HomeNovel << Back IndexNext >>
5.変化【その1】

 鳥の囀りが耳を翳め、次第に覚醒してくる。カーテンの隙間から太陽の光がこぼれている。朝だ。あれ、そういえばカーテンを閉めた記憶がない。……昨日は帰ってきてから何もしないで寝てしまったんだ。電気も消えてるしお母さんがやってくれたのかな。手間掛けさせちゃってごめんね。
 たっぷり眠ったから目覚めは爽快だけど、昨日のことを考えると落ち込む。
「由香、そろそろ起きないと遅れるよ〜」
 お母さんの呑気な声が部屋の向こうから聞こえてくる。今日は学校なんだった。支度しないと。……和樹くんと会うのかと思うと気分が優れない。昨日までは会えて嬉しい、って思ってたのに。一日でこんなにも気持ちって変わるものなんだ……。
 準備を済ませ、リビングへと足を進める。
「おはよ〜」
「おはよう」
 お父さん、お母さん、絵里が食べる合間に次々と返事をした。一番早く寝たはずの私が最後か。
「目覚めスッキリって感じね、目がパチパチしてる」
「よく寝たからね」
 パン袋を手に取る。何も変わらない日常。すごく安心できる空間だ。学校は……いつもどおり、なんてことはないだろう。少なくとも私が昨日のことを何もなかったかのように振舞うことは出来ない。
 食事を軽く済ませて、気持ちの整理がつかないままいつもより早く家を出た。


 入梅したのかと疑ってしまうぐらいの澄み渡った大空。日差しが肌に刺さる。スカッとした天気に気持ちも幾分か晴れたが、やっぱりダメだ。私もこの空みたいに隠し事一つしない透き通った心になりたい。
 学校に近づくにつれて和樹くんと会うのが怖いっていうのが手に取るように分かった。いつものように接してくれるのかな。それとも……。突然「あ」と後方から声が聞こえた。この声はもしや――
「ながさ……ゆ、か」
 ついにこのときが来てしまった。絶対そうだ。声が聞こえたほうを向くとそこには和樹くんがいた。ど、どうしよう。ここは一先ず。引きつった顔で挨拶をすると笑顔で返してくれた。作り笑顔に見えないのがなんともいやらしい。和樹くんはヒョイと眉を持ち上げる。
「登校時間に会うなんて初めてじゃない?」
 予想していたとおりいつものように接してくれた。
「そうかも。私ギリギリに来ること多いから」
「永沢らしいね」
 大仰にそう言った後、私のほうをじーっと見てくる。なんだろう。見つめられると恥ずかしいな。って、何のことかやっと分かった。いやだな、自分から言って欲しいのに。緩慢に体を背けて地面のコンクリートに視線を落とす。まだ六月だって言うのに昼間になったら熱気を発しそうだ。
「今は永沢でいいよ。和樹くんが由香って呼べるようになるまで待つ」
 再び向き合うと和樹くんの顔がぱぁっと明るくなる。
「うん、分かったよ。ありがと」
 自分の気持ちに素直な人だ。私もそうなりたい。邪な考えは全部捨てたい。相手のことを好きなら好きでいればいいのに、それが出来ないのは私の弱さ。「遠慮してちゃ恋愛なんてできない」ってお母さんがいつも言ってて、私も実行してるけど和樹くんとの距離は逆に遠退いていってると思う。こんな状態を続けていたら別れるなんて目に見えてる。それにしてもなんで私の名前を呼びたくないんだろう。……それが分からない。
 和樹くんと一緒に学校に行くことになった。話も弾まないまま教室に入り自分の席に座る。ぼーっとしているとHRの時間になった。担任の言ってることが頭に入ってこない。そして授業になる。やっぱり先生の言ってることが理解できない……んじゃなくて頭が考えようとしない。そんなこんなで憂鬱に過ごしてしまいお昼の時間になってしまった。
 和樹くんとお昼。いつもなら喜び勇んでいくのに今日はためらわれた。それどころかそろりと忍び足で教室から逃げようとしている。本心では会いたいと思っているけど、理性がそれをさせてくれない。私は……理性のほうが勝っているんだ。本当は和樹くんなんてどうでもいいって思ってるんだ。最低だよ、私。これからつらい道だと分かったらすぐ逃げて。それに比べて
「永沢」
 う。見つかって呼び止められてしまった。のっそりと振り返る。
 いつものように微笑んでいた。でも今朝と違ってどこかぎこちなく感じる。和樹くんも昨日のことは割り切れないんだ……。
「やっぱオレと居たくない?」
 優しい口調で核心を突かれ、思わず返答に窮する。居たくないと言えばそれもあるし、一緒に居たいと言えばそれもある。居たくないのが勝っているのはさっき分かった。でも和樹くんを目の前にすると
「……ううん」
 首を振って否定した。本人を前にすると理性は引っ込んでしまうみたいだ。こんな関係じゃ後はもう散る運命だって頭は分かってるのに、一緒に居たいよ。もう最後だって分かってるから逆に最後だけでもって思っちゃうのかな。和樹くんは目を細めて微笑んだ。
「じゃ、行こ?」
 頷く。
 ……あ。お弁当箱を持ってきてない。それを伝えて、急いでカバンからお弁当箱を出すと和樹くんはもう教室を出ていた。早くしないと。小走り気味に後を追う。教室を出てすぐ廊下を見ると和樹くんはゆったりとした歩調で歩いていた。ほっと一安心。すかさず背後についた。
 後ろにいると考えてしまう。大きな背中。この背中にどれだけのことを背負い込ませたんだろう。前に女の子と付き合っていて、気持ちがないっていうのは聞いた。もしかしたらその人たちも優しくしてくれるのが苦痛で逃げちゃったんじゃないかな。和樹くんのことだから、自分にはそんな気持ちがなくても相手を想って「好きだ」の一言を言ってそうだ。私と同じように優しくしてくれて……ってそれじゃあ私にも気持ちがないっていうこと?
 こんなことは考えたくないけど「別れよう」なんて言ったら、本当に別れてしまうかもしれない。私を求めて欲しい。わがまま言って欲しい。優しくしないで欲しい。

