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手が届くなら歯車(4-5)

「先輩は後生大事にこの家と共に生きていくんですよね」
「んなわけあるかっ!」
 しょげてた先輩が家の前に来ると元気になった。路地裏にあるこの異質な雰囲気を漂わせてるのが先輩の家だ。
「だってこの家、築四十年は経ってますよね。これは後生に残すべき」
 築四十年は適当だったけど、それぐらいはいってそうだ。家の前には成人女性でやっと頭一つ出るぐらいの高さに赤レンガが積み上がってる。家自体は古いものの、二階建てで、トタン屋根と壁は最近施工されたのか一見すると綺麗だ。でも足元を見ると枯れた観葉植物の植木鉢が雑然と並んでる。この食い違いがまた一段と古く見える原因かもしれない。そういえばこの観葉植物って、前に来たときは鮮やかな緑色で、植木鉢も整然と並んでた気がするんだけど思い違いかな。
「余所様にウチの事情は分からんだろ。冬は隙間風がビュービュー入ってくるし、押入れのカビは半端ねェし」
 先輩はまだ「そうだ、あれもだな」と言って、指折りしてる。数え終わったら「こんなにもある!」とか言って突きつけてきそうだから、その前に止めておこう。
「わーわー。なんでもないです」
「分かったらよろしい。んじゃ、入れ」
 余所様の家に、上がる前から気落ちするのも珍しいと思う。玄関はカラカラと横に引くタイプの硝子戸で、普段の都会では感じられない独特の懐かしさを感じる。
「ただいまー」
「……お邪魔します」
「もっと元気出せよ。それじゃ中まで聞こえない」
 先輩はそう言いながら乱雑に靴を脱いで、廊下に上がった。床はだいぶ煤けてて黒ずんで見えるけど、白い靴下で少し歩いても足の裏は汚くならない。家の人が掃除好きなんだろう。先輩の靴下も白いままだから本当にこの家は綺麗なのかもしれない。
「あら、一人で騒いでるのかと思ったらお友達を連れてきてたのね。いらっしゃい、翔平くん」
 リビングから出てきた先輩のお母さんが挨拶をしてきた。優しそうな笑顔で、緊張がほぐれていく。……が。
「お、お邪魔します」
「恐縮しすぎ」
 先輩のお母さんに名前を覚えられてる時点で恐縮しない訳にはいかない。
 お母さんは先輩ほど背は高くない。成人女性の平均身長ぐらいだと思う。先輩の身長はお父さん譲りなのかな。一度も見たことないけど。
「明日は中総体だし、スタミナ温存しておきなさいよ」
「分かってるって。俺がバスケ一筋なの分かってるだろ」
 昨日は佐藤さん一筋とか言ってたくせに。まぁ男女関係とスポーツ関係は違う枠組みに入るものか。僕も靴を脱いで上がると隣にお母さんが来た。ちょっと緊張する。後ろを振り向いてしゃがみこんで靴の位置を整えると、お母さんも前屈みになってご子息の靴の位置を整えた。
「翔平くんはきちんとできるのね、ウチの子もきちんとやって欲しいわあ」
「は、はあ……」
 僕も他人の家に上がるときはこうしてるだけで、家ではきちんとやってない。
「行こうぜ、翔平」
 完全にシカトなのですね。でもひそひそ話みたいだったから聞こえてなくてもおかしくはないか。好感度アップとかそんな目的はないけど、一応お母さんに目礼をして、先輩の後を追った。思えば、先輩の家って玄関と二階にある先輩の部屋しか入ったことないな。しかも玄関と階段は数歩で着く距離だから見て回ったことってない。


