4.すれ違う気持ち【その3】
「家の階段って久々に登る」
友達もほとんどマンションに住んでるから屋内の階段っていったら学校くらいしかないな。階段の途中にある窓から差し込む光が青い。いつの間にか暗くなり始めていた。電気が必要な時間になっていたので、和樹くんが壁にタッチすると階段の黄色い電気が点いた。マジシャンか! そう思って見てみるとパチパチと左右に動く昔ながらのやつではなくて、押し込めば点くタイプのものだった。蛇口は上下させるんじゃく、捻るのが普通だと思ってる小市民なのでこれは憧れる。今度来たとき触らせてもらおう。
「そっか。永沢はマンション住まいなんだっけ」
「うん。高2になってからは初めてかな」
そんなことを話しているうちに二階に着いた。部屋は三つあって左に二部屋、右に一部屋ある。それとトイレ、ベランダが見える。二階にもトイレがあるって結構なお金持ちだよね。でも譲り受けたって言ってたから本当にお金持ちかどうかは分からない。和樹くんのお祖父ちゃんはこれだけの家を持ってるんだからお金持ちなのは確実だ。
「ここがオレの部屋で、奥は祐の部屋と父さんの書斎。書斎はあんまり使ってないみたいだけどね」
ふむふむ。左手前が和樹くんの部屋で、左奥が祐くんの部屋。ベランダへの道を挟んで書斎は右奥の部屋か。トイレはその書斎の前にある。それにしても譲り受けたと言う割には高性能な家だ。ここを買った当時は最先端の家だったんじゃないかな。それより
「オレが手前なのはよく出かけるからなんだよね」
声が右から左に抜ける。そんなことどうだっていい。男の子の部屋って初めてだ。ドキドキする……。
ドアを開けてもらって中に入ると、和樹くんの匂いがかすかに感じられた。前には大きな窓、それと垂直するように勉強机が右の隅に置かれている。左手にはタンスがあってその奥にはもう一つ窓があり、接するようにベッドが置かれている。
階段の電気を消してから入ってきた和樹くんを見ると、恥ずかしそうに頭をポリポリと掻いていた。照れなくていいのに。
「散らかっててごめん。今日来ると思ってなかったから」
ベッドにはさっき買ってきた服と、今朝着ていた服だと思われるのが投げ捨ててある。こういうところが男なんだなぁと実感する。でもそのほかは綺麗に整理されていて机の上には幾つか教科書が広がっているだけだ。生活感がないとも言う。私の部屋なんか生活感バリバリで人様には見せられない。帰ったら片付けておこう。
ん。入ってきたところからは死角で見えなかった写真が机の上に飾られているのが見えた。森林をバックに男性が一人と、女性が一人、そして男の子が二人写っている。真ん中には虫取り網を持っていて、長袖シャツに膝上ぐらいの短パン姿だ。膝小僧のバンドエイドがなんとも子どもらしくて良い。その笑顔がかわいい7歳くらいの男の子がピースしていて、父親と思われるがっしりとした体型の人物がもう一人の男の子を肩車している。その傍らには優しい笑顔を浮かべている母親と思われる人物がいる。みんな笑っていていかにも幸せ。って感じで、見ているこちらが笑顔になってしまいそうだ。
「適当に腰かけていいよ」
「うん」
言われるがままにベッドにちょこんと座る。さっきの椅子よりちょっと硬い。写真のことは野暮なんじゃないかと思って聞けなかった。和樹くんは勉強机の椅子に腰かけた。椅子というより『チェア』という表現のほうが合っているかもしれない。向き合っていると恥ずかしいので少し下を向く。ちらちら様子を窺っていると和樹くんは大きい窓のほうを向き、口を開いた。
「もうこんな時間か。ながさ」
「ゆか。由香って、呼んで」
自分で言っておきながら気が沈んだ。さっき祐くんに紹介されたときから気になっていて……恋人同士なら名前で呼び合うのが普通だと思う。顔を上げると、和樹くんは心底困り果てたような顔をしていた。
「え?」
「私は『和樹』くんって言ってるのに。ずるーい」
「で、でも」
