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手が届くならプロローグ(1)

 先輩に体重を訊いたときの反応は空恐ろしくて身の毛がよだった。
「俺は72キロだけど。……まさかお前、俺に気があるんじゃっ?」
「ないですよ。何想像しちゃってるんですか」
 ここはきっぱりと言いきっておかないと後々面倒になる。「好きではありますけど」と小声で言ったが聞こえなかったみたいで
「すまんすまん」
 と合掌して平謝りした。片目を閉じてるのは愛嬌を感じさせて、怒らせる気をなくす。そんな可愛い仕種をするのは僕の一個上の小谷先輩だ。
「おい、お前らも集合〜」
「はい!」
 体育館でバスケ部が陣取っている左サイドの中央辺りで、部長が僕たちを指差して手招きをした。先輩と一緒に用具倉庫の前から駆け出す。用件は「そろそろ中総体が近く、部活も強化期間になるので心してかかるように」とのことだった。
 そうか。先輩ともあと二週間ちょっとしたらお別れか。僕は友達が少ない。ゼロというわけではないけど、少ない。学校生活に意義を見出せなくて、自分がやりたい部活も見つからなかった。数少ない友達である大輔に合わせて僕はバスケ部に入った。
 そこで会った先輩が僕を変えてくれる人だった。先輩は性格が良くて運動もソツなくこなせる人で、バスケのプレーも上手い。部活にしか精を出さない僕にも何の臆面もなく話しかけてきてくれた。正直言ってすごく憧れてる。だってこんなやつと付き合う振りでもしたら、今までに築き上げてきた友達関係とか壊しちゃうかもしれないのに……。
「翔平、ぼんやりしてどうした?」
 不意に名前を呼ばれてどきっとした。振り返ると先輩が首を傾げて立っていた。慌てて返事をする。
「だ、大丈夫です」
「そうかぁ? 目に涙溜まってるよ」
「へっ?」
 指の腹で自分の目元をなぞってみる。……泣いちゃってる。
 別れがいつか来るとは分かっていた――。一年というのはあまりにも短い。先輩が僕に手を差し出さなかったらこうはならなかった。独りで部活を淡々と続けていた方が幸せだったかもしれない。先輩の優しさに触れた僕は、そこから離別しなければいけないのだから。僕は俯いて小さく呟いた。
「先輩がいけないのに」
「いきなり何だよ」
 その声はいつもみたいに「冗談かましちゃって〜」という軽い感じではないのがはっきりと分かった。何かこう……辟易してる。露骨に。今にもため息をつかんばかりだ。僕のせいだ。
「何でも、ないです」
 言ってる途中に顔を上げたら先輩の顔がすぐそこにあって――こわい。冷えきった瞳が僕を貫いていた。恐怖に肌が粟立ってくる。前ならこんなことなかったのに、先輩の心情を読み取れなくて今はただこわい。このまま二週間も一緒にいたんじゃ何されるか分かったものじゃない。こんな先輩じゃ、前みたいに付き合うことはできない。そういえば、今月に入ってから様子がおかしかった。もしかして、部活にしか精を出さない僕に愛想が尽きちゃった? 僕と付き合ってたから仲間外れにされた? 根本にあるネクラな感情が沸き立つ。
「お、おい。顔色悪いぞ。大丈夫か?」
 肩を優しく叩かれ
「はい」
 従わないといけない気がした。前までと雰囲気が違うよ、先輩。僕が……僕がいけないの? 言いかけて、寸前のところで飲み込んだ。先輩は心配してくれてるけど、表情に余裕がない。訊いちゃいけないよ。答えにくいことだもん。
 無言のまま時間だけが過ぎる。体育館にいるのはステージを使ってる体操部の人たちだけだ。だから少しは騒がしい。
「帰ろ」
 その騒がしさの中でもクリアに聞こえた先輩の震えた声。僕があんなこと言わなかったら、何もないまま終わった。震えたのは僕が一緒に帰ってくれないと思ったからだよね。でも大丈夫。これ以上先輩と離れたくないよ。だって圧倒的に楽しい時間の方が長かったから。また前みたいな先輩に戻ってくれると信じて。
「はい」
 そうは思うけど、そう思いたいけど、目の前にいるこの人は先輩の姿をしている。だけど心をどこかに置いていってしまったような……操り人形に見える。少なくとも、一年前僕を構ってるときに諸先輩方に言ってくれた「こいつもバスケ部の仲間だろ? 仲良くしよう」と、そうかばってくれた人には見えなくなっていた。


