手が届くなら歯車(4-2)
部活が終わって、明後日の中総体に向けて資料を整理してる部長に訊いてみたいことがあった。がっちりとした体つきをしてて、触ってもビクともしなさそうだけど敏感なんだな、これが。肩を叩くと即座に反応を示す。そう、資料を持つ手を震わせるほどに過敏だ。
「小谷先輩はどこに居るか分かりますか?」
「隆は、そうだな……。この時間に居ないってことは、どっかふらついてるんじゃないのか」
「ありがとうございます」
部長には小谷先輩の居場所が分からないと思うのに、心底気遣ってくれた。約束を破ったのは小谷先輩の方なのに、部長に迷惑掛けるとかどういう了見なんだ。僕が黙ってて、一人で捜せば良かったんだけど、先輩が行きそうな場所は全く思いつかない。
この時間――部活が終わって、帰ってもいい時間帯だ。だけど先輩は荷物を置いてるから、校内には居るんだろう。渡り廊下から校舎に入る扉には鍵が掛かってて入れない。もしや激励会での選手宣誓がまずくて、先生から叱責を受けてるのか。だとしたら説明が……って、先輩の外靴がない。ということは外か。予想したことが外れてて良かった。僕も荷物を持たないで、体育館の裏口から外に出た。
先輩が行きそうなところか。大輔の力を借りたいけど、今日はいつもより門限が厳しいらしくて、部活が終わったらすぐに帰ったから借りようにも借りられない。一年の頃は僕にどうやって理由付けしてたのかが気になる。あまり執拗に聞くと無粋だと思ってたから記憶がない。そういうときは小谷先輩と一緒に帰ってたから、紛れてたのかな。目を瞑って首を振る。
「じゃなくて」
今は先輩を捜そう。中総体激励会のときに言いそびれたことを言いに行くために。といっても皆目見当が付かない。部活が終わってからふらついてるなんて初めて聞いた。先輩は部活が終わったら下校以外の行動は起こしてなかったもんなぁ。部長の口振りからすると、先輩って一年の頃は部活後にほっつき歩くことが多かったのかな。
とりあえず歩こう。校舎には居ないんだから、校内を歩き回ってたらいつか会えるはずだ。コンクリートの地面を歩く。隙間から力強くたんぽぽが生えてたりするのを見ながら、すれ違う先生には軽く会釈をする。気のせいってぐらいにしか傾けないけど。
体育館を右伝いに歩いて、剣道場、理科室、視聴覚室を右手に見ながら……見つけられないまま昇降口に着いてしまった。下校する生徒がちらほらと見える。あ、顔と名前が一致しない三人組の男子集団が昇降口の前でたむろしてる。ずっとここに居たのなら訊いてみる価値ありか。先輩は今日の一件で知名度は急激に上がっただろうし。僕はおずおずとその集団に近寄って、声を掛けた。
「お取り込み中ですか?」
集団は一斉に振り向く。こんな至近距離で視線を浴びたくないよ! 激励会で、部長が決意を述べたときより緊張してると思う。怯えきってると、一番奥に居る感じの良さそうな人が僕の左前方に近づいてきた。近いって。肩がぶつかるわい。そして親しげに話しかけてきた。
「あんれぇ〜、お前ってバスケ部の奴?」
言いながら、僕の鼻先を人差し指で上下に往復させてくる。それがやけにゆったりだから癇に障る。鼻を触って何があるというのだ。手前のヤンキー座りをした人が煩わしそうにため息をついた。
「そんな奴ほっとけよ」
「もったいない。こんな純情そうな奴なんて滅多に居ないのに」
何がもったいないんじゃボケェ。というかこの人たちとは絡まない方が良かったみたいだ。もう遅いけど。感じの良さそうな人は僕の鼻から指を離し、更に反論を続ける。
「弄り甲斐があると思うぜぇ?」
なんだ。そういう話だったのか。僕を遊び道具にするつもりだったのか。片腹痛いわ。同級生をなんだと思ってる。……そうは言っても僕は無力だ。黙って受け入れるしかない。この人たちは退学処分を受けずにいるんだから、傷害事件にはならないだろう。目立つ場所だし。流れに身を任せよう。
「時間も時間だし、そいつは同じクラスだからいつだっていいだろ」
手前にいる人は案外良い子ちゃんなのね。感じの良さそうな人が胸の前で手を合わせて仲間に懇願する。――せんぱい。
「帰るまで。今日帰るまでお願いっ!」
「今日だけだぞ」
「仕方ねえなあ。でもま、オレも気になってたしチャラにしてやんよ」
「マジデ?」
「デジマ。……いや、茶化すつもりはない。ガチでマジ。大本気」
本人の意見は尊重されないのですね。分かってますよ、それぐらいは。感じの良さそうな人に肩をトントンと叩かれる。思ってたより優しかった。相手は油断してるけど逃げるタイミングは、ないか。流れに身を任せて、三人の輪に入る。
「ヒャハハ、お前ってデカいよね」
不穏な笑いをしながら感じの良さそうな人が隣で喜んでた。ちょっとキモい。そっち方面ならお断りです。でも、穏便に事を進めるために相槌を打っておく。僕って中学二年にしては大きいんだよなぁ。来年に7センチ伸びて、先輩と同じ身長になることも夢ではない。言われてみればこの三人、僕より10センチは低い。威嚇できなくもないか。そうするとしたら隙を窺わないとならないし、何よりこれからの学校生活が不安だ。イジメられる毎日になるぞ、絶対。今まで一言しか発しなかった眼鏡を掛けた人がぽつりと呟いた。
「素直に羨ましい。どうしてそうなったのか、単刀直入に聞かせろ」
座ってるから予想を立てにくいけど、眼鏡くんは見たところ160センチないか。僕が優越感に浸れるのって身長ぐらいだ。こういうときぐらいは……羨め。
「単刀直入と言いましても、なんと言ったらいいのか。自然と?」
ああああ。佐藤さんの気持ちがちょっと分かった。初対面の人には知らず知らずのうちに丁寧な言葉遣いになってしまう。でも仲良くなったら砕けると思うんだけどなぁ。感じの良さそうな人が眼鏡を諭す。
「やめとけって。お前にゃ無理だから」
「だってこいつは先駆者だぞ。有用な知識を持ってるかもしれないじゃないか」
よし、今だ。今しかないっ! この人たちが言い争ってる間に逃げ出そう。こんなくだらない話になんか付き合ってられない。片膝を地に着けて素早く立ち上がろうとすると、話に参加してない、ヤンキー座りをしてる人と目が合った。思わず硬直してしまう。
だけど、首を斜め上に振って「行け」という合図を出してくれた。たぶん。さすが良い子ちゃん。よく分かってらっしゃる。また絡む機会があったらだけど、このご恩はいつか返します。良い子ちゃんに感謝して、後ろにすっとフェードアウトする。三人だったら強引に抜け出すしか道はないけど、協力者がいるのなら強引じゃなくても抜け出せると考えたからだ。声を掛けた辺りまで下がったところで立ち上がり、昇降口前を疾走する。
「ちょ、おまっ!」
今では欠片も感じないけど、感じの良さそうな人だろう。奇妙な声を上げて少し足音が聞こえたけど、協力者が制止してくれた。
「荷物を持ってないんじゃ校内に何か用があるんだろう。一人での下校時だったら容赦はしないんだが」
ありがとう、良い子ちゃん。助かったよ。ただ、最後の一言は聞きたくなかった。最後まで純粋な協力者で居て欲しかった。
右には一年の教室、左には部活が終わって、活気がなくなった校庭を見ながら歩く。中総体は明後日か。中総体に出られないと思われるサッカー部の一年が居残りで走り込みをしてた。感心だ。うちの一年は部活が終わったら即刻帰って行った。もっと闘争心を持って競り合って欲しい。僕は次期部長でも、副部長でもないから、どうしようもないんだけど。
もう半分以上は校内を回ってるから、不安が募っていく。いつの間にか足が急いてるのに気づくと、突き当たりに出た。コンクリートの道もここで終わり。プールか。掃除は大変だったなぁ。水に濡れて楽しかったような記憶があるけど、どうも曖昧だ。先輩が豹変したあの日前後のことは自分でもよく覚えてない。それほど鮮烈だった。先輩があんなにも取り乱すなんてことは一度もなかったから――。
ダメだ、しみじみしてちゃっ! 地肌とは段差になってるコンクリートから下りて真っ直ぐ歩く。今年一新されたプールのフェンスに手を掛ける。防護してるプラスチックが太陽に照らされて、ほんのり暖かい。背伸びをしてプールサイドを見渡す。
「居ない……」
そりゃここに居たら居たで問題だけど、もう他に考えられる場所はない。でもあの三人に拘束されたから、すれ違いで先輩はもう帰っちゃったって可能性もなくはないか。校舎とプールの間を進む。雑草が生えてない。用務員さん、いつもお疲れ様。
……体育館だ。このままだと本当に一周してしまう。砂利道にある石を蹴りながら、右手の校舎、眼前の体育館、そして渡り廊下に囲まれてる開けたところを見る。これが最後の希望だ!
「居るわけ、ないか」
どうしてか、ため息をついてた。こう何度も期待を裏切られると自然と出ちゃうものなのか。先輩は何もないところに一人たたずんでても、長身のお陰で絵になりそうだから、安易に想像できてしまうのもいけない。……ああ、結局
「人のせいにしてしまう」
周りがしないのなら僕もしない。周りがするのなら僕もする。
自分の不甲斐なさにまたしてもため息が出た。先輩は他人がどう思おうが、関係ないって人だ。誰かが困ってたら先駆けとなる人だ。先輩のようになりたいと強く願う反面、僕は困ってる人を手助けすることもできない。世間が僕をどう見てるのかが気になるから。それは先輩への応対にも表れてる。先輩は彼女と別れて傷心してるのに、僕は何も考えないで今までどおり接してる。先輩だって、困ってる人だというのに。体育館の壁に悄然とした拳を叩きつける。
「……くそっ」
声にならない声が僕を支配する。
視界が翳む。分かってる。分かってると言うのに、僕は何もできてない。先輩の力になれてない。僕はやっぱり無力なんだ。流されて生きることしかできない能無し。鬱屈とした考えが頭全体に広がる。絶え間なく零れ落ちる涙が地面の石に降っていく。僕はその場に頽れて手に取った。
「石は良いよな。乾くんだから」
大輔を不快な気持ちにさせたり、先輩のサポートをすると大輔と誓ったのに全くしてない。僕の心はずっと泣いてて、乾くことなんてありはしない。だけど表面には笑顔を貼り付けて、見せないようにしてる。それだけが、暗い過去や心に深い傷を負った人に、僕ができる唯一のことだから。
涙も治まってきて、せっかくだから校内を一周しようと体育館裏を通って戻ろうと思った矢先
「せんぴゃいっ?」
思わず口を両手で覆い隠す。――バレてない、セーフ。
まさかここでお目にかかるとは思わなかった。それにあれは佐藤さんだ。道路側に先輩、体育館側に佐藤さんという構図だ。一対一で何を話してるんだろう。先輩はもう佐藤さんと別れたんじゃ……。バレたら色々とまずそうなので、体育館の陰に隠れる。少しだけ顔を出して様子を窺う。まだ二人は話してるみたいで佐藤さんが少し俯いた。再び隠れると、暖かい風に乗って先輩の声が聞こえてきた。
「佐藤、どうして黙っててくれなかった?」
かなり離れてるから声が小さいけど聞こえないことはない。だけど車が走ったり、少しでも他の物音がしたら聞こえなくなるな。神経を耳に集中させる。盗み聞きなんて、僕、なんて疚しいことをしてるんだろう……。人のこと言えないや。それでも話の内容が気になって体が動かない。
「それは隆がいけない。まだ私に何か隠してるでしょう」
隆。そうか。佐藤さんっていつもは先輩のことを「隆」と呼んでるんだ。だから、街中で先輩の名前を言ったとき「先輩」って付け足すようにしたのか。なるほど納得。
「俺にはあいつらと接する時間がもうないんだ。最後くらい俺の望みを聞いてくれたって良いっつぅのに」
そう言う先輩の声は憤りに満ちていた。こわくなって見てみると、先輩は手を硬く握り締めて我慢してた。時間がないってどういうことだ。中総体が終わっても、中学校生活はまだ九ヶ月も残ってる。バスケ部での交流は終わっても、僕たちと接する時間なんてまだまだある。先輩は一体何を勘違いしてるんだろう。
「話を摩り替えないで。私と別れたこと以外にも何かないと隆はそこまでおかしくならないよ……」
別れたことを僕たちに話したのがバレたのか。どういうルートで漏れたんだろう。
「あぁ……佐藤には言ってもいいかな。俺、バスケ……なんだ」
え? 今なんて言った? ヘリめ。一生ヘリ恨んでやる。タイミング良くヘリが飛んできやがった。どうせ夕方のニュース番組で「白昼の惨劇。閑静な住宅街に激震が走る!」とかそんな感じだろ。大迷惑。こちとらそれどころじゃないんだぞ。先輩が吐露してくれるところだったんだぞ。
「そうだったの……。ごめんなさい、何も分かってなくて」
「いいよ。俺が何も話さなかったのもわりィんだし」
今でもラブラブだ。こんなに仲が良い二人がどうして別れることになったんだろう。そこにも「原因」がありそうだ。二人は見つめ合って、先輩は佐藤さんの腰に手を回した。そして屈んでいく。これはもしや……。
ああああ。キスした! 校内でキスしたよ、この人たち! 信じられない。いや、しても構わないけど、もう少し周囲を確認してからにして欲しい。先輩は目を瞑って腰にやっていた手を片方、頭に回しちゃってるし、佐藤さんも先輩の腕の下を通して手を回してる。目を逸らしたいけど、逸らしたくない気もする。普段はカッコよく見えない先輩でも、こういうときに限ってはカッコよく見えた。身長差が20センチ以上もあると思われるのに、先輩は巧みにキスをしてる。そのうち先輩の閉じられていた瞼が重々しく開かれて――鋭い眼差しがこちらに向けられた。ヤバい! 逃げなくちゃ!
即座に後ろを振り向いて、逃げる場所を機敏に考える。昇降口前はあのたむろしてる人たちが居る。追いかけられる人が四人に増えるだけだ。却下。かといって校庭に逃げると追い詰められる。却下。となると残るのは……校庭に向かってた踵を返して、普通に考えると逃げ道がない、さっき絶望しただだっ広いところを目指して無我夢中になって走る。目指すは渡り廊下の端っこだ。慣れない砂利道に躓きそうになって前のめるが、踏ん張った。つかまりたくない。
渡り廊下の手すりは脆いからその上を跳び越そうとすると確実に壊れるので、渡り廊下と体育館の隙間に身体を捻り込む。事は急を要する。外靴のまま失敬して渡り廊下をすばしっこく走り抜けた。
剣道場と手すりの間なら他に比べてまだ余裕がある。先生に見られたら何を咎められるか分かったものじゃないが、幸いにもすれ違わなかった。剣道場と手すりの間も抜けて、少し心に余裕ができると背後から激しい足音が聞こえた。まだ逃げ切れてない。距離を確認したい。でも、振り返らない。先輩の顔を見るとふっと気が抜けてしまって、逃げられるものも逃げられなくなってしまいそうだから。走ることから早歩きになってた足に、鞭を入れる。
あれ、おかしい。身体が追いつかない。そう思ったときには肩を掴まれてた。追いつかれちゃったんだ。ああ、そうか。頭ではどうして逃げてるんだろう、と思ってるのに身体は無理に逃げようとしちゃったから違和感を覚えたんだ。言いそびれたことを言いに行くために先輩を捜してたのに……おかしいな。
どうしてあの場から逃げたんだろうって、今さらながらに思った。
「小谷先輩はどこに居るか分かりますか?」
「隆は、そうだな……。この時間に居ないってことは、どっかふらついてるんじゃないのか」
「ありがとうございます」
部長には小谷先輩の居場所が分からないと思うのに、心底気遣ってくれた。約束を破ったのは小谷先輩の方なのに、部長に迷惑掛けるとかどういう了見なんだ。僕が黙ってて、一人で捜せば良かったんだけど、先輩が行きそうな場所は全く思いつかない。
この時間――部活が終わって、帰ってもいい時間帯だ。だけど先輩は荷物を置いてるから、校内には居るんだろう。渡り廊下から校舎に入る扉には鍵が掛かってて入れない。もしや激励会での選手宣誓がまずくて、先生から叱責を受けてるのか。だとしたら説明が……って、先輩の外靴がない。ということは外か。予想したことが外れてて良かった。僕も荷物を持たないで、体育館の裏口から外に出た。
先輩が行きそうなところか。大輔の力を借りたいけど、今日はいつもより門限が厳しいらしくて、部活が終わったらすぐに帰ったから借りようにも借りられない。一年の頃は僕にどうやって理由付けしてたのかが気になる。あまり執拗に聞くと無粋だと思ってたから記憶がない。そういうときは小谷先輩と一緒に帰ってたから、紛れてたのかな。目を瞑って首を振る。
「じゃなくて」
今は先輩を捜そう。中総体激励会のときに言いそびれたことを言いに行くために。といっても皆目見当が付かない。部活が終わってからふらついてるなんて初めて聞いた。先輩は部活が終わったら下校以外の行動は起こしてなかったもんなぁ。部長の口振りからすると、先輩って一年の頃は部活後にほっつき歩くことが多かったのかな。
とりあえず歩こう。校舎には居ないんだから、校内を歩き回ってたらいつか会えるはずだ。コンクリートの地面を歩く。隙間から力強くたんぽぽが生えてたりするのを見ながら、すれ違う先生には軽く会釈をする。気のせいってぐらいにしか傾けないけど。
体育館を右伝いに歩いて、剣道場、理科室、視聴覚室を右手に見ながら……見つけられないまま昇降口に着いてしまった。下校する生徒がちらほらと見える。あ、顔と名前が一致しない三人組の男子集団が昇降口の前でたむろしてる。ずっとここに居たのなら訊いてみる価値ありか。先輩は今日の一件で知名度は急激に上がっただろうし。僕はおずおずとその集団に近寄って、声を掛けた。
「お取り込み中ですか?」
集団は一斉に振り向く。こんな至近距離で視線を浴びたくないよ! 激励会で、部長が決意を述べたときより緊張してると思う。怯えきってると、一番奥に居る感じの良さそうな人が僕の左前方に近づいてきた。近いって。肩がぶつかるわい。そして親しげに話しかけてきた。
「あんれぇ〜、お前ってバスケ部の奴?」
言いながら、僕の鼻先を人差し指で上下に往復させてくる。それがやけにゆったりだから癇に障る。鼻を触って何があるというのだ。手前のヤンキー座りをした人が煩わしそうにため息をついた。
「そんな奴ほっとけよ」
「もったいない。こんな純情そうな奴なんて滅多に居ないのに」
何がもったいないんじゃボケェ。というかこの人たちとは絡まない方が良かったみたいだ。もう遅いけど。感じの良さそうな人は僕の鼻から指を離し、更に反論を続ける。
「弄り甲斐があると思うぜぇ?」
なんだ。そういう話だったのか。僕を遊び道具にするつもりだったのか。片腹痛いわ。同級生をなんだと思ってる。……そうは言っても僕は無力だ。黙って受け入れるしかない。この人たちは退学処分を受けずにいるんだから、傷害事件にはならないだろう。目立つ場所だし。流れに身を任せよう。
「時間も時間だし、そいつは同じクラスだからいつだっていいだろ」
手前にいる人は案外良い子ちゃんなのね。感じの良さそうな人が胸の前で手を合わせて仲間に懇願する。――せんぱい。
「帰るまで。今日帰るまでお願いっ!」
「今日だけだぞ」
「仕方ねえなあ。でもま、オレも気になってたしチャラにしてやんよ」
「マジデ?」
「デジマ。……いや、茶化すつもりはない。ガチでマジ。大本気」
本人の意見は尊重されないのですね。分かってますよ、それぐらいは。感じの良さそうな人に肩をトントンと叩かれる。思ってたより優しかった。相手は油断してるけど逃げるタイミングは、ないか。流れに身を任せて、三人の輪に入る。
「ヒャハハ、お前ってデカいよね」