突然の出来事に落ち着かない様子であたふたしている。あと一押しすれば言ってくれるはず。
「言って。言って欲しい」
慌てる様子は消えて、静かに熟慮し始めた。言ってくれるかな。ああ、でもそれって
「……分かったよ」
無理に言わせて嬉しいの? ううん、聞きたいけど今は聞きたくない。言ってくれるまで待つべきだったのかな。ちょっと後悔していると和樹くんは椅子に深く座りなおして、私のことを見つめた。視線が絡む。最善なのは言うまで待つのがいいんだけど、意を決してくれたんだ。それを止めさせる勇気なんて……私にはない。
「ゆ、か」
もう少し。ゴクッと生唾を飲んだ音が耳に入ってきた。電気のジーという音が聞こえるだけの森閑とした空間。そこに響く震えた声。
「ゆか……由香」
――やっぱり、嬉しくなかった。
言い終えた和樹くんは目を見開いたが、それは一瞬で収まり目を伏せた。険しく眉根を寄せている。つらさを掻き消そうとしているのか握り拳を作っていて、腕には筋肉の筋が立っている。なんでだろう、聞けたのはいいけど「由香」って名前に何かあるのかな……。和樹くんにさせたくないことして、私最低だ。
「ごめん、ね。無理させちゃって」
返答がない。いつもなら返してくれるのに。
……私はそうやって自分だけ楽になろうとしている。ずるい。自分勝手だ。和樹くんに全てを背負い込ませている。和樹くんを見ると額から汗が滲み出ている。そこまで暑くはないけど、見ている私も暑く感じてきた。暑さでよく動いていた頭が一つの結論に至る。
これで……やっと分かった。鈍い、鈍すぎる、ニブチンだ。
今日会ったときに言ってた別れる理由が分かった。別れた人たちの気持ちが分かる。
和樹くんは優しい。優しくて人を傷つけちゃうほどに。
私に嫌な思いをさせまいとしている。今までもそうだ。デートに誘う前、口をつぐんでいたのは、それを言うと私が傷ついてしまうから。そうだと思う。必要以上に気を遣わせてしまって、つらかったと思う。私はそれが苦しい。心がちぎれそうだ。気を遣うような仲じゃこれ以上進歩しないよ。身を引かないで欲しい。自分を主張して欲しい。有りの儘の姿でいて欲しい。でもうまく伝えられない。言いたいけど、拒絶されそうで怖い。そんなこと絶対無いはずだって……言いきれない。自分はなんてちっぽけな人間なんだ。恐怖から逃げようとして、勇気も振り絞れないで。
なんとか声を出す。この場から――逃げ出すために。
「今日はもう……帰るね」
「ああ」
掠れた小さな声。そんな声を聞くなんて今朝は思いもしなかった。
部屋を出るとき後ろを振り向いたが、和樹くんは「由香」と言ってから同じままの姿勢で立ち尽くしている様は……とっても失礼だが滑稽に見えた。
うわ、最低だ。少しでもどす黒い感情が芽生えた私は……別れるべきなんだ。そっちのほうが和樹くんのためになる。相手が自分のために尽くしてくれているっていうのに、相手のことを表面上では慮って自分だけ逃げようとして打算的で嫌な女だ。こんな私といたって良いことなんてちっともないよ。
真っ暗。几帳面な和樹くんは階段の電気を消すものだから、辺りは全くといっていいほど見えない。さっきまで電気の点いた明るい部屋に居たから尚更だ。人様の家に来て勝手に電気をつけるのは、はばかられるのでそのまま歩き出す。
暗闇の中、足を踏み外さないよう慎重に階段を降りて玄関にある自分の靴を履いた。和樹くんの気持ちが分かって胸の奥が変だ。ムカムカともイラつきとも違う。そうだとしたら自分へだ。やり場のないこの気持ちはどこへやればいいんだろう。
……こんなこと考えてても無駄だ。今は出よう。そう思って玄関のドアノブに手をかけた瞬間
「送るよ」
今日はもう和樹くんの声を聞くことはないと思っていたので身がピクリとすくんで咄嗟に俯いた。視界の隅に黄色い明かりが入った。階段にある電気の色だ。すたすたと後ろから足音が聞こえる。階段を降りているのだろう。……後ろを振り向けない。
「外は暗いよ。女の子をこんな時間に一人で歩かせられない」
