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手が届くなら親友(3-1)

 バスケの試合に、先輩は決まって腕にゴム製のブレスレットをしている。しかも二つ。何の意味があるんだろうと思ってはいたけど結局聞き出せないままだ。中総体も近いし、訊いてみようかな。うん、訊いてみよう。
「先輩」
「翔平か。どした?」
 先輩は零れ落ちる汗を黄色のフェイスタオルで拭った。この時期の体育館は確かに蒸し暑い。真剣な眼差しで僕を覗く。
「前からずっと聞きたかったんですけど、試合でゴムのブレスレットしてますよね。それって何か意味があるんですか?」
「……意味はない。先輩がそうしてたから俺もそうしただけ。あと、カッコよく言うとラバーブレスな」
 そうそっけなく答えると周りの空気がぐっと冷え込んだ気がした。この感じは……思い出したくない、思い出したくない。だけど、そう思えば思うほど鮮明に記憶が蘇ってくる。頭を振って強制的に考えないようにした。先輩は立ち上がると僕を一瞥してどこかへ行ってしまった。そっか、先輩にだって「先輩」がいるんだよね。出場する機会があるかは分からないけど、僕も真似してみようかな。
 一人になると、急に周りのことが気になり始めた。ステージにこだまする体操部顧問の檄。体育館の手前半分を占領している卓球部がのんびりと談話をしている。体育館裏からフルートの音が響く。吹奏楽部の人だろう。外で練習する人って居るからな。まぁここまで来る人も珍しいけど。後ろから呑気な声が聞こえた。
「翔平〜、ここに居たのか」
 振り返るとその先に居たのは大輔だった。窓から降り注ぐ太陽に、汗が光っている。髪が濡れるまで汗を掻いてるけど、とても爽やかだ。日向フィルターか。奨励服着てるときは全くと言っていいほど感じないのに。汗って不思議。
「用具倉庫前は僕たちの居場所みたいなもんでしょ」
「それもそうだな」
 大輔は僕の隣に腰を下ろし、壁にもたれ掛かった。片膝を立てて、その上に腕を置く。日陰に来て涼んだのか、「ふぅ〜」と一息吐いた。空気が、変わった気がした。
「さっき隆先輩とすれ違ったんだ」
 ――隆先輩。それが小谷先輩の名前だ。本当は『隆太』だけど、先輩たちは「隆」で、僕たち後輩は「隆先輩」と「太」抜きで呼んでいる。僕は……「小谷先輩」だ。
「それがどうかしたの?」
 日向フィルターが掛かってない直な表情を窺う。普段は明るい横顔が少し曇ってるように見えた。顎が小さく動く。
「すんげぇ不機嫌だった」
 思わず言葉を失う。僕が……僕のせいだっ。先輩の豹変した表情が頭を過ぎって、無意識に体が萎縮する。僕は体育座りをして自分の膝に顔を埋めた。
「隆先輩と仲が良い翔平なら、その原因を知ってるんじゃないかと思って来た……うええっ? どうした、腹壊しちゃったのか、そうなのか。保健室行こう!」
「勝手な解釈しないで。お腹は痛くないから」
 顔を横に向けると狼狽している大輔の姿が映った。いつもは見ない様子に僕は少し驚いた。僕のためにこんなにも考え、動いてくれることに。再び体育館の床に目を向ける。
「そうか。それで……心当たりある?」
「ないよ」
 僕はそれほど先輩と親しくない。むしろ大輔の方が親しいと思うぐらいだ。六月に入ってからおかしくなった原因を掴むことが出来ない。親しかったらそれぐらい分かるはずだ。話してくれるはずだ。そうしてくれないのは親しくないから。先輩の考えが――分からないよ。体育座りの姿勢を維持したまま顔だけは上げた。大輔は落ち着いたようで、胡坐を掻いている。壁にもたれ掛かってるから、二人して同じ方向を向いたまま話す。
「その先輩なんだけどさ、試合中にラバーブレス着けてるでしょ? 僕も着けようかと思って」
「なになに、それはお誘い?」
「大輔が言うと疚しい」
「あんまり心無いことを言わないで。俺、傷ついちゃう」
「だって事実だし、仕方ないじゃん?」
 そう言うと大輔は予告どおり、盛大に打ちひしがれてしまったようだ。がっくんと項垂れている。
