1.プロローグ
 思っていたよりも彼は近い存在だった。
 頭が良くて生徒会の役員をやっている。容姿もいい。それでいて傲慢な態度は一切なく、対等な立場で接してくれる。そのため、私たち女子にとって憧れの的だ。そんな雲の上の存在だと思っていた彼と初めて話したのが今からちょうど一週間前。それからはお昼を一緒に食べたり、帰りも一緒だ。気持ちが乗ってるときに言わないと、言えないまま終わりそうで。それに……
「和樹はあんたのもんじゃないんだからね!」
 物凄い剣幕で迫ってきて、うだうