるのが見える。先輩と同じで左腕に二つ。先輩と同じで相手に心配をかけたくないという思いをしてる。
 先輩と違うのは僕が相手を信用できないこと。それを直すためにラバーブレスをくれたんだ。なのに僕は目の前の勝利だけを求めた。「己」だけを信じてプレーをした。バスケってチームプレーだろ。僕のわからずや、何もわかってなかった。今日みたいに不快感があるまま勝つより、気持ちよく負けた方がよっぽど良い。
 もしもだけど、明日T中らしいバスケをして負けるのと、勝利を求めて負けるのはどう考えたって後者の方が後味が悪い。目を閉じると瞼の裏にある光景が思い浮かんだ。

 眼下にはゆったり流れる川と無邪気に遊ぶ子どもたち。隣には大輔が居て、背後に人の気配を感じる。頭をぐりぐりと撫で回されて上を向くと、小谷先輩がニヤケ顔で僕たちを見てた。そして自信満々に
 ――お前らは俺の後輩。だから後を追って来い。追いつける距離にいるんだからさ
 そう言ってさ、颯爽に駆けていった。

 あの土手での話だ。僕は先輩の後を追うしかないんだって分かった。足手まといにだけはならないようにって試合前に決めて、僕なりに動いた結果……それは足手まといになる行動だった。先輩にはまだ追いつけそうもないやつがどうして自我を持ってしまったんだろうって思う。従うのが一番楽で簡単な方法だ。怒られたり、相手を嫌な気持ちにさせないで済む。
 僕ってなんでこんなにも自分のことが好きなんだろう。
 今の僕があるのは先輩の功績が大きい。その先輩の指示を無碍にしてるなんて最低だ。泣き出しそうになるのを必死に堪えて生唾を飲み込む。ここで泣いたらダメだ。先輩の立場がない。
「翔平? もしかして寝ちゃった?」
 そんな猫なで声を出すのは案の定先輩だった。もう今日は放っておいて欲しい。逃げてばっかだけど、話すと一層つらさが込み上げてきそうだから。無視を決め込んで目を閉じたままにしてると倦怠感に襲われて意識が現実から離れていった。

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