君色の光【その1】
 ゆか。由香って、呼んで。

 有無を言わせぬ口調でそう強く言われた。永沢の寂しげな顔は見たくないと思って、つらいけど……自分の感情を押し殺して名前を呼んだ。心がちぎれるような思いだった。呼吸するのすらつらく感じる。「ゆか」って名前はどうしても母さんを連想してしまって、封印している記憶が奔流のように流れ出た。悲しい記憶ばかりが呼び起こされる。朦朧とした意識の中で永沢の声が頭に反響する。
「ごめん、ね。無理させちゃって」
 永沢が謝る必要性はない。名前は不可抗力だ。親に付けられたもので選ぶ権利は本人にはない、どうやったって変わることのないものだ。一生付き合っていかなきゃならない。永沢を少しでも安心させるために
 不可抗力だよ。
 その一言を差し出せなかった。嗚咽が込み上げてきて喉が締め付けられる。……眩暈もしてきた。名前を呼んだだけで気分最悪になるなんてみっともない。これからどう克服していけばいいんだろう。それが頭にへばりついて取れない。永沢は名前で呼んでほしいんだ。だったら……。呼べない。やっぱ無理だ。こういうときに出せない「優しさ」がもどかしい。
「今日はもう……帰るね」
「ああ」
 声が出た。
 深層心理は永沢にはもう帰ってほしいって思ってるんだ。人のことを安心させるより自分のほうが大事だから。きっと心のどこかでそう思ってるんだ。日常じゃ相手に尽くせるけど、いざとなったら自分が大事なんだ。逆のほうが……良かった。
 あ、もう外は暗いんだった。こんな時間に永沢を一人で帰せない。オレは電気を消して部屋を飛び出した。……え。電気が点いてない。永沢は変なところで遠慮する人だから勝手に点けるのは悪いと思ったんだろう。オレはいつものようにスイッチを押し込んで電気を点けた。二階の廊下から見える階段に永沢の姿はない。ひょっとしてもう出ちゃったのかも。早くしないとっ!
 静かに階段を駆け下りようと少し下ると、視界に永沢の姿が見えた。玄関の扉の前で立ち尽くしている。嗚咽は引いていた。
「送るよ」
 そう声をかけた途端、永沢の体がピクリと波打ち瞬間俯いた。微動だにしない。すたすたと残りの段差を下りて、静かに近づき後ろから安心させるようにできる限り優しい声音で囁いた。
「外は暗いよ。女の子をこんな時間に一人で歩かせられない」
 永沢は更に俯き、口篭った感じで小さな声を出す。
「うっ……私の家近いからいいよ」
「そういうわけにはいかないって」
 後ろからなので全然表情が分からない。様子を窺おうと覗き込もうとするとそっぽを向かれてしまった。
「じゃ、じゃあ……」
「行こう」
 承諾の色を見せたので多少強引気味に外へ連れ出した。あのままだったら埒が明かなかったと思う。
「うぅ〜、さぶっ」
「大丈夫?」
 そこまで寒くはないと思ったけど、永沢は上に着ている服が一枚みたいだ。上の半袖シャツを脱いで、そろりと永沢の背後に立ち今脱いだシャツをかぶせる。それに気づいたのかオレのほうを向いて驚きの声を上げた。驚きで開いた真ん丸な瞳が可愛いぞ。
「ど、どうして?」
「寒いって言うから」
 疑問を投げかけてきたわりに、かぶせた半袖シャツをクロスさせた手でぎゅうっと握ってる。歩こうと前を向くと中に着てたシャツの裾を引っ張られた。一瞬転けるかと思ったぞ。歩いてる最中に引っ張られるとバランスが崩れる。
「悪いよ」
 ちょっと肌寒いけど
「いいって。オレなら大丈夫」
 顔だけ永沢に向き、ニッと笑ってみせた。困惑してる表情も可愛い。この感情……駄目だ、抑えきれない。
「えっ」
 永沢の左手を取って手を繋いだ。冷えている。冷え性なのかな。今日はデートだって言うからそういうつもりで来たんだ。それなのに何のアクションもなくて……我慢していたのを抑えきれなくなった。永沢とオレの今の状況を考えて、手を繋ぐっていうことに押し留めたけど本当はもっと。
「行くぞ」
 やっぱこういうのって恥ずかしい。振り切るためにいつもの、常人より速い歩調になってしまっている。永沢の息切れした吐息を聞いても止まる気にはなれなかったけど
「ちょっと」
 声だと止まる気になれた。
「あ。……ご、めん」
 そういう気になってしまっているから、息切れしている永沢のことが……とても愛らしく思える。くはぁっ。ギリギリだ。ギリギリのところで感情を押し殺せた。抱きしめたい衝動を押し殺せた。そんな自分が限りなく嫌になる。さっきは、感情の赴くままに「いやだ」って言ったほうが良かったのかな。でもそれだと永沢の願いを叶えられない。自分を優先したい気持ちと相手を優先したい気持ち、この齟齬が堪らなく歯痒い。……まずは永沢を無事、家に送り届けよう。オレは永沢の歩調に合わせながら再び歩き出した。
 そうこうしているうちにあっという間に、永沢が住んでいるマンションの前に着いてしまった。
「返すね」
 永沢は名残惜しそうにオレの上着を脱いで手渡してくれた。
「ありがとう、暖かくてほっこりした」
 そういう古めかしい表現って大好きだ。だから永沢のことを好きになれたんだ。
「うん。よかった。じゃあオレはここで。また明日」
「また……またね」
 そのときの永沢の寂しそうな表情を忘れることが出来なかった。
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君色の光【その2】
 珍しく車のブォンという排気音で目が覚めた。今日は父さん早番の日か。なんだか体を動かすのが億劫だ。それはたぶん
 ――由香。
 たった一言、名前を呼べばいいのにそれができない。できたとしてもその後が問題だ。呼ぶたびに空気が凍りつく。自然に名前を呼ぶことなんかできっこない。だるい体をなんとか起こした。隣の部屋で寝ている祐を起こそうと部屋の前で声をかけるが返事が返ってこない。いつもなら「ふあい」って素っ頓狂な声を出して、もぞもぞと音がするのに今日に限ってない。オレのほうが先に起きるはずなんだけど。ドアレバーに手をかけようか迷う。寝ているときに部屋に入られたら誰だって嫌だろう。お兄ちゃんとしてそれはどうなんだ。
「あ、兄ちゃん」
 祐の声だ!
 すぐさま声のした階段のほうを向くと、欠伸しながらかったるそうに階段を登る祐の姿が見えた。まだ寝間着姿だ。
「もう気分最悪」
 ……朝っぱらからなんなんだ。永沢のことで沈みに沈んでるところに気分が滅入ることを言わないでほしい。
「今日は早いね。どうかした?」
「いやさあ、いつにも増して兄ちゃんのいびきがひどすぎるから起きた」
 こっ、こやつ……。昔っからそうだけど、歯に衣着せぬ物言いだ。お兄ちゃん傷ついちゃうよ。もっとお兄ちゃんを敬ってほしい。気遣いがほしい。
「あのなぁ……もうちょっと言い方というか、あるだろ?」
「ない」
 何の臆面もなくスッパリ即答されて軽くへこむ。
「早起きしたい気分だったとか、見たいテレビがあっただとか」
 なんて言ってみたが、サラリと流されて部屋に入っていってしまった。はぁ……お兄ちゃん失格だ。完全になめられてる。気分が優れないまま、いつも通り祐の弁当と自分の弁当を作った。こんな気分だから味がおかしかったらごめんね、祐。父さんが作っておいてくれたワカメときゅうりのサラダを食べると元気がみなぎってくる。
 朝ご飯を食べ終わり、準備を整えて家を出た。