不穏な笑いをしながら感じの良さそうな人が隣で喜んでた。ちょっとキモい。そっち方面ならお断りです。でも、穏便に事を進めるために相槌を打っておく。僕って中学二年にしては大きいんだよなぁ。来年に7センチ伸びて、先輩と同じ身長になることも夢ではない。言われてみればこの三人、僕より10センチは低い。威嚇できなくもないか。そうするとしたら隙を窺わないとならないし、何よりこれからの学校生活が不安だ。イジメられる毎日になるぞ、絶対。今まで一言しか発しなかった眼鏡を掛けた人がぽつりと呟いた。
「素直に羨ましい。どうしてそうなったのか、単刀直入に聞かせろ」
座ってるから予想を立てにくいけど、眼鏡くんは見たところ160センチないか。僕が優越感に浸れるのって身長ぐらいだ。こういうときぐらいは……羨め。
「単刀直入と言いましても、なんと言ったらいいのか。自然と?」
ああああ。佐藤さんの気持ちがちょっと分かった。初対面の人には知らず知らずのうちに丁寧な言葉遣いになってしまう。でも仲良くなったら砕けると思うんだけどなぁ。感じの良さそうな人が眼鏡を諭す。
「やめとけって。お前にゃ無理だから」
「だってこいつは先駆者だぞ。有用な知識を持ってるかもしれないじゃないか」
よし、今だ。今しかないっ! この人たちが言い争ってる間に逃げ出そう。こんなくだらない話になんか付き合ってられない。片膝を地に着けて素早く立ち上がろうとすると、話に参加してない、ヤンキー座りをしてる人と目が合った。思わず硬直してしまう。
だけど、首を斜め上に振って「行け」という合図を出してくれた。たぶん。さすが良い子ちゃん。よく分かってらっしゃる。また絡む機会があったらだけど、このご恩はいつか返します。良い子ちゃんに感謝して、後ろにすっとフェードアウトする。三人だったら強引に抜け出すしか道はないけど、協力者がいるのなら強引じゃなくても抜け出せると考えたからだ。声を掛けた辺りまで下がったところで立ち上がり、昇降口前を疾走する。
「ちょ、おまっ!」
今では欠片も感じないけど、感じの良さそうな人だろう。奇妙な声を上げて少し足音が聞こえたけど、協力者が制止してくれた。
「荷物を持ってないんじゃ校内に何か用があるんだろう。一人での下校時だったら容赦はしないんだが」
ありがとう、良い子ちゃん。助かったよ。ただ、最後の一言は聞きたくなかった。最後まで純粋な協力者で居て欲しかった。
右には一年の教室、左には部活が終わって、活気がなくなった校庭を見ながら歩く。中総体は明後日か。中総体に出られないと思われるサッカー部の一年が居残りで走り込みをしてた。感心だ。うちの一年は部活が終わったら即刻帰って行った。もっと闘争心を持って競り合って欲しい。僕は次期部長でも、副部長でもないから、どうしようもないんだけど。
もう半分以上は校内を回ってるから、不安が募っていく。いつの間にか足が急いてるのに気づくと、突き当たりに出た。コンクリートの道もここで終わり。プールか。掃除は大変だったなぁ。水に濡れて楽しかったような記憶があるけど、どうも曖昧だ。先輩が豹変したあの日前後のことは自分でもよく覚えてない。それほど鮮烈だった。先輩があんなにも取り乱すなんてことは一度もなかったから――。
ダメだ、しみじみしてちゃっ! 地肌とは段差になってるコンクリートから下りて真っ直ぐ歩く。今年一新されたプールのフェンスに手を掛ける。防護してるプラスチックが太陽に照らされて、ほんのり暖かい。背伸びをしてプールサイドを見渡す。
「居ない……」
そりゃここに居たら居たで問題だけど、もう他に考えられる場所はない。でもあの三人に拘束されたから、すれ違いで先輩はもう帰っちゃったって可能性もなくはないか。校舎とプールの間を進む。雑草が生えてない。用務員さん、いつもお疲れ様。
……体育館だ。このままだと本当に一周してしまう。砂利道にある石を蹴りながら、右手の校舎、眼前の体育館、そして渡り廊下に囲まれてる開けたところを見る。これが最後の希望だ!
