高く遠くプロローグ
私の想いをこのボールに込めて!
「ありがとう」
届かなかった。私が蹴ったサッカーボールを拾うとその男の子は、はにかんだ笑顔をこちらに向けて戻っていった。
またとないチャンスを逃してしまった。私の恋する王子様はサッカー部の人で、一つ上の先輩だ。二年生ながらもサッカー部のエースとして期待されているみたいなんだな、これが。でもまだ名前は知らない。
私はテニス部で、同じ学校に通う生徒くらいしか共通点がない。つまり、何の接点もないのだ。だからちょっとしたことでもアクションをかける。テニスコートに行く振りをして、飛んできたサッカーボールを取るほどに。そうでもしなきゃ接点なんて作れない。
今日もまた進展がなかったことに気落ちしながらもテニスコートへ向かった。
***
「お疲れー。綾子、一緒に帰る?」
片づけを最後まで一緒にやってもらった、三年生の安藤先輩が声を掛けてくれた。
「ぜひとも!」
「元気が良くてよろしい」
うんうんと頷きながら目を細めて笑ってくれる。日が傾ぎ始めた中でも鮮明に見えるその表情に見とれてしまった。優しい先輩だなあ。私には到底無理だ。だって二つも歳が離れてるんだから。荷物を持ってテニスコートを後にする。
「綾子は中学のとき、なんの部活に入ってたの?」
「バドミントンです」
「へえ。バドか。何でバド部に入らなかったの?」
先輩にバドミントンの話を出すと、途端に神妙な面持ちになった。食いつきもすごくいいし。中学からテニス一筋の先輩にとっては不思議なことなんだろう。
「私、バドはそこまでうまくできなかったんですよね。だから高校では心機一転してテニスをやろうかなって」
「ふぅん。心機一転ってテニスもバドもあんまり変わらない気もするけど、頑張って。……って、どうしたの?」
私は歩みを止めていた。なぜなら。
「先輩……」
「先輩? 急にどうしたの」
グラウンドでサッカー部数人がまだ練習をしていた。居残り練習かな? よく見てみると、そこには私の恋する王子様がいた。今まで一人で帰っている時は、周りなんて気にしてなかった。いけない、安藤先輩が待っててくれてるのに。
「ごめんなさい」
「ははあん。好きな子がいるんだ?」
「違います! スポーツやってる人って素敵だなと思って」
「顔に嘘って書いてある」
うぐぐ。恋する乙女をバカにして……。
「どの子?」
ここは甘い誘惑に屈するしかないのか! いや待て。自分の力で関係を作りたい。けどこの好機を逃してしまうことを考えれば
「あの子です。あの黒いジャージの」
屈するしかなかった。だって先輩だし。私が指差した先を、安藤先輩は目を眇めて見極めた。
「もしや、大野のこと?」
大野先輩って言うんだ。苗字が分かっただけでも嬉しい。安藤先輩は腕を組んで、にこやかに笑った。なになに、大野先輩ってワケあり?
「あの子なら私、面識あるから話通そうか?」
「え」
そ、そんな好都合な! いや待て。これが事実だとするならだ。きっかけ作りがとても簡単になる。そのままシンデレラガールのごとく、付き合うところまで発展するかもしれない。
「お願いします!」
「元気でよろしい。じゃあちょっと待ってて」
そう言ってグラウンドに下りていく安藤先輩。その後ろ姿がなんとも心強かった。歩くたびに揺れるポニーテールも好印象だ。安藤先輩は練習中だというのに何の躊躇もなく大野先輩に近づいていく。
「お願い!」
思わず手を合わせて祈ってしまった。帰っていく生徒たちに奇異の目で見られてもどうだっていい。今は大野先輩のことしか考えられない。安藤先輩は大野先輩の手を無理やり引っ張って連れてこようとする。会いたいは会いたいけど、そこまでしていただくのもなんだか申し訳ない。だんだんと近づいてくる二人。話し声も聞こえてきた。
「ほら、君を好いてる子なんだよ。サッカー一筋もいいけど、恋愛もしなきゃいい男になれないって」
「いや俺そういうの望んでませんってば」
安藤先輩が恨めしい。大野先輩の手首を持ってるし、とても仲が良さそうだ。
「連れてきたよ」
目の前にすると緊張するなあ。大野先輩も緊張してるみたいで、口元がこわばってる。でもそんな表情もかっこよく見える。
