ゆか。由香って、呼んで。
有無を言わせぬ口調でそう強く言われた。永沢の寂しげな顔は見たくないと思って、つらいけど……自分の感情を押し殺して名前を呼んだ。心がちぎれるような思いだった。呼吸するのすらつらく感じる。「ゆか」って名前はどうしても母さんを連想してしまって、封印している記憶が奔流のように流れ出た。悲しい記憶ばかりが呼び起こされる。朦朧とした意識の中で永沢の声が頭に反響する。
「ごめん、ね。無理させちゃって」
永沢が謝る必要性はない。名前は不可抗力だ。親に付けられたもので選ぶ権利は本人にはない、どうやったって変わることのないものだ。一生付き合っていかなきゃならない。永沢を少しでも安心させるために
不可抗力だよ。
その一言を差し出せなかった。嗚咽が込み上げてきて喉が締め付けられる。……眩暈もしてきた。名前を呼んだだけで気分最悪になるなんてみっともない。これからどう克服していけばいいんだろう。それが頭にへばりついて取れない。永沢は名前で呼んでほしいんだ。だったら……。呼べない。やっぱ無理だ。こういうときに出せない「優しさ」がもどかしい。
「今日はもう……帰るね」
「ああ」
声が出た。
深層心理は永沢にはもう帰ってほしいって思ってるんだ。人のことを安心させるより自分のほうが大事だから。きっと心のどこかでそう思ってるんだ。日常じゃ相手に尽くせるけど、いざとなったら自分が大事なんだ。逆のほうが……良かった。
あ、もう外は暗いんだった。こんな時間に永沢を一人で帰せない。オレは電気を消して部屋を飛び出した。……え。電気が点いてない。永沢は変なところで遠慮する人だから勝手に点けるのは悪いと思ったんだろう。オレはいつものようにスイッチを押し込んで電気を点けた。二階の廊下から見える階段に永沢の姿はない。ひょっとしてもう出ちゃったのかも。早くしないとっ!
静かに階段を駆け下りようと少し下ると、視界に永沢の姿が見えた。玄関の扉の前で立ち尽くしている。嗚咽は引いていた。
「送るよ」
そう声をかけた途端、永沢の体がピクリと波打ち瞬間俯いた。微動だにしない。すたすたと残りの段差を下りて、静かに近づき後ろから安心させるようにできる限り優しい声音で囁いた。
「外は暗いよ。女の子をこんな時間に一人で歩かせられない」
永沢は更に俯き、口篭った感じで小さな声を出す。
「うっ……私の家近いからいいよ」
「そういうわけにはいかないって」
後ろからなので全然表情が分からない。様子を窺おうと覗き込もうとするとそっぽを向かれてしまった。
「じゃ、じゃあ……」
「行こう」
承諾の色を見せたので多少強引気味に外へ連れ出した。あのままだったら埒が明かなかったと思う。
「うぅ〜、さぶっ」
「大丈夫?」
そこまで寒くはないと思ったけど、永沢は上に着ている服が一枚みたいだ。上の半袖シャツを脱いで、そろりと永沢の背後に立ち今脱いだシャツをかぶせる。それに気づいたのかオレのほうを向いて驚きの声を上げた。驚きで開いた真ん丸な瞳が可愛いぞ。
「ど、どうして?」
「寒いって言うから」
疑問を投げかけてきたわりに、かぶせた半袖シャツをクロスさせた手でぎゅうっと握ってる。歩こうと前を向くと中に着てたシャツの裾を引っ張られた。一瞬転けるかと思ったぞ。歩いてる最中に引っ張られるとバランスが崩れる。
「悪いよ」
ちょっと肌寒いけど
「いいって。オレなら大丈夫」
顔だけ永沢に向き、ニッと笑ってみせた。困惑してる表情も可愛い。この感情……駄目だ、抑えきれない。
「えっ」
永沢の左手を取って手を繋いだ。冷えている。冷え性なのかな。今日はデートだって言うからそういうつもりで来たんだ。それなのに何のアクションもなくて……我慢していたのを抑えきれなくなった。永沢とオレの今の状況を考えて、手を繋ぐっていうことに押し留めたけど本当はもっと。
「行くぞ」
やっぱこういうのって恥ずかしい。振り切るためにいつもの、常人より速い歩調になってしまっている。永沢の息切れした吐息を聞いても止まる気にはなれなかったけど
「ちょっと」
声だと止まる気になれた。
「あ。……ご、めん」
そういう気になってしまっているから、息切れしている永沢のことが……とても愛らしく思える。くはぁっ。ギリギリだ。ギリギリのところで感情を押し殺せた。抱きしめたい衝動を押し殺せた。そんな自分が限りなく嫌になる。さっきは、感情の赴くままに「いやだ」って言ったほうが良かったのかな。でもそれだと永沢の願いを叶えられない。自分を優先したい気持ちと相手を優先したい気持ち、この齟齬が堪らなく歯痒い。……まずは永沢を無事、家に送り届けよう。オレは永沢の歩調に合わせながら再び歩き出した。
そうこうしているうちにあっという間に、永沢が住んでいるマンションの前に着いてしまった。
「返すね」
永沢は名残惜しそうにオレの上着を脱いで手渡してくれた。
「ありがとう、暖かくてほっこりした」
そういう古めかしい表現って大好きだ。だから永沢のことを好きになれたんだ。
「うん。よかった。じゃあオレはここで。また明日」
「また……またね」
そのときの永沢の寂しそうな表情を忘れることが出来なかった。