 眩しい。
 額に手をかざしながら見上げる。今が梅雨という時期を一切感じさせない雲一つない澄み渡った空。オレたちもこんな風に澄み切った関係でいたい。いずれ言わなくちゃいけない。オレには母さんがいないってこと、「由香」って普通に呼べないこと。
 見慣れた住宅を横目にとろとろ歩いてると前方に見覚えのある後姿が目に入った。思わず「あ」と声を上げてしまった。この時間に歩いてるだなんて……信じられない。めっちゃ落胆してる。落胆オーラを垂れ流してる。このままだと周りにまで感染してしまうぞ。オレは早足になってその人に声をかけた。
「ながさ……ゆ、か」
 昨日よりはさり気なく呼べた。
 ぎこちなく振り返ったのはオレの彼女である永沢。いきなり手繋いじゃったから怒ってないか不安だ。
「おはよう」
 めっちゃ顔が引きつってますがな。目が笑ってない。挨拶を返して、笑顔はこうするもんだと誇示するようにニッと笑うと永沢の表情も幾分かほぐれた。
「登校時間に会うなんて初めてじゃない?」
 できるだけ昨日のことはなかったかのように振舞う。
「そうかも。私ギリギリに来ること多いから」
「永沢らしいね」
 あ。つい慣れで「永沢」と呼んでしまった。でもこれはチャンスだ。オレはまだ心の準備ができていない。永沢をなめるように見つめると体を背けてしまった。……嫌だな、オレ。ちゃんと口で言えばいいのに。すると永沢の視線が地面にふっと落ちた。太陽に背を向けていて、寂しげな影が差す。
「今は永沢でいいよ。和樹くんが由香って呼べるようになるまで待つ」
 今の影を見たら手放しでは喜べないけど……本能は嬉しいみたいだ。自然に口元が緩む。
「うん、分かったよ。ありがと」
 永沢がオレにできる最大譲渡だ。ここはありがたく受け取っておこう。今日も名前で呼んでって言ったような暁には別れるしかないって思っていたけど、そうならなくてよかった。……ああ、永沢がそんな人じゃないってことはよく分かってるのに、疑心暗鬼になってしまって。まだ完全に背中を預けられるような仲じゃないんだ。
 流れで今日は永沢と学校に行くことになった。話も弾ませられないまま学校に着いてしまい自分の席につく。何も入っていないはずの机の中を探ると一枚の紙が入っているのが分かった。オレはどうせまたクラスメイトのラブレターか何かだろうと思って、即行捨てようと手に取ったが結構大きい。A4サイズだ。気になって見てみると、明朝体で『明日の昼休み、グラウンドによろしく』とでかでかと書いてあった。新手の告白かと思ったが、右下に小さく、小さく、これまた明朝体で『川澄』と書いてありあの先生ならやりかねないと思った。明日の昼休みか。永沢と食べることになってなくてよかった。何言っても付いてきそうだ。オレは今朝みたいに押し切られてしまいそうだから。
 自分で言うのもなんだけど授業を真面目に受けて、昼休みになった。永沢は……っと。教室から出ようとしている。やっぱオレといたくないのかな。
「永沢」
 ゆっくりとこちらを振り返った先に見えた表情は怯えたような感じだった。オレのこと怖い……のかな。女心って解らない。こんだけ優しく接してるのに。
「やっぱオレと居たくない?」
 永沢はそのままの姿勢で、眉間にしわを寄せてひとしきり逡巡すると、寄っていたしわがなくなりこちらを見る。答えが出たみたいだ。
「……ううん」
 永沢は言うと同時に首を横に静かに振った。本心なのか、はたまたオレが傷つかないように、って優しさなのかオレにはわからないや。即答して全力で否定するなら納得できたけど、今は考える間があった。優しくされるって場合によっては駄目なことなのかな。……考えてても結論なんかでやしないか。
「じゃ、行こ?」
 首を縦に振ってくれた。強制させるような口調で諭したつもりはないから、少なくとも自分の意思で一緒に居たいってことなんだろう。
 永沢はいきなり慌てだして「お弁当箱持ってきてない」と言い出すと、オレを押しのけて一目散に自分の机へと走っていった。そういうどこか抜けてるところが好きなんだよな。それにしてもオレを押しのけるなんて……いいやい、オレのことなんかどうでもいいんだろ。すごすごと教室から退散すると、間もないうちに背後からパタパタと慌しい足音が聞こえた。背後に気配を感じる距離になると静かな足音へと変化した。永沢だろうな。これで違ってたらこの約一ヶ月間、永沢の何を見てたんだ、って話になってしまう。階段を降りて下駄箱に向かう。すれ違うバスケ部の下級生から「どうしたんですか、先輩。奴隷でも従えたんですかっ?」とか嫌な野次が聞こえてきたが「違うわ」と猛反論すると静まってくれた。永沢にはあんまり気に留めてほしくないな。靴を履き替えて体育館へと向かった。
「今日はここにしよう」
 ……あれ。反応がない。もしかして永沢じゃなかったとか? 嫌な予感がする。それを振り切るように後ろを振り向くとそこには……永沢の姿があった。心ここにあらずって感じだ。ぽかーんとしちゃってる。聞こえてないだけかな。なんか猛烈に不安になってきた。
「あんまり人いないし、たまにはいいと思うけどなぁ」
 同意を求めると
「ここでいいよ」
 応じてくれたようだ。
「よっし、座ろう」
 不安が霧消されて、なんだか気分が乗っていて鼻歌なんか歌っちゃってる。「おーきな栗のぉ木の下でぇ〜あーなーたーとわぁたぁし〜」って気分だ。明らかに永沢には引かれてしまっている。まぁ羽目はずすのもたまには良いけど。高揚した気分が落ち着いてきて、永沢を冷静に見ると考え事しちゃってる。永沢には考え事って似合わないと思うんだけどな。でも本人にしたら「似合わない」ってそれだけで抑止されちゃあ堪ったもんじゃないか。
「いただきます」
 ハッと我に返った永沢が続いた。
「いただきまーす」
 でも食べる気配がない。オレの食べる姿を観察……じゃなくて左腕に視線が集まっている気がする。そのうち左腕に据えていた視線をオレに移した。身長はもちろん、座高も差がつくから永沢は必然的に上目遣いになる。それほど上を向くってワケじゃないけど、パッチリとした二重が綺麗に見える。
「ね、どうして左手で食べるの?」
 嫌な空気。
「……それはこの前言ったじゃないか。永沢も納得してたじゃん」
「それを言われると弱っちゃうなぁ。でもあのとき目が泳いでたよ?」
「……っ」
 オレ、どんだけ嘘をつけない性分なんだ。こういうときの強気の永沢はこわい。
「それは……」
 まだ言えない。もっと関係修復してからじゃないとまた壊してしまう。
「待った!」
「えっ?」
 意外な一言に驚く。いや、自ら焦らすつもりなのか? そうだとしたら素直すぎる。俺は恐る恐る問い質した。
「聞かないでいいの?」
「朝と同じっ! 言ってくれるようになるまで待つよ」
 え。
 一瞬理解できなかったけど徐々に分かってきた。なんとお優しい。関係修復してからでないと、このことはきちんと理解されないだろうから。そうだ。お優しいあなたには、気分がおかしかったから変な味になってるかもしれないけど、オレの一番得意な手料理、玉子焼きをあげよう。
「これあげる」
「ん?」
 箸を持ち直してオレの弁当箱に入っている玉子焼きを由香の弁当箱に移した。もちろん持ち手のほうで。咥えたほうで掴むと嫌がる子とかいるからな。
「貰っていいの?」
「永沢がオレに無理強いさせてこなかったお礼」
 首を傾げてニコッと笑うと苦笑いみたいな微妙な表情を作られた。強引過ぎたか? もしや玉子焼き嫌いだったりして。
「ありがとう」
「玉子焼きってオレの得意料理なんだ」
 ……自分から何言ってるんだ。驕りたかぶってるみたいだぞ。
「和樹くんって料理するの?」
「中学上がったときから弁当は自分で作ってる」
 永沢の瞳が羨望の眼差しに変わってきた。
「オレは夕食担当で毎日作ってるよ。朝は父さんが作ってくれるけど、仕事が忙しくて朝まで帰ってこないときとかはオレが作ったりしてるんだ」
 もうこの際驕りたかぶってたって何だっていい。真実だもん。偉そうに言ってる気はさらさらないけど、永沢にはそう見えてるかもしれない。そして永沢はまた考え事。今度は「うぅん」と何度も唸ってる。そんな難しいこと考えるところなんて今の場面にあった?
「お母さんが何らかの理由でいないってこと?」
 突然話題転換されてびびった。いきなりこの子は何を言い出すんだ、と思ったけど今の口ぶりだと普通の人は母親がいないって思うんだろう。母さんがいないのはオレの中では当然のこと過ぎて考えもしなかった。すぅ〜と息を吸い
「オレには子どものころから母さんがいないからね」
 ため息交じりにそんなことを呟いた。親がいるっていうことが当然な人にはどう感じるんだろう。母さんが今も生きていたら……駄目だ。「もしも」の話は嫌いだ。それにあのときのことを思い出すとやりきれない気持ちで一杯になる。オレは少しでも雲散させるために気合を入れなおした。
「さ、食べよう」
 自分の弁当箱に目をやると視界の端に永沢が映った。ウキウキ顔になっていてなにやら楽しそうだ。玉子焼きあげたんだっけ。空気が濃密になりすぎてしまって忘れていた。弁当箱揺らして何やってるんだ。悪いけど身障にしか見えない。
「いっただきまーす」
 溌剌にそう言うと玉子焼きをやっと口にした。美味しそうに頬張ると、喜々として目を細めてうっとりとしている。
「どう?」
「おいしいっ!」
「そう? 喜んでもらえてよかった」
 語呂悪いけど料理人冥利に尽きる。しかも言いにくいときた。でもそのぐらい嬉しいな。永沢にそう言ってもらえると。
「これなら料理大会に出られるよ! これで食べていけるよ。お店出せるよ! というか出して!」
 あの、途中まではいいんですが最後は意見からお願いにシフトしてます。
「さすがにそれは無理だって」
 そんなに太鼓判押すほどかなぁと思って、残ったもう一切れを食べて歓喜に沸いたのは内緒だ。オレが作る料理は気分が落ち込むほどうまくなるのかもしれない。
Index
君色の光【その3】
 昼休みだって言うのに休まらない。体も心も。……耳も。
「和樹ぃ〜、最近由香と仲が良いんだって?」
 生徒会の、甲高い声を持つ日野麻衣さんが執拗に永沢とオレのことを聞いてくる。もう金切り声を通り越して超音波になってしまっているぞ。室内だからなおさら酷い。オレたちのことを呼び捨てにしているが日野さんは一年生だ。年上の人に対して「さん」付けがないなんて不届き者だ。悪い方向ではないけど入学当初から問題児みたいでクラスから一目置かれてるらしい。オレもそういう常識ない人って苦手だ。無視を決め込む。
「ねぇ〜、和樹ってば」
 甘い声を出せば男が付いてくると思ったら大間違いだ。まぁ確かに男はそういう傾向あるけどさ、オレはそうじゃないんだよ。
「なに?」
 力強い口調でそう言うとさすがの日野さんでもおののいたらしく、口元や眉根を変形させて顔を歪ませた。オレも顔が歪んでるかもしれない。日野さんのキンキン声で。
「こうして一緒に食べてるんだから楽しくしようよ」
 やたら寂しそうに言うもんだから……乗っかってしまった。
「ごめん。そう見えた? 食事は楽しいほうがいいよね」
 オレって優しいなぁ。だから先生から「優男」なんて称号を貰っちゃうのか。
「絶対そう! だからぁ……お願い。昼休みだけで良いから寄り添わせて」
 は?
 たかが生徒会で一緒ってだけでそこまでするのはおかしいと思うぞ。ここは生徒会室で普段は人が入って来ないけど、万が一でも見られたときに永沢に誤解されたくないし。ムッツリして体を背けると後ろから腕が伸びてきた。首に回されて後ろから……抱きつかれてる。密着状態だ。あの、背中に柔らかいものが当たってるんですが。寄り添う以上のことしてんじゃねーか、なんて突っ込もうと思ったがやめといた。だって……男にとってこんな幸せな状態はない。すぐに手放したくない。振り向いて抱き返してやりたいくらいだ。でも、今は。
 熱い吐息を吹きかけてくる人の腕を払って状態を解いた。今度は正対する。日野さんは少し憮然としている。
「君の言う通りオレと永沢は仲良いよ。分かってるんならさ、オレに手を出すってことがどういうことか分かるよね?」
「和樹を私に浮気させるのよ」
 しまった。もうちょっと考えてから物を言うんだった。日野さんは悪戯っ子みたいに不敵な笑みを浮かべる。
「それに和樹はなんで仲良いのに由香のこと苗字で呼んでるの? おかしくない?」
「それは……」
 辛辣な口調で問われ思わず言葉に詰まる。永沢にすら言ってないことなのに日野さんに話すなんてフェアじゃない。日野さんは調子に乗ったようでバンバン言ってくる。
「理由言ってよ。まさか、言えないの?」
 日野さんは高飛車な口調で、言おうと思っても言えない。オレが名前で呼べない理由はそんな簡単なことじゃないんだ。驕りじゃないけどオレの過去を話すと、その人が追体験してるみたいで嫌になる。不幸な過去を持ってる悲劇のヒロイン……じゃなくてヒーローぶるのは嫌いなんだ。ましてオレが起こした悲劇も同然だから労ってくれって言ってるようなもんだ。しかもそれはオレが一番なりたくない立場。だからオレは気心が知れた人で必要のある人にしか言わない。大の親友である亮にだってまだ何も言ってない。話す必要がないから。
「……言えないんだったらさ、あたしのこと『好き、大好きだよ』って言って。それで許すから」
 意味が解らない。なんでそういうことになるんだ。オレは話すなんて一言も発してない。日野さんが勝手に推し進めただけだ。
「それも言えないんだったら、行動で示して。あたしと和樹が付き合っているように振舞って」
 そんなの最大の屈辱だ。永沢に見られたら絶交されてしまう。それをするぐらいだったら
「好き、だ、よ」
「え、なぁに? き・こ・え・な・い」
 惨め。
「好き。大好きだよ。……オレは君のことしか見えない」
 言いながら泣いていくのが分かった。
「なっ、涙なんてずるい! 男でもずるい」
 嗚咽が止まらない。本心ではないにしても永沢のことを一縷でも裏切ってしまったことに心がうずく。
 ようやく落ち着いてきて日野さんのことを直視する。男に泣かれてさぞかし不憫だったろう。日野さんは弁当のご飯を男らしくかっ込みながら雄弁に話してくれた。女の子には褒め言葉にならないけど男らしくてかっこいい。
「泣かれるくらいつらいなんて思わなかったよ。ここは譲歩して、今まで通りに付き合ってくれればよしとする」
「……わかった」
 上から目線だけどだいぶ譲歩してくれた。何も話さないで気まずい雰囲気のまま、弁当箱を片付けて生徒会室を出る。外気に触れてやっと気分が晴れてきた。今日は早めに済ませたから生徒が全然見えない。ガヤガヤしてるのは聞こえるけど姿がないとちょっとだけ違和感を覚える。隣を歩いている日野さんの肩を掴みオレに向けさせる。頬がポッと赤くなった気がする。そんなつもりは全然ないのに。謝るだけだ。
「ごめん、泣いちゃって」
 90度体を傾けて頭の上で手を合わせる。
 む、むはっ。太ももが目の前に。……いかん、いかん。どんだけ変態目線なんだ。オレは日野さんに誠実に謝ろうとしてるだけで、変態になろうなんていつ決めたんだ。この欲求不満はたぶん、永沢がそれらしいこと――手を繋ぐぐらいしかしてくれないからなのかな。それぐらいで止まってるなんて健全な男子高生にはつらいです。オレからアクションすべきなのかな。天から声が聞こえてきたので頭を上げる。
「いいよ。涙を止めないほうが……む、難しいんだから」
 恥ずかしがってるのかな。そっぽ向いてしまった。っていうか、何も考えないでグラウンドに来てしまった。でもここまで来ちゃったしいっか。「一人で」なんて書いてなかったし。川澄先生とおぼしき人物が運動部の部室の傍でオーバーリアクション気味に両手を振って場所を指し示している。「おーい、ここだぞ」なんて声まで張り上げちゃって。気づいてます。その無駄な体力の浪費を止めてあげたい。日野さんがいなければ走ったんだけどなぁ。
「あれって川澄先生じゃない? 和樹に何か用あるの?」
「さぁね。ここに来いって言われただけだから何も分からない」
「あたしも、行っていいかな」
 日野さんって何事に対しても無遠慮だからこのまま何事もなかったかのように「付いてきちゃった☆」みたいに振舞うと思ってたから意外だ。
「いいよ」
 ここまで来て追い返すワケにもいかない。日野さんは「んよっし」と言って右手で小さく握り拳を作った。女の子のそういう姿って好きだな。隠そうとしてるけど見えちゃうあたり。やがて川澄先生の下に着いた。
「よぅし、作戦開始だ!」
「は?」
 思わず声が揃ってしまった。隣にいる日野さんを見ると間抜け顔だ。ぽかーんとしちゃってる。そりゃそうだよな。川澄先生の奇矯は目を見張るものがある。言っちゃなんだが、頭おかしいとしか思えない。でもそれでいて相手のことを見透かす斟酌の力もある。不思議な人だ。
「何の作戦ですか」
「ああ、用件言ってなかったっけ」
 あんな誇大広告渡しといてコロッと忘れないでほしい。
「実はな、今度あるインハイのために過去のデータを見ようと思ったんだがなくてな」
「それでオレを巻き込もうと?」
「ああ」
 即答され、複雑な気持ちになる。
「日野さんも一緒だったか。ちょうどいいな。人手は多いほうがいい」
「じゃあなんでオレたちしかいないんですか」
 辺りを見回しても人っ子一人見えない。来る気配もない。
「ビラ配ってもお前しか来そうになかったから」
「う……」
 不覚っ。優男を利用されてしまった。
「まぁまぁ。そのデータは運動部の、この部室にあるんですよね?」
 日野さんが助け船を出してくれた。ありがたや。これがもし永沢だったら……駄目だ。考えちゃいけない。比べちゃいけないよ。
「そうだ」
「そんな大事なものを部室に保管するのは無用心だと思いますけどね」
「まあ……それもそうだな」
 口調はともかくやっぱ無遠慮だった。とそこで身体特徴に見覚えのある影がポツンと見えた。こっちに向かって歩いてるのかな、だんだんと大きくなっていく。
「あれ」
「庄子、どうした」
「人影が見えたような……」
 そんなことを話していると日差しを真後ろから浴びた影は歩くのをやめたようで大きくなるのは止まった。こっちは太陽をバックに見てるからうっすらとしか見えない。ほどなくして影はまた歩き始める。そしてそのシルエットがようやく露になってきた。
「永沢? 永沢じゃん。どうしたの?」
 気持ち、晴れやかな顔をしているように見える。亮はうまくやってくれたのかな。
「グラウンドを見たら誰かいたから気になって来ちゃった」
「ああそう」
 率直な気持ち。何も隠そうとしていない。この場合誰も傷つかないからいいけど、オレが昨日の朝、祐に言った言葉が頭をちらつく。
 ――もうちょっと言い方というか……あるだろ?
 オレは相手のことを慮りすぎなのかな。
 ……偽り。自分を偽ってまでそうした先には何が見えるんだろう。いつか本当の自分を見せなきゃいけない。優しくすると誰だって喜ぶ。だからオレは今まで優しく接してきた。その「優しさ」は本心ではないときもあるけど、反射的に体が動いてしまう。落ち込んでいたり、寂しそうにしているとどうしても黙っていられない。構ってあげたくなるんだ。手を差し伸べてあげたくなるんだ。でも永沢に優しく接すると切なげな笑いが返ってくる。わかんないよ。優しくすれば心が穏やかになれると信じてる。
「和樹、離れなさいって!」
 日野さんが割って入ってきた。物凄い形相だ。青筋立ってますがな。オレたちの様子を黙って見ていた川澄先生が「ほほぅ」と意味深な声を上げ何か納得したみたいだ。
「ゆかりん。庄子のことが気になって来ちゃったんだ?」
 なっ……。オレは何も言ってないのにめっちゃ恥ずかしいぞ。よくそんなこと言える。永沢のことを「ゆかりん」って呼んでるのもどうしても慣れない。
「そうじゃないです」
「そうか……」
 永沢がすっぱり言いきると川澄先生は辟易したように短くため息をついた。でもなんだか様子がおかしいぞ? 含み笑ってやに下がってる。怪しげな笑い。悪いけど身障にしか見えない人、二人目。
「人手は多いほうがいい。ということでゆかりんも手伝ってもらえる?」
 まさか。
「へ? 何をですか」
「永沢は先に戻ってていいよ。すぐ終わるし」
 頭で考えるより先に口が動いていた。やっぱりオレは反射的に優しくしてしまうみたいだ。あのときからの癖。永沢と会ってから思い始めた、良いのか悪いのか分からない癖。
「優男が出たな」
「なにやるかはわからないけど、手伝うって」
「いいよ。オレたちで片付けるから」
 また出た優しさ。
 その後に見せる永沢の寂しげな表情。視線を伏せて苦悩している。いつまでもこんな態度を取っていたらいつ別れられてもおかしくない。それなのに、子どものころからできた癖は根強く残っていてすぐに直すことは出来ない。
 ……直す?
 直してもいいものなのだろうか。オレの癖は悪いところもあるけど、良いところもある。そんな簡単に切り捨てることは出来ない。一人のために……その人はオレの大事な人。だけど大勢を切ってまでする気はない。
「そうよそうよ。あんたは先に戻ってなさい」
 日野さんが一人で騒がしい。
「……うん、分かった」
 素直に食い下がってくれた。すると永沢はハッとした顔をして川澄先生につかつかと歩み寄っていく。何をするかと思えば耳打ちだ。なんの用だろう、あの奇行を起こす人に。永沢は耳打ちして隠そうとしたけど、川澄先生はそういうこと嫌いだから公に話してくれた。もちろんオレたちに言ってるつもりはないんだろうけど。
「今日はちょっとなぁ。……あ。明日の放課後なら大丈夫だから自転車置き場を訪ねてきて」
 なんの約束だ? 永沢が川澄先生に用があるなんて一体なんなんだろう。「ゆかりん」と呼ぶあたり密接な関係なんだろうけど、どうしてだ。二人は何の接点もない。憶測を繰り広げていると、永沢は元いた位置に戻って親指を立ててグーサインを出した。川澄先生もそれに応えるかのようにグーサインを出す。なんなんだこの関係。実はオレたちよりも密な関係なんじゃないのか? 何も言わないで得心するなんて。永沢は目を細めて笑い、すごすごと校舎へと退散していった。永沢がグラウンドの中央辺りまで行ったとき
「先生と由香はどんな関係なんですか」
 日野さんの金切り声がした。気になるよな。川澄先生のいつもの闊達そうな雰囲気はなりを潜め、どぎまぎしている。
「いけない関係。……なーんちゃって」
 はぐらかされた。珍しく茶化された。そんなことしてたら人には言えない関係なのかと疑り深くなってしまうぞ。素は誠実な川澄先生に限ってそんなことはないと信じているけど、心配だ。一抹の不安が拭いきれない。
「おおぅっと、もうこんな時間か」
 永沢の登場で想定外の時間が過ぎてしまったのか。それでも時間が足りなかったような気もするけどな。もうすぐ午後の授業が始まるので解散ということになり、川澄先生が「探しておく」と力強く言ってくれて安心する。そういうワケで「部室にある資料を探そう」チームが再結成されることはなかった。
Index
君色の光【その4】
 オレ、日野さんに勘違いされてんのかな。
 そんな疚しい気持ちで接しているつもりはないのに勘違いされてる。誤解を招くような接し方なのかな。でもいきなり態度を豹変させるなんてことはまかり間違ってもできない。冷たくされたら悲しい気持ちになる。した方もだ。すぐに変わるなんてことは……優しくすると女の子が寄り付いてくるけど、そのためにやってるんじゃない。それはオレの性格であって簡単に譲ることはできない。だけど、恋愛に関してもそれが言える? オレが永沢だとしたら優しくされて……嬉しいって思う。あぁ〜、わかんない。どうすればいいんだ。悩んでいるとピンポーンと聞きなれた音が耳に入って抜けた。来たかな。オレはすっくと立ち上がり、部屋のドアを開け放ち階段を二段飛ばしで降りる。玄関の扉を開けるとそこには案の定、亮がいた。あんまり機嫌は芳しくないようだ。眉根を寄せて八の字にしてる。
「いらっしゃい」
「ああ。邪魔する」
 いつもと雰囲気が違うのはすぐに感じ取れた。トーンが低い。初っ端から険悪ムード振りまきすぎだろ。それにいつもは言わない「お邪魔します」的なことを言ってくださった。嫌だな、朗らかムードが良い。怒ってても穏やかに事が進むほうが良い。隠してほしい。でもそういう風に感情を押し殺さないのが亮のいいところだとは分かってるけど、やっぱそのほうが良い。う〜ん、オレは相手の立場になって考えすぎなのかな。ここはとりあえずだ、オレの部屋に行くよう促すと拒否された。友達だって言うのに感じ悪いな、もう。
「ここでいい」
「……それもそうかなぁ。長く話すことでもないし」
 と亮に調子を合わせる。本当は部屋に入ってほしかったけど我慢した。ちょっぴり傷ついちゃうんだぞ。亮の表情は相変わらず硬い。そして俯いて小さく呟いた。
「やっぱりそうだ。お前はずっと変わらないな」
 え、え。やっぱり? 何がやっぱりなのかさっぱりだ。前から変わっていないこと。穏やかに事を進めるために取ったオレの行動。一瞬の逡巡を読みきられた。それって――