 ――気を遣われると苦しいんだよ。

 ああもう。今考え事をすると全てマイナス方向に考えていきそうだ。やめやめっ。
「今日はここにしよう」
 意識を現実に戻すと体育館の前だった。こないだデートに誘った日のことを思い出す。川澄先生だったらどうするだろう。恋愛経験豊富そうで異性だけど話しやすい相手で、なおかつ私たちの関係を知っている。でも私と川澄先生の接点なんてない。担当しているのは男子の体育、バスケ部の顧問と後は……生徒会の顧問教員。和樹くんは全てにおいて接点があるのに私はゼロだ。和樹くんに「会わせて」って頼み込むのもなんか変だし、話す機会があったらにしよう。あの日のように都合良く会えない場合が多いし、友達目線に立ってくれるとはいえ教員なので何かと忙しくて時間が取れないらしい。和樹くんは寂しげにポソリと呟いた。
「あんまり人いないし、たまにはいいと思うけどなぁ」
 和樹くんが言ったとおりあんまり人影が見えない。食堂に向かっている良家のお坊ちゃま・お嬢様集団はいるものの、ここからはそれほど見えない。
「ここでいいよ」
 食べられればどこでも良いと思っている人ですから。
「よっし。座ろう」
 クレッシェンドにそう言うと楽しそうに鼻歌を歌った。どうやら上機嫌のようだ。こんなにテンションが高い和樹くんを見るのは初めてだ。私はその様子に戸惑いながらも脇のほうに腰を落ち着ける。体育館の入り口に上がる階段――というより段差は砂やら泥やらで汚い。さすがにそこで食べるのは忍びないと思ったので避けた。私は自然と和樹くんの右側に座る。
 腰かけた拍子に空を見ると、雲一つない透き通った青空が見えた。今朝と変わりない空模様。それに比べて私はどんどん卑屈になっていってる。私の心にはどんよりと雲が漂っている。
 うぅ、さぶっ。日差しが強いとは言え風がひんやりするので体感温度はそれほど高くない。むしろ寒いくらいだ。私はやっぱ寒がりなんだなぁ。
 ふと和樹くんと過ごしたこの約一ヶ月間を振り返る。デートに誘った日の記憶が強すぎてすっかり忘れてたけど、この体育館前は和樹くんと初めて一緒に話して、ご飯を食べた日だ。あのころはこんなに仲良くなるとは想像してなかった。目の前のことで手一杯で。それから一週間経って告白。近づくきっかけになった。その後、色々あってデートに誘う。そして今に至ると。振り返ってみて分かった。
 私は前に出すぎて、和樹くんは引き下がりすぎだ。私は下がって、和樹くんが前に出てくれればいい距離感になる。でも……近づいてきてくれるのかな、遠くから見てないで寄り添ってくれるのかな。
 そうだ、そうだよ。和樹くんの真意が分からない。優しいのは真意なの? そんなことを考えているとローテンションに戻った和樹くんが箸を持つ。
「いただきます」
 先手を取られた。私も続く。
「いただきまーす」
 今日も左手を使って食べている。聞きそびれていた、左手を使う理由。どうしてなんだろう「叔母さんが使っていた」、そんなにも簡単な理由なんだろうか。私が同じ立場だったら叔母さんは左手使っててカッコイイな、程度で終わりそうだ。
「ね、どうして左手で食べるの?」
「……それはこの前言ったじゃないか。永沢も納得してたじゃん」
 ちょっとムッとしている。それくらいで引き下がる私じゃあ……
「それを言われると弱っちゃうなぁ。でもあのとき目が泳いでたよ?」
「……っ」
 心がズキンと痛む。
「それは……」
 そうか。ちょっとは引き下がれよ、私。また追い詰めて言わせなきゃいけない状況に陥れてる。
「待った!」
「えっ?」
 和樹くんは目を真ん丸くした。それは驚くよね。言わせようとしてるのに。
 自分から言ってくれるような状況じゃないといやだ。聞くの我慢するようにして、進歩したじゃん。と、自惚れていると怯えたような声が耳に入ってくる。