「はぁ〜、疲れたっ!」
 先輩は荷物を部屋の隅に乱暴に投げ散らかしてベッドに突っ伏す。
「やっぱこれが一番の至福の時だよな」
「やっぱ、とか言われても分からないですし、僕はバスケをやってる先輩の方が活き活きして見えます。そっちの方が至福の時だと思いますけど」
 僕は適当なところに荷物をそっと置きながらそんなことを言った。座卓の近くに置いてある花柄の座布団に正座して先輩の返答を待つ。この座卓は骨組み以外が透けてるから上から丸見えなんだよな。
 西の窓から差し込む夕日がクリスタルな座卓に反射して目が痛い。沈黙してるとそれだけが気になる。夕日と言えどやはり暑い。先輩はのそのそと仰向けになって、相変わらず自分のトークを続ける。
「そしてこのまま晩飯まで寝る。それが一番の……」
「僕の話聞いてました?」
 割って入ると、先輩の表情に明らかな嫌気が差した。今のは触れてはいけない問題だったのか? でもさっき、バスケ一筋って言ってたし……。
「……今はな。バスケを好きになれない」
 その声音には隠しようのない怯えが混じっていた。今はバスケを好きになれない? どういうことだろう。先輩ほどの技術の持ち主ならやっててすごく楽しいだろうし、明日からは中学生最後の大会だ。自分の力を発揮できるチャンスで、嫌でもテンションが上がるはずなのに、先輩はむしろダウンしてってる。
「それって」
「心当たりがあるのか?」
 僕の一挙手一投足に気づいて、先輩はすぐさま起き上がった。真剣な眼差しに射竦められ、僕は思わず体をすぼませた。透明な座卓越しに自分の膝頭を見つめながら、先輩と視線を合わせないまま口を開いた。
「ないです。そうなる理由が僕には分からない。あれだけ上手かったらやってて楽しいでしょ? なのに、どうして……」
「周りから見ればそうなのかもな。デキるやつは裏で苦悩してるわけよ」
「え」
 先輩の弱い一面が垣間見えた。自分のストロー枕を軽く抱きしめて、背中から差す夕日のお陰で表情が一段と暗く見える。
「先輩」
 僕が守ってやらないと。先輩はもう一触即発の状態にある。何が原因でそこまで追い詰められてるのかは分からない。僕にできることは先輩にきっかけを与えないことだ。目の前に居る、今にも泣き出しそうなこの男を守ってやることだけだ。それぐらいしか僕にはできないから。
「ああ、ごめん。気にしないで」
 先輩は顔を上げて、寂しげに笑うとそんなことを言った。気にしないなんてできるわけないじゃないか。一拍間があって付け加えるようにして続けた。
「中総体前日に気落ちするようなことを言っちゃいけないよな」
「……無理しないで」
 気張る先輩を見てたら、いつの間にかそう口走ってた。先輩は目を見開いて驚いてる。つらいよ、見てられない。
「愚痴だってなんだって吐いちゃってください。受け止められる自信はないけど、それで先輩がすっきりするなら僕もほんも」
「言うなっ!」
 思いもしてなかった怒声に僕は身を竦めてしまう。珍しく先輩が怒りの感情を露にしてる。いやだ、こわい。
 意識しなくても先輩が豹変した日を思い出してしまう。僕にできることは、何もないの――? 懇願しようと先輩のベッドを見ると、先輩の匂いが鼻をついて、次の瞬間腹と手の間に僕の頭を覆われた。この手の温もり……。先輩の悲痛な泣き声が聞こえる。