「一年の山田綾子って言います。安藤先輩と同じテニス部です! よろしくお願いします」
元気が一番だ。ただ、次になんて言おうか悩んでしまう。と、ここで大野先輩の表情が緩んだ。耳の裏辺りをかいて照れくささを表現する。年上なのにカワイイなあもう。
「よ、よろしく。二年の大野晴喜です」
この無理やりな展開にどうもついていけてないようで敬語を使われた。そんなところもカワイイ。って、相手は先輩なのに何考えてるんだろ。名前は「晴喜」って言うんだ。その爽やかな風貌に似合う素敵なお名前だ。一歩前に出て勇気を振り絞る。
「晴喜先輩! 良ければ一緒に帰りませんか?」
我ながら大胆なことを言ってしまった! でもここで言わなきゃ進歩がない。晴喜先輩は戸惑った表情を見せる。返事を待っている間に全身を嘗めるように見る。すらっとした長い手足に、鍛えられた足腰。それを覆うのは遠くで見たときには黒に見えてた紺色のハーフパンツと、上はブランドロゴが胸に入った黒のシャツだ。坂で私が見下ろしてるのに高さがあまり変わらない。身長も理想的だ。髪型は遠くから見たとき同様で耳にかかる程度の長さで、右から分けている。長すぎず短すぎず、私のドストライクゾーンだ。先輩の何もかもが愛しく思えてきた。
「まだ練習が……」
「女の子の誘いを断るの? 別に二人きりじゃないんだしさー」
安藤先輩が救いの手を差し伸べてくださった。ありがたや。でも二人きりじゃないということは、安藤先輩もついてくるのか。いや、冷静に考えよう。二人きりだと話が詰まったときの気まずさが半端ない。いてくれた方がありがたい。
「紗枝先輩にそう言われたら断れないですよ。荷物取ってきますね」
大野先輩はまたグラウンドに戻って残ってる部員に事情を説明したようで、部室から白のエナメルバッグを持ち出してきた。荷物を持ってる姿も素敵。ちょっと小走りで待たせないようにしてくれるその心意気も私の胸を打つ。私たちが通っているこの高校は私服登校が認められているから、帰る時にわざわざ制服に着替えたりせずジャージのままで帰る生徒も多い。大野先輩もその一人だった。
「お待たせしました!」
体育会系男子特有の元気っぷりも良い。本当に晴喜先輩と付き合うことになったら私の胸はキュンキュンしまくりで平常心を保てなくなるかもしれない。それくらい私にとって先輩は魅力的だった。
私たちは校門を出て駅へ向かう下り坂を歩き始める。私が通う高校の生徒のほとんどは電車での通学だ。もちろん私たち3人もその例に漏れない。ただ、街に向かう上りと田舎に向かう下りが半々くらいという問題がある。私は下りだけど、先輩たちはどうなんだろう。
「晴喜先輩は電車は下りですか?」
「そうだよ」
心の中でガッツポーズをする。私も下りだ! そして、そっけなく答える感じも乙女心をくすぐってくる。って、私は晴喜先輩がどんな態度をとっても好意的に受け取ってしまいそう。そりゃ怒られたりしたらきっと嫌だけど……。晴喜先輩の向こうにいる安藤先輩が笑いかけてくる。
「私も下りだし、綾子も下りだったよね?」
その問いに頷く。直後、疑問が沸く。
「どうしてそれを?」
「朝に見かけることがあってさ。でも歩くの早くて追いつけなくて」
安藤先輩は闊達に笑い飛ばす。それに釣られてか晴喜先輩も爽やかな笑い声を上げる。白い歯が目立ちます。素敵です。
「そうなんだ。意外だな」
くうう。晴喜先輩に笑われてしまったではないですか。
「晴喜、良かったでしょ。私たちと一緒に帰って。案外綾子は面白いのよ」
「案外ってどういう意味ですか」
「真面目に見えるってこと」
このやり取りを間で見ていた晴喜先輩が苦笑いをする。
「そうですね。日ごろの疲れが吹っ飛びますよ」
「ま、晴喜くんは両手に花だしね」
「俺が女ったらしみたいじゃないですか!」
「そうじゃなかった?」
晴喜先輩は安藤先輩のからかいに対して、顔を紅潮させて恥ずかしさを爆発させてる。俯いてしまった。ウブだ。さらりとかわす余裕も見てみたかったけど、これはこれで満足だ。……って、晴喜先輩の笑顔や照れた顔を引き出しているのは全部安藤先輩だ。私も頑張らないと!