「優しさ」

 亮に調子を合わせたオレの優しさ。
「そうじゃない」
 亮は再び顔を上げると強い口調で、オレの目を見てそう言った。瞳に闘志がみなぎってる。ギラギラだ。じゃあなんだよ。
「そんな婉曲に言わないで。きっぱり言い切ってほしい」
「じゃあ……」
 視線を少し下にずらし、ふうと息を吐いてまたオレの目を見た。やっぱりギラギラしている。「じゃあ」からして実感が溢れていた。ちょっと怖いけど男に二言はない、ってな。
「由香は、切なげな顔をして『和樹くんには自分を主張して……自分の気持ちをぶつけてほしい』って泣きながら言ってくれた」
 途中から憤然とした様子で、声が怒りに満ちていた。亮の瞳が暗く染まっていく。「優しさ」、そのことではなくて自分の主張、気持ち。オレは……
 ――偽り。
 自分の気持ちに嘘をついてまで優しいことを言う必要はないけど、相手のことを考えるとどうしてもそう動いてしまう。自分のことより他人のほうが優先だ。でもそんな自分に酔いしれる気は全くない。母さんのときのように、あんな投げやりな態度を取って人のことなんか全然考えないで。その人を傷つけるのが怖い。だったら自分を偽ってでも、本心ではなくても動くのが人情だ。それを見透かされたとき、そのときが一番怖い。そして、まさしく今がそのとき。どうすればいいんだろう。これがオレの本性だから、なんて言えない。そしたら過去のことを……駄目だ。どっちとも逃げるみたいで嫌だ。オレが悩み悶えていると亮の声が頭に入ってきて……突き刺さる。
「女を泣かすなんて最低だな」
 最低。
 そう、かもしれない。永沢の気持ちが全然解らない。優しくしても距離が縮まらない。むしろ離れていく。切なげな顔はもう見たくないって願ってるのに、どんどんその回数が増えていってつらい。嘘も偽りもない笑顔を見せてほしい。これはオレの……あ。これが、そういうことなのかな。思うだけで何も行動しない、弱虫な自分。永沢のことを考えているつもりで、実はそういう風にしてくれって言うのが怖くて逃げてる自分。
「反論なしかよ」
 ……できない。亮の言っていることは正しい。オレのことで泣かせてしまったんだから。オレが押し黙っていると亮はさらに怒りの色を強めて、吐き捨てた。
「だからいけないんだ。お前は大人すぎ。折り合いつけようとしてるだろ」
 ――自分を主張して
 温和に行きたいけど、オレは……オレの本心は。
「違う」
 小難しい理屈をつけた。感情を押し殺した。温和に行こうとした。自分の気持ちに素直になりたい。
「何が違うんだよ」
「オレは永沢のこと考えてる」
 つもり、なのかな。
「そうだとしても由香が泣いたのは事実だ」
「わっかんないよ」
 ずっと勘違いしてた「優しさ」のことにムッとしているんじゃないことが分かって頭の中がぐちゃぐちゃだ。自分を主張して? 気持ちをぶつけてほしい? どうして。恋って相手のことを想うのが一番だろ。優しくされて嬉しくないの? わかんない。考えたくもなくなってきた。
「じゃあお前の気持ちはどうなんだ。由香のこと……好きなのか?」
「好きじゃなきゃこんなに悩まない」
 言い終わって数秒の沈黙の後、亮は「フン」と鼻で笑った。なにがおかしい。
「どうだかな」
「お前……っ」
 オレは亮に飛び掛ろうとするが、寸前で止めた。本当に襟首を掴む寸前。こんな警察沙汰になるようなことを起こしてしまったら何もかもおしまいだ。永沢とのことも。力で解決しようとする自分が……堪らなく嫌になった。
「生徒委員さんが暴力ですか」
「このっ」
 怒りに我を忘れた。
 意識が飛んでしまって次の瞬間には玄関の扉に亮の肩を掴んで押さえつけていた。……今度は寸前なんかじゃ済まない。
「お強いことで」
 くっ……。亮は口元を吊り上げてうっすら笑っている。見事にはめられた。殴りたい衝動に駆られたけど、我慢して腕に入っていた力を抜く。そしたら亮の思うがままだ。オレは力なく玄関の床にへたり込んでしまった。永沢のことで感情的になったんじゃない。オレが、いけないんだ。大人なんかじゃない、子ども。自分の感情に身を任せて暴力を振るう子ども。もうそんな年齢じゃない。そんなことをしたら自分で責任を負わなきゃいけない。父さんにも、祐にも迷惑かけられない。頭では解ってるつもりなんだ。全部……『つもり』なのかな。世間のことを考えてるつもり。永沢のことを考えてるつもり。そんな優越感に浸ったって何も見えてきやしない。『つもり』だから意思も弱くて自分のことしか見えなくなる。考えられなくなる。亮の声が頭上から降り注ぐ。
「由香が言ったことをもう一度よく考えることだな」
 数秒の後、バタンと扉が閉まる音がした。ずっと同じトーンで低かった声音。それが現実を物語っている。嘘なんかじゃない、本当のことだ。亮はオレにどうしろっていうんだよ。永沢の言ったこと……。
 ――和樹くんには自分を主張して……自分の気持ちをぶつけてほしい
 自己主張してどうする? それは永沢にとって嬉しいこと? オレの気持ちをぶちまけて誰が得する? 誰も得しない。永沢に嫌な思いをさせるだけだ。あのときだってそうだった。自分が勝手に大丈夫だと思いこんで、冷淡な態度を取ってしまった。だから母さんは……。駄目だ。このことはもう考えないって決めたんだ。だけどどうしてもここに繋がってしまう。オレの人格形成はほとんどあのときに決まったようなもの。だから嫌でも、考えないようにしてもここにたどり着いてしまう。前向きに生きなきゃ。母さんのことでこんなにもズルズルと引きずってたら笑われてしまう。そりゃあ産んでくれた親なんだから感謝するところもあるけど、もう今はいない。過去の人なんだ。だけどすっぱりと忘れることはできない……いや、しちゃいけないけど、すがり付いてたって何も始まらない。見習うべきところは見習おう。強い心の持ち主。オレがそうならなくちゃ、報いを受けなきゃいけない。でも左手を使うことは許してくれるよね。これは譲れないよ。間接的ではあるけど人を殺した右手、そんな手で食べたんじゃ食べた気にもなれないし、何より母さんのことを思い出してつらい。
 母さん……母さんは弱いところを見せないで、生き抜いた。永沢はオレの弱い部分を見てどうしたい? 守りたくなる? 駄目だよ。男が女に弱いところ見せたらみっともない。「好き」って言ったあの日、涙を流して永沢に弱いところを見せてしまって「逃げ」だと感じた。オレはこんなにも弱い生き物だと見せ付けてしまった。永沢はオレの事を守ろうと強くなろうとしてるのか、弱音を全然吐いてこない。それを一気に吐き出したのはデートの日……だろう。その期待に応えられないで、また醜態を晒してしまった。オレなんかより永沢のほうがずっと、ずっと強い。
 亮には言えて、オレには言えないこと。やっぱりオレには弱音を吐けないんだ。弱い人だから。受け止められる強さがないから。永沢に庇護されてるんだ。でも永沢だって人だ。へこたれたくなるときだってあるだろう。それが亮に向かったんだ。これじゃあまるでオレが彼女で永沢が彼氏みたいだ。永沢の悩み、全てを一身に受けたいのに、信頼されてないからそれもままならない。あの日だけなのに、一回ああいうことがあったってだけで人の心はすぐ動かされる。
「どうすりゃいいんだよ……」
 力なく呟いたその言葉は重苦しい空気漂う中に掻き消えた。

*******

 部屋に戻ろうと立ち上がろうとしたら、うまく足に力が入らない。オレはなんてへこたれ野郎なんだ。こんな、こんな些細なことで関係がギクシャクしてしまっている。永沢の一言、ただそれだけでオレたちの関係が、足場が崩れ去る。また戻すにはオレがちゃんとしないといけない。頼りない男のままでいちゃいけない。
「んし」
 今度は足に力が入った。しっかりと、一歩ずつ自分の部屋へと進む。
 体がだるくて部屋に入るとベッドに一直線。バタンと突っ伏した。このまま寝てしまいそうだ。でも引っかかることがあって素直に眠れない。
 永沢が言った言葉の意味が解らない。……頭の中では振り切ったはずなのに同じことを考えていた。笑顔を振りまいていれば誰だって幸せになれる。……母さんの葬式の日、雲一つない抜けるぐらい晴れ渡った空だった。自分の気持ちにまだ整理がつかないままの葬式。母さんを殺したも同然でその罪を償おうとする反面、父さんが庇護してくれてそれにしがみつこうと逃げようとする。そんなせめぎ合いをしている最中だ。今なら、今のオレなら……駄目だ。後悔しすぎ。
 最終的に式には参列した。行く人、来る人みんながむせび泣いていて男の人も泣いてて驚いた記憶がある。そんな悲しい思いをさせてしまった自分が、逃げようとしていてとっても憎たらしく思えた。結局そのまま逃げてしまったけど、思いはオレのほうが……。こんなの、自己満足に陥ろうとしてるだけだ。
 火葬場でおじいちゃんの優しげな言葉が今でも体に染み付いている。今までそしてこれからも、挫けそうになったときに思い出す言葉。
 ――泣きたいときはいっぱい泣きなさい。けれど涙を流した分、笑顔になるんだよ。元気出すんだよ。君なら大丈夫
 そう言ってくれたんだ。それからオレは笑うように努力してきた。そうしていれば誰だって自然と笑顔になってくれたから。なのに最近の永沢には効果がない。むしろ寂しそうな表情をする。何で寂しそうにするんだろう……オレには解らないよ。
 そう考えているうちにオレは深い眠りに誘われていた。
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君色の光【その5】
 ま、まぶしいっ!
「……ちゃん。起きて」
 な、何事だ!
「兄ちゃんったら」
 重たい瞼をゆっくり開くと、いきなりの光に目がしょぼくれちゃって焦点が定まらない視界の中、祐の姿が入った。中総体初戦負けに終わり、野球部を引退したけどやっぱ学校指定のジャージを着ている。中学生はそういうもんだよな。オレも着替えるのなんてたるくて風呂入るまでジャージだった。って、そんな昔を振り返ってないで現実に戻ろう。
「なあに?」
「キモい」
 がーん。軽くショックだ。
「それはいいけど、もう七時回ってるぞ。俺の飯をどうしてくれるんだ」
 めし?
 ……そうか、あのまま寝ちゃったのか。人に起こされたからスッキリした目覚めにはならなかったけど、しょうがない。作ろう。今日は父さん遅いって言ってたし。体を起こして祐を見る。でかくなったなぁ。
「分かったよ、作るから待ってて」
「ご飯がいいな」
 作ってもらってる身なのに意見するとは……。そりゃあ最近麺食ばっかで飽きてくるのは分かるけど、だるいからまた今度にしてくれ。でも一応聞いておこう。
「もう遅いし、今から炊いたら八時過ぎるよ。それでもいいの?」
「いい」
 オレは全然良くないけどな。頭が全然回らない。軽い。こんな状況で食材を切ろうもんなら自分の指を切ってしまいそうだ。……あれ、でもそれと麺とは関係ないか。駄目だオレ、本当に頭回ってない。勝手に作って食えって思ってるんだ。
「今日ぐらいっ……お願い」
 そう希っても祐は
「白飯食いたい」
 食い下がってくれない。でっ、でも今日ぐらい……土下座してでも麺にしたい。物価高騰の煽りを受けて麺類が高くなってきてるなんて関係ない。ご飯は苦手なんだ。ご飯のほうがおかずに合うのはたくさんあるよ。でもその分作らないといけないから面倒なんだよ。
「おねが……あ」
「あ?」
 この気持ち。
 祐に対しては出来て、永沢に対しては出来ないこと。それは