「ごめん。後輩にこんな思いさせちまうなんて、先輩として失格だ」

 僕は……ぼくは先輩のことを守ってるつもりで、守られてたの? でも「こんな思い」ってどういうことだろう。先輩の方がもっとつらいはずなのに。そう考えてる間にもずっと頭をさすられてた。室内には先輩の荒い吐息と僕の頭をさすって出る摩擦音だけが静かに響く。先輩は落ち着いてくると正座して僕と座卓越しに正対して、泣いた痕をジャージの裾で拭うと、視線を斜め下に落とした。
「正直言って、お前のこと見てるとつらくなってくるんだ。心配されないように努力してるけど、筒抜けだった。先輩みたくなるって、俺には無理なことなのかな」
 先輩も僕と同じ気持ちだった……っていうこと、なのか?
 心配されないように努力してるってことは、先輩はまだ何かを隠してるんだ。それはきっと昨日、佐藤さんに言ったことだろう。
 ――俺、バスケ……なんだ
 ヘリの騒音に妨害されて聞けなかったこの間に真相が隠されてるはずだ。バスケが嫌いって理由もここにあるんだろうな……。それより、一つ気になることがあった。
「先輩みたく?」
「そう。俺にはなれなかった」
 先輩の先輩、か。想像できないや。僕が入部してから先輩と親しそうな人は居なかったから、二つ上の先輩だろう。僕からすると三つ上で、接点は何もないはず。
 先輩は唐突に「あ」と小さく声を上げて、おもむろに立ち上がった。目で追っていくと、部屋の隅に配置された三段ボックスからジグソーパズルの箱を持ち出してきた。そのまま座卓に置くと、何の絵柄か分かった。バスケの実写で、左側にゴールがあって右側に一人の人物がシュートを狙ってる構図だ。背景はもちろん体育館で……って、この体育館ってどこかで見たことがあるような気がする。なんにせよ、人が一人っていうこと以外はやけにリアルだ。ピース数は大きさからして軽く見積もっても500ピースはありそうだ。というか、話の脈絡が分からない。先輩の先輩とジグソーパズルって何か関係あるのか? その先輩が大好きだったとか。……ないか。
「今からやるんですか?」
 夕日もだいぶ落ちてきて、夕闇が迫ってるぞ。今からやり始めたら終わる頃には真っ暗だと思う。先輩は無表情のまま箱を手の甲で叩いた。
「見れば分かるから」
 そう言って、そっと箱を開けるとそこにはラバーブレスがしこたま入っててピースなんてどこにもなかった。
「え、ピースはどこに……」
「一階の和室だよ。部屋余ってんだよね。完成したやつを折り畳み可能な簡易式の机に広げてある」
 へ、へぇ〜。ここしか来たことないから他の部屋なんて全然分からない。というか和室多いな、ここも和室だし。あ、昔の家だからか。
「それはいいとしてさ。翔平は俺がラバーブレスを着けてる理由を訊きたがってたよな」
「そ、そうですけど」
 先輩は様々なラバーブレスの中から一つ取り出して身に着けた。先輩に目をやると、箱の中身をずっと見つめてて視線をそらさなかった。逆行でも判る、目が輝いてる。僕も再びまじまじと見る。その中には佐藤さんが渡したであろう黒いラバーブレスも入ってた。
「嘘ついてごめん。意味はめっちゃある。俺と先輩の絆なんだ。ラバーブレスを身に着けるってことは」
 ええっ? なんだそれ。ラバーブレスが「絆」って、どんなエピソードがあったんだ。
「絆?」
「話すと長くなるから割愛するが、俺の過去に『何か』があったのは知ってるだろ?」
「ああ。部長が話そうとして先輩が止めたやつですね」
「今は言えないけど、その一件が理由だな」
 確か部長は「信用」がどうとか言ってたな。そのことがきっかけで、先輩は大きく変わったんだろう。言えない理由がよく分からないけど。先輩は両手で箱の中身をまさぐって何かを探してる。しかし、これだけ集めるのもすごいな。優に50個はあると思う。女子が「先輩! これ、受け取ってください」とか言ってもらったのも中にはありそう。先輩はなんだかんだ言ってもかっこいい部類に入るからな。すると、探し物を見つけたみたいで手に取って僕に差し出した。僕が買ったのより細くてブレスというよりリングのような感じだ。それでも赤と白のコントラストが綺麗でファッション性を損なってない。……何も言わないってことは、貰っちゃっていいの?
「ほれ。明日、身に着けるんだろ」
「なっ、なんで、分かるんですかっ」
 貰うことにためらいはないけど、僕の心を読んでるのがちょっとこわい。エスパーか。
「昨日佐藤が言ってた。ラバーブレスを買いに行ったとき、翔平と大輔に会ったって。だから欲しがってるのかと思って」
 完璧な説明だ。素直に受け取ろう。
「ありがとうございます」
「なんだよ、改まって。気持ちわりィ」
「気持ち悪いはない。先輩相手なんだから敬わないと。まぁそれ以外でもきちんとしますけど」
 してやったりだ。お望みどおりちゃんと尊敬してやったんだぞ、何かないのか。先輩はひとしきり逡巡すると卓上の箱を隅に追いやって、頬杖をついた。……満面の笑みで。嫌な予感がする。
「翔平くん。ここはどこかな?」
「そ、そりゃ先輩の家……ですけど。あっ!」
「気づいたね。そう、今は先輩と後輩って間柄じゃない。俺んちに遊びに来てる『友達』なんだよ。だからそんなに恐縮しないで。俺と対等に付き合って」
 友達、か。そう思われてて良かった。僕も満面の笑みで応えた。
「はい」
 でもそうする自信は全くなかった。
 先輩はベッドに上がって、この部屋にベストマッチな古めかしい目覚まし時計を手に取った。そうか、今日は早いとこ切り上げた方がいいのか。先輩は目覚まし時計から目線を動かさず、ぼそりと呟いた。
「ありがとう。試合前に関係修復ができてよかった」
「こちらこそ。僕もラバーブレスを着けてる理由を少しでも言ってくれたので……」
 え? 泣いて、る?
 こちらを振り向いた先輩は涙だけを流して笑っていた。僕は思いも寄らない事態にすぐさま駆け寄って、先輩の肩に腕を回した。
「せっ、先輩っ! どうしたんですか。涙腺の緩み方がおかしいですよ」
「おかしい言うな! 自分の弱さを知ったら止まらなくなっちゃった」
「泣き虫王子」
「いやいや、王子じゃないから」
 泣き虫は否定しないんだ。このところずっと泣きまくりだし、怒りやすいしで、やっぱり心が不安定なのは事実だ。この泣き虫を泣かせないように頑張ろう。
 今度こそ、やっと決意した。いや、決意できたが正しいか。今までの僕は逃げっぱなしだった。物理面も精神面も。先輩と向き合うことを拒絶して良かったことは何もない。向き合ったら向き合ったで、つらいことに直面することもあったけど、全てが好転してる。僕と先輩の歯車、ようやく噛み合ったのかな。

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