何を聞こうか悩んでいると駅がもうすぐの場所にまで来てしまった。カバンにくっついているペンギンが書かれている定期券を取り出し、改札にタッチして抜ける。駅の構内には既に電車が止まっていてダッシュで乗り込んだ。
「間に合った」
一息ついたところで、電車は動き出した。この発車の揺れに耐えられなくて晴喜先輩に抱きつこうとも考えたが、初対面でさすがにそれはないと思って堪えた。
「そういや、紗枝先輩は俊介先輩とはどうなんですか?」
「だから俊介は幼馴染って言ってるじゃない。それ以上でも以下でもない。それとも何? さっきのお返し?」
「そんな訳ないじゃないですか。ただ気になっただけです」
「晴喜くんも恋愛に興味ないふりしてやっぱ情事は気になるんだね。お年頃だもんね」
晴喜先輩はまたしても何も言い返せずに黙ってしまった。安藤先輩……怖いです。その笑顔が怖いですよ。いじる時は「くん」付けなんですか。私も仲良くなったらこんな風にいじられるのかな。そう思うと不安でたまらない。って、もうすでにいじられてるか。
――っと、身体がよろけた。もう隣の駅に着いちゃったのか。安藤先輩がちょこんと手を挙げ、
「あ、私ここだから。晴喜ぃ、好意持ってるからって綾子に手出したら承知しないからね」
そんな捨て台詞を吐いて颯爽と電車から出て行ってしまった。晴喜先輩は最後の最後までいじられていた。はっ! 次こそ。
電車が出ることを知らせる笛が聞こえる。扉が閉まって……。
「あっ」
揺れに耐えられず晴喜先輩の肩を思わず掴んでしまう。結構マジだった。マジで掴んでなければよろけてたと思う。っていうよりまずはお礼を言わなきゃ。
「すみません!」
「い、いいよ」
ん、この感触。晴喜先輩は私の腰に腕を回していてくれた。それに気づいたのか慌てた様子でその手を引いて握り拳を作ってしまった。顔も私から背けてしまう。
「俺こそごめん。そ、その、触っちゃって」
これしきのことで謝るなんてウブすぎるよ。こんなカッコいいんだから女性の一人や二人の経験はあるに違いないのに。
「いいですって。むしろ私のほうがごめんなさいです」
「そ、そう」
軽く笑い飛ばしてこの気まずい雰囲気を打破しようとしてる。私たちって傍から見たらどういう風に見えてるんだろう? って、そんなことより。
「紗枝先輩っていつもあんな感じなんですか?」
晴喜先輩は目線も顔も唇も全部が上を向いて思い出しているようだ。私のために「んー」なんて唸って思い出そうとしてくれているだけでも嬉しい。くっきりな二重が更に強調される。薄い唇も素敵だ。上に向いていた全てが私に向く。その瞳に吸い込まれてしまいそうで、顔を背けることができなくなってしまった。
「俺以外の人に対してどうかはわかんないけど、俺に対してはいつもああだよ」
向き合って見ているとその端正な顔立ちがより一層引き立つ。目の前には先輩の喉仏。それが動いていた。低い声にも魅了されてしまう。身長もそこそこ高く、170後半くらいはあるんじゃないのかな。
「もしかして顔に何かついてる?」
「ついてないです!」
長い間見とれていたせいか、疑問を持ってしまったようだ。
「ついつい見とれちゃってました。晴喜先輩ってカッコいいですよね!」
「そんなことないよ」
先輩はそっぽを向いてしまった。ご謙遜なさらずとも良いのに。またその端正なお顔立ちの先輩がこちらを向いてきた。
「それより綾子さんの方がかわいいよ」
「うぇっ! わ、私がですか」
名前を呼ばれたことにもこの上ない幸福を感じたし、私ごときをかわいいなんて……もったいないお言葉です。
「あ、ありがとうございます」
とりあえずお礼を言っておく。と、この時点でお世辞なのではないかという猜疑心が渦巻く。私はお世辞で言ったつもりは毛頭ないけど、先輩はどうだろう。本心、なのかな。と、電車が止まった。
「俺、ここだけど、綾子さんは?」
「私もここです」
まさか同じ駅で降りるなんて、これはもう定められてる。私と晴喜先輩は付き合うしかない!
