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6.理想と現実は紙一重【その2】

「ここだよ」
 前を歩く祐くんが階段を登りきるとぴたりと足を止めて左側を指差している。私のほうを向き、耳に手を添えて、ひそひそ話のように小さい声で囁いた。なんだろう?
「この前兄ちゃんとやったんだろ?」
「はあっ?」
 予想外すぎる言動に私は一歩後ずさりしてしまった。……あう! 足を踏み外すところだった。もう階段で踏み外して落ちるなんて大惨事はたくさんだ。和樹くんの部屋は階段を登りきってすぐのところにあるので、私はまだ階段の途中。って、そんなこと考えてないで反論反論。
「違うよ」
 祐くんは「そっかあ」と吐息混じりに残念そうな表情を浮かべる。……まだキスすらしたことないっていうのに。……ああ。あのとき、スイミングスクールに行ったっていうのは祐くんなりの「優しさ」だったのかな。でも日曜は毎週行ってるらしいから自意識過剰かなぁ。
「ま、入りなよ」
 と促され、祐くんが部屋の扉を開けて中に入っていった。少し躊躇したけど私も続く。部屋に入るとむわっとした熱気と共に、和樹くんの匂いが前に来たときより強く感じた。
「兄ちゃん入るぞー」
「祐、人の部屋に入るときはノックしなさいってあれほど……」
 切望していた声。暖かな響きで心が落ち着く。私の顔を見た途端、言葉も表情も固まってしまっている。見てはいけないものでも見てしまったかのように凝固している。手が浮いたままだ。
「いーじゃん別に。兄弟なんだし」
 ピタリと音が止み、粛として声がしない。妙な沈黙が流れる。それを破ったのはその原因を作った和樹くんだった。
「ダメなものはダメなの」
「兄ちゃん、なんかおかしいぞ?」
「おかしくなんかないって」
 いや、どう考えたっておかしい。その声は弱々しくて、祐くんと話しているはずなのに、視線はこちらを向いている。ちょっと怖い。ある意味ホラー。
「ま、いいや。カノジョが来たんだから元気出せよ」
 そう言って静かに出て行った。祐くんがいなくなり落ち着いたところで和樹くんを見る。ベッドの背にもたれ掛かっていて、タオルケットを腰の辺りからかけている。お腹ら辺には本が一冊あって、私だったら読みたくもないすごく分厚い本だった。重そう。リビングの本棚にあった、背表紙に難しい漢字が使われていた本だろう。和樹くんが読んでたんだ。私があの本を読んでしまったら卒倒してしまいそうだ。いや、確実にする。
「永沢、どうしたの?」
 まだ驚きの声を上げつつ、本と一緒にタオルケットを押し退けベッドから体を出し足を床につける。ズボンは文字も何もプリントされていないシンプルな灰色ジャージで、上は胸の部分に鳥が描かれた白いTシャツを着ている。その服は――こないだ行ったデートの時に買ったものだった。胸が締め付けられる。だけど必死に我慢する。
「お見舞いにね。和樹くんが休むなんて滅多になかったから……」
「来てくれて嬉しいよ」
 刺々しい。
 ……本心なのかもしれないのに、優しくされてるって思うと、的確に胸が掴まれたみたいになって苦しくなる。そんな私の気持ちを汲み取ったのか、和樹くんは慌てて釈明する。「優しくしないで」って届いたんだ。
「あっ。今のは真意。本当だよ?」
 それがつらいのに。ああ、もうダメだ。和樹くんから優しさしか感じられない。やっぱ、会わないほうがよかったのかな……。目を泳がせていると、和樹くんと視線が合った。和樹くんを見たいと思って来たのに、ようやくまともに顔を見た気がする。顔色があまり良くない。高校生なんだからしっかりご飯を食べないと倒れてしまうぞ。髪はぼさぼさだけど、学校で見るセットしている状態とさして変わらない。
「まずは座りなよ」
 そう言って勉強机の椅子……もといチェアを、腕を目一杯伸ばして引っ張りポンポンと叩く。立ちたくないのかな。私は促されるままに腰掛ける。ちょっと高い。くるくる回るタイプのチェアで、和樹くんはいつもここに座っているのかと思うと、少し嬉しい気持ちになってくる。でもこれからのことを考えるとそこまで気分は上がらない。
 なんて話を切り出そう。和樹くんの表情から察して機嫌は芳しくない。当たり前だ。三日前に別れたときはあんなことを言ってしまって、それなのに私のほうからノコノコ現れて。でもここで黙ってたら和樹くんに助け船を出されてしまう。助けられてていいの? 弱いままでいいの?