「居るわけ、ないか」
どうしてか、ため息をついてた。こう何度も期待を裏切られると自然と出ちゃうものなのか。先輩は何もないところに一人たたずんでても、長身のお陰で絵になりそうだから、安易に想像できてしまうのもいけない。……ああ、結局
「人のせいにしてしまう」
周りがしないのなら僕もしない。周りがするのなら僕もする。
自分の不甲斐なさにまたしてもため息が出た。先輩は他人がどう思おうが、関係ないって人だ。誰かが困ってたら先駆けとなる人だ。先輩のようになりたいと強く願う反面、僕は困ってる人を手助けすることもできない。世間が僕をどう見てるのかが気になるから。それは先輩への応対にも表れてる。先輩は彼女と別れて傷心してるのに、僕は何も考えないで今までどおり接してる。先輩だって、困ってる人だというのに。体育館の壁に悄然とした拳を叩きつける。
「……くそっ」
声にならない声が僕を支配する。
視界が翳む。分かってる。分かってると言うのに、僕は何もできてない。先輩の力になれてない。僕はやっぱり無力なんだ。流されて生きることしかできない能無し。鬱屈とした考えが頭全体に広がる。絶え間なく零れ落ちる涙が地面の石に降っていく。僕はその場に頽れて手に取った。
「石は良いよな。乾くんだから」
大輔を不快な気持ちにさせたり、先輩のサポートをすると大輔と誓ったのに全くしてない。僕の心はずっと泣いてて、乾くことなんてありはしない。だけど表面には笑顔を貼り付けて、見せないようにしてる。それだけが、暗い過去や心に深い傷を負った人に、僕ができる唯一のことだから。
涙も治まってきて、せっかくだから校内を一周しようと体育館裏を通って戻ろうと思った矢先
「せんぴゃいっ?」
思わず口を両手で覆い隠す。――バレてない、セーフ。
まさかここでお目にかかるとは思わなかった。それにあれは佐藤さんだ。道路側に先輩、体育館側に佐藤さんという構図だ。一対一で何を話してるんだろう。先輩はもう佐藤さんと別れたんじゃ……。バレたら色々とまずそうなので、体育館の陰に隠れる。少しだけ顔を出して様子を窺う。まだ二人は話してるみたいで佐藤さんが少し俯いた。再び隠れると、暖かい風に乗って先輩の声が聞こえてきた。
「佐藤、どうして黙っててくれなかった?」
かなり離れてるから声が小さいけど聞こえないことはない。だけど車が走ったり、少しでも他の物音がしたら聞こえなくなるな。神経を耳に集中させる。盗み聞きなんて、僕、なんて疚しいことをしてるんだろう……。人のこと言えないや。それでも話の内容が気になって体が動かない。
「それは隆がいけない。まだ私に何か隠してるでしょう」
隆。そうか。佐藤さんっていつもは先輩のことを「隆」と呼んでるんだ。だから、街中で先輩の名前を言ったとき「先輩」って付け足すようにしたのか。なるほど納得。
「俺にはあいつらと接する時間がもうないんだ。最後くらい俺の望みを聞いてくれたって良いっつぅのに」
そう言う先輩の声は憤りに満ちていた。こわくなって見てみると、先輩は手を硬く握り締めて我慢してた。時間がないってどういうことだ。中総体が終わっても、中学校生活はまだ九ヶ月も残ってる。バスケ部での交流は終わっても、僕たちと接する時間なんてまだまだある。先輩は一体何を勘違いしてるんだろう。