改札を抜けると、道は三方向に分かれる。ここでも私は信じていた。私と同じ道だと。同じどころか晴喜先輩の家と私の家は近いんじゃないかとまで思い始めてきた。
「私は直進ですけど、晴喜先輩は?」
「俺もだよ。じゃあ途中まで一緒に帰ろっか」
爽やかな笑顔をくださった。これが私一人だけに向けられた笑顔だと思うと、幸せな気分に浸れるし独り占めにしたい。先輩の笑顔をまぶたの裏に焼き付けて、帰ってからも思い返して堪能しよう。もう日がかげってきていて、先輩の表情もあまり読み取れなくなっていたことに気づく。まっすぐ前を見る横顔はそれでも端正に見えた。こんな人はもちろん、もちろん……彼女はいるよね。今さらそんなことに気づいてしまった。彼女がいたら私が彼女になれるわけがない。それとも愛人として生きていく? それは無理だ。って、そんなことより。いないかもしれないんだから確認しよう。
「晴喜先輩ってその、彼女とかいるんですか?」
「いないよ」
即答でした。すばらしい反応速度でした。サッカーでもこの反射神経が生かされてるのかなと思う次第です。どん底から天上にまで上り詰めた気持ちです。
晴喜先輩には見えないように小さくガッツポーズをする。彼女がいないという事実を知った私はまだまだがっついてみる。
「今まではどうでしたか?」
「今までもいないよ。女の子ってやっぱそういうの気になるの?」
「気になります。二年生ながらにしてサッカー部のエースと呼ばれるに相応しいって噂が立ってる人ですよ」
「俺はそんなこと言われるレベルじゃないよ」
ん、気づかないでいたけど、今までもいないってどういうこと? こんなカッコよくてモテそうな人が今までに彼女を持ったことがないって相当性格がひん曲がってるんじゃないのか。それとも本人が持っている問題なのか。交差点の信号待ちのために私たちは立ち止まった。
「俺なんかより、俊介先輩の方がすごかったよ」
そういえばさっきの先輩たちの話で出てきてた。安藤先輩の幼馴染だという俊介先輩。晴喜先輩と同じサッカー部なのか。
「俺より何十倍も人間ができてるし、サッカーだって一人だけ群を抜いて上手かった」
「俊介先輩ってサッカー部の方ですか?」
信号が青になって私たちはまた歩き始める。
「今はやめちゃっていないけどね。放課後はいつもプールとテニスコートの間にある陽だまりで休んでる人だよ。見たことない?」
ん、そんなところ見向きもしないから人がいるなんて気づかなかった。今度見てみようっと。
「ないです。そんなことより、晴喜先輩はどうして彼女作らないんですか? モテそうですけど」
「どうしてって言われてもなあ」
「女の人にトラウマでもあるんですか? あ、別に言いたくなければ全然いいです。想像で補完します」
「いや、しないで。ただ単にサッカーに集中したいからだよ。俊介先輩に少しでも近づきたいんだ」
その眼差しは真っ直ぐ前を見据えていた。そうなんだ……。彼女いないのはプラスポイントだったけど、彼女を作らない理由がそれじゃあ先輩自身を変えないと私は付き合えないってことか。家に帰ったら色々と方法を模索しよう。と、目前にコンビニが見えてきた。私の家はこのコンビニの前で曲がった先にある。
「私、ここです。まさか同じではないですよね?」
「そっか。さすがに違うよ。俺はもっと進んだところ」
業務連絡的に教えてくれた。その後、手を挙げてこの私にまたしても笑顔をくださった。
「今日はありがと。機会があったらまた。じゃね」
「こちらこそです。楽しかったです!」
私も手を振り返す。先輩が振り返るのを確認する。そのたくましい身体に肩からかけてる白のエナメルバッグがとってもお似合いです。今日あったことを忘れないうちに書き記すため、私は小走りで家を目指した。
「ありがとう」
届かなかった。私が蹴ったサッカーボールを拾うとその男の子は、はにかんだ笑顔をこちらに向けて戻っていった。