有無を言わせぬ口調でそう強く言われた。永沢の寂しげな顔は見たくないと思って、つらいけど……自分の感情を押し殺して名前を呼んだ。心がちぎれるような思いだった。呼吸するのすらつらく感じる。「ゆか」って名前はどうしても母さんを連想してしまって、封印している記憶が奔流のように流れ出た。悲しい記憶ばかりが呼び起こされる。朦朧とした意識の中で永沢の声が頭に反響する。
「ごめん、ね。無理させちゃって」
永沢が謝る必要性はない。名前は不可抗力だ。親に付けられたもので選ぶ権利は本人にはない、どうやったって変わることのないものだ。一生付き合っていかなきゃならない。永沢を少しでも安心させるために
不可抗力だよ。
その一言を差し出せなかった。嗚咽が込み上げてきて喉が締め付けられる。……眩暈もしてきた。名前を呼んだだけで気分最悪になるなんてみっともない。これからどう克服していけばいいんだろう。それが頭にへばりついて取れない。永沢は名前で呼んでほしいんだ。だったら……。呼べない。やっぱ無理だ。こういうときに出せない「優しさ」がもどかしい。
「今日はもう……帰るね」
「ああ」
声が出た。
深層心理は永沢にはもう帰ってほしいって思ってるんだ。人のことを安心させるより自分のほうが大事だから。きっと心のどこかでそう思ってるんだ。日常じゃ相手に尽くせるけど、いざとなったら自分が大事なんだ。逆のほうが……良かった。
あ、もう外は暗いんだった。こんな時間に永沢を一人で帰せない。オレは電気を消して部屋を飛び出した。……え。電気が点いてない。永沢は変なところで遠慮する人だから勝手に点けるのは悪いと思ったんだろう。オレはいつものようにスイッチを押し込んで電気を点けた。二階の廊下から見える階段に永沢の姿はない。ひょっとしてもう出ちゃったのかも。早くしないとっ!
静かに階段を駆け下りようと少し下ると、視界に永沢の姿が見えた。玄関の扉の前で立ち尽くしている。嗚咽は引いていた。
「送るよ」
そう声をかけた途端、永沢の体がピクリと波打ち瞬間俯いた。微動だにしない。すたすたと残りの段差を下りて、静かに近づき後ろから安心させるようにできる限り優しい声音で囁いた。
「外は暗いよ。女の子をこんな時間に一人で歩かせられない」
永沢は更に俯き、口篭った感じで小さな声を出す。
「うっ……私の家近いからいいよ」
「そういうわけにはいかないって」
後ろからなので全然表情が分からない。様子を窺おうと覗き込もうとするとそっぽを向かれてしまった。
「じゃ、じゃあ……」
「行こう」
承諾の色を見せたので多少強引気味に外へ連れ出した。あのままだったら埒が明かなかったと思う。
「うぅ〜、さぶっ」
「大丈夫?」
そこまで寒くはないと思ったけど、永沢は上に着ている服が一枚みたいだ。上の半袖シャツを脱いで、そろりと永沢の背後に立ち今脱いだシャツをかぶせる。それに気づいたのかオレのほうを向いて驚きの声を上げた。驚きで開いた真ん丸な瞳が可愛いぞ。
「ど、どうして?」
「寒いって言うから」
疑問を投げかけてきたわりに、かぶせた半袖シャツをクロスさせた手でぎゅうっと握ってる。歩こうと前を向くと中に着てたシャツの裾を引っ張られた。一瞬転けるかと思ったぞ。歩いてる最中に引っ張られるとバランスが崩れる。
「悪いよ」
ちょっと肌寒いけど
「いいって。オレなら大丈夫」
顔だけ永沢に向き、ニッと笑ってみせた。困惑してる表情も可愛い。この感情……駄目だ、抑えきれない。
「えっ」
永沢の左手を取って手を繋いだ。冷えている。冷え性なのかな。今日はデートだって言うからそういうつもりで来たんだ。それなのに何のアクションもなくて……我慢していたのを抑えきれなくなった。永沢とオレの今の状況を考えて、手を繋ぐっていうことに押し留めたけど本当はもっと。
「行くぞ」
やっぱこういうのって恥ずかしい。振り切るためにいつもの、常人より速い歩調になってしまっている。永沢の息切れした吐息を聞いても止まる気にはなれなかったけど
「ちょっと」
声だと止まる気になれた。
「あ。……ご、めん」
そういう気になってしまっているから、息切れしている永沢のことが……とても愛らしく思える。くはぁっ。ギリギリだ。ギリギリのところで感情を押し殺せた。抱きしめたい衝動を押し殺せた。そんな自分が限りなく嫌になる。さっきは、感情の赴くままに「いやだ」って言ったほうが良かったのかな。でもそれだと永沢の願いを叶えられない。自分を優先したい気持ちと相手を優先したい気持ち、この齟齬が堪らなく歯痒い。……まずは永沢を無事、家に送り届けよう。オレは永沢の歩調に合わせながら再び歩き出した。
そうこうしているうちにあっという間に、永沢が住んでいるマンションの前に着いてしまった。
「返すね」
永沢は名残惜しそうにオレの上着を脱いで手渡してくれた。
「ありがとう、暖かくてほっこりした」
そういう古めかしい表現って大好きだ。だから永沢のことを好きになれたんだ。
「うん。よかった。じゃあオレはここで。また明日」
「また……またね」
そのときの永沢の寂しそうな表情を忘れることが出来なかった。