***


 帰ることに同意したものの、とても気まずい。小谷先輩以外の先輩も、後輩も、同級生も先に帰ってしまったので先輩と二人きりだ。何も話さないまま、かれこれ十分ほど歩いただろうか。分かれ道はもうすぐだ。早くこの束縛から逃れたい。前を歩いている先輩は姿勢も歩く速度も変えず、視線を前に据えたまま
「お前は、誰か好きな人いる?」
 ゆっくりと話した。急に話しかけられたので身が竦む。声は無機質で淡々としてたけど表情が窺えないので、どんな様子で言ったのかは分からない。
「居ませんけど」
「そうか。なら良かった」
「良かった?」
 ようやく振り返って、後ろを進行方向に歩く。無表情だけど、体育館に居たときよりかは幾分マシに見える。夕日で目を細めてるせいもあるのかな。それより後ろ歩きってつらそう。先輩はさすがに速度を落とした。僕もそれに合わせるように歩調を遅らせた。ここは車通りはそこそこあるものの、人通りはあまりないので少しは安心できる。
「女がいるとろくなことがないからやめといた方がいいぞ」
「は?」
 一息でそう言われ、僕が分からないでいると先輩はげんなりとしたため息をついて、顔が前に一段階沈んだ。あ、元の先輩に戻ってきた感じがする。
「ま、それは俺だけかもしれないから。さっきのノーカンにして」
 そう言って先輩は用具倉庫に居たときと同じように胸の前で手を合わせた。今度は片目を閉じてない。
「体重訊いたときを考えると軽いもんです。あれはドン引きものでしたから」
 ノーカンにするのは別にいいけど、先輩はなんでそんなことを僕に言ったんだろう。
「でも、どうしてそんなことを?」
「ノーカンにしてないじゃあん」
 先輩の笑い混じりの悲しそうな声を聞いてなんだか、ほっとした。さっきまではどうも「生気」を感じることが出来なかった。
「どうしても知りたいなら答えてもいいけど、一発で理解できなかったんならそれで良いと思うよ」
「んん?」
 頭の中が「クエスチョンマーク」でいっぱいだ。ぜひともお願いしたいところだけど……。やっぱりいいや。ノーカンにして欲しいって言ってるんだから。
「別にいいです」
 そう言うと先輩はしたり顔になった。僕のせいで先輩と離れることにならなくて良かった。もしそうなってしまったらバスケ部での居場所がなくなる。今まで孤独に部活をやっていたとしたらそんなことは考えなかったと思う。居場所を手にした後になくすのと、そもそも手にする前だと意識には雲泥の差が出る。知らない方が良いことだってあるよな。
 先輩が引退して、いなくなるのももう時間の問題か。それまでは何があったって先輩と仲良くしていたい。さっき恐怖に慄いて先輩と居たくないと思った分、強く反動が返ってくる。
「……ごめんな」
 先輩は唐突にそんなことを言い出す。訳が分からない。
「な、何のことです?」
「さっきのこと」
「女がいるとろくなことにならない、という話? それならもう」
「そのことじゃなくて」
 先輩の眉間には深いシワが寄っていて、「言いたくないこと」だというのは瞬時に分かった。視線も僕から逸らしてるし。先輩が動かしていた足を止めた。僕も遅れて足を止める。
「体育館でのこと。威圧しちまったみてェで、悪い」
 ――悪い、と言ったときに力がこもったのを見て、僕はすぐに実感した。本当に悪気があって謝ってるんだ。関係を修復しようとしてくれてる。でも同時に、あれが冗談じゃなく本気だったというのも分かった。先輩のあの豹変振り……僕の肩に重く圧し掛かった。もう、見たくない。
「いいですよ。過ぎちゃったことは気にしないタイプですから」
 僕は何とか愛想笑いをする。先輩に笑ってもらうために。先輩は訝しげな目つきになった。もしかして
「うそ」
 見抜かれてたみたいだ。一年は短いといっても、やはり一年も付き合っていれば性格なんて分かってしまうものなのか。しかし、先輩の眉間に寄っていたシワは緩んでいった。見え見えな笑い方だったのに、なんでだ? 先輩は微笑みながら僕に近づいて
「……ありがとな。少し気が楽になった」
 頭をポンポン叩いた。むう。僕はムッとして頭にある先輩の手を払いのけた。
「ひどいっ」
 先輩は一歩後ずさりして、払いのけられた手首を反対の手で掴む。それを見る目が哀れんでいるように見えるのは僕の気のせいだろうか。僕は人付き合いが少ないけど、だからといってこんな人は初めてだ。うるうるしちゃってるし。
「ひどいも何も一つしか違わないんですから、そういう子ども扱いするのやめてくれます?」
「わりぃわりぃ。お前の髪の毛は直毛だからさ、つい触りたくなるんだよなあ。身長も俺より7センチ低いし」
「言ってることがめちゃくちゃです。直毛を欲するなら大輔でいいじゃないですか」
 僕の数少ない友達――。
「あれは違うんだよ。こう、なんていうのかなぁ。自然に立ってるのがいいの」
「先輩の嗜好なんて知りません」
 そう言い放つと先輩は深く落胆してしまった。傷心を慰めようと犬を愛でるみたいに背中をさする。そうしていると元気が出てきたようでピンと背筋が伸びた。背中にあった手はいつの間にか腰をさすっていた。やっぱり7センチの差は大きい。
 前のように戻ったことは戻ったけど、どこかおかしい気がする。先輩はこんなにハイテンションじゃなかったような……。何にせよ、気が重くなる。どんな拍子でなるかは分からないけどいきなり豹変したり、終始このハイテンションでいられたら扱いに困る。これから二週間、先輩とどう接していこう。途方を失っていると、先輩は真面目な顔つきになりくるりと反転して前を見る。先輩の後姿は哀愁を感じられた。
「じゃあ、またな」
「は、はひ……またです」
 おかしくなった原因を探ろうとして呼び止めようと思ったけど、体育館での先輩が脳裏を過ぎって声が裏返ってしまった。僕が思っていた以上に鮮烈なインパクトを持っていたみたいだ。先輩は温和で義理人情に厚い人だから、あんなにも冷えきって人を傷つける態度は考えられない。何かあって追い詰められてるのかな。……やっぱり、僕がいけなかったんだ。先輩がそうなった原因は十中八九僕にあるみたいだから。明日からの二週間、先輩とちゃんと向き合おう。

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