またとないチャンスを逃してしまった。私の恋する王子様はサッカー部の人で、一つ上の先輩だ。二年生ながらもサッカー部のエースとして期待されているみたいなんだな、これが。でもまだ名前は知らない。
私はテニス部で、同じ学校に通う生徒くらいしか共通点がない。つまり、何の接点もないのだ。だからちょっとしたことでもアクションをかける。テニスコートに行く振りをして、飛んできたサッカーボールを取るほどに。そうでもしなきゃ接点なんて作れない。
今日もまた進展がなかったことに気落ちしながらもテニスコートへ向かった。
***
「お疲れー。綾子、一緒に帰る?」
片づけを最後まで一緒にやってもらった、三年生の安藤先輩が声を掛けてくれた。
「ぜひとも!」
「元気が良くてよろしい」
うんうんと頷きながら目を細めて笑ってくれる。日が傾ぎ始めた中でも鮮明に見えるその表情に見とれてしまった。優しい先輩だなあ。私には到底無理だ。だって二つも歳が離れてるんだから。荷物を持ってテニスコートを後にする。
「綾子は中学のとき、なんの部活に入ってたの?」
「バドミントンです」
「へえ。バドか。何でバド部に入らなかったの?」
先輩にバドミントンの話を出すと、途端に神妙な面持ちになった。食いつきもすごくいいし。中学からテニス一筋の先輩にとっては不思議なことなんだろう。
「私、バドはそこまでうまくできなかったんですよね。だから高校では心機一転してテニスをやろうかなって」
「ふぅん。心機一転ってテニスもバドもあんまり変わらない気もするけど、頑張って。……って、どうしたの?」
私は歩みを止めていた。なぜなら。
「先輩……」
「先輩? 急にどうしたの」
グラウンドでサッカー部数人がまだ練習をしていた。居残り練習かな? よく見てみると、そこには私の恋する王子様がいた。今まで一人で帰っている時は、周りなんて気にしてなかった。いけない、安藤先輩が待っててくれてるのに。
「ごめんなさい」
「ははあん。好きな子がいるんだ?」
「違います! スポーツやってる人って素敵だなと思って」
「顔に嘘って書いてある」
うぐぐ。恋する乙女をバカにして……。
「どの子?」
ここは甘い誘惑に屈するしかないのか! いや待て。自分の力で関係を作りたい。けどこの好機を逃してしまうことを考えれば
「あの子です。あの黒いジャージの」
屈するしかなかった。だって先輩だし。私が指差した先を、安藤先輩は目を眇めて見極めた。
「もしや、大野のこと?」
大野先輩って言うんだ。苗字が分かっただけでも嬉しい。安藤先輩は腕を組んで、にこやかに笑った。なになに、大野先輩ってワケあり?
「あの子なら私、面識あるから話通そうか?」
「え」
そ、そんな好都合な! いや待て。これが事実だとするならだ。きっかけ作りがとても簡単になる。そのままシンデレラガールのごとく、付き合うところまで発展するかもしれない。
「お願いします!」
「元気でよろしい。じゃあちょっと待ってて」
そう言ってグラウンドに下りていく安藤先輩。その後ろ姿がなんとも心強かった。歩くたびに揺れるポニーテールも好印象だ。安藤先輩は練習中だというのに何の躊躇もなく大野先輩に近づいていく。
「お願い!」
思わず手を合わせて祈ってしまった。帰っていく生徒たちに奇異の目で見られてもどうだっていい。今は大野先輩のことしか考えられない。安藤先輩は大野先輩の手を無理やり引っ張って連れてこようとする。会いたいは会いたいけど、そこまでしていただくのもなんだか申し訳ない。だんだんと近づいてくる二人。話し声も聞こえてきた。
「ほら、君を好いてる子なんだよ。サッカー一筋もいいけど、恋愛もしなきゃいい男になれないって」
「いや俺そういうの望んでませんってば」
安藤先輩が恨めしい。大野先輩の手首を持ってるし、とても仲が良さそうだ。
「連れてきたよ」
目の前にすると緊張するなあ。大野先輩も緊張してるみたいで、口元がこわばってる。でもそんな表情もかっこよく見える。
「一年の山田綾子って言います。安藤先輩と同じテニス部です! よろしくお願いします」