 ――和樹くんには自分を主張して……自分の気持ちをぶつけてほしい

 今オレは祐に対して自分の考えを通そうとしている。永沢には譲ってしまって自分の意見なんか何にも言ってない。永沢がデートに誘ってくれた日、オレは服をあんまり持っていないって言っただけでそれ以外は何にも言ってない。自分の気持ちなんかどこかへ消し去ってしまった。相手のことを中途半端に思いやって怒りを自制した。行動を起こしてくれたのは全て永沢だ。告白する勇気、デートに誘う勇気、尋常じゃない覚悟があったんだと思う。振られたら最後だと、そう思っていたかもしれない。全部オレが背負うべき立場なのに何にもできやしない。永沢が伝えたかったことって、きっとそういうことだったんだ。何でそうしたいのかは解らないけど……二人で意見を言い合いたいんだ。
「深刻な顔してどうしたの」
「ごめん、なんでもないよ。気分良くなったからご飯にする」
「どこか悪かったのか?」
 嬉しい。涙がちょちょ切れそうだよ。心配してくれるって本当に嬉しい。あれだけ喚いてオレのことなんか考えもしていなかったと思うのに心配してくれるなんて……。さすが我が弟だ。線引きがちゃんとできている。
「大丈夫。んじゃ八時までに下に降りてこいよ〜」
 ん。祐がどいてくれないから通れない。遠回りすれば行けるけどやっぱ体が重い。心には羽がついていてどこまでも飛んでいけそうだけど体がついていかない。祐の表情を窺うとなにやら逡巡している。珍しいな。何を考え込んでいるんだろう?
「祐、そこどいてくれるとありがたいんだけどな」
「今日は手伝う」
 な、どんな心境の変化だ!?
 いつもは食べ終わった後の洗い物はしてくれるけど、料理に関して手を出すことはない。じーっと眺めてることはあるけどなぁ……。それはともかく、自ら申し出てくれたんだからここは素直にその気持ちを受け止めてあげるのが義理ってもんだ。
「ありがとう。んじゃ行くぞ」
「おう」
 なんと力強いお返事。オレは祐と共に一階へと降りていく。リビングに入ったところで、祐に声をかけた。
「祐は米を磨いでね」
「はーい」
 たま〜にオレがやってるのを見てるのか、米のありかは知っていたようでオレを追い抜いてキッチンの前でしゃがみ込んだ。それはいいんだけど釜を忘れてないかい。世話の焼ける弟クンだなぁ。オレは炊飯器から釜を取り出した。電気釜で本当に良かった。朝は弱いからタイマー設定さえしとけば起きたときにはもう炊き上がってる。ガス釜より時間かかるのが難点だけど、十五分早く起きてスイッチをつけるなんて寝る時間が短くなってしまってもったいない。
「兄ちゃーん、早く」
「今行くから」
 炊飯器に気を取られてしまった。キッチンまで足早に歩きオレもしゃがみ込んだ。
「今日は二合かな。二杯入れて」
「ほーい」
 祐は言われたとおり10kgの米袋に手を突っ込んで米を釜に移す。……指綺麗だな。オレはまだ十七年しか生きてないのに数々の料理と戦ってきた歴戦の手になってしまっている。どう考えても同世代の人より手の皮厚いし。さすがに本物のお母様たちに勝ち目はないけど。
 あああ、手を洗えと言うのを忘れてしまった。でも死ぬほどの雑菌を引き連れてるワケはなかろうしいいか。洗うし。釜に移し終わったところで立ち上がって流しに釜を置くと、そのまま黙々と米磨ぎの作業に入ってしまった。横から見てると、凛々しい顔つきだ。目線がだいぶ下に行っちゃうのが残念なところ。さっきはでかくなったと思ったんだけどなぁ。すると祐は釜から視線もそらさずひそやかに語りかけてきた。
「兄ちゃんみたいに女々しくはなりたくないけど」
 オレは女々しくなんかっ……あるかも。永沢に守られないようにしたい。守りたい。それより続きが気になる。
「けど?」
「料理は出来るようになりたい」
 なに、なんかあったの? 彼女に「料理できない人とは付き合えない」的なことでも言われたのか? と思ってしまった。祐は彼女に対する依存度が異常だから。フラれたら堕落した人生送るんじゃないか、ってくらい依存しちゃってるから困ったもんだ。祐をそこまでにする彼女にオレは会ったことないけど、いろんな意味ですごそうだな。女王様みたいな感じなのか? 祐は彼女のこと話したがらないから分からない。
 米磨ぎが終わったところで料理の準備を開始する。今日はイカがあるから刺身と……そうだなぁ、野菜炒めに突っ込んじゃうか。後はトマトでも切れば満足するか。体がだるいのは寝ても変わらないからいつもの三倍ぐらい適当だ。
 最初はイカを捌こう。胴と足を離したところで祐が好奇の目で見てくるのが判った。
「やりたい?」
「うん」
 これまた力強いお返事。やらせてあげるか。経験は大事だよね。胴は頭のヒレと胴の間に指を入れて切り離すよう指示したら上手に切り離した。さっすが! でも次は難関の皮むきだぞ〜。やっぱりうまくいかないようで途中で皮が切れてしまっている。早く皮をむこうとするからだな。何はなくともオレの出番か。
「むずかしい」
「やるよ」
「うん」
 すんなり場所を明け渡してくれた。オレも実は苦手だけどここは踏ん張るしかない。一回切れただけで皮を綺麗にむけた。その様子を見ていた祐が感嘆の声を上げてくれた。どうだ、お兄ちゃんすごいだろ?
「すっげえ。初めて兄ちゃんのこと尊敬した」
 尊敬してくれたのは嬉しいけど、初めてって……オレ泣いちゃう。男のクセに泣いちゃうよ。
 ここまでくれば後は簡単だ。臓腑は火を通しても父さんしか食べられないから今日は捨てよう。残った胴と足は目やクチバシを落として、適度な大きさに切ってこれでイカの準備は終わり。刺身は冷蔵庫に入れて、っと。そこまでするとまた祐が唸り声を上げて感動してくれた。反応してあげたいけど、いちいちそんなのに構ってる余裕はないので手際よく冷蔵庫から野菜類を出す。ニンジンとキャベツ、それとピーマンでいっか。でも野菜炒めにイカって……なかなかにグロテスクだ。面倒だけどとろみをつけてごまかしちゃおう。どれも同じ程度の大きさに切って次は、っと。
 祐に手伝わせるのを忘れていた。炒めるのをやらせるか。
「炒めて」
「任せとけ」
 コンロにフライパンを置いて火をつけ、油をすこーし注ぐ。電気のスイッチはカチカチ左右に動くやつじゃないし、蛇口もひねるタイプじゃないのにガスだ。ここだけ古代だ。そのおかげでオール電化じゃない。祐を見るとやる気満々のようでもう菜箸を持っちゃってる。そんな焦りなさんな。まずはニンジンを入れて硬いのから火を通す。続いてキャベツ、ピーマンの順に流しいれた。祐は焦げ付かないよう丹念に野菜を炒めている。身長は伸びてないけど、オレより腕とか逞しくなってる。そんな様子を見て弟の成長を感じ
「うまいうまーい」
 母親の気持ちが分かると言いたいところだけど
「お世辞?」
 褒めるのはうまくないみたいだ。
 イカを投入してかすかに香りがしてきたところで水を少し入れて煮立たせる。そのうちにオレは水が入った鍋を火にかける。味噌汁はもやしと乾燥ワカメでいいか。ああ、そうだった。水溶き片栗粉を用意しなくちゃ。とろみつけるとか言って忘れるなんてやばいかも。やっぱ今日は頭が回らない。料理は一つやり忘れたことがあると途端に慌しくなる。祐がいて良かった。一人だと本当に大変だ。
 祐に感謝しつつ野菜炒めのあんかけを仕上げて味噌汁もちゃちゃっと終わらせて、トマトを切って今日は終了! いつもより適当だったのになんだか疲れたな。炊飯器は蒸気をむんむんと放出しているからまだ炊き上がらないだろう。
 料理をテーブルに並べて椅子に腰を沈めた。向かいに祐が座る。オレは力が抜けて自然と反り返って天井を仰ぐ姿勢になった。食事の最中じゃないからまだいいけどお行儀が悪い。背筋はあまり丸まってなくて真っ直ぐだからぐったりそのものだ。腕なんか床についてしまいそうなくらいぐったり。……なんだか視界がぼんやりしてきた。円形蛍光管を見すぎたせいで目がやられちゃったのかな。体を起こして椅子に座りなおし、祐のほうを見るとようやく落ち着いて……こない。
「兄ちゃん、どうした」
「どうしたって何が?」
 いつもと違うのは視界がぼんやりとしていてまだ霞んで見えるってことだ。祐は椅子から立ち上がり身を乗り出してきた。なんなんだ。「ほら」と言って右手の親指でまなじりから目の下のラインを触ってきた。この感じって、もしかして涙? 泣くなんておかしい。いつそんな出来事があった。オレは、今日……。
「だから女々しいって言ってんの」
 泣いていたってことは事実のようだ。祐と今まで楽しく料理をしていた。その前は……亮と会った。あのことは真実でオレが変わらないといけないって結論が出たじゃないか。永沢が泣いたのに何もオレまで泣くことなんてない。その前は、日野。日野さんと会って屈辱的なことをさせられた。でもなんで今ごろ。ずっとどこかの隅っこで考えていた? あんなことをさせられたんじゃ憶えていてもなんら不思議はない。

 ――お前は大人すぎ。折り合いつけようとしてるだろ

 亮に言われたことが今になって分かった。日野さんのことについて言ったワケじゃないと思うけど折り合いつけすぎ、だよな。これからも一緒の仲でやっていくために頭を下げるなんて……別に好きでもなんでもない人なんだ。生徒委員なのもたまたま。これからの生徒会活動に皹が生じそうだけど、それで何かあったらやめればいい。そんな精神ならやるな! って言われそうだけど、投票で決まったものだから仕方がない。生徒会の活動はそれなりに充実感を得られるからやめたくはないけど、このまま日野さんに弱みを握られたまま高校生活を送るのは苦しいものがある。ならいっそのこと言わせてしまえばいいか。日野さんは、オレが日野さんのこと「大好きだよ」って言ったことを言いふらしても、オレは永沢と付き合ってることは事実なんだからそんなのデマカセで終わる。よく考えてみればオレにデメリットはあまりないじゃないか。
「今度は黙り込んじゃって……最近おかしいよ」
「おかしくはないって」
 ただ永沢のことを考えすぎなのかな。最近は本当に永沢のことを考えてばっかだ。世の中の男性諸君は知らないけど、永沢に対するオレの気持ちは気遣いのことで手一杯だ。だから自分を主張してほしいのかな。たまには永沢のこと考えないで自分の気持ちをぶちまけるのもいいものなのかな。不意に炊飯器からピーピーピーと音がして炊飯終了の合図が聞こえた。
Index
君色の光【その6】
 また心が休まらない。
「ゆ〜か〜、和樹に近寄らないでって何回言ったら分かるの!」
 日野さんが永沢に詰め寄っている様子……この光景もデジャヴになってきた。何回やれば気が済むんだ。
「和樹くんは誰のものでもありません。和樹くんが決めることです。私と居たいから一緒にいてくれてるんでしょ?」
 隣にいる永沢がオレのほうを向いて「ねっ?」って首を傾げてきた。その仕種は反則だ。いとおしくなっちゃう。日野さんも見てくる。
「う、うん。まぁ」
 日野さんには今度会ったらビシッと言ってやろうと思ったのに全然できてない。それに比べて永沢は言葉を濁さないではっきりと言ってくれた。男らしくてこっちが惚れちゃいそう。日野さんはオレに向けていた視線を永沢へと即座に移した。ただ前を向いただけっていうのに「フンッ」ってそっぽかれた気分だ。なんだか吐息が荒いぞ。
「勘違いしないで! あたしを前にしてるから言えないだけ。二人きりのときだったら『麻衣、大好きだよ。オレは君のことしか見えない』って耳元で囁いてくれるもん」
 おいおい、それはないだろ。確かに後半は言ったけど日野さんのことを名前で、しかも呼び捨てするなんてことは出来ない。……永沢にしてみたら嫌なことなのかな。呼び捨てではあるけど苗字で呼んでいる。男子は呼び捨てして名前が多いけど女子は十中八九、苗字に「さん」付けだ。呼び方だけに限るけど、その接し方って他の女子にやってることとほとんど変わりない。いや、接し方だってほとんど変わりない。大抵オレは相手の行動を待っている方だ。それは永沢に対しても変わらない。アクションを起こすべきはオレなんだ。日野さんにビシッと言ってやるって決めたんだ。相手のことを中途半端に思いやっても迷惑がかかるだけ。もしそれが本当の気持ちだと誤解されてしまったら厭わしい。
 変わろうと努力してもう三日目。頭では変わろうとする強い意思があるけど、実際は全然変わることができなくて歯痒い。反射的に優しくしてしまい、その度に自分にイラつく。そしてその怒っている姿は誰の目にも不愉快に見える。永沢も不快な気持ちになって悪循環を繰り返すだけだ。
 それを打ち破るためにオレは今、決心した。頭にある強い意思に従って、自分の意識を保って言葉を発する。
「前々から思ってたけど君とオレは生徒会で一緒なだけだ。オレに特別な感情を抱いてても別にいい。だけど、永沢とオレの仲を引き裂くように吹っ掛ける人なら軽蔑するよ。……実際はそうもいかないだろうけどさ」
 胸に嫌な感じが残る。
 日野さんに対して、どうしてオレはこんなにも酷いことが言えるのだろう。変わるために戻ったオレの本性……? そんなわけない。付き合いが浅いから? 違う。そうだとしたらオレは永沢に対しても、今みたいな態度を取ったっておかしくないということになる。日野さんは生理的に受け付けないというか、なんというか。……まだ気持ちが固まってないのに、突き放すようなことをして日野さんにとってみれば迷惑でしかない。ちゃんとした気構えもないうちに、口をついて出た言葉に日野さんは何が出来る? 反論されればすぐに打ち崩されてしまうけど、何も言わなかったらそこで終わりになってしまう。後悔先に立たずだけど、そんな強い精神はオレにはないよ。何度も言われ続けてきたことなのにこれだけは出来ない。無駄だって解ってるけど、どうしても考えてしまう。次からは直そうと思ってもそう簡単に変わることはできない。
 錯綜する考えの中、日野さんの様子を窺うと「くっ」と何回もつらそうに声を漏らし涙目になっていた。オレのせいだ。オレのせいで不快な気分にさせてしまっている。
「和樹のウソツキ!」
 当然の報い。日野さんは言い終わるとまっしぐらに廊下を駆けていった。
 たとえ虚言だったとしても「好き」って言ったのは事実。「ウソツキ」呼ばわりされても仕方がない。人は表面上でしか人を量れない。相手の気持ちを汲むことは出来ても本当の気持ち、内面まではたどり着けない。オレは嘘の気持ちで言ったけど日野さんには甘言に聞こえたかもしれない。人によって感じる『違い』の差がじれったい。オレは優しくすれば誰だって嬉しくなると思っていたけど永沢にしてみたらそれは嫌なことで、表面にも出てしまうぐらい嫌悪されている。
「……行くぞ」
 遠巻きに見ている生徒たちの視線が痛い。今はただこの場から逃れることだけを考えるようにした。階段に向かおうと歩き出しても傍観者たちは動かないもんだから押し退ける。反応は人それぞれみたいで吃驚している人もいれば呆れている人もいた。そうだよな、オレの言動は日野さんの逃げる場所をことごとく潰している。今のことしか考えてなくて、これからのことなんてこれっぽっちも考えていない。折り合いをつけすぎだと言われて実行したけど、度が過ぎたみたいだ。
 階段の踊り場まで来てクルリと方向転換したら、右前方から誰かのなんとも言えない呻き声と共にけたたましい音が聞こえた。
「あきゃっ!」
 どよめきの中声がしたほうを見ると、永沢が階段で腹ばいになっていた!
 足が一階に着いちゃってて、右腕を伸ばしているが何も掴めていない。これは一大事……って、そんなこと考えてないで助けよう。オレは階段を駆け下りると永沢の体をまず仰向けにしてそれから体を起こした。
「大丈夫?」
「ぜっ、全然大丈夫じゃない!」
 これでもかってくらい目を大きく張っている。ん。右手の手首が擦り切れてて血が出てる。これはやばそうだ。
「保健室行こうか?」
「これから午後の授業始まっちゃうから、先に行ってて。これくらい大丈夫」
「でも」
「いいから」
 一瞬にして冷めた表情になって手のひらを返すような態度を取られた。強がらないでよ。さっきのは嘘じゃないよね。だったら
「永沢」
「なに?」
「無理しないで」
 オレを頼って。永沢は困惑した表情を浮かべるがそんなのは無視だ。強引さがオレには足りない。怪我をしていない左手首を持つと意外に細くて驚いた。握る力を緩める。後ろを向いてゆっくりと歩き始めると永沢はついてきてくれた。良かった。この前は歩くのが速すぎて永沢がついてこれなかったから今日は意識して歩いている。
 そうだ、ちゃんと言わないと。
「オレのこと、頼っていいから」
 オレの一番足りない部分。今までオレは永沢のことを頼ってばっかだった。変わらないといけない。逆の立場になるべきだ。足を進めるのを止めて永沢を見る。いつものぽかーんとした顔じゃなく真面目な顔つきをしている。
「オレじゃ頼りない?」
 首を横に振ってくれた。できれば声で言ってほしかったけど、そう思っていてくれるってだけでも十分か。押し付けがましいかもしれないけど
「もっと頼っていいからね」
 変わらなきゃいけない。
 後ろのほうから「お熱いねえ」なんて野次が飛ばされた。永沢が「早く〜」って言うから保健室までまたゆっくりと歩き始めた。永沢は怪我人なんだった。オレは自分のことしか考えてないな……。保健室の前まで来て扉を開けようとしたら、素直に開いてくれなかった。
「ありゃ、建て付けまた悪くなってんね〜」
 ガラス戸はやめてほしい。