 ――ああ、そうだったのか。うすうす気づいていたけど、私は弱いんだ。自分勝手に動いてわがまま言って。突き放したのに寂しいからって和樹くんに会いに来て、頼って。弱い。比べなくても……いや、比べるなんて馬鹿げてる。失礼だ。私なんかじゃ足元へも寄り付けないくらい和樹くんは強い。私に振り回されても構ってくれて。いつも笑顔をたたえていて。でもそれって。
 私は……『好き』という感情を忘れていたんだ。自分のことしか考えてない。
「和樹くん」
「なに?」
 首を傾げて聞いてくる姿があどけなくて思わず赤面してしまう。私は気恥ずかしくなってつい目を背けてしまった。
 あ。視界の端に写真が入る。前に来たとき気になってた写真……。小さな男の子二人と父親と母親と。机に飾ってあるってことは和樹くんの家族なのかな。飾ってある写真をそっと手に取る。
「ねぇ、これって」
 和樹くんは立ち上がり、私の隣にぺたぺたと歩み寄ってきた。
「オレの小さいころの写真だよ」
「この虫取り網を持った子が和樹くん?」
「うん。これは父さんと祐」
 そう言いながら食指を右側に動かす。その左側には優しい笑顔を浮かべている女性がいて、その人は……訊いたらダメだっ! 言ってくれるまで待つ。和樹くんの様子を窺うと、切なげに眉根を寄せている表情が見えた。つらいのかな……。
 やがて、押し黙っていた和樹くんは写真から視線を逸らさずにゆっくりと口を開いた。
「この人は……母さん」
 最後は消えかかるようなとても小さな声。訊くことを一瞬ためらわれたが聞いてしまう。自分が良ければそれでいい、自己中。
「子どものころにいなくなってしまったお母さん?」
「ああ」
 和樹くんは眉間にしわを寄せて、かなり懊悩している。つらいなら無理しなくていいんだよ。……声に、できなかった。こんなに穏やかな笑顔を浮かべている人を失う。それってどういう気持ちなんだろう。お母さんがいないなんて考えられない。いつも傍にいる身近な存在がない。想像しただけで背筋に悪寒が走る。和樹くんはふうと息を吐いて、私に顔を向けた。その瞳は真剣そのもので私だけを見据えている錯覚に陥った。……これじゃあ本当に自意識過剰だ。
「永沢には言っといたほうがいいかな」
「なにを?」
「オレの母さんのこと。……誤解されたままじゃ嫌だし」
 さっきまで悩み悶えていた顔とは思えないほど清々しい顔つきだった。吃音が全くない。一音、一音に揺らぎが感じられない。本当に必要だから話すことなんだ。しっかりとした力強さを感じる。どうやらこれは笑い事ではなさそうだ。一大事だ。真剣に聞こう。
「つらい話になるかもしれないけどいい?」
「和樹くんから言ってくれるなら何だって聞くよ」
 ここ一週間でつらいことには慣れてしまった。なんだってどんとこい、って気構えだ。和樹くんはおもむろに窓のほうを向く。私も立ち上がって隣に立つ。窓はきっちり閉まっている。だから暑いのか。カーテンは閉まってないため外を見渡せる。住宅街って感じで周りに一軒家がずらーと建っていて光が漏れている……もう真っ暗だ。よく見ていると窓ガラスにうっすらと私と和樹くんが映っている。横を向いて表情を窺うと目が切なげに細められて、遠くを見るように視線を宙に浮かせた。
「今から九年前。母さんが急に入院した。元々体が弱かったんだ。いつもは家で休んでれば治まったんだけど、そのときは眩暈が発作したのと同時に強い吐き気と嘔吐、それに耳鳴りがしたみたいで、複数の症状が現れて入院ってことになったんだ」
 持病か……持ちたくないな。
 情感が篭った話し方じゃなく、極めてドライに話してくれる。他人事みたいな……んじゃなくてそうでもしなきゃ話せない、のかな。
「その日は平日で学校があって、オレは帰ってきてすぐに祐の手を引いて母さんが入院してる病院に走った。でもそこには元気にニコニコしている母さんがいて。いつもより酷いって聞いてたのにオレはその落差に愕然とした。症状が症状だけに、医師にはまだ安静にしてたほうがいいって言われてその日はそのまま帰った」
 ここで何か言ってしまったらダメだ。じっと耳を傾けていよう。
「そんな状態が何日も続いた。母さんは『すぐ帰るからね』って言ってくれてたのになかなか帰ってこなくて……相当苛立ってたんだと思う。その日は第二土曜で学校がなくて昼前から病院に行ってた。そしてそのときが来た。母さんがオレに食べさせてほしいって言って……それで、オレッ。元気なのに退院しないことに腹が立って投げやりに食べさせたんだ。それが原因で母さんは噎せてしまって息ができなくなりそのまま帰らぬ人になった。悔やんでも悔やみきれない」
 変わらず、まるで他人事のように抑揚のない声で喋ってるけど、切なそうに顔を顰めている。そうでもしなきゃ話せない過去……つらいな。
「後から聞いた話だけど、母さんは表では笑顔でいたけど内面は衰弱しきっていたようで、オレは酷く後悔した。母さん――庄子由佳の葬儀でオレはそのことをずっと考えてて涙が出なかった。状況を飲み込めてない。というより、現実を認めたくなかったのかな」
 ……しょうじ、ゆか。