優しい声がすぐ隣にある。優しくされてるのに切なくて。涙が出てきそう。私は俯いたまま
「うっ……私の家近いからいいよ」
「そういうわけにはいかないって」
見られようとするとそっぽを向いて泣くのを必死に堪える。
「じゃ、じゃあ……」
「行こう」
扉を開けてもらって外に出ると夕日も完全に隠れてしまっていて少し肌寒い。強引だったけど嬉しい。名前を呼んでくれるより数倍。
「うぅ〜、さぶっ」
「大丈夫?」
寒さで涙が引いていった。よかった。泣いている姿は見られたくない。急にふわりと背中を温もりが覆う。和樹くんの匂いがする。
視線を自分の肩に落とすと――和樹くんが今日着てた半袖シャツを自分が羽織っている。
「ど、どうして?」
「寒いって言うから」
暗闇の中、和樹くんを見ると中に着てた白いシャツ1枚だ。左胸のところに、夜目でも分かるワンポイントの印がある。描かれているのは鳥……かな。平然と見えるけど本当は寒いはずだ。優しくされると胸がきゅうって締め付けられた感じになって苦しくなる。和樹くんは私の数歩前まで歩き出した。今のうちに言わないとっ。
「悪いよ」
「いいって。オレなら大丈夫」
顔だけ振り向いてニッと笑い、美しい歯列を見せる。それは反則だって。
……ああ、そうだった。結局手を繋げずじまいだった。そうだ。確かめてもいいかな。試すみたいでいやだけ
「えっ」
左手に温もりを感じる。手を――繋いでいるんだ。
暖かくて、大きい。そして少し汗ばんだ感じが良い味を出している。斜め前方にいる和樹くんを見るとそっぽを向いていて表情が窺えない。きっと恥ずかしいんだろう。さすがに指同士を絡める繋ぎ方は無理だった。
これってもしかしたら私の気持ちを感じ取ってくれたのかな。……そんなことあるわけないか。冷静に考えられるようになると私も羞恥が込み上げてきた。どっ、どうしよう。手を繋いでいる。
「行くぞ」
初めて聞いた男らしい口調。こんな和樹くんもカッコイイ。照れ隠しなのかな、声が震えていて頼りない。和樹くんが珍しく率先してくれてる。ここは身を委ねよう。私が黙っているのを肯定と取ったみたいで私の手を握り直してズンズン歩き出した。否定したらどう行動したんだろう……って、歩調が速くて転びそうになる。それに歩幅も広いから二段飛ばしで股が裂けそうになるような私じゃついていけない。必死に歩調を合わせようとするが無理だった。靴が引きずられている。ま、待って。
「ちょっと」
切羽詰まった声でそう言うと気づいてくれたみたいで足を止めてくれた。はぁ、やっと息を整えられた。和樹くんは振り返って私のほうを見る。
「あ。……ご、めん」
暗くても判るくらい頬が赤い。昼間の暑さが抜けきってないのもありそうだけど、手を繋いで恥ずかしくなったほうが強いんだろう。まさかはぁはぁ息切れしてる私を見てだったら……って、ナルシストか。こんなときに後輩のことを思い出す私。……マイマイは妄信家というよりナルシストというべきなのだろうか。
それにしても人の温もりってどうしてこうもいとおしいんだろう。あんなことがあったのに……いや、あったからこそなのかな。ずっと手を繋いでいたい。再び歩き出すと、さっきみたいに荒い歩調じゃなくゆっくりと私の歩調に合わせるように歩いてくれた。やっぱり、優しいんだ。通行人や車の通りは少ないが、傍から見たらカップルにしか見えないだろう。
そうこうしているうちにあっという間に、私が住んでいるマンションの前に着いてしまった。5分なんて本当にすぐだ。
「返すね」
名残惜しくも手を離して羽織っていた上着を取り、和樹くんに手渡す。
「ありがとう、暖かくてほっこりした」
にっこりして受け取ってくれた。この笑顔をぶち壊そうとしたのか。最悪だ。和樹くんには何の非もない。
「うん。よかった。じゃあオレはここで。また明日」
「また……またね」
また明日。
言えなかった。また明日も会うことになるんだろうけど、こんな気持ちのまま明日会ってしまったらまた傷つけてしまいそうで怖い。