 はぁ……妙に疲れた。
「はい。これで大丈夫よ」
 永沢の手首に包帯がぐるぐる巻かれている。擦り剥いた範囲が広くて、バンドエイドじゃカバーしきれないという理由で包帯になった。女の子なのに可哀相だ。そういえば何であそこでうつ伏せになっていたんだろう。踏み外したんだと思うけど、それにしちゃ怪我した範囲が広すぎる。でも力や咄嗟の判断が少しでも遅れてしまうとああなっちゃうのかな。……何でも自分基準で考えちゃ駄目、だよな。
「タイミング悪かったわね。最近調子良いと思ってたらこれだよ。校長に直談判しに行こうかしら」
 ぜひ直談判してくれ! あんな頑張ったのに徒労に終わってしまった。
 中にいたバスケ部の後輩とタッグを組んで外側と内側から攻めたのに開いてくれなかった。こっちは力いっぱいやったんだぞ。どっと疲れが来たのは永沢が逆方向から開けたらすんなり開いてしまったからだ。
「手首擦り剥くなんて悲惨だったわね〜。どこでこんな怪我したの?」
「階段で踏み外して自己防衛本能が働くとこうなるんです」
 自然と笑いが込み上げる。やっぱそうだったのか。それにしても表現が普通の人と違う。……だからこそ好きになれたのか。
「あらっ! そこで爽やかに笑ってる君。ちゃんと彼女を守りなさいよ。傷物にしたらただじゃおかない」
 笑いが引いていく。あの、もう傷物にしちゃってるんですが。それはともかく男として女性を守るのは必然だ。このことだってオレが永沢と一緒に歩いていれば起きなかった事故だ。一緒に歩いてやれば……っ。後悔するのはなしって決めたじゃないか。
「心配しないでください」
「お、今どきの子にしては度胸あんね〜。『受けて立つ!』ってか。永沢さん、いい彼氏を持ったね」
 いい彼氏――。
 オレにはそんな資格なんてない。大口は叩くけど、実行できていることなんて一つもない。相手のことを考えているだけ。その場を取り繕おうとしてるだけ。そうならないために日野さんのことを割り切った。……割り切ったと言えば体は良いけど、実際は状況を悪化させてしまっただけ。全然いい彼氏なんかじゃない。
「なんだい。こんないい男を放っといたらいつか逃げられちまうよ」
 いい男、か。
 自分で言うのもなんだけどオレは格好いいほうだと思う。性格は女々しいやつだけど……。ただそのせいで女子に付きまとわれたり、美化されていたりってことがしょっちゅうある。それは永沢だって例外ではなくて、時間をあまり気にしないって話をした時に驚いていたのが印象的だった。
「さ、授業に出ていらっしゃいな」
「ありがとうございました」
 え。結論出たの? アイコンタクトか何かで、永沢は女性にしか分からない信号を先生に送ったワケなのか。きょとんとしていると保健室をもう出ようとしている永沢の急かす声が聞こえて
「そういうのが可愛いんだからっ、もう」
 怒られた気がした。……オレってカワイイのか?
Index
君色の光【その7】
 あれで良かったのかな。
 済んだことをくよくよしていても意味がないっていうのは痛切に感じているけど、どうしても考えてしまう。一度、「これで良かったんだ」と思っても時間が経つとまた考え込んでしまう。本当に意味のないことだと解っているのに、熟考する自分が滑稽に思えてきた。……そう考える自分にすら苛立ちが募る。そこまで頭が回るのに何で答えを導き出せないんだろう。
 後ろを歩いている永沢も考え込んでいるみたいだ。遠慮深そうに小さく唸り声を上げている。二人でいるのに何も話さないなんてバカバカしいよな。オレは歩みを止めて、後ろを振り向き永沢と向かい合った。俯き加減で見えにくいけど、表情に晴れ晴れとした感じはない。
「どうしたの、さっきから考え込んじゃって。らしくないよ」
 いつか……いつかのように並んで歩けるようになれたらいいな。
 あ、しまった。「らしくない」なんて永沢にしてみれば迷惑以外の何物でもない。永沢には笑顔でいてほしいけど考えるのも大切なことだと思う。永沢は顔を上げると、さっきまでの陰鬱とした表情は鳴りを潜め、顔を綻ばせた。一安心。……って。
「ううん。なんでもない」
 無理してる。目が笑ってないもん。「らしくない」で片付けようとしたオレに責任があるんだから、それを永沢が負う道理なんてない。
「そう。……オレが優しくすると永沢、寂しいような切ないような複雑な顔するでしょ?」
 やっぱ、自己主張してほしいってことよりこっちのほうが気になる。
 とっても不自然だけど、明日は土曜日だ。今訊いておかないと来週までお預けになってしまう。亮に話を聞いてからもう三日目だ。言い出せない自分が悔しくて堪らなかった。どうしてそうなるのか、聞くのが怖い。オレは子どものころから逃げてばっかだ。ちっとも成長なんてしていない。今日やっとその殻を破れたけど、これからもその勇気が沸き立つのか不安で不安で仕方がない。今日だけだったら単なるまぐれだ。もしくは……思い込み。永沢はというと、表情がじとっと暗くなっていきまた俯きだした。
 ふと青臭いにおいが鼻を掠めた。入梅してからそんなに日は経ってないけど、今年は雨が少ない気がする。草木の青臭さは例年と変わらないけど。草木を眺めているとその奥に空が見えた。まだ明るい。だけど、空には青白く見える雲があって夕方と呼べる時間帯だ。そんなことを感じていると永沢の感傷的な内面が表された。

「優しくしないで」

 心にグサリと刺さる。オレは……。
 今まで信じてきたことが永沢に否定された。態度だけで示されていたものが言葉にされて、本意なんだと判った。オレは……オレの信じてきたものは、「正しい」と言いきれなくなった。こうして実際に優しくしないでほしいと言う人がいるのだから。たった一言に詰められた想い。それは半端なものじゃないと思う。
 そして今、やっと解った。
 ――和樹くんには自分を主張して……自分の気持ちをぶつけてほしい
 永沢は「庄子和樹」という一人の人と付き合いたいんだ。そこに偽りの気持ちなんかない状態で。『優しさ』に嫌悪感を抱くのと『自己主張』してほしいということは何の接点もないと思っていたけど、こんな繋がりがあったんだ。永沢にそんな深い考えがあるなんて思いも寄らなかった。
「えっ……」
 オレには「庄子和樹」という裏も表も、偽善も、自分を飾らない人になってほしいんだ。永沢に裏表があったらオレも嫌だ。それと同じことなんだ。永沢はボロボロの泣き顔を見せてまで本意だと教えたいのか、必死に顔を上げている。見たくないよ、そんな顔。オレはだんだんと項垂れていき、永沢の足元に黒い染みが幾つもできているのを確認した。オレの素顔を見せていたらこんなことにはならなかった。永沢は何度も発信していたのにオレはそれに気付けなくて、こうなってしまった。
「ごめん、許して」
 山積した問題を放置した今のオレにはこう言うことしか出来ない。一度独りになって考え直したい。オレは永沢のことを考えもせず走った。逃げることしか出来なくて悔しい。


