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6.理想と現実は紙一重【その1】

 この二日は永遠のように感じられた。一人になるといつも和樹くんのことを考えていた。切なくなるのに、考えていると時間がとても長く感じるのに、考えるのは止まらなくて。
 本当にこのまま別れてしまおうとする考えは

 ――永沢のこと好きなのは本当だっていうこと、忘れないで

 この言葉で決意がたゆたう。
 告白の返事をまだ貰ってなくて歯痒かったのを覚えてる。初めて話してから10日くらいのときだったかな。「好き」って言われた日。たまらないほど嬉しくて、私の中で忘れられない光景になってる。あのときの言葉がここまで心を動揺させるなんて考えもしなかった。こうなるなんてことはこれっぽっちも感じていなくて何もかもが面白かった日々。そのときのことを思い出して何とか踏みとどまっている。
 私は、どうしたいんだろう。和樹くんとの今までのことを忘れて、思い出にしてしまいたいのか、泥臭くても付いていきたいって脆弱な覚悟を貫き通すのかはっきりしない。考えが矛盾してる。


 結論の出ないまま、その悪夢のような二日間を乗り切ったんだけど……和樹くんが学校に来ていない。亮から聞いた話だけど、和樹くんは一年のとき、一回も休まず登校してきてたんだって。遅刻常習犯に言われても何の信憑性もないけど、今日ばかりは信用してしまう。
 二年生になっても一回も休まないで学校に来てたのに、原因は……絶対私だ。これも亮に聞いたんだけど、欠席理由は風邪だからとのこと。そのくらいで休むような柔な精神の持ち主じゃないことは分かってる。
「由香、今日も元気ないぞ」
 そう話しかけてきたのは亮だった。至って真面目な顔をしている。今は放課後。部活も終わって帰ろうとしたけど、昇降口で待ち伏せしてた亮に捕まり教室で二人きりという状況だ。
「そんなことないって〜」
 切ない気持ちをぐっと堪え、必死に作り笑いをする。
「……無理してる。和樹のこと考えてたんだろ?」
「う、うん」
 隠し事をしてもばれるのは分かりきっていたので素直になる。
「そんなに元気なくなるくらいなら……」
「なら?」
 そこまで言うと口を噤んでしまった。が、やがて口を重そうに開く。
「別れちまえよ」
 ――別れる。
 脳天に衝撃が走った!
 頭の中ではそんなことを考えていたけど、いざ口に出して言われるとうろたえてしまう。なんて弱いんだ。逃げることもできないなんて……っ。
「だから、さ」
 亮の顔を見ると、いつものおちゃらけた顔はどこへやら。見たこともないような真剣な表情で瞳には普段見せない激しい光が見える。やがて亮の顔が視界から消えるとふっと耳元に熱気を感じた。
「俺と付き合って。中学んときからずっと好きだ」
 耳元で低く囁かれる。
 ……言われたことがすぐに、理解できなかった。それってつまり
「私は和樹くんと別れて、亮と付き合えって言うの? 意味わかんない。冗談じゃないよ」
 亮がまた視界に入ってくる。顔なんか見たくない。背けようとすると顎を掴まれ、強制的に見るよう仕向けられる。
「冗談なんかじゃない。俺は大真面目だ。あいつのことなんか綺麗さっぱり忘れて、俺の女になって」
 え。どういうこと? 俺の、女……?
 そんなことを考えていると、顎から手を離されたと思ったときには亮の顔が近づいてきて背中に暖かさを感じた。これってもしかして……抱きしめられてる。体全体に温もりを感じる。気色悪い。和樹くんと手を繋いだときはそんなこと全然思わなかった。頭の辺りにちょうど亮の胸が当たる。……硬い。
「えっ……りょ、亮?」
 私を見向きもせず首筋に舌を這わせてくる。事態をようやく理解できたときには時既に遅く、体を包み込まれていて離そうとしても男の力の前に勝ち目はない。
「大好きだよ、由香」
 言い終わると同時に塞がれる唇。
 一体何が起こってるの? 和樹くんと別れろって言われて……好きって……。んんっ。亮の舌が口の中に入ってくる。私の舌に触れると執拗に追い掛け回されて舌を絡め取られる。
「んん……ふ……」
 そこまですると、亮は唇を離した。はあ……。安心したのも束の間、また強く抱きしめられる。
「好きだよ由香。俺のほうがあいつより何倍も、何十倍も好きだ」
 抱きしめられている力が緩み亮の顔が見える。ウソをついていないのが一目で分かる、私を一直線に見つめる艶っぽい瞳。でも私は
「ダメだよ。私は亮を異性として、見ることはできないよ……っ」
 眉根を険しく寄せた亮は、青ざめた表情でさらに腕の力を緩めてくれた。……力が抜けてしまった、というほうが近いのかもしれない。和樹くんに会いたい。会って声を聞きたい。唐突にそんな想いが胸の中で沸き起こる。亮と……いたくない。
 教室を出る前に亮を一瞬見ると悲痛な表情できつく目を閉じ、涙を零しているのが見えた。