「話を摩り替えないで。私と別れたこと以外にも何かないと隆はそこまでおかしくならないよ……」
別れたことを僕たちに話したのがバレたのか。どういうルートで漏れたんだろう。
「あぁ……佐藤には言ってもいいかな。俺、バスケ……なんだ」
え? 今なんて言った? ヘリめ。一生ヘリ恨んでやる。タイミング良くヘリが飛んできやがった。どうせ夕方のニュース番組で「白昼の惨劇。閑静な住宅街に激震が走る!」とかそんな感じだろ。大迷惑。こちとらそれどころじゃないんだぞ。先輩が吐露してくれるところだったんだぞ。
「そうだったの……。ごめんなさい、何も分かってなくて」
「いいよ。俺が何も話さなかったのもわりィんだし」
今でもラブラブだ。こんなに仲が良い二人がどうして別れることになったんだろう。そこにも「原因」がありそうだ。二人は見つめ合って、先輩は佐藤さんの腰に手を回した。そして屈んでいく。これはもしや……。
ああああ。キスした! 校内でキスしたよ、この人たち! 信じられない。いや、しても構わないけど、もう少し周囲を確認してからにして欲しい。先輩は目を瞑って腰にやっていた手を片方、頭に回しちゃってるし、佐藤さんも先輩の腕の下を通して手を回してる。目を逸らしたいけど、逸らしたくない気もする。普段はカッコよく見えない先輩でも、こういうときに限ってはカッコよく見えた。身長差が20センチ以上もあると思われるのに、先輩は巧みにキスをしてる。そのうち先輩の閉じられていた瞼が重々しく開かれて――鋭い眼差しがこちらに向けられた。ヤバい! 逃げなくちゃ!
即座に後ろを振り向いて、逃げる場所を機敏に考える。昇降口前はあのたむろしてる人たちが居る。追いかけられる人が四人に増えるだけだ。却下。かといって校庭に逃げると追い詰められる。却下。となると残るのは……校庭に向かってた踵を返して、普通に考えると逃げ道がない、さっき絶望しただだっ広いところを目指して無我夢中になって走る。目指すは渡り廊下の端っこだ。慣れない砂利道に躓きそうになって前のめるが、踏ん張った。つかまりたくない。
渡り廊下の手すりは脆いからその上を跳び越そうとすると確実に壊れるので、渡り廊下と体育館の隙間に身体を捻り込む。事は急を要する。外靴のまま失敬して渡り廊下をすばしっこく走り抜けた。
剣道場と手すりの間なら他に比べてまだ余裕がある。先生に見られたら何を咎められるか分かったものじゃないが、幸いにもすれ違わなかった。剣道場と手すりの間も抜けて、少し心に余裕ができると背後から激しい足音が聞こえた。まだ逃げ切れてない。距離を確認したい。でも、振り返らない。先輩の顔を見るとふっと気が抜けてしまって、逃げられるものも逃げられなくなってしまいそうだから。走ることから早歩きになってた足に、鞭を入れる。
あれ、おかしい。身体が追いつかない。そう思ったときには肩を掴まれてた。追いつかれちゃったんだ。ああ、そうか。頭ではどうして逃げてるんだろう、と思ってるのに身体は無理に逃げようとしちゃったから違和感を覚えたんだ。言いそびれたことを言いに行くために先輩を捜してたのに……おかしいな。
どうしてあの場から逃げたんだろうって、今さらながらに思った。
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