 どうすればいいんだっ。
 数分ぐらいなら走っても息切れしないのに今日は駄目だ。すぐ息が切れてしまって立ち止まりたくなる。もしそうなってしまったらコンクリートの地面にへたり込んだっていい。それくらいオレにとってつらい言葉だった。本気で言われた分、さらにショックがでかい。冗談交じりに言われても相当堪えるだろう……。
 ここで決断しなきゃオレたちの未来はそう長くない。永沢の本音にオレは耐えられなくて逃げた。彼氏失格、だよな。受け止めてあげられない自分が疎ましい。でもあの場から逃げなかったら、それはそれで永沢には『優しさ』に見えてしまうのかもしれない。逃げたのが最善の選択だったのかな。「逃げたい」という気持ちに嘘はないけど、逃げたら今度は自分のことが嫌になる。どっちにしたってメリットもデメリットもあった。もう過ぎたことだから考えても仕方ないのは解っている。……これで良かったと思おう。いつまでもくよくよしているのはオレの悪い癖だ。直していこう。
 意識が判然としないまま家に着いてしまった。玄関の扉を開ける。靴を乱暴に脱ぎ捨てて自分の部屋まで直行しようとしたら階段の中ほどで祐にばったり会ってしまった。今は誰とも話したくない。だけど、祐のいつもと変わらない声音に胸が安堵していく。
「兄ちゃん、おかえり」
「ただいま」
 ものすごく小さく呟いて、祐の隣をするっと通り抜ける。部屋に入って荷物を置き、そのまま椅子にどっしりと座った。
「オレ、さいあく」
 今日のことは自分が起こしたと言っても過言ではない。それなのに勝手に傷ついて人様――祐にまで沈んだ気分を味わわせようとした。彼氏どころか人間失格。……でもあそこで普段通りに振舞ったら「優しさ」になってしまうんじゃないか? 永沢にだけ優しくしないというのは無理がある。そもそもどのくらいの加減で永沢が嫌になるか判らないし。論理は解るけど、オレにはそんな感情が大部分ない。
 あれ、これってオレ振り回されてる?
 ……違うか。お気楽な気分になりたかったけど、無理だ。そんな楽観視できる事態ではない。真剣に考えないと本当にオレたちは終わってしまうかもしれないんだ。
 素の自分を晒していれば自然と「優しさ」はなくなるのかな……。子ども時代のオレって一体どんなやつだったんだろう。記憶があいまいだ。根っからの優男じゃなかったような気もするけど、どうなんだろう。もし根っからの優男だったら矯正するのは無理がある。
 ……オレはそうやって逃げ道をすぐに考えたがる。自分にはすんごく甘くて相手には厳しい。永沢が変わってくれれば、オレは変わらないで済む。恋愛をしている「つもり」だから、オレはここまで何も言えないでいて、永沢は真剣にオレとのことを考えて行動してくれている。オレがあんまりにも「つもり」でやっているものだからその怒りが今日来たんだ。
 もっと自分に責任を持たなくちゃいけない。「もしも」のたとえ話は嫌いだけど、もし別れてしまったらオレにだって、永沢にだって暗い1ページが出来上がってしまう。将来、良い思い出だったと語れる自信はない。オレにとっても、永沢にとっても初恋。永沢の初恋をオレで汚してしまうのは忍びない。だけどこの先そうならないためにはこのまま付き合って、大学の時か、もしくは社会人になってから結婚だ。同じ大学に行くなんて意図的にでもしないと無理だし、大学生の時に結婚なんて永沢の両親がどう言って来るかも分からない。その前に父さんが反対してくるだろう。そういえばまだ会ってないな、永沢の両親ってどんな人なんだろう。
 社会人になってからが妥当だと思うけど、果たしてそんなに長続きするのだろうか。永沢と帰るようになってからまだ一ヶ月にも満ちていない。本格的に……なんて言ったら数えられるほどだ。やっぱオレは目先のことしか見えてなくて、その先々のことなんて考えもしていない。「恋愛」というのを甘く見すぎていた。そんな簡単なことじゃないんだ。相手のことを考えていればそれだけで良いと思っていた。でも実際はもっともっと深いもので、時には自分の主張をしないといけない。付き合っている段階から本当の自分を見せていかないと、同棲する時に初めて相手のことを知ることがあるかもしれない。だから本当に相手のこと全てを許容できなきゃ結婚は出来ないんだ。心を通い合わせられないまま結婚してしまったら、大概の夫婦に離婚という道が待っている。
 自分から変わろう。そうでもしなくちゃこれから先、二人でやっていけない。オレが永沢のことを守ってやろう。真面目な話、この前みたいに変な方向に覚悟してそらしちゃいけない。
 本当に覚悟はした。永沢の前で祐や父さんに対してとっているような態度で接しよう。偽りのない気持ちで。
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君色の光【その8】
 このまま自然消滅してしまいたい。携帯の電話番号もメアドも知っているのに、永沢に連絡をしてあげられなかった。土曜と日曜と、二日もあったのに。オレが一方的に逃げたんだからオレから何かアクションをするべき。……とは思っているんだけど、そこまでの勇気がどうしても湧かない。永沢の頼みをオレは拒絶したんだ。そんな人に連絡を取るなんてオレ以上に勇気がいる。変わろうと思ったのに、まるで駄目だ。今日だって高校生活始めてから「風邪」という理由で初の休みをとってしまったわけだし。でも症状といっても微熱ぐらいなもので、いつもなら大丈夫なレベルだ。名目上は「風邪」だけどそれよりも大きい理由は「私情」なワケで、今日休んだのは永沢と関わったことが原因。と言っても永沢が悪いわけじゃない。オレが永沢に会うのを怖がっているから。
 ――偽りのない気持ちで
 そう決心した。だけどそんな簡単なものではない。話していると自然と偽りの気持ちが溢れてきてしまいそうで止められなくなると思う。……それが本当の気持ちなんじゃないのか? 人に優しくすると偽善に見えるかもしれないけど……オレも偽善と思う時がたまにあるけど、それはもしかしたら本意かもしれない。
「駄目だ」
 息を吐きながら呟いた。オレの行動を正当化させようとしているに過ぎない考えだ。ふっと右を向き窓の向こうを見る。
 もう暗くなり始めている。あっという間だったな、今日は。電気をつけるべく、オレは体を起こして膝をつき紐を引っ張る。光に一瞬目が眩んだが、それもわずかな間。目はもう慣れてしまった。元の体勢に戻るとやるせなさがどっと押し寄せてきた。
 明日からどうしよう。今日のような理由でこれからも休み続けていたら、いずれ不登校になってもおかしくない。そうしたら自然消滅するはずだ。これが「好き」って気持ちなのか判らないけどやっぱり、オレは何があったって永沢と一緒にいたい。そうなるためには……。永沢から来ることはゼロに近いだろう。だったらオレが動くしかない。明日はちゃんと学校に行って、少しでもいいから永沢と接しているときは素の自分をさらすようにしよう。少しずつでいいから変わっていこう。長いスタンスで考えるべきだ。いきなり変わろうとしても無理な話というもの。目先のことだけを考えていたって仕方がない。高校二年なんだ。人生はまだまだある。
 結論がまとまり、さっき動いた拍子にベッドに転がった思想の本を手に取り、読み始めた。同感できるところが多々あってオレもこういう人になれたらな〜、と思っているとピンポーンと人が来たという合図を知らせる音が鳴った。一階には父さんと祐がいるから大丈夫か。さすがにオレのお見舞いでの来客者ではないだろう。もう太陽は完全に隠れてしまって暗いし。
 ドアは閉めているから物音はあまり聞こえないけど、玄関で話し声がするのは確かだ。一人は低くて聞き慣れた声だから祐だろう。話し方もどこかぎこちない気がするから父さんではない。来客した人は声が高くて女性のようだ。落ち着きがなさそうだから若い人だろうなぁ。でもそんなこと推測したってオレには関係ないことだろうし、誰が来たのか気になったら訊けばいいだけのことだ。再び本を読み始めようとすると、今度は二人とは違う声が聞こえた。父さんだろうな。オレもそうかもしれないけど父さんと祐の声質は似てるから、姿が見えないと話し方とかでしか判別できない。最近は声だけじゃなく、祐の姿を横目でちらっと見た時に父さんだと勘違いしたことがあるくらいだ。
 話し声が聞こえなくなって静かになった。ふぅ、やっと落ち着いて読める。……と思ったのも束の間、階段を上がってくる音がする。またか、またオレのお見舞いに来る人なのか。バスケ部のやつらはもう来た。こんな時間に誰だろう? 女の人だとすると日野さんの可能性が高いけど、あの金切り声ではなかった。もっと普通というか、どこにでもいそうな声の人だったな。特異性はない感じ。あ、もしかして祐の彼女かな。その可能性も捨てきれない。そうこうしている内に祐の声がドア越しに聞こえて
「ここだよ」
 お見舞いに来てくれた人だと分かった。少し間があって女の人の声がする。
「はあっ?」
 こっちが「はあ?」だよ。なんとも威勢の良い返事だ。部屋の位置に喧嘩でも売る気か。というかあんたは誰なんだよ。地価調査かなんかのために屋根裏にでも用事ですか? 建て付けが悪いのはうちの学校だって。そんなことしてないで早く保健室の戸を直していただきたい。お見舞いの人だと思ったオレが馬鹿だった。するとまたその人の声が聞き取れた。
「違うよ」
 何が違うって言うんだよ。もう何がなんだか……。でもこの声ってどこかで聞いたことがあるような気がする。そのどこかが思い出せないけど、なんとなく好きな感じを憶えている。母さん……なワケはないか。
 そして祐の「そっかぁ」と残念そうなため息が漏れたのを確認できた。本当にワケがわからん。
「ま、入りなよ」
 祐は来客者を促したようで、ドアがゆっくりと開かれた。
「兄ちゃん、入るぞー」
 姿が見えてから言っても遅いって。
「祐、人の部屋に入るときはノックしなさいってあれほど……」
 ……永沢。
 言っている内に来客者も入ってきて、流れで見やると、そこには全く想像していなかった人が立っていた。
「いーじゃん別に。兄弟なんだし」
 ピタリと音が止み、粛として声がしない。妙な沈黙が流れる。ここはオレが行動を起こすべきだ。……オレは変わるんだ。
「ダメなものはダメなの」
「兄ちゃん、なんかおかしいぞ?」
「おかしくなんかないって」
 全っ然、これっぽっちもおかしくない。……そう思いたいけどそんなワケあるはずなくて、永沢へ向けた視線をずらすことができない。
「ま、いいや。カノジョが来たんだから元気出せよ」
 そう言って祐は静かに出て行った。目の前の状況がイマイチ理解できない。永沢から来るなんて考えもしていなかった。右腕にはまだ包帯が巻かれていて血は滲んでいないけど、見ているだけでも痛そうだ。姿を見るまで想像していた人物像を猛烈に後ろめたい。それと同時に永沢の「声」を全く理解できていない自分が不甲斐なく思えた。
「永沢、どうしたの?」
 タオルケットを押し退けて床に足を着いた。久々に足の裏に感触が得られた。フローリングの床が冷たくて気持ちいい。
「お見舞いにね。和樹くんが休むなんて滅多になかったから……」
 滅多というかこれが初めて。
「来てくれて嬉しいよ」
 永沢の表情に曇りが見える。やってしまった。「優しさ」を意識していなくて口をついて出た言葉。
「あっ。今のは真意。本当だよ?」
 ……今は「優しさ」が真意とかという問題ではないんだ。優しくしないでほしいんだった。苦笑いして場を凌ごうとしていたら永沢と視線が合った。視線がすごく高い。座らせてあげよう。
「まずは座りなよ」
 そう言って腕を最大限に伸ばし勉強机の椅子をポンポンと叩く。ベッドに座っていても、これが出来るようにベッドと椅子を設置したようなもんだ。ちょっと太ももが痛くなったのは内緒。永沢はこわごわとした様子で椅子に座ると、緊張していた顔が少しほぐれたように思えた。
 さて、どうしようか。どうやって話の口火を切るべきだろうか。永沢にいち早く会えたとしても明日だと思っていたから何も考えていない。
「和樹くん」
「なに?」
 話の口火を切れなかったのは悔しいけど、永沢から来たんだ。何か用事があって来たんだ。お見舞いというのは単なる名目に過ぎないかもしれない。だってあれだけのことがあった後に来るなんて、お見舞い以外の目的があるはずだ。何のことを訊いてくるのかと思って首を傾げていると、目を背けられてしまった。顔が赤いぞ。……可愛いと思われてるぐらいだから今の仕種も永沢にとっては「可愛い」ものだったのかも。そのうち永沢は椅子と一緒にクルリと90度回転して一旦止まる。今度はゆっくりと90度回転して俺に背を向けた。
「ねぇ、これって」
 何のことだろう? 立つのは正直だるかったけど、重い体をなんとか動かし永沢のそばに歩み寄る。ああ、写真のことか。
「オレの小さいころの写真だよ」
「この虫取り網を持った子が和樹くん?」
「うん。これは父さんと祐」
 そこまではすんなり言えたけどもう一人のことが言えない。おかしいな、永沢にはオレの母さんはもういないってことを知ってるのに言えない。思い出したくない、のかな。一呼吸置いたら言おうと思うのに口が思うように動かなくて……。十呼吸ぐらい置いてやっと口に出せた。
「この人は……母さん」
 永沢がすぐに聞き返してくる。
「子どものころにいなくなってしまったお母さん?」
「ああ」
 オレの母さんのことは永沢にも話す必要がないと思っていたけど、今のこの状況ならもし「逃げ」だと感じても話せる覚悟がある。母さんのことを他人に話すのはとてもつらいことだけど、永沢に話すということはそれだけの価値がある人だ。今度こそ一呼吸置いたら話そう。
「ふぅ」
 永沢を見る。そうすると永沢も視線で応えてくれた。今日もぱっちり二重だ。でも顔より包帯が巻かれている右腕に視線がそれてしまう。守ってやれなかった。変わろう。永沢を守れる人に。
 ――永沢はオレだけのもの。そんなことをいつか言ってみたいな。そのためには名前で呼ばないと決まらないし、それより先にやらないといけないことがある。
「永沢には言っといたほうがいいかな」
「なにを?」
「オレの母さんのこと。……誤解されたままじゃ嫌だし」
 そう言った途端、肩の荷がふっと降りた気がした。もう後戻りは出来ない。その覚悟をさらに強固なものにするために自分を追い詰めた。
「つらい話になるかもしれないけどいい?」
「和樹くんから言ってくれるなら何だって聞くよ」
 話すしかない。
 オレはおもむろに窓のほうを向いた。すると永沢も立ち上がってオレの隣に来てくれた。窓に二人の姿が映る。やっぱ永沢の右腕に巻かれている包帯が目に入った。もうこんなことが二度と起こらないためにもオレは――。
「今から九年前。母さんが急に入院した。元々体が弱かったんだ。いつもは家で休んでれば治まったんだけど、そのときは眩暈が発作したのと同時に強い吐き気と嘔吐、それに耳鳴りがしたみたいで、複数の症状が現れて入院ってことになったんだ」
 家、か。祖父ちゃん一人で大丈夫かな。人ごみが嫌いって言ってたから、あの家の近辺は人が少なくていいと思ってる。オレが高校に上がってから数回電話したことがあるけど、直接会ったってことはないな。電話でいいから今度しよう。
「その日は平日で学校があって、オレは帰ってきてすぐに祐の手を引いて母さんが入院してる病院に走った。でもそこには元気にニコニコしている母さんがいて。いつもより酷いって聞いてたのにオレはその落差に愕然とした。症状が症状だけに、医師にはまだ安静にしてたほうがいいって言われてその日はそのまま帰った」
 別のことを考えていないと気分がおかしくなりそうだ。あの時はまだ完全に週休二日制じゃなかったんだよな。
「そんな状態が何日も続いた。母さんは『すぐ帰るからね』って言ってくれてたのになかなか帰ってこなくて……相当苛立ってたんだと思う。その日は第二土曜で学校がなくて昼前から病院に行ってた。そしてそのときが来た。母さんがオレに食べさせてほしいって言って……それで、オレッ。元気なのに退院しないことに腹が立って投げやりに食べさせたんだ。それが原因で母さんは噎せてしまって息ができなくなりそのまま帰らぬ人になった。悔やんでも悔やみきれない」
 正直言ってこれだけ話していくと、さすがにほかの事に意識を取ることが出来なくなってくる。
「後から聞いた話だけど、母さんは表では笑顔でいたけど内面は衰弱しきっていたようで、オレは酷く後悔した。母さん――庄子由佳の葬儀でオレはそのことをずっと考えてて涙が出なかった。状況を飲み込めてない。というより、現実を認めたくなかったのかな」
 ……しょうじ、ゆか。母さんの名前「由佳」、なんだよな。目の前にいる永沢と、母さんを重ねちゃいけない。
「母さんの親族の人は泣いてはいるけど、それが幼かったオレの目には同情に見えた。本当に心が荒んでいた。父さんが親族の人と話してるとき、他人事みたいに『これから一人で子育て大変ね』そのときの表情がうっすら嘲笑ってるように見えた」
 本当にオレの人格形成はここにあるんだと思い知らされる。でもそんなことがあったからこそ今のオレがいるワケで、永沢と出会えてここまで仲良くなれたのは母さんが亡くなったからなんだ。……そうポジティブに考えられればいいよな。
「そんなオレのことを構ってくれたのが母方の祖父。母さんから見れば実の父親。自分より先に娘に先立たれてつらいはずなのに、朗らかに話しかけてきてくれて。『お前の母さんはいつも笑顔で体は病弱だけれど、心は他の誰よりも強かった』って。母さんは誰よりも自分が衰弱しているのは分かってるはずなのに、誰かに泣きついたり弱音を吐いたりもしないで笑顔でいて。本当に強いんだ。そう思うともっとやるせない気持ちになって。やっと涙が出て、止め処なく溢れてきた。でもそんなオレを見てたお祖父ちゃんが言ってくれたんだ。『泣きたいときはいっぱい泣きなさい。けれど涙を流した分、笑顔になるんだよ。元気出すんだよ。君なら大丈夫』そう言ってくれて、心がジワリと温かさに包まれた」
 母さんも永沢も違う人。ただ名前が同じなだけで、何の繋がりもない。母さんにしか出せないものがあるなら、永沢にだって永沢にしか出せないものがある。それは否定するべきものではなくて受け入れるもの。永沢の容姿や仕種、考え方、それは全て唯一無二のもので、他の誰とも被らない。
 答えが見えそうな気がしてきた。
「それ以来オレは笑顔で優しくしてきた。それでみんなが幸せそうに笑ってくれたから。けど、永沢は優しくするたびにつらそうな顔をして。正直言うと、どう接していいか解らない」
 オレの周りにいる人たちと永沢は違うんだ。そんなことにも気付かないで傍若無人な振る舞いをしてしまった。今だって永沢に救いの手を求めようとしている。
「えっと……左手を使ってるのはお母さんが噎せたのが原因?」
 華麗に流されてしまった。
「本当は右利きだよ。母さんが亡くなってからは食べることに関しては左手を使ってる。右手を使うとあのときのことを思い出しそうで」
「なるほど……」
 この右手がか。料理してる時は何も感じないのに食べることになると嫌な感じが漂う。
「ピロティで言ってた叔母さんの話は」
「あれも一因してるよ。左手使っててよかったんだって。そのときにはもうオレのほうが左手暦が長かったからお手本を見せてあげたよ」
 なーんて、ちょっと見栄張ってみた。本当はオレもあの時は食べられることは食べられたけど、ご飯茶碗に残ったご飯粒を綺麗に食べることまでは出来なかったんだよね。
「質問責めで悪いけど……私を好きになった理由は?」
 いきなりこの子は何を言い出すんだっ。話が吹っ飛びすぎ。でもまぁ真摯に話そう。嘘を言ったところで永沢を傷つけるだけだ。
「最初は母さんと同じ名前ってだけで近づいた。でもそれが本当の気持ちになっていって。基本は真面目なんだけどたまに抜けてるところが好きだ。――でも名前を呼ぶのがこんなにつらいものだと思わなかった」
 母さんの名前と永沢の名前は同じ。でもやっぱり違う。オレが「庄子和樹」であるように、彼女は「永沢由香」という一人の人なのだから。たとえば十人、同姓同名の人がいてもそれぞれが違う歴史を刻んでいる。性格だって似てはいてもみんなバラバラ。この世界に同じ軌跡を歩んできた人はいない。みんながみんな異なる輝きを放っている。オレも、永沢も、みーんな。
「ごめん……なさい」
 え?
 よく解らないが永沢がいきなりさめざめと泣き出した! なに、オレなんか悪いこと言った? 俺に対して謝る必要性は見つからない。だったらやめさせるべきだ。永沢を目で追う。
「謝ることないよ」
 永沢を見てるとオレまで泣きたくなってきた。しばらくしても「ごめん」と言い続け、泣き止む様子がなかったから強い口調で抑圧してしまった。
「いいって」
 効果があったみたいで永沢は泣き止んでくれた。あまり抑えつけるようなことはしたくなかったけどしょうがないか。
「オレにも言えることだけど。『事が起こった後に後悔してももう遅い。くどくど考えても無駄』だって。そう父さんに言われ続けてきた。オレもそれは頭では分かってるつもりなんだけど、駄目だった。ここ三日間永沢のことばっか考えて、あのときああしてればって思った。でもこれからどうやって仲直りしようかっていうことも考えた」
 永沢を見つめる視線に偽りはない。覚悟もできてる。この事実を話して、オレとこれからも付き合っていくのは「無理だ」と言われたらそれまでだ。出来る限りのことをやってきたつもり。つもりだから不備な点もあるかもしれないけど……心構えはできている。
Index
君色の光【その9】
 ずっと永沢のことを見ていると振り向いてくれた。視線が絡む。そういえば目を見て話すなんてことはたまにしかなかった。そのせいでオレの誠意を感じ取ってくれなかったかもしれない。これからは相手のことを、ちゃんと目を見て話そう。恥ずかしがったって何の意味もない。相手はちゃんと見てくれているのに、オレは見ないではぐらかすなんて失礼だ。場合によっては相手のことを傷つけてしまう。
 永沢のことを、外面は名前と大きな瞳でしか考えなかったけど、こうしてまじまじと見ると瞳以外もカワイイもんだ。最近の子らしい厚い唇は美しいピンク色で化粧の必要性は感じられない。小鼻……とは言いきれないけど常人よりは小さい鼻に、ほんのり赤みがかっているぷっくりした頬がかわいらしく見える。眉毛はちょっと手入れした程度で人工的でないのがオレには好印象だ。そして――こないだまでの大きな瞳は、ここに来て急に見ることがなくなった。だから大きく開くとなる二重瞼は最近はお目見えしていない。それを取り戻すためにも。
「永沢」
「和樹くん」
 声が合った。永沢に「どうぞ」と言われ、先を譲られて即座に頷いた。「レディーファースト」という言葉が頭を一瞬掠めたが、遠慮してちゃいけないよな。だからああいう事態になったんだし。
「永沢の気持ちに配慮できないかもしれないけど、こんな。こんなオレでよければ付き合ってください」
 これがオレの気持ち。
「喜んで。これからつらいことがあっても二人でがんばっていこうね。和樹くんは遠慮しないで。私はもっと自分を抑えるから」
 へ? 即答された。予想外すぎる。
「ほんと?」
「本当だよ。じゃなきゃ言わない」
「やった!」
 この子……いや、この人に常識を求めるのは酷なものか。言動とか突飛してるからな。何かを決めたりするのがオレみたいに優柔不断じゃないから即答できるのだろうか。でもオレ的には「うーん」とか唸って悩んでほしかった。永沢の悩む姿は嫌いじゃないし、そこいら辺は女の子っぽくなってほしかった。……でもそれがオレの惚れた人なのか。
 ん、永沢がいきなりへたり込んだぞ。どうしたのかな。生理、とか? オレそういうの詳しくないよ。とりあえずオレもしゃがみ込む。
「どうしたの、大丈夫?」
 声をかけるとオレのほうを向いてニコッと笑ってくれた。本当の笑顔だ。目が細まっている。この笑顔を取り戻せただけでも今日会えて良かったと思う。きっかけは永沢の行動でオレは動かなかったけど……。
「大丈夫だって。それよりも和樹くんは明日から学校来られる?」
「それは永沢のせいじゃん」
 笑いが抑えられない。オレは力を入れてられなくなって、床に手をついた。いいな、こういう関係。気心が知れてる人の前で笑いを抑えてどうするんだよ、って感じ。吹っ切れた。
「明日からはちゃんと行くよ。欠席日数が就職のときに響いたら嫌だし」
 就職って口では言ってもまだ何の仕事をしたいかとか具体的に考えてない。今は永沢といるのが楽しい。だけどそうやって嫌なことを後回しにはするな、って父さんが言ってたな。「今が楽しいからそれでいい」じゃ駄目だよな。やっぱ先々のことを考えて生きていかなくちゃ。
 コンコンと大きなノック音が部屋に響き、思わず顔を見合わせると永沢がぎょっとした顔をした。それがおかしく思えて笑いそうになったけどぐっと堪え、扉のほうを見る。ゆるやかに開いた扉の先には祐が立っていた。こんのやろっ、人の恋路の邪魔でもしに来たのか。
「楽しそうだね。まさか笑い声が聞こえるとは思わなかったよ。ねーちゃん、何したの?」
 祐はオレのほうじゃなく、永沢のほうに歩み寄っていった。やけにこの二人仲良い気がする。川澄先生ほどではないけど。あれは意思疎通しちゃってる。まぁ何にせよ永沢は人付き合いがうまいよな。オレも見習いたい。
「……秘密」
「気になる。何言っても兄ちゃんは木偶の坊みたいに感情出さなかったのに」
 で、でくのぼうっ? よくもそんな言葉がすらすらと出るな。んじゃなくて、兄ちゃんを「木偶の坊」呼ばわりしないでくれ。
「それはねぇ」
「こらこら。誘導尋問しないの」
 ここらで阻止しとかないと永沢なら言ってしまいかねない。なんだかこのことは二人だけの秘密にしておきたい。
「私はお兄ちゃんと付き合ってるのです。そういうこと」
 はあ……言っちゃったか。でも上手にオブラートに包んでるしいっか。と思ったけど、体は反応しちゃって、ほかほかあったかくなってきた。
「ふーん、そっか」
 オレいつの間にか俯いちゃってる。よくわからないけど恥ずかしいぞ。話の内容は……ああ、そっか。
「祐は彼女がいるからそこまですごいことだとは思わないんじゃない? さっき、永沢のこと『カノジョ』って言ってたしね」
 そろそろオレにも紹介してくれ。彼女の一言でなんだってやっちゃうんだろ? オレには考えられない。
「ねーちゃんならいいけど、他のやつには言わないでくれよ」
 祐は手で後頭部を持って視線を左上に移した。祐は彼女がいるってことを引け目に感じてるのかな。オレも中学生のころだったら彼女は持ちたくないと思った。それでもいてほしい彼女……一体何者なんだ。
「そろそろご飯だぞ〜、降りてこい」
 あ、父さんだ。
「はーい!」
 祐と声が揃った。こういう時に無駄に「兄弟」というものを感じてしまう。
「じゃあ私はそろそろ……」
「食べていきなよ。父ちゃんはそのつもりだと思う」
「え、なんで?」
 ごめん。オレも「なんで?」って訊きたい。
「なんで、ってねーちゃん来たの七時過ぎだったぞ。それは食べていくと思うだろ」
 こ、ここは調子を合わせるか。永沢が今日来てくれなかったらオレたちはまだあの微妙な関係のままだったと思うし。
「そうだよ。食べていきなって」
 永沢が心ならずもという感じで押し切った形になってしまったけど、お礼をしたい。今日の夕飯はオレが作ったワケではないけどね。永沢は承諾したあと、家に電話をかけたみたいで「分かってるって」と何度も言っていた。電話が終わったあとは不機嫌ぽかったから何のことかと思って訊いてみたら「迷惑かけないように」と念を押されたらしく、それで何度も「分かった」と言っていたそうだ。そりゃそうだよな。高二にもなって迷惑なんて誰が良くてかけるかってんだよな。
「じゃ、いこ」
 気を取り直して、オレたちは一階に降りていく。リビングへ入るとテーブルには湯気を立てている出来たてのカレー四人分と、中央には瑞々しいキャベツや大根をメインにトマトが添えられているサラダが置いてあった。さっすが父さん。永沢がうちで食べるなんて頭に全然なかったけど、祐と父さんは意思が通じ合ってるんだ。オレ、永沢はおろか祐とも通じ合えてないしだめだめだな。っと、落ち込んでないで永沢を左側の椅子に促す。あ、流れで永沢は奥に座ってしまった。
 仕方ないか。たまには左側に人がいる状況で食べるのも悪くないかな。オレは永沢の隣に腰かけた。
「和樹大丈夫なのか?」
「うん、もう大丈夫。心配かけちゃってごめんね」
 あれだけ安静にしていたのだから平熱に戻っただろう。オレは頭をぽりぽり掻いて「えへへ」と照れる。……こういうことするから祐に「キモい」とか言われるのか。
「彼女がお見舞いに来てくれたんだ。本当なら逆の立場になってほしいが……」
 父さんは唸って腕組みをしてしまった。この態度は決まって、相手に対して「申し訳ない」と思ってるんだよな。物理的な面もそうだけど永沢は何より精神面を守らないと、また元の関係に戻ってしまいそうだ。それだけは絶対に避けたい。父さんは組んでいた腕を解いて膝の上に手を置いた。
「こんなやつですが、これからもよろしくお願いします」
「はい」
 また即答してくれた。今は「こんなやつ」、なのかもしれないけど変わるよ。後回しにしないで、これから変わっていけばいい。その「後回しにしない」っていうのが難しいんだけど。
「なーなー、早く食おうぜ」
 祐の悠然な声でみんな食事モードに突入した。
「いただきます」
 永沢の右腕に当たらないよう注意して食べないと。まだ包帯を巻いてるから、ぶつかったら痛いかもしれないし雰囲気が悪くなる気がする。永沢の様子を窺っていると、いつもより動きがぎこちなく感じた。オレの左腕にぶつからないようにしているからだろう。過去はどうしても消し去れない。永沢に迷惑がかかってしまうけど、オレはこれからも左手で食べていくんだと思う。母さんより永沢が大切な人になったら……変わることが出来るのかな。真剣に考えていると永沢のあっけらかんとした声が耳に入って、どうでもよく思えてきた。
「あふふ」
「どう? 口に合う?」
「うんっ。さいこー」
 未来なんて何もかもが未知数。オレが高校中退して堕落した人生を送るかもしれないし、逆に勉強を頑張って東大に行くかもしれない。そうなるには今からどう生きていくのかなんだ。それと同じように永沢とすぐ別れることになるかもしれないし、結婚して老後まで一緒に生きるかもしれない。細かい枝分かれはあるけど結果は二通りだ。未来を決めるのは全て今で、変わらないと大きな路線変更はない。少しずつでもいいから永沢の理想の人になっていきたい。結果は後からついてくるんだ。永沢をどう思うかもその時々じゃないと分からない。考えるだけ無駄、か。「後悔するぐらいなら未来のことだけを考えろ」ってか。そうすればミスったことだってこれからの行動次第で修正していける。父さんが言いたいことがなんとなく分かった気がして、また一歩前進できた。小さな一歩だとしても積み重ねて行こう。