元気が一番だ。ただ、次になんて言おうか悩んでしまう。と、ここで大野先輩の表情が緩んだ。耳の裏辺りをかいて照れくささを表現する。年上なのにカワイイなあもう。
「よ、よろしく。二年の大野晴喜です」
この無理やりな展開にどうもついていけてないようで敬語を使われた。そんなところもカワイイ。って、相手は先輩なのに何考えてるんだろ。名前は「晴喜」って言うんだ。その爽やかな風貌に似合う素敵なお名前だ。一歩前に出て勇気を振り絞る。
「晴喜先輩! 良ければ一緒に帰りませんか?」
我ながら大胆なことを言ってしまった! でもここで言わなきゃ進歩がない。晴喜先輩は戸惑った表情を見せる。返事を待っている間に全身を嘗めるように見る。すらっとした長い手足に、鍛えられた足腰。それを覆うのは遠くで見たときには黒に見えてた紺色のハーフパンツと、上はブランドロゴが胸に入った黒のシャツだ。坂で私が見下ろしてるのに高さがあまり変わらない。身長も理想的だ。髪型は遠くから見たとき同様で耳にかかる程度の長さで、右から分けている。長すぎず短すぎず、私のドストライクゾーンだ。先輩の何もかもが愛しく思えてきた。
「まだ練習が……」
「女の子の誘いを断るの? 別に二人きりじゃないんだしさー」
安藤先輩が救いの手を差し伸べてくださった。ありがたや。でも二人きりじゃないということは、安藤先輩もついてくるのか。いや、冷静に考えよう。二人きりだと話が詰まったときの気まずさが半端ない。いてくれた方がありがたい。
「紗枝先輩にそう言われたら断れないですよ。荷物取ってきますね」
大野先輩はまたグラウンドに戻って残ってる部員に事情を説明したようで、部室から白のエナメルバッグを持ち出してきた。荷物を持ってる姿も素敵。ちょっと小走りで待たせないようにしてくれるその心意気も私の胸を打つ。私たちが通っているこの高校は私服登校が認められているから、帰る時にわざわざ制服に着替えたりせずジャージのままで帰る生徒も多い。大野先輩もその一人だった。
「お待たせしました!」
体育会系男子特有の元気っぷりも良い。本当に晴喜先輩と付き合うことになったら私の胸はキュンキュンしまくりで平常心を保てなくなるかもしれない。それくらい私にとって先輩は魅力的だった。
私たちは校門を出て駅へ向かう下り坂を歩き始める。私が通う高校の生徒のほとんどは電車での通学だ。もちろん私たち3人もその例に漏れない。ただ、街に向かう上りと田舎に向かう下りが半々くらいという問題がある。私は下りだけど、先輩たちはどうなんだろう。
「晴喜先輩は電車は下りですか?」
「そうだよ」
心の中でガッツポーズをする。私も下りだ! そして、そっけなく答える感じも乙女心をくすぐってくる。って、私は晴喜先輩がどんな態度をとっても好意的に受け取ってしまいそう。そりゃ怒られたりしたらきっと嫌だけど……。晴喜先輩の向こうにいる安藤先輩が笑いかけてくる。
「私も下りだし、綾子も下りだったよね?」
その問いに頷く。直後、疑問が沸く。
「どうしてそれを?」
「朝に見かけることがあってさ。でも歩くの早くて追いつけなくて」
安藤先輩は闊達に笑い飛ばす。それに釣られてか晴喜先輩も爽やかな笑い声を上げる。白い歯が目立ちます。素敵です。
「そうなんだ。意外だな」
くうう。晴喜先輩に笑われてしまったではないですか。
「晴喜、良かったでしょ。私たちと一緒に帰って。案外綾子は面白いのよ」
「案外ってどういう意味ですか」
「真面目に見えるってこと」
このやり取りを間で見ていた晴喜先輩が苦笑いをする。
「そうですね。日ごろの疲れが吹っ飛びますよ」
「ま、晴喜くんは両手に花だしね」
「俺が女ったらしみたいじゃないですか!」
「そうじゃなかった?」
晴喜先輩は安藤先輩のからかいに対して、顔を紅潮させて恥ずかしさを爆発させてる。俯いてしまった。ウブだ。さらりとかわす余裕も見てみたかったけど、これはこれで満足だ。……って、晴喜先輩の笑顔や照れた顔を引き出しているのは全部安藤先輩だ。私も頑張らないと!