「それでさ、今週末、暇だったら一緒に行かない?」
「行く! そのラバーなんだかに興味はないけど行く」
「それは興味アリアリでしょ」
 目が輝いてる。黒いのに輝いてる。黒光りしてる。ラバーブレスに興味があるのかはよく分からないけど、同行してくれる人がいて良かった。興味本位だけだったら絶対買わないよ、あんなの。……あんなのって言っちゃった。ごめん、先輩。――いつの間にかフルートの音が消えていた。


***


「まだかなぁ」
 集合時間からもう三十分も経ってるというのに大輔は姿を見せることはなく、ケータイにも出ない。下を向くと真っ直ぐに生える雑草が見えた。その風情は僕と正反対に思えた。嫌なことから避けて、生きていく自分。先輩にどうしておかしくなったのか訊きたいのは山々だけど、またあの豹変した表情を見せるのかと思うとこわくて、訊いてない。訊いたところで、答えてはくれないだろうけど。
 まったく……大輔はどこで道草食ってるんだ。本当に食ってしまえと思う。すると野球で使う軟式ボールが転がってきた。狙ったかのように僕の足元でピタリと止まる。これは拾えってことか。手を伸ばそうとすると
「待てっ!」
 何事? 待たなきゃいけない? 顔を上げるとギリギリ視界に入っていなかったところに、白い犬が息切れして、お座りしている。大型犬だ。そのお利口な犬の隣に駆けてきたのは、五歳ぐらいの子どもだった。一体何が起きてるというんだ! 
 えっと、冷静になって……。まずはボールを返そう。僕は立ち上がって子どもに近寄る。しゃがみ込んで「はいこれ」と言って手渡す。
「ありがとう」
 さっきの張り上げていた声だ。しかし、この子笑っているわけでもなく、悲しそうな表情でもない。それどころか訝しげに僕を見てくる。……息切れしてる犬にも見られてる。
「あんちゃんはおかしな人だね」
 ちょっと待って。それは初対面の人に対して言うことか? ま、まぁ二言目だったし、子どもだから大目に見てやるとして。
「おかしいって、どういう意味?」
「だいたいの人がさ、見て見ぬ振りをするのにあんちゃんは違った」
 この子は何を言ってるんだ。
「ぼくが『待て』って叫ぶとみんな肩を丸めちゃって、どこかへ行っちゃう」
 確かに他人には関係ないことだ。その上「待て」なんて叫ばれたら、返そうと思っていても返せないと思う。動物ギライだったりしたら尚更だ。僕は暇だったからこうしたけど、どこかへ向かっていたり、友達と歩いてたら……無視する。絶対。
「じゃあ『待て』って言わなければいいんじゃないの?」
「そうするとれいすが噛み付いちゃうから……」
 子どもの手がれいすと呼ばれる犬の背に手をかける。れいすに向ける瞳はひどく陰鬱で暗い。まるであのときの先輩のように――。自分に向けられた眼差しじゃないのに思い出してしまう。
 うぅ〜、ダメだ。今はこの子のことだけを考えよう。といっても、僕が関与できるのはここまでだ。これからはこの子とれいすが上手くやっていくしかない。
「一番大事なのは大暴投しないことだけど、君自身が変わるのも大事だよ」
 れいすとは一緒に来るな――という意味で遠回しに言ったけど気付いてくれたかな。そうすれば万事解決だ。子どもはぱあっと太陽みたいに明るい表情になって、子どもらしいがんぜない笑顔を見せてくれた。あんちゃん、それだけでボールを拾った甲斐があるよ。それ自体がお礼みたいなもんだ。
「ありがと!」
 振り返る間際、ボールを握り締めた手の甲に傷があった。生傷みたいに最近のものではなくて、古い傷。一生治らないような感じのもの。そして……
「あんちゃんもやっぱり同じだった」
 押し殺した呟きが僕の耳に届いた。ほんの少しの声量だったけど、僕の胸に響いた。何が、僕の何がいけない? それは先輩にも関係のあること? 嫌な考えだけが頭を埋め尽くす。……今日はラバーブレスを買いに来たんだ。ただそれだけ、ただ、それだけ。