……まずは中に入ろう。寒い。エレベーターに乗ってしまうと色々考えてしまいそうだから、久しぶりに階段を使ってマンションの角部屋に入った。お母さんの姿が目に入る。
「ただいま」
「あらおかえり。ご飯は?」
夜だって言うのに玄関の掃除をしている。ついでに靴も磨いているみたいで「絵里ったらまた靴を汚しちゃって」と言って楽しそうに掃除を進めている。お疲れ様だ。
「まだ。でも今日はいらないや。ごめんね、せっかく作ってくれたのに」
お母さんは靴磨きしていた手を止めたと思ったら、見る見るうちに表情を曇らせていった。なんだろう。
「そう。元気出しなさいよ」
「……うん」
見事にばれていたみたいだ。十六年も付き合っていたら隠し事なんてすぐに分かっちゃうのか。私は靴を脱いで自分の部屋へと逃げるように入っていった。
ドアを閉めてベッドに力なく倒れこむ。仰向けに直って腕を頭の後ろで組んだ。
静かだ。さっきと同じ状況。そうなると今日のことをいやでも考えてしまう。瞬きしたらぼろぼろと雫が零れた。
和樹くんに無理強いさせてしまった。告白して、自分勝手に振り回して。思えば全部私から行動を起こして、全部承諾してくれた。中には偽善もあったかもしれないけど、和樹くんは根っからの優男だ。それを感じさせない人間性がある。だから……いけないんだ。
優しくしてくれているのに、苦しくて、切なくて、涙が出てきてしまう。人を傷つけちゃうほど優しい。私は気を遣われすぎて、居場所がないみたいだ。それがつらいんだよ。胸がチクチクする。
和樹くんは何でもしてくれる。「キスして」と言ったらしてくれるはずだ。いやなら「いや」って言って欲しい。自分をもっとさらけ出して欲しい。自分の気持ちをぶつけてきて欲しい。……私のわがままなのかな。
優しくて気配りできる人なのに一緒にいると……つらい。
そういえば部屋の片付け……いいや。今日はもう寝よう。動きたくない、何も考えたくない。だるい。
友達もほとんどマンションに住んでるから屋内の階段っていったら学校くらいしかないな。階段の途中にある窓から差し込む光が青い。いつの間にか暗くなり始めていた。電気が必要な時間になっていたので、和樹くんが壁にタッチすると階段の黄色い電気が点いた。マジシャンか! そう思って見てみるとパチパチと左右に動く昔ながらのやつではなくて、押し込めば点くタイプのものだった。蛇口は上下させるんじゃく、捻るのが普通だと思ってる小市民なのでこれは憧れる。今度来たとき触らせてもらおう。
「そっか。永沢はマンション住まいなんだっけ」
「うん。高2になってからは初めてかな」
そんなことを話しているうちに二階に着いた。部屋は三つあって左に二部屋、右に一部屋ある。それとトイレ、ベランダが見える。二階にもトイレがあるって結構なお金持ちだよね。でも譲り受けたって言ってたから本当にお金持ちかどうかは分からない。和樹くんのお祖父ちゃんはこれだけの家を持ってるんだからお金持ちなのは確実だ。
「ここがオレの部屋で、奥は祐の部屋と父さんの書斎。書斎はあんまり使ってないみたいだけどね」
ふむふむ。左手前が和樹くんの部屋で、左奥が祐くんの部屋。ベランダへの道を挟んで書斎は右奥の部屋か。トイレはその書斎の前にある。それにしても譲り受けたと言う割には高性能な家だ。ここを買った当時は最先端の家だったんじゃないかな。それより
「オレが手前なのはよく出かけるからなんだよね」
声が右から左に抜ける。そんなことどうだっていい。男の子の部屋って初めてだ。ドキドキする……。
ドアを開けてもらって中に入ると、和樹くんの匂いがかすかに感じられた。前には大きな窓、それと垂直するように勉強机が右の隅に置かれている。左手にはタンスがあってその奥にはもう一つ窓があり、接するようにベッドが置かれている。
階段の電気を消してから入ってきた和樹くんを見ると、恥ずかしそうに頭をポリポリと掻いていた。照れなくていいのに。
「散らかっててごめん。今日来ると思ってなかったから」
