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君色の光【その2】

 珍しく車のブォンという排気音で目が覚めた。今日は父さん早番の日か。なんだか体を動かすのが億劫だ。それはたぶん
 ――由香。
 たった一言、名前を呼べばいいのにそれができない。できたとしてもその後が問題だ。呼ぶたびに空気が凍りつく。自然に名前を呼ぶことなんかできっこない。だるい体をなんとか起こした。隣の部屋で寝ている祐を起こそうと部屋の前で声をかけるが返事が返ってこない。いつもなら「ふあい」って素っ頓狂な声を出して、もぞもぞと音がするのに今日に限ってない。オレのほうが先に起きるはずなんだけど。ドアレバーに手をかけようか迷う。寝ているときに部屋に入られたら誰だって嫌だろう。お兄ちゃんとしてそれはどうなんだ。
「あ、兄ちゃん」
 祐の声だ!
 すぐさま声のした階段のほうを向くと、欠伸しながらかったるそうに階段を登る祐の姿が見えた。まだ寝間着姿だ。
「もう気分最悪」
 ……朝っぱらからなんなんだ。永沢のことで沈みに沈んでるところに気分が滅入ることを言わないでほしい。
「今日は早いね。どうかした?」
「いやさあ、いつにも増して兄ちゃんのいびきがひどすぎるから起きた」
 こっ、こやつ……。昔っからそうだけど、歯に衣着せぬ物言いだ。お兄ちゃん傷ついちゃうよ。もっとお兄ちゃんを敬ってほしい。気遣いがほしい。
「あのなぁ……もうちょっと言い方というか、あるだろ?」
「ない」
 何の臆面もなくスッパリ即答されて軽くへこむ。
「早起きしたい気分だったとか、見たいテレビがあっただとか」
 なんて言ってみたが、サラリと流されて部屋に入っていってしまった。はぁ……お兄ちゃん失格だ。完全になめられてる。気分が優れないまま、いつも通り祐の弁当と自分の弁当を作った。こんな気分だから味がおかしかったらごめんね、祐。父さんが作っておいてくれたワカメときゅうりのサラダを食べると元気がみなぎってくる。
 朝ご飯を食べ終わり、準備を整えて家を出た。


 眩しい。
 額に手をかざしながら見上げる。今が梅雨という時期を一切感じさせない雲一つない澄み渡った空。オレたちもこんな風に澄み切った関係でいたい。いずれ言わなくちゃいけない。オレには母さんがいないってこと、「由香」って普通に呼べないこと。
 見慣れた住宅を横目にとろとろ歩いてると前方に見覚えのある後姿が目に入った。思わず「あ」と声を上げてしまった。この時間に歩いてるだなんて……信じられない。めっちゃ落胆してる。落胆オーラを垂れ流してる。このままだと周りにまで感染してしまうぞ。オレは早足になってその人に声をかけた。
「ながさ……ゆ、か」
 昨日よりはさり気なく呼べた。
 ぎこちなく振り返ったのはオレの彼女である永沢。いきなり手繋いじゃったから怒ってないか不安だ。
「おはよう」
 めっちゃ顔が引きつってますがな。目が笑ってない。挨拶を返して、笑顔はこうするもんだと誇示するようにニッと笑うと永沢の表情も幾分かほぐれた。
「登校時間に会うなんて初めてじゃない?」
 できるだけ昨日のことはなかったかのように振舞う。
「そうかも。私ギリギリに来ること多いから」
「永沢らしいね」
 あ。つい慣れで「永沢」と呼んでしまった。でもこれはチャンスだ。オレはまだ心の準備ができていない。永沢をなめるように見つめると体を背けてしまった。……嫌だな、オレ。ちゃんと口で言えばいいのに。すると永沢の視線が地面にふっと落ちた。太陽に背を向けていて、寂しげな影が差す。
「今は永沢でいいよ。和樹くんが由香って呼べるようになるまで待つ」
 今の影を見たら手放しでは喜べないけど……本能は嬉しいみたいだ。自然に口元が緩む。
「うん、分かったよ。ありがと」
 永沢がオレにできる最大譲渡だ。ここはありがたく受け取っておこう。今日も名前で呼んでって言ったような暁には別れるしかないって思っていたけど、そうならなくてよかった。……ああ、永沢がそんな人じゃないってことはよく分かってるのに、疑心暗鬼になってしまって。まだ完全に背中を預けられるような仲じゃないんだ。