何を聞こうか悩んでいると駅がもうすぐの場所にまで来てしまった。カバンにくっついているペンギンが書かれている定期券を取り出し、改札にタッチして抜ける。駅の構内には既に電車が止まっていてダッシュで乗り込んだ。
「間に合った」
一息ついたところで、電車は動き出した。この発車の揺れに耐えられなくて晴喜先輩に抱きつこうとも考えたが、初対面でさすがにそれはないと思って堪えた。
「そういや、紗枝先輩は俊介先輩とはどうなんですか?」
「だから俊介は幼馴染って言ってるじゃない。それ以上でも以下でもない。それとも何? さっきのお返し?」
「そんな訳ないじゃないですか。ただ気になっただけです」
「晴喜くんも恋愛に興味ないふりしてやっぱ情事は気になるんだね。お年頃だもんね」
晴喜先輩はまたしても何も言い返せずに黙ってしまった。安藤先輩……怖いです。その笑顔が怖いですよ。いじる時は「くん」付けなんですか。私も仲良くなったらこんな風にいじられるのかな。そう思うと不安でたまらない。って、もうすでにいじられてるか。
――っと、身体がよろけた。もう隣の駅に着いちゃったのか。安藤先輩がちょこんと手を挙げ、
「あ、私ここだから。晴喜ぃ、好意持ってるからって綾子に手出したら承知しないからね」
そんな捨て台詞を吐いて颯爽と電車から出て行ってしまった。晴喜先輩は最後の最後までいじられていた。はっ! 次こそ。
電車が出ることを知らせる笛が聞こえる。扉が閉まって……。
「あっ」
揺れに耐えられず晴喜先輩の肩を思わず掴んでしまう。結構マジだった。マジで掴んでなければよろけてたと思う。っていうよりまずはお礼を言わなきゃ。
「すみません!」
「い、いいよ」
ん、この感触。晴喜先輩は私の腰に腕を回していてくれた。それに気づいたのか慌てた様子でその手を引いて握り拳を作ってしまった。顔も私から背けてしまう。
「俺こそごめん。そ、その、触っちゃって」
これしきのことで謝るなんてウブすぎるよ。こんなカッコいいんだから女性の一人や二人の経験はあるに違いないのに。
「いいですって。むしろ私のほうがごめんなさいです」
「そ、そう」
軽く笑い飛ばしてこの気まずい雰囲気を打破しようとしてる。私たちって傍から見たらどういう風に見えてるんだろう? って、そんなことより。
「紗枝先輩っていつもあんな感じなんですか?」
晴喜先輩は目線も顔も唇も全部が上を向いて思い出しているようだ。私のために「んー」なんて唸って思い出そうとしてくれているだけでも嬉しい。くっきりな二重が更に強調される。薄い唇も素敵だ。上に向いていた全てが私に向く。その瞳に吸い込まれてしまいそうで、顔を背けることができなくなってしまった。
「俺以外の人に対してどうかはわかんないけど、俺に対してはいつもああだよ」
向き合って見ているとその端正な顔立ちがより一層引き立つ。目の前には先輩の喉仏。それが動いていた。低い声にも魅了されてしまう。身長もそこそこ高く、170後半くらいはあるんじゃないのかな。
「もしかして顔に何かついてる?」
「ついてないです!」
長い間見とれていたせいか、疑問を持ってしまったようだ。
「ついつい見とれちゃってました。晴喜先輩ってカッコいいですよね!」
「そんなことないよ」
先輩はそっぽを向いてしまった。ご謙遜なさらずとも良いのに。またその端正なお顔立ちの先輩がこちらを向いてきた。
「それより綾子さんの方がかわいいよ」
「うぇっ! わ、私がですか」
名前を呼ばれたことにもこの上ない幸福を感じたし、私ごときをかわいいなんて……もったいないお言葉です。
「あ、ありがとうございます」
とりあえずお礼を言っておく。と、この時点でお世辞なのではないかという猜疑心が渦巻く。私はお世辞で言ったつもりは毛頭ないけど、先輩はどうだろう。本心、なのかな。と、電車が止まった。
「俺、ここだけど、綾子さんは?」
「私もここです」
まさか同じ駅で降りるなんて、これはもう定められてる。私と晴喜先輩は付き合うしかない!