 人が行き交う土手を見上げた。そうすれば忘れられそうだったから。ペットと一緒に散歩してる人、ジョギングしてる人、見るからに重そうな買い物袋を両手に持っているおばちゃん。その周りにいる人は無関心で追い抜かす人もいる。僕もその場に居たら、その一人だろう。これは暇であっても手を出さない。簡単なことじゃないから、我関したくない。周りの人に変な目で見られたくないから。周りが手を出さないなら僕も手を出さない。周囲と同調するのが――一番楽なことだから。
 そんな中を颯爽と走り抜けるジャージ姿の長身の男性が一際目を惹く。異彩を放っているといっても過言ではない。ジャージも青で、地味な色のはずなんだけどなぁ。腕捲りしている左腕に何か着けてるみたいだ。
 だけどそんな人でも手助けなんか……した。追い抜いたと思ったら、前を向いたままバックし始めた。進行方向だけが逆になっている。……後ろ歩きするのって、豹変した日の先輩みたいだ。買い物袋を持っているおばちゃんのところでストップすると、なにやら会話をし始めたみたいだ。ここからじゃ遠すぎるので、何を言ってるのか分からない。ただ単に親戚とかって可能性もある。土手の下に回り込むと、ようやく聞こえてきた。ここは子どもの遊ぶ声が結構うるさいんだよな。あまりクリアには聞こえないけど、聞き取れなくもない。
「俺が運びましょうか?」
 低い声だからあの男性だろう。
「いいの? でも悪いわよ〜」
 とか言って結局は持ってってもらうんだろ。
「いえいえ。それくらいならお安い御用です」
「あら。んじゃあ頼みましょうか。ありがとね、ほんと助かるよ」
 うぬぬ。どこの好青年だ。これじゃあ周りから好奇の目で見られるどころか、尊敬されちゃうじゃないか。しかしなんだこの感情。高まる熱気がどこにも逃げず、男性が誰であるかが無性に気になる。
「どこまで運びましょう?」
「橋を渡ったところでいいわ」
「わかりました。俺もちょうどあっち側に行こうと思ってました」
「とかなんとか言っちゃって、あたしに合わせたんじゃないの?」
「そんなわけないじゃないですか。偶然ですよ」
「ここで『必然』って言ったらキザだったのにぃー」
「はは。俺は……キザ気取りは大っ嫌いです」
 そこでやり取りは終わったみたいで、土手の様子を窺うと二人とも歩き出していたようだ。橋か。先回りしてあの好青年の容姿を見てやる。性格も良ければ顔も良いなんて都合の良いことがあるわけない。でも長身だから顔だって……まぁいいや、すぐに分かることだ。橋の下で待ち伏せして二人が来るのを待つ。こんなとこで大輔が来たら台無しだ。もう少し待っててくれ。土手を緩慢と歩いてきた二人がやっと橋の袂まで来た。男性を見やる。ジャージ姿に買い物袋は超絶似合わない。顔を見ると……んえええっ!
「こ、こたにゃ」
 口を慌てて塞いだ。間違いない。先輩は感づいたのか辺りをキョロキョロ見回す。僕は咄嗟に頭を抱え込んでしゃがんだ。
「どうかしました?」
「見覚えのある声が聞こえたのですが……俺の気のせいみたいでしたね。さあ行きましょう」
 足音が遠退く。なんとか気付かれずに済んだ。一ヶ月分ぐらいの緊張を今の一瞬で味わった気分だ。冷や汗だらだら。額はもちろん、脇の下からも出ちゃってる。
 左腕に着けてたのはラバーブレスだったのか。先輩がそんな人だったなんて。バスケ部で孤立してる僕を助けたところからして、義理人情に厚い人だってことは分かってたけど、信じられない。口調も僕と話すときと変わってるし、いつもあんな先輩が良い。学校での先輩はアホ丸出しにしか思えない。引退が迫って焦っちゃってるのかな。それで僕たちと接するときに空回りしちゃって、アホに見えると。そういうことか。
 うん、納得……できない。先輩はどうしてそこまで人を助けたがるんだろう。偶然? それにしちゃあ出来すぎてる。僕が見ないところでも先輩はきっと誰かの手助けしているだろう。あの応対の仕方は慣れてる。一日そこらじゃできない。ずーっとやってるんだ。先輩が人の手助けをする一面を知ったことで、また一歩先輩が遠い存在に思えた。キザ気取りが大嫌いだというのも気になるし……。ああ、先輩って何を隠してるんだ。気持ちだけが逸る。