 流れで今日は永沢と学校に行くことになった。話も弾ませられないまま学校に着いてしまい自分の席につく。何も入っていないはずの机の中を探ると一枚の紙が入っているのが分かった。オレはどうせまたクラスメイトのラブレターか何かだろうと思って、即行捨てようと手に取ったが結構大きい。A4サイズだ。気になって見てみると、明朝体で『明日の昼休み、グラウンドによろしく』とでかでかと書いてあった。新手の告白かと思ったが、右下に小さく、小さく、これまた明朝体で『川澄』と書いてありあの先生ならやりかねないと思った。明日の昼休みか。永沢と食べることになってなくてよかった。何言っても付いてきそうだ。オレは今朝みたいに押し切られてしまいそうだから。
 自分で言うのもなんだけど授業を真面目に受けて、昼休みになった。永沢は……っと。教室から出ようとしている。やっぱオレといたくないのかな。
「永沢」
 ゆっくりとこちらを振り返った先に見えた表情は怯えたような感じだった。オレのこと怖い……のかな。女心って解らない。こんだけ優しく接してるのに。
「やっぱオレと居たくない?」
 永沢はそのままの姿勢で、眉間にしわを寄せてひとしきり逡巡すると、寄っていたしわがなくなりこちらを見る。答えが出たみたいだ。
「……ううん」
 永沢は言うと同時に首を横に静かに振った。本心なのか、はたまたオレが傷つかないように、って優しさなのかオレにはわからないや。即答して全力で否定するなら納得できたけど、今は考える間があった。優しくされるって場合によっては駄目なことなのかな。……考えてても結論なんかでやしないか。
「じゃ、行こ?」
 首を縦に振ってくれた。強制させるような口調で諭したつもりはないから、少なくとも自分の意思で一緒に居たいってことなんだろう。
 永沢はいきなり慌てだして「お弁当箱持ってきてない」と言い出すと、オレを押しのけて一目散に自分の机へと走っていった。そういうどこか抜けてるところが好きなんだよな。それにしてもオレを押しのけるなんて……いいやい、オレのことなんかどうでもいいんだろ。すごすごと教室から退散すると、間もないうちに背後からパタパタと慌しい足音が聞こえた。背後に気配を感じる距離になると静かな足音へと変化した。永沢だろうな。これで違ってたらこの約一ヶ月間、永沢の何を見てたんだ、って話になってしまう。階段を降りて下駄箱に向かう。すれ違うバスケ部の下級生から「どうしたんですか、先輩。奴隷でも従えたんですかっ?」とか嫌な野次が聞こえてきたが「違うわ」と猛反論すると静まってくれた。永沢にはあんまり気に留めてほしくないな。靴を履き替えて体育館へと向かった。
「今日はここにしよう」
 ……あれ。反応がない。もしかして永沢じゃなかったとか? 嫌な予感がする。それを振り切るように後ろを振り向くとそこには……永沢の姿があった。心ここにあらずって感じだ。ぽかーんとしちゃってる。聞こえてないだけかな。なんか猛烈に不安になってきた。
「あんまり人いないし、たまにはいいと思うけどなぁ」
 同意を求めると
「ここでいいよ」
 応じてくれたようだ。
「よっし、座ろう」
 不安が霧消されて、なんだか気分が乗っていて鼻歌なんか歌っちゃってる。「おーきな栗のぉ木の下でぇ〜あーなーたーとわぁたぁし〜」って気分だ。明らかに永沢には引かれてしまっている。まぁ羽目はずすのもたまには良いけど。高揚した気分が落ち着いてきて、永沢を冷静に見ると考え事しちゃってる。永沢には考え事って似合わないと思うんだけどな。でも本人にしたら「似合わない」ってそれだけで抑止されちゃあ堪ったもんじゃないか。
「いただきます」
 ハッと我に返った永沢が続いた。
「いただきまーす」
 でも食べる気配がない。オレの食べる姿を観察……じゃなくて左腕に視線が集まっている気がする。そのうち左腕に据えていた視線をオレに移した。身長はもちろん、座高も差がつくから永沢は必然的に上目遣いになる。それほど上を向くってワケじゃないけど、パッチリとした二重が綺麗に見える。