*******

 ファーストキスだった。
 子どものときに冗談でやったのは抜かして。初めてだった。ファーストキスは和樹くんとしたかったのにっ……。
 私は無意識の内に手で唇を触っていた。まだ感覚が残っている。本当にキスをしてしまったんだ。私には好きな人がいるのにその人じゃない人に。かといって……亮を恨みたくはない。馴れ馴れしいやつで、好きじゃないけど嫌いでもない。私によくしてくれる良い友達だ。ふと疑問が浮かぶ。
 私のことが好きなの?
 だとしたら私と和樹くんが仲良くしてるのをよく思ってなくて、私たちはうまくいってないことが解った。だからあんな強行に出たのかな。確かに私を見る目は他の人と違っていた。でも私はそんなことに気づかず普通に『友達』として接している。好きって言わなかった当人にも問題があるけど、好きな人にそんな態度取られたら誰だっていやだろう。あれ……私って。和樹くんに告白はしたけど「好き」って言葉をかけてない。もしかすると和樹くんは心の中じゃものすごく不安なのかもしれない。いつだって私が「別れよう」と言ってしまえば一方的に別れられる。でも和樹くんが言ったんじゃ「好きなのは本当だっていうこと、忘れないで」その一言があるから、いくらでも言い訳が付けられる。逃げ道を自分で塞いだんだ。私はもしものときのために「好き」って言わないで逃げ道を残してる。……やっぱり、和樹くんは強いよ。
 ここだ。和樹くんの家。デートの日に行った記憶を呼び起こして、なんとか辿り着けた。もう日は沈んでしまって暗くてよく見えなかったけど、黄色がかった壁と携帯の光で照らした表札が『庄子』だったので確信を持てた。リビングはカーテンの隙間から明かりが零れている。家の裏に回り、鈍重に顔を上げると目線も同時に上へと移った。
 和樹くんの部屋の窓から明かりが見える。カーテンを閉めてないみたいで光が煌々と外に漏れていた。……よし。行こう。
 再び玄関まで戻り、インターホンをそっと押す。ピンポーン。その音は外にいる私の耳まで届いた。数十秒すると「はーい」と聞き覚えのある声が玄関から聞こえてきて、扉がゆっくりと開く。奥には祐くんがいた。
「お、ねーちゃんじゃん。今日はどうしたの?」
 どうしたの。
 その声が和樹くんとダブった。兄弟なんだなぁ。
「んっとね、和樹くんのお見舞い」
「兄ちゃんか……」
 そう言うと表情を翳らせる。もしかしたら
「金曜日から様子おかしい?」
 まるで他人事のように聞くそんな自分が少しいやになる。
「ああ……。帰ってきたと思ったら、何も言わずに自分の部屋に閉じこもっちゃってさ。その日はそのまま飯も作らないで、寝ちゃったんだ」
「えっ」
 その行動はデートした日の私に似てる。祐くんは寂しそうに続けた。
「土日も一緒。朝飯食べたと思ったらすぐ自分の部屋に戻っちゃって、昼も同じ。晩飯は作ってくれたけど、意気消沈してたみたいで元気なかった。何してても上の空ってカンジ」
「そう……」
 私もそんな感じだったけど、和樹くんは思っていた以上に酷いみたいだ。そりゃあ、あんなことを言ったら誰だって……。あの言葉が頭を駆け巡る。
 ――優しくしないで