 とりあえず、土手の下にあるベンチに座る。日差しを強く浴びたベンチは熱かった。ほんのりという感じじゃなく、熱い。夏ももうすぐだな。
 ふと、先ほどの出来事が頭を駆け巡る。子どもへの応対で何をミスったのかが分からない。あんなこと言われたら二度とボールを拾う気力がなくなる。おばちゃんと先輩のやり取りを見たときに心が温まったのはそのせいもあるんだろう。あの子は「同じ」って言ってたけど、先輩ならそう言われないのかな。……考え事してたら頭が痛くなってきた。
 そうだ。今日はラバーブレスを買いに来たんだった。大輔に電話を掛けてみるか。ポケットからケータイを引っ張り出し開ける。電話帳を開いてサ行を探った。一人しか居ない……。それはともかく助川、大輔っと。青い通話ボタンを押して、耳にあてがう。コール音は鳴るんだから出られるとは思うんだけど。四回ほど鳴った後「つっ」と短く音が鳴って
『わり!』
 大輔のデカい声が聞こえた。
「いきなり大声で出ないで。僕の鼓膜破る気だよね」
『そんなつもりはないよ』
 こっちもガヤガヤうるさいけど、大輔の方も救急車のサイレンが聞こえたりするから外に居るんだろう。
「まぁいいけど……。何してたの?」
『そのことなんだけど、ラバーブレスについて調べてたんだ。えっへん』
 あ、こっちも救急車のサイレンが聞こえた。近くに居るのかな。
 電話の向こうで偉そうにしたのが脳裏に浮かんだ。腰に手を当てて、もう一方の手は鼻の下を擦ってそう。というか「えっへん」って口に出して偉そうにする人は初めてだよ。先輩といい大輔といい、変な人と付き合っちゃったな。楽しいから良いけど。
『端的に言うと、先輩が身に着けるようなシンプルなやつはあんまりなかった。派生品ばっか』
「ふーん。それで遅くなったんだ」
『そ、そういうのは言わないお約束にしよ。……お前は歯に衣着せぬ物言いがだいす』
「ダベってないで早く来なさい」
『ちぇっ。そっちから掛けてきたっつーのに』
 愚痴にしか聞こえなかったので、スルーして耳元からケータイを離す。赤い切ボタンを押そうと親指を乗せるとケータイが僅かに振動して
「おーい」
 叫び声と共鳴した。土手を見ると大輔が大仰に片手を挙げて場所を示している。真っ赤なTシャツを着てるからとても目立つんですけど。恥ずかしいなぁ、もう。大輔はケータイをポケットに乱暴に突っ込んで僕の元へ疾走してきた。今は大輔と差し向かいたくないからそっぽを向く。顔を見てしまうと、心にあるありったけの思いをぶちまけてしまいそうだから。そうしたところで何の解決にもならない。
「待たせてごめんな」
 大輔が時間通りに来てたらあの子どもにも先輩にも会わなかった。それは感謝すべきことなのか、そうじゃないのかが微妙なところだ。
「別にいいよ……」
 軽くあしらうと、大輔はなにやら勘違いしたみたいだ。
「怒らせちゃった? 悪かったって。連絡の一つでも入れとけば良かったかな」
「僕が怒ってるのはそのことじゃないよ」
 ――僕は『僕自身』に苛立っている。何であの子のことをもっと考えてやれなかったのか、って。先輩を見てそう思った。他人のことなんかどうでも良い。それはたぶん、大多数の人が思っていること。それなのに先輩は困っている人に手を差し出した。清々しいぐらいに実直で、自分のことより相手のことを先に考えている。
 自分のことは二の次で、相手のことを一番に考える先輩が……変わってしまった。僕を配慮する余裕がなかったし、周りが見えてないって感じだ。さっきだって、「キザ気取りは大嫌い」なんて言ったら気まずい雰囲気になること受け合いだったのに、おばちゃんに何も配慮してなかった。
 やっぱり――最も長い間、接している僕以外に原因が考えられない。大輔をちらと見ると、不思議そうに小首を傾げていた。
「なんでもない。行こ」
 短くそう切ると大輔の腕を強引に引っ張って、僕は今日の目的地である総合スーパーに向かった。

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