「ね、どうして左手で食べるの?」
 嫌な空気。
「……それはこの前言ったじゃないか。永沢も納得してたじゃん」
「それを言われると弱っちゃうなぁ。でもあのとき目が泳いでたよ?」
「……っ」
 オレ、どんだけ嘘をつけない性分なんだ。こういうときの強気の永沢はこわい。
「それは……」
 まだ言えない。もっと関係修復してからじゃないとまた壊してしまう。
「待った!」
「えっ?」
 意外な一言に驚く。いや、自ら焦らすつもりなのか? そうだとしたら素直すぎる。俺は恐る恐る問い質した。
「聞かないでいいの?」
「朝と同じっ! 言ってくれるようになるまで待つよ」
 え。
 一瞬理解できなかったけど徐々に分かってきた。なんとお優しい。関係修復してからでないと、このことはきちんと理解されないだろうから。そうだ。お優しいあなたには、気分がおかしかったから変な味になってるかもしれないけど、オレの一番得意な手料理、玉子焼きをあげよう。
「これあげる」
「ん?」
 箸を持ち直してオレの弁当箱に入っている玉子焼きを由香の弁当箱に移した。もちろん持ち手のほうで。咥えたほうで掴むと嫌がる子とかいるからな。
「貰っていいの?」
「永沢がオレに無理強いさせてこなかったお礼」
 首を傾げてニコッと笑うと苦笑いみたいな微妙な表情を作られた。強引過ぎたか? もしや玉子焼き嫌いだったりして。
「ありがとう」
「玉子焼きってオレの得意料理なんだ」
 ……自分から何言ってるんだ。驕りたかぶってるみたいだぞ。
「和樹くんって料理するの?」
「中学上がったときから弁当は自分で作ってる」
 永沢の瞳が羨望の眼差しに変わってきた。
「オレは夕食担当で毎日作ってるよ。朝は父さんが作ってくれるけど、仕事が忙しくて朝まで帰ってこないときとかはオレが作ったりしてるんだ」
 もうこの際驕りたかぶってたって何だっていい。真実だもん。偉そうに言ってる気はさらさらないけど、永沢にはそう見えてるかもしれない。そして永沢はまた考え事。今度は「うぅん」と何度も唸ってる。そんな難しいこと考えるところなんて今の場面にあった?
「お母さんが何らかの理由でいないってこと?」
 突然話題転換されてびびった。いきなりこの子は何を言い出すんだ、と思ったけど今の口ぶりだと普通の人は母親がいないって思うんだろう。母さんがいないのはオレの中では当然のこと過ぎて考えもしなかった。すぅ〜と息を吸い
「オレには子どものころから母さんがいないからね」
 ため息交じりにそんなことを呟いた。親がいるっていうことが当然な人にはどう感じるんだろう。母さんが今も生きていたら……駄目だ。「もしも」の話は嫌いだ。それにあのときのことを思い出すとやりきれない気持ちで一杯になる。オレは少しでも雲散させるために気合を入れなおした。
「さ、食べよう」
 自分の弁当箱に目をやると視界の端に永沢が映った。ウキウキ顔になっていてなにやら楽しそうだ。玉子焼きあげたんだっけ。空気が濃密になりすぎてしまって忘れていた。弁当箱揺らして何やってるんだ。悪いけど身障にしか見えない。
「いっただきまーす」
 溌剌にそう言うと玉子焼きをやっと口にした。美味しそうに頬張ると、喜々として目を細めてうっとりとしている。
「どう?」
「おいしいっ!」
「そう? 喜んでもらえてよかった」
 語呂悪いけど料理人冥利に尽きる。しかも言いにくいときた。でもそのぐらい嬉しいな。永沢にそう言ってもらえると。
「これなら料理大会に出られるよ! これで食べていけるよ。お店出せるよ! というか出して!」
 あの、途中まではいいんですが最後は意見からお願いにシフトしてます。
「さすがにそれは無理だって」
 そんなに太鼓判押すほどかなぁと思って、残ったもう一切れを食べて歓喜に沸いたのは内緒だ。オレが作る料理は気分が落ち込むほどうまくなるのかもしれない。

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