ベッドにはさっき買ってきた服と、今朝着ていた服だと思われるのが投げ捨ててある。こういうところが男なんだなぁと実感する。でもそのほかは綺麗に整理されていて机の上には幾つか教科書が広がっているだけだ。生活感がないとも言う。私の部屋なんか生活感バリバリで人様には見せられない。帰ったら片付けておこう。
ん。入ってきたところからは死角で見えなかった写真が机の上に飾られているのが見えた。森林をバックに男性が一人と、女性が一人、そして男の子が二人写っている。真ん中には虫取り網を持っていて、長袖シャツに膝上ぐらいの短パン姿だ。膝小僧のバンドエイドがなんとも子どもらしくて良い。その笑顔がかわいい7歳くらいの男の子がピースしていて、父親と思われるがっしりとした体型の人物がもう一人の男の子を肩車している。その傍らには優しい笑顔を浮かべている母親と思われる人物がいる。みんな笑っていていかにも幸せ。って感じで、見ているこちらが笑顔になってしまいそうだ。
「適当に腰かけていいよ」
「うん」
言われるがままにベッドにちょこんと座る。さっきの椅子よりちょっと硬い。写真のことは野暮なんじゃないかと思って聞けなかった。和樹くんは勉強机の椅子に腰かけた。椅子というより『チェア』という表現のほうが合っているかもしれない。向き合っていると恥ずかしいので少し下を向く。ちらちら様子を窺っていると和樹くんは大きい窓のほうを向き、口を開いた。
「もうこんな時間か。ながさ」
「ゆか。由香って、呼んで」
自分で言っておきながら気が沈んだ。さっき祐くんに紹介されたときから気になっていて……恋人同士なら名前で呼び合うのが普通だと思う。顔を上げると、和樹くんは心底困り果てたような顔をしていた。
「え?」
「私は『和樹』くんって言ってるのに。ずるーい」
「で、でも」
突然の出来事に落ち着かない様子であたふたしている。あと一押しすれば言ってくれるはず。
「言って。言って欲しい」
慌てる様子は消えて、静かに熟慮し始めた。言ってくれるかな。ああ、でもそれって
「……分かったよ」
無理に言わせて嬉しいの? ううん、聞きたいけど今は聞きたくない。言ってくれるまで待つべきだったのかな。ちょっと後悔していると和樹くんは椅子に深く座りなおして、私のことを見つめた。視線が絡む。最善なのは言うまで待つのがいいんだけど、意を決してくれたんだ。それを止めさせる勇気なんて……私にはない。
「ゆ、か」
もう少し。ゴクッと生唾を飲んだ音が耳に入ってきた。電気のジーという音が聞こえるだけの森閑とした空間。そこに響く震えた声。
「ゆか……由香」
――やっぱり、嬉しくなかった。
言い終えた和樹くんは目を見開いたが、それは一瞬で収まり目を伏せた。険しく眉根を寄せている。つらさを掻き消そうとしているのか握り拳を作っていて、腕には筋肉の筋が立っている。なんでだろう、聞けたのはいいけど「由香」って名前に何かあるのかな……。和樹くんにさせたくないことして、私最低だ。
「ごめん、ね。無理させちゃって」
返答がない。いつもなら返してくれるのに。
……私はそうやって自分だけ楽になろうとしている。ずるい。自分勝手だ。和樹くんに全てを背負い込ませている。和樹くんを見ると額から汗が滲み出ている。そこまで暑くはないけど、見ている私も暑く感じてきた。暑さでよく動いていた頭が一つの結論に至る。
これで……やっと分かった。鈍い、鈍すぎる、ニブチンだ。
今日会ったときに言ってた別れる理由が分かった。別れた人たちの気持ちが分かる。
和樹くんは優しい。優しくて人を傷つけちゃうほどに。
私に嫌な思いをさせまいとしている。今までもそうだ。デートに誘う前、口をつぐんでいたのは、それを言うと私が傷ついてしまうから。そうだと思う。必要以上に気を遣わせてしまって、つらかったと思う。私はそれが苦しい。心がちぎれそうだ。気を遣うような仲じゃこれ以上進歩しないよ。身を引かないで欲しい。自分を主張して欲しい。有りの儘の姿でいて欲しい。でもうまく伝えられない。言いたいけど、拒絶されそうで怖い。そんなこと絶対無いはずだって……言いきれない。自分はなんてちっぽけな人間なんだ。恐怖から逃げようとして、勇気も振り絞れないで。