「聞かないでいいの?」
「朝と同じっ! 言ってくれるようになるまで待つよ」
 そう言いきって、和樹くんの顔を見ると私が言ったことにきょとんとしているけど、どこか嬉しそうだ。やっぱ言いたくないほどの理由があるんだろうな……。待つことは待つけど、それほど待たせられたくはない。クラス替えがある今年度の末までにお願いしたい。
「これあげる」
「ん?」
 和樹くんは箸を持ち直すと、自分のお弁当箱から玉子焼きを器用に掴んで私のお弁当箱に移す。これって。
「貰っていいの?」
「永沢がオレに無理強いさせてこなかったお礼」
 む、無理強いって。今までの行動を振り返るとそう言えなくもないのがもどかしい。……優しいんだ。でも……同時に切ない気持ちにもなる。
「ありがとう」
「玉子焼きってオレの得意料理なんだ」
 へ?
「和樹くんって料理するの?」
「中学上がったときから弁当は自分で作ってる」
 へ、へぇ。中学からお弁当だったんだ。……それよりも自分で作ってるだって? 私なんか目玉焼きが最高難易度に位置づけられているというのに。玉子焼きになったら遥か遠くだ。和樹くんは話を続ける。
「オレは夕食担当で毎日作ってるよ。朝は父さんが作ってくれるけど、仕事が忙しくて朝まで帰ってこないときとかはオレが作ったりしてるんだ」
 なんて得意気に言ってくれた。ちょっとムカつく。私より料理のレベルが高いのは歴然だ。目が泳いでないもん。そんなことより今の話……なんか引っかかる。和樹くんのお母さんは一体なにやってるんだ。家族にご飯も作らないで。……あれ、でも待てよ。こないだ和樹くんの家に行ったとき、お父さんが一人で養ってるって言ってたなぁ。となると、仕事はしてないってことで。でも家にはいない。それってつまり
「お母さんが何らかの理由でいないってこと?」
 ああああ。頭がこんがらがるからつい口走ってしまった。予期せぬ事態に和樹くんを見ると眉根を寄せて、悩ましげな表情をしている。
「オレには子どものころから母さんがいないからね」
 吐息が交じり気味で、悲しそうな声。私にはそれが『庄子和樹』という人の人生全てを物語っているように聞こえて、その言葉はずっしりと重く感じた。こっちまで暗い気持ちになりそうだ。
 お母さんがいない。
 そんなことはさっき考えたきりでその前は考えたこともなかった。親がいるなんて当たり前のことだと思っている。子どものときに親がいないだなんて想像できない。つらい思いをしてきたんだ。……そんな話を聞いたんじゃ、これくらいのことでへこたれてなんかいられない。
「さ、食べよう」
 あんな冷徹な声を出した直後なのにあっけらかんとした声を上げる。和樹くんのことが分かって嬉しい。でもお母さんはなんでいないんだろう? 離婚、かなぁ。……まぁいいや、和樹くんお手製の玉子焼きを食べよう。黄身が神々しく輝いているように見える。それだけで口端からよだれが零れそうだ。揺らしてみるとプルンとプリンのように踊った。和樹くんをちらと見ると、訝しげに眉根を寄せていた。そうだよ、普通揺らす人なんかいない。作り手の視線を一手に引き受けて箸で掴んだ。その瞬間からフワフワしているのが分かる。
「いっただきまーす」
 ぱくっ。口に入れた瞬間、じゅわりと油が口に溶け出していく。噛むと箸で掴んだときと同じフワフワ感とともに、更に口の中に油が広がっていく。白身が良い味出してるな、これ。
「どう?」
「おいしいっ!」
「そう? 喜んでもらえてよかった」
 油は嫌な感じがしないし、甘さも適度で万人受けしそうな味付けだと思う。冷めていてこれなんだから出来立てはもっと美味しいはずだ! 今度出来立てを頼んでみよう。川澄先生のことはためらわれたけど、これは良い。川澄先生には申し訳ないがこの玉子焼きは頼み込むだけの価値がある。世界に発信して欲しい。
「これなら料理大会に出られるよ! これで食べていけるよ。お店出せるよ! というか出して!」
「さすがにそれは無理だって」
 キミならいけるよ! これ以上言うとしつこい感じがしそうなので、やめておいたけど本当にお金取ってもいいくらいだ。これが料理5年目の実力か。いや、天性か。料理に恵まれた素質か。私もお母さんに頼ってばっかじゃなくて自分で作ってみようかな。最高難易度を玉子焼きにするために。
 その後は昨日のことなんてすっかり忘れて話しこんでしまった。卑屈精神も吹き飛ぶくらいに。でも優しくされるたびに切なくなるのは変わらなかった。

HomeNovel << BackIndexNext >>
Copyright(C) 2008 らっく All Rights Reserved.