「ご馳走様でしたっ!」
 永沢の溌剌とした声に心が安らいだ。やっぱ永沢はこうでなきゃ!
 んあ、永沢がまたオレの左腕をじろじろ見てきた。またか。一週間前にも左腕をじろじろと見られた。あの時の答えは今日言ったんだけどなぁ。
「なんかついてる?」
「いや、ここまで綺麗に食べるまでどのくらいかかるのかなぁと思って見てた」
 そっちの話ね。えぇと。
「どのくらいかな……どのくらい?」
 記憶にない。食べ始めた時期はしっかりと……というか間違えようがないんだけど、完食できるようになったのはいつだろう。父さんと祐に返答を求めると、父さんが反り返って天井を見上げた。「あっはっは」と大仰に笑ってる。なんなんだよもう。
「左手で食べ始めたときは完食すらできてなかったよなあ」
「もう。そのときのことはいいよ」
 父さんに期待したオレが馬鹿だった。
「二、三年くらいじゃねー? 自分でそうし始めたんだから覚えとけよ」
「うん、気をつける」
「これからじゃ遅いだろ!」
 なんと! 永沢が突っ込んでくれた。いつもはおっとりしてるんだけどなぁ。こういう時は外には出さなくても中ではすごく熱くなってるんだろうな。今みたいな状況になった時、ぶるぶる震えてることあったし。
「二、三年だって」
 なんかオロオロしてるぞ? 答えてやったというのに。
「今日は泊まって行くんだって?」
 ん? 父さん何を言い出すつもり
「そうそう。ねーちゃん、泊まっていきなよ」
 祐まで乗ってきた。オレも悪乗りしちゃおう。
「うーん……泊まっていくの?」
 数的不利な中、永沢は固辞して食器をキッチンに持っていってしまった。ちょっとやりすぎちゃったかな。嫌な予感がしてキッチンにいる永沢の表情を見てみると機嫌は良さそうだ。悪乗りしたオレら三人に嫌気が差したとかではないみたいだから安心。
 あれ、永沢は腕に包帯巻いてるってのに食器を洗おうとしている。手には巻かれてないから出来るだろうけど、腕に水がかかったら色々と嫌だと思う。
「いいよ。オレがやるから、永沢は休んでて」
「体調の悪い和樹くんには任せられない」
 う、うん……。完璧に調子が戻ったワケじゃない。食べる前は寒気がしていたし、今でも少し寒く感じる。この状況をどう打開しよう。
「俺がやるよ〜」
 おっ、よく言ってくれた弟よ。永沢を前にしてもいつも通りの祐はすごい。オレはどちらかといえばシャイだから人前では本来の自分を隠しているんだ。永沢に対してはもちろん、他の人に対しても素のオレを出していこう。
「い、いいの?」
「ああ。まかせとけ」
 祐は本当に頼もしいな。オレにはもったいないくらいの良い弟だ。祐に見合うぐらいオレも良い兄ちゃんになろう。でもやっぱり彼女がどういう人なのかは気になる。
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君色の光【その10】
「今日は何から何までしてくれてありがとうございました」
 そう言ってオレの隣にいる永沢は慇懃に頭を下げた。本当だ。オレが永沢の立場だったら食べるだけ食べて、後片付けもしないなんて申し訳が立たない。
「いやいや、これぐらいしかおもてなしが出来なくてすまないね」
「十分です。カレー美味しかったです! サラダも」
「そう言われると作った甲斐があるなあ」
 永沢とのやり取りに父さんはふんわりと微笑む。とても自然だ。父さんは嬉しいから笑ってる。オレはいつでも笑っていて心情が読めるなんてレベルではない。長年付き合ってる父さんには分かるかもしれないけど、付き合い始めて間もない永沢はオレがどういう気持ちなのか全然分からないと思う。自分の気持ちを優先するって時には大切なことなんだろう。
「ねーちゃん、またなー」
「うん。またね」
「いつでも遊びに来なさい」
「はい。それではまた」
 傍目で見てるオレもすごい心が温まる。オレにもこんな家族が出来るのかな。……由香との家族が。
「それじゃあオレは永沢を送るよ」
 玄関の扉を開けて永沢を先に行かせる。オレも続いて出ると、思っていたより暖かい風が顔にかかった。
「結構暖かいね。Tシャツだけでよかったかも」
「そうだね」
 この前のことがあるから用心してジャージを羽織ったんだけど、失敗だったか。まぁいいや。家に戻るのは永沢に迷惑かけるし、暑かったら脱げばいいだけだ。寒かったら服がないと駄目だけど暑いのは大歓迎。といってもオレは頑丈だけど、永沢は案外暑さ寒さに弱そうだから自分が良ければ全てよしってワケじゃないんだよな。
 なんてことを考えていると永沢が後ろを振り返った。オレも少し遅れて振り返り、永沢を見る。なんか感慨にひたっていそうな顔をしているぞ。
「名残惜しい?」
「ううん。ここに来たときと今じゃ、私も和樹くんも気持ちが全然違うってふと思ってさ」
「そうか……そう、だね。今日はありがとう」
 来てくれて。
 静かに頷いてくれた。今日永沢が来てくれなかったらあの微妙な関係のままだった。永沢の決断力には本当に感謝している。一緒に帰ろうと言ってくれたのも、デートに誘ってくれたのも、全部永沢からだ。オレはといったら手を繋ぐことぐらいしかしていない。しかも相手の了承を得ずに強引に。そういうとこだけ強引になる自分が嫌だ。今度は永沢の了承を得てからにしよう。そのほうがお互いのためにもなる。でもなぁ、「嫌」って言われたらちょっと傷つく。決断できずにいると、永沢が気付いたみたいで声をかけてくれた。
「なに?」
 知らず知らずのうちに永沢の手をじっと見つめていた自分が情けない。そりゃ、訊きたくなくても訊かなきゃいけない気になる。永沢に左腕を見つめられていたさっきのオレみたいに。
 そ、そうだよな。今の雰囲気で断るやつなんかいないよなっ! 自らを奮い立たせて何とか声にする。
「……手、繋ぎませんか?」
 永沢は顎に指を一本置き
「うん、いいよ」
 すぐ答えを出す。永沢が悩むのって相当なことだと思う。こないだ「優しくしないで」って言われた時に悩んでいたのは多分オレのことで、だろう。永沢の中で考えに考え抜いた結果があれだったんだ。そんなこと考えてないで手を出さないと。オレが手を差し出すと永沢もすぐ出してきて手を繋いだ。いいな、この感触。穏やかになれる。ざわざわしていた気持ちが収束していく。指を絡めることは出来ないけど、いつかそうできるようになれたらいいな。今はこれでいいんだ。
 そうだ。さっき聞きそびれてしまったことを訊いてみよう。
「……どうしてさ、オレのこと好きなの?」
 オレは言ったけど、永沢は何でオレを好きなんだろう。
「は?」
 永沢はぎょっとして歩調を乱してくれた。そのおかげで繋いでいた手が離れてしまった。
「そんなに変なことだったかな……」
 離れてしまった手をポケットに突っ込む。なんなんだよ。ちょっとぐらい言ってくれよ。ケチ。そう思っていると永沢はゆっくりと口を開いた。
「最初は外見に惹かれたけど、今はその人間性……強さ」
「強さ?」
 そんなものオレには全然ない。否定されるのが怖くて何も言い出せてない。永沢のほうがよっぽど強い。オレを突き放すことを言った後にオレにまた会いに来るなんて並大抵の精神ではない。永沢は澄んだ口跡で話を続けた。
「和樹くんは強いよ。何があっても私と関係を絶つなんてことは選択肢に入れなかった。どんなにつらく、過酷な道程でも受け入れられる強さを持っている」
 オレの考えている「強さ」と永沢の考えている「強さ」は別物なのかもしれない。お互いがお互いのことを強いと感じる。それでいいのかな。
「永沢はオレを美化しすぎ。……オレはそこまで強くないよ」
 すぐに結論は出せなかった。これは考えるべきこと、だよな。なんだか話しにくい雰囲気になってしまったが、また手を繋いで歩くとすぐに永沢が住んでいるマンションに着いた。
「じゃあオレはここで」
「待って! もうちょっとだけ」
 ん、なんだろう。
「うん? どうしたの?」
「……部屋の前まで」
 別に急ぎの用事があるワケでもないし。そんくらいなら。
「ん〜、いいよ」
「ありがとう。じゃあエレベーターで行こっ」
「オレがついてくるってだけで嬉しそうだなぁ」
 さすがにそれはニコニコしすぎだ。破顔しちゃってる。もっと嬉しいことぐらいあるんじゃ……。女の子にとって彼氏と少しでも長い間いられるって嬉しいことなんだろうか。オレも永沢とは少しの間でも長くいられるなら嬉しいけど、相手に無理はさせたくない。……って、痛い!
 手首を掴む力が異様に強い。おまけに全速力なもんだから、肩が外れてしまいそうで腕全体が痛い。――ふぅ。エレベーターに乗ってやっと解放された……。と思ったのも一瞬、久々にエレベーターに乗ったせいでグラリと来た。眩暈がしそうなくらいに。早く降りたい。やっぱ完全に調子は取り戻してないのか。そうこうしているとエレベーターのドアは静かに開いた。ええ! 永沢が一目散に降りて行った。オレより永沢のほうが具合悪かったのか? でも様子を窺ってみるとそういうワケではないみたいだ。顔色は良い。変なの。
「オレ、あんまりエレベーターって使わないから一瞬くらっときちゃった」
「ごめんごめん」
 そう言って笑いながら謝る永沢。場面を理解している。ここで大真面目に謝られてもオレはどう反応すればいいのか分からない。オレの彼女――永沢で良かった。
「……ちょっと、恥ずかしい、かな」
「え?」
 手を繋いでるってこと。
「さっきまで暗かったからよく見えなかったけど、こうして光に照らされて手を繋いでるってことが明白になると恥ずかしい」
 だけど、嬉しくもある。手を繋ぐなんてことはふざけてやった以外で初めてだ。永沢と色々な「初めて」を経験している。相思相愛の状態で正式に付き合うことはもちろん、デートだって初めてだった。これからもオレたち二人で「初めて」を染めていこう。
 永沢は繋いでいる手を一度見たが、また前を向いて歩き出した。永沢も恥ずかしいのかな。ちょっと息が荒い気がする。階段を右前方に見ながらずんずんと歩いていき、廊下の角に着いた。
「ここ」
「角部屋なんだ」
 へぇ〜。永沢の家もそこそこはお金持ってるのか。
「じゃあ今度こそオレは帰るね。また明日」
「う、うん……」
 永沢は少し寂しそうにしたけど、オレも帰らないといけない。夜道を一人で歩くのは男だって怖い。手を解いてオレは階段を降りていく。
 うぅ〜。夏が近づいているとはいえ、夜はやっぱ涼しいもんだ。上は着てきて正解だったかも。永沢といた時は寒さなんて感じなかった。手を繋いでいたから……なのかな。永沢はあれで繊細だから、エレベーターに乗っていたときはテンパっちゃってたんだろう。
 さ、早く帰ろう。オレは得意の早足でそそくさと家に帰った。
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君色の光【その11】
 今日は学校に来ることができて、勉強の遅れを取り戻せたのは良かった。……けど
「お、和樹ぃ〜、元気だった?」
 二時間目が終わった途端に馴れ馴れしくオレに話しかけてくるのは亮だった。
「元気ではなかったけど、今は元気だよ」
「いちいちお前は細かい! もっと大雑把になれ」
 なぜ亮に命令されないといけないんだ。って、そんなことはどうだっていい。亮は――オレとあんなことがあったのにどうして前みたいに接してくれる? それが不思議でならない。普通あんな激突があったら誰だって嫌だ。永沢の様子を探ってくれ、っていうのはオレから言い出したことで、こんな嫌なやつとは絡みたくない。仮にも警察沙汰になりかけたというのに。
「亮はさ、オレのことどう思ってるの?」
「いきなりなんだよ」
 だってオレだったらもうそいつとは絡まないことにする。相手からだったら仕方がないけど、自発的には絡まない。傷口を悪化させるだけだ。
「オレ、亮のことが解らない」
 意図しないうちに暗い雰囲気に持ち込ませようとしていると、亮はまだ切って間もないスポーツ刈りの頭をガシガシ掻いて辟易したようにため息をついた。イライラしていそうだ。
「何言ってんだよ」
「そのままの意味」
「はあ? 意味わかんね。お前って結構馬鹿なんじゃねえの?」
 馬鹿だなんて……。確かにそうかもしれない。自分で言うのもなんだけど勉強は出来る。だけどこういうことは苦手だ。勉強が出来るって頭が良いってことなのかな。亮はオレのことを直視してきた。そしてにこっと笑った。なんか恥ずかしいぞ。
「俺たち友達だろ」
「友達……」
 オレのことをまだ友達と呼んでくれる。
「そう。だから後は分かるよな? じゃ」
「ちょっと!」
 亮は軽快な動きで教室を出て行ってしまった。
 友達だからあんな最低な行動を起こしても許せるっていうのか? オレは……許せない。不甲斐なさすぎる。亮のことを考えれば嫌なことだって分かったはずだ。友達の、それに彼女の様子を探るなんてオレだったら「自分でなんとかしろよ」と言ってしまう。それなのに亮は引き受けてくれた。――亮のこと、やっぱりオレには解らないよ。