改札を抜けると、道は三方向に分かれる。ここでも私は信じていた。私と同じ道だと。同じどころか晴喜先輩の家と私の家は近いんじゃないかとまで思い始めてきた。
「私は直進ですけど、晴喜先輩は?」
「俺もだよ。じゃあ途中まで一緒に帰ろっか」
爽やかな笑顔をくださった。これが私一人だけに向けられた笑顔だと思うと、幸せな気分に浸れるし独り占めにしたい。先輩の笑顔をまぶたの裏に焼き付けて、帰ってからも思い返して堪能しよう。もう日がかげってきていて、先輩の表情もあまり読み取れなくなっていたことに気づく。まっすぐ前を見る横顔はそれでも端正に見えた。こんな人はもちろん、もちろん……彼女はいるよね。今さらそんなことに気づいてしまった。彼女がいたら私が彼女になれるわけがない。それとも愛人として生きていく? それは無理だ。って、そんなことより。いないかもしれないんだから確認しよう。
「晴喜先輩ってその、彼女とかいるんですか?」
「いないよ」
即答でした。すばらしい反応速度でした。サッカーでもこの反射神経が生かされてるのかなと思う次第です。どん底から天上にまで上り詰めた気持ちです。
晴喜先輩には見えないように小さくガッツポーズをする。彼女がいないという事実を知った私はまだまだがっついてみる。
「今まではどうでしたか?」
「今までもいないよ。女の子ってやっぱそういうの気になるの?」
「気になります。二年生ながらにしてサッカー部のエースと呼ばれるに相応しいって噂が立ってる人ですよ」
「俺はそんなこと言われるレベルじゃないよ」
ん、気づかないでいたけど、今までもいないってどういうこと? こんなカッコよくてモテそうな人が今までに彼女を持ったことがないって相当性格がひん曲がってるんじゃないのか。それとも本人が持っている問題なのか。交差点の信号待ちのために私たちは立ち止まった。
「俺なんかより、俊介先輩の方がすごかったよ」
そういえばさっきの先輩たちの話で出てきてた。安藤先輩の幼馴染だという俊介先輩。晴喜先輩と同じサッカー部なのか。
「俺より何十倍も人間ができてるし、サッカーだって一人だけ群を抜いて上手かった」
「俊介先輩ってサッカー部の方ですか?」
信号が青になって私たちはまた歩き始める。
「今はやめちゃっていないけどね。放課後はいつもプールとテニスコートの間にある陽だまりで休んでる人だよ。見たことない?」
ん、そんなところ見向きもしないから人がいるなんて気づかなかった。今度見てみようっと。
「ないです。そんなことより、晴喜先輩はどうして彼女作らないんですか? モテそうですけど」
「どうしてって言われてもなあ」
「女の人にトラウマでもあるんですか? あ、別に言いたくなければ全然いいです。想像で補完します」
「いや、しないで。ただ単にサッカーに集中したいからだよ。俊介先輩に少しでも近づきたいんだ」
その眼差しは真っ直ぐ前を見据えていた。そうなんだ……。彼女いないのはプラスポイントだったけど、彼女を作らない理由がそれじゃあ先輩自身を変えないと私は付き合えないってことか。家に帰ったら色々と方法を模索しよう。と、目前にコンビニが見えてきた。私の家はこのコンビニの前で曲がった先にある。
「私、ここです。まさか同じではないですよね?」
「そっか。さすがに違うよ。俺はもっと進んだところ」
業務連絡的に教えてくれた。その後、手を挙げてこの私にまたしても笑顔をくださった。
「今日はありがと。機会があったらまた。じゃね」
「こちらこそです。楽しかったです!」
私も手を振り返す。先輩が振り返るのを確認する。そのたくましい身体に肩からかけてる白のエナメルバッグがとってもお似合いです。今日あったことを忘れないうちに書き記すため、私は小走りで家を目指した。
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