なんとか声を出す。この場から――逃げ出すために。
「今日はもう……帰るね」
「ああ」
掠れた小さな声。そんな声を聞くなんて今朝は思いもしなかった。
部屋を出るとき後ろを振り向いたが、和樹くんは「由香」と言ってから同じままの姿勢で立ち尽くしている様は……とっても失礼だが滑稽に見えた。
うわ、最低だ。少しでもどす黒い感情が芽生えた私は……別れるべきなんだ。そっちのほうが和樹くんのためになる。相手が自分のために尽くしてくれているっていうのに、相手のことを表面上では慮って自分だけ逃げようとして打算的で嫌な女だ。こんな私といたって良いことなんてちっともないよ。
真っ暗。几帳面な和樹くんは階段の電気を消すものだから、辺りは全くといっていいほど見えない。さっきまで電気の点いた明るい部屋に居たから尚更だ。人様の家に来て勝手に電気をつけるのは、はばかられるのでそのまま歩き出す。
暗闇の中、足を踏み外さないよう慎重に階段を降りて玄関にある自分の靴を履いた。和樹くんの気持ちが分かって胸の奥が変だ。ムカムカともイラつきとも違う。そうだとしたら自分へだ。やり場のないこの気持ちはどこへやればいいんだろう。
……こんなこと考えてても無駄だ。今は出よう。そう思って玄関のドアノブに手をかけた瞬間
「送るよ」
今日はもう和樹くんの声を聞くことはないと思っていたので身がピクリとすくんで咄嗟に俯いた。視界の隅に黄色い明かりが入った。階段にある電気の色だ。すたすたと後ろから足音が聞こえる。階段を降りているのだろう。……後ろを振り向けない。
「外は暗いよ。女の子をこんな時間に一人で歩かせられない」
優しい声がすぐ隣にある。優しくされてるのに切なくて。涙が出てきそう。私は俯いたまま
「うっ……私の家近いからいいよ」
「そういうわけにはいかないって」
見られようとするとそっぽを向いて泣くのを必死に堪える。
「じゃ、じゃあ……」
「行こう」
扉を開けてもらって外に出ると夕日も完全に隠れてしまっていて少し肌寒い。強引だったけど嬉しい。名前を呼んでくれるより数倍。
「うぅ〜、さぶっ」
「大丈夫?」
寒さで涙が引いていった。よかった。泣いている姿は見られたくない。急にふわりと背中を温もりが覆う。和樹くんの匂いがする。
視線を自分の肩に落とすと――和樹くんが今日着てた半袖シャツを自分が羽織っている。
「ど、どうして?」
「寒いって言うから」
暗闇の中、和樹くんを見ると中に着てた白いシャツ1枚だ。左胸のところに、夜目でも分かるワンポイントの印がある。描かれているのは鳥……かな。平然と見えるけど本当は寒いはずだ。優しくされると胸がきゅうって締め付けられた感じになって苦しくなる。和樹くんは私の数歩前まで歩き出した。今のうちに言わないとっ。
「悪いよ」
「いいって。オレなら大丈夫」
顔だけ振り向いてニッと笑い、美しい歯列を見せる。それは反則だって。
……ああ、そうだった。結局手を繋げずじまいだった。そうだ。確かめてもいいかな。試すみたいでいやだけ
「えっ」
左手に温もりを感じる。手を――繋いでいるんだ。
暖かくて、大きい。そして少し汗ばんだ感じが良い味を出している。斜め前方にいる和樹くんを見るとそっぽを向いていて表情が窺えない。きっと恥ずかしいんだろう。さすがに指同士を絡める繋ぎ方は無理だった。
これってもしかしたら私の気持ちを感じ取ってくれたのかな。……そんなことあるわけないか。冷静に考えられるようになると私も羞恥が込み上げてきた。どっ、どうしよう。手を繋いでいる。
「行くぞ」