*******

 暑い。しかも嫌な暑さ。蒸し暑い。
 なんだってこの学校の昇降口はこんなにも暑いんだ。風通りが悪い。これだったら外のほうが涼しいんじゃないかと思うくらいだ。でもここが待ち合わせ場所だから離れるワケにも行かない。なんだか暑さで頭がぼーっとし始めてきた。そういえば一年のころは校舎内をよく歩かされたなぁ。生徒会もそうだし部活でもそうだった。そのたび、ここの近くを通ると熱気でムンムンしてたんだ。廊下とか教室のほうが涼しいと思う。人を通す玄関口がこれでどうするんだ。この高校には特に不満はないけど、ここだけは何とかしたほうがいい。あと保健室の建て付けも。
 昔を振り返っていると永沢が階段から降りてきた。危なっかしいな。また踏み外したらどうするつもりだ。昨日まで腕に巻かれていた包帯はなくなっていてガーゼになっていた。はみ出ているところが少し赤黒く見えるのは気にしないでおこう。永沢はオレのところまで苦笑いで駆けてくるとそのままの表情で謝った。引っかかる。表情に冴えがないのかな。
「ごめーん」
「気にしないで。オレも今着いたところだから」
 あ、つい出てしまった。……ん。でも今日は永沢が嫌そうな顔をしない。それにしても珍しいな。部活はいつもと同じ時間に終わったんだけど、オレが先にここに来てるなんて。まぁいいや。早く出たい。永沢が靴を履くのを待ってからやっと外に出ることができた。本当なら一緒に出たかったけど、我慢できなかった。外に出ると生暖かい風を被る。無風よりは良い。さっきよりは良い。このまま汗を拭かないのも気持ち悪くて嫌だし、今のうちに拭いておこう。ポケットからハンカチを出して一番汗が吹き出ている額を拭った。この瞬間がとても気持ち良い。亮を始め男子はほとんど持ってないけど、理解できない。手で拭うと手がべったべたになるから嫌だ。もし永沢と手を繋いで「和樹くんってこんなに手汗ひどいんだ」とか思われたくないし。
 学校を出て少し歩いたところでオレは後ろを振り返り
「永沢? もしかして」
 視線を地面まで落とす。訊いてもいいこと、だよな。顔を上げて気になっていたことを訊ねてみた。
「オレが永沢のこと……『ゆか』って言わないから怒っちゃった?」
「ううん、そうじゃないよ。怒ってるように見える?」
 表情に冴えがない。さっきまでなかった眉間にもしわ寄っちゃってるし。
「……見える。まぁいいや」
 そこまでして追求すべき問題でもない。再び歩き出しても永沢は隣を歩いてくれない。確かに後ろにはいるけど、隣にいてほしい。また振り返って永沢を見ると暗い表情だ。
「隣に来てよ。オレのこと、怖い?」
 そう声をかけると永沢の体が一瞬ヒクついた。本当に怖いのかな、どうしてだろう。昨日は手を繋いでくれたのに。
「昨日、手繋いだよね。並んで歩こう?」
 オレの願い。強引なことはしない。相手が承諾してくれないと一方的な感じがして厭わしい。
「うん」
 重みがある返事だ。
 オレも、永沢も、相手に手を差し出していた。手を繋ぐとどちらからともなく指を絡めあった。永沢は手を繋いでも頬すら染めないで四回目にして手馴れた感じになっている。でも見つめ続けているとだんだんと赤くなってきた。永沢は手を繋ぐという行為よりオレに見られるほうが恥ずかしいのかも。こんな至近距離で見ていると……笑いが込み上げてきた。永沢もほとんど同時にくすくす笑い始めた。
「あぁ〜、おかしい」
「ほんとだね」
 永沢も隣に来てやっと並んで歩くことが出来た。オレにも守る人が出来た。母さん以外にも好きな女の人が出来た。すごい進歩だよな。彼女がいるっていうこと、一ヶ月前は想像すらしていなかった。恋愛は相手本位で考えるものだと思っていた。でもオレたちにとってそれは違うもの。言いたいことがあったら言わないと永沢にまた泣かれてしまう。小さな一歩を踏み出すために……永沢への感謝とともに
「ごめん。そしてありがとう。……ゆ、ゆかちゃん」
 名前を呼ぶというのはオレにとって、とても大きな一歩だった。

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