 ジメジメとしていて、生暖かい風。夕日に照らされたコンクリート。視界の隅、その上に立っている制服の黒いズボンをはいていた和樹くん。すごく俯いていたから膝までしか見えない。言っている間にうろたえて一歩後ずさりした右足。たった一言、それだけなのに最後まで言いきれるのか、いいようのない不安に掻きたてられて。前後のことはほとんど覚えてないけど、その瞬間の記憶は鮮明にある。
「そうだ。ねーちゃん、お見舞いしに来たんだろ? 上がっていけよ」
 言葉遣いは乱暴だけど、優しい声で心がじわじわと温まる。
「そうするね。お邪魔しまーす」
 ん。家に入ると香辛料の良い匂いが鼻を抜けた。靴が前来た時より一足多い。靴を脱いで上がると、リビングから口髭を蓄えたダンディな男性が出てきた。黒い髭は口の周り全体を覆っていてここまでくると不潔を通り越してすがすがしい。祐くんはその人に体を向ける。お父さんだろうな。
「お客さん?」
「うん。兄ちゃんの見舞いに来たんだって」
「学校休むだけでこんなにも色々な人が来てくれるなんて、愛されてる証拠だな」
 和樹くんは高校入ってから学校休むの今日が初めてだ。それは心配する人も出てくるだろう。……私はお見舞い目的ではないけど。祐くんは私に体を向けた。視線を感じ、私はぺこりと頭を下げて会釈する。
「永沢由香です。和樹くんとはクラスメイトで……」
 まただ。「由香」ってところで、ダンディな男の人はピクリと反応して驚いて目を見開く。一体何なんだろう。でもすぐに真剣な眼差しになる。
「彼女か?」
 真顔で言われて吹いてしまった。開口一番それか。息を整えて返事をしようとする。ん。
 ……言えない。実際はそうじゃないけど、「違います」その一言が言えない。
「ん?」
 きっと、きっと亮だ。ここで否定してしまうと、またあんな目に遭ってしまうと本能が指令を出しているんだ。だからここは。
「そんなとこです」
「濁すなあ。まあ……」
 そこでダンディな男の人はゴホンと一つ咳払いをする。
「和樹の父親の和広です。和樹がお世話になってます」
「いえいえそんな。私のほうこそお世話になってます」
 通例の挨拶(?)を終えたところで、和樹パパをまじまじと見る。なんといっても目を惹くのがさっきも言った立派な口髭だ。まかり間違っても白髪になって欲しくない。体格は祐くん同様がっちりしていて、川澄先生を彷彿とさせる。そこまで筋肉隆々ってわけではないけど、正にこれが男! って感じがする。祐くんにも川澄先生にもない雰囲気だ。それは多分『年』だろう。年の功だ。
 和樹くんはお母さんに似たのかなぁ? 和樹くんは普通より細めなのに、祐くんと和樹パパはがっちりしていて、とても家族だとは思えない。でも
「ゆっくりしていきなさい」
 この穏やかで優しい口調は庄子家の血筋だ。祐くんは言葉遣いが乱れてるけど、優しさに溢れてる気がする。
「はい」
「それじゃあ祐。パパは夕飯作るの再開するから案内してあげて」
「分かった」
 すごく、暖かい。家族愛に満ち溢れている。和樹くんもこんな家族に囲まれたからあんな……あんな風に優しい性格になれたんだろうな。

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