初めて聞いた男らしい口調。こんな和樹くんもカッコイイ。照れ隠しなのかな、声が震えていて頼りない。和樹くんが珍しく率先してくれてる。ここは身を委ねよう。私が黙っているのを肯定と取ったみたいで私の手を握り直してズンズン歩き出した。否定したらどう行動したんだろう……って、歩調が速くて転びそうになる。それに歩幅も広いから二段飛ばしで股が裂けそうになるような私じゃついていけない。必死に歩調を合わせようとするが無理だった。靴が引きずられている。ま、待って。
「ちょっと」
切羽詰まった声でそう言うと気づいてくれたみたいで足を止めてくれた。はぁ、やっと息を整えられた。和樹くんは振り返って私のほうを見る。
「あ。……ご、めん」
暗くても判るくらい頬が赤い。昼間の暑さが抜けきってないのもありそうだけど、手を繋いで恥ずかしくなったほうが強いんだろう。まさかはぁはぁ息切れしてる私を見てだったら……って、ナルシストか。こんなときに後輩のことを思い出す私。……マイマイは妄信家というよりナルシストというべきなのだろうか。
それにしても人の温もりってどうしてこうもいとおしいんだろう。あんなことがあったのに……いや、あったからこそなのかな。ずっと手を繋いでいたい。再び歩き出すと、さっきみたいに荒い歩調じゃなくゆっくりと私の歩調に合わせるように歩いてくれた。やっぱり、優しいんだ。通行人や車の通りは少ないが、傍から見たらカップルにしか見えないだろう。
そうこうしているうちにあっという間に、私が住んでいるマンションの前に着いてしまった。5分なんて本当にすぐだ。
「返すね」
名残惜しくも手を離して羽織っていた上着を取り、和樹くんに手渡す。
「ありがとう、暖かくてほっこりした」
にっこりして受け取ってくれた。この笑顔をぶち壊そうとしたのか。最悪だ。和樹くんには何の非もない。
「うん。よかった。じゃあオレはここで。また明日」
「また……またね」
また明日。
言えなかった。また明日も会うことになるんだろうけど、こんな気持ちのまま明日会ってしまったらまた傷つけてしまいそうで怖い。
……まずは中に入ろう。寒い。エレベーターに乗ってしまうと色々考えてしまいそうだから、久しぶりに階段を使ってマンションの角部屋に入った。お母さんの姿が目に入る。
「ただいま」
「あらおかえり。ご飯は?」
夜だって言うのに玄関の掃除をしている。ついでに靴も磨いているみたいで「絵里ったらまた靴を汚しちゃって」と言って楽しそうに掃除を進めている。お疲れ様だ。
「まだ。でも今日はいらないや。ごめんね、せっかく作ってくれたのに」
お母さんは靴磨きしていた手を止めたと思ったら、見る見るうちに表情を曇らせていった。なんだろう。
「そう。元気出しなさいよ」
「……うん」
見事にばれていたみたいだ。十六年も付き合っていたら隠し事なんてすぐに分かっちゃうのか。私は靴を脱いで自分の部屋へと逃げるように入っていった。
ドアを閉めてベッドに力なく倒れこむ。仰向けに直って腕を頭の後ろで組んだ。
静かだ。さっきと同じ状況。そうなると今日のことをいやでも考えてしまう。瞬きしたらぼろぼろと雫が零れた。
和樹くんに無理強いさせてしまった。告白して、自分勝手に振り回して。思えば全部私から行動を起こして、全部承諾してくれた。中には偽善もあったかもしれないけど、和樹くんは根っからの優男だ。それを感じさせない人間性がある。だから……いけないんだ。
優しくしてくれているのに、苦しくて、切なくて、涙が出てきてしまう。人を傷つけちゃうほど優しい。私は気を遣われすぎて、居場所がないみたいだ。それがつらいんだよ。胸がチクチクする。
和樹くんは何でもしてくれる。「キスして」と言ったらしてくれるはずだ。いやなら「いや」って言って欲しい。自分をもっとさらけ出して欲しい。自分の気持ちをぶつけてきて欲しい。……私のわがままなのかな。
優しくて気配りできる人なのに一緒にいると……つらい。
そういえば部屋の片付け……いいや。今日はもう寝よう。動きたくない、何も考えたくない。だるい。
Home‖Novel
Copyright(C) 2008 らっく All Rights Reserved.