「母さんの親族の人は泣いてはいるけど、それが幼かったオレの目には同情に見えた。本当に心が荒んでいた。父さんが親族の人と話してるとき、他人事みたいに『これから一人で子育て大変ね』そのときの表情がうっすら嘲笑ってるように見えた」
 他人事。
 だからデートに誘う前、他人事みたいに言ったときムッとしたんだ。嫌いな態度なんだ。私も嫌いではあるけど、ついやってしまって自分の罪を消そうとしている。……やっぱり、弱い。
「そんなオレのことを構ってくれたのが母方の祖父。母さんから見れば実の父親。自分より先に娘に先立たれてつらいはずなのに、朗らかに話しかけてきてくれて。『お前の母さんはいつも笑顔で体は病弱だけれど、心は他の誰よりも強かった』って。母さんは誰よりも自分が衰弱しているのは分かってるはずなのに、誰かに泣きついたり弱音を吐いたりもしないで笑顔でいて。本当に強いんだ。そう思うともっとやるせない気持ちになって。やっと涙が出て、止め処なく溢れてきた。でもそんなオレを見てたお祖父ちゃんが言ってくれたんだ。『泣きたいときはいっぱい泣きなさい。けれど涙を流した分、笑顔になるんだよ。元気出すんだよ。君なら大丈夫』そう言ってくれて、心がジワリと温かさに包まれた」
 素敵なお祖父ちゃんだ。
「それ以来オレは笑顔で優しくしてきた。それでみんなが幸せそうに笑ってくれたから。けど、永沢は優しくするたびにつらそうな顔をして。正直言うと、どう接していいか解らない」
 そのとおり優しくするとつらくなるんだよ。優しさが皆無なのも問題だけど、ありすぎるのもダメってことだよ。
 ……訊きたいことがいっぱいある。まずは
「えっと……左手を使ってるのはお母さんが噎せたのが原因?」
「本当は右利きだよ。母さんが亡くなってからは食べることに関しては左手を使ってる。右手を使うとあのときのことを思い出しそうで」
 そう言って、右手を見ながら握ったり開いたりしている。
「なるほど……」
 だから食べるときだけ左手を使ってたんだ。
「ピロティで言ってた叔母さんの話は」
「あれも一因してるよ。左手使っててよかったんだって。そのときにはもうオレのほうが左手暦が長かったからお手本を見せてあげたよ」
 左手暦という新たな単語がお目見え。じゃあ和樹くんは左手暦九年なんだ。
「質問責めで悪いけど……私を好きになった理由は?」
 これに全てが集約されてる気がする。それと共に一番気になっていたことでもある。和樹くんは目を見開いたが、またふっと目を細めた。
「最初は母さんと同じ名前ってだけで近づいた。でもそれが本当の気持ちになっていって。基本は真面目なんだけどたまに抜けてるところが好きだ」
 つまり私の名前が「ゆか」じゃなければこんなことにはならなかったのかもしれない。
「でも名前を呼ぶのがこんなにつらいものだと思わなかった」
 ……私は酷い勘違いをしていたのかもしれない。和樹くんは私のことを想って優しくしてくれてたのに私は突き放すようなことをして。試すようなことをしようとして。そう思うと涙が込み上げてきた。
「ごめん……なさい」
 涙が壊れた蛇口のようにまなじりからも目頭からもボロボロと出てきて、堪えようとしても止められない。泣きたいのは和樹くんのほうなのに。私に突き放されてもめげないで優しくしてくれて。和樹くんのことを想うとまたぶわっと溢れ出してくる。
「謝ることないよ」
 震えている声。涙を手で拭い、おぼろげに見える視界で和樹くんを捉える。……泣いてない。強いんだ。泣くっていうのは『男のプライド』というものが許さないのかな。会って間もないころに見た泣いてる姿が瞼に浮かぶ。あれからまた強くなったんだ。私は何度も何度も「ごめん」と言い続ける。告白のとき、デートに誘うとき、デートのとき。和樹くんと一緒にいたとき。頭の中でその日の出来事が何回も再生される。謝る。謝っても謝りきれないことをしてきて、過去の自分を憎んだ。私が全ていけないのに奪うだけ奪って逃げる気だった過去の自分を。
「いいって」
 強い口調に思わず体がピクリと反応した。血の気が引いたかのように涙も引いていく。
「オレにも言えることだけど。『事が起こった後に後悔してももう遅い。くどくど考えても無駄』だって。そう父さんに言われ続けてきた。オレもそれは頭では分かってるつもりなんだけど、駄目だった。ここ三日間永沢のことばっか考えて、あのときああしてればって思った。でもこれからどうやって仲直りしようかっていうことも考えた」
 私への気持ちが本当だということが今の言葉で分かる。真っ直ぐに私を見据える瞳に一点の曇りもない。私は最低だ。現実に目を背けて逃げようとしてた。和樹くんは仲直りしようって道を考えた。つらい選択なのに現実と真正面から向き合っている。起こったことに後悔しないで、これからのことを考えて。和樹くんはもうちゃんとできてる。それに比べて私は……今までのことを忘れようとした。現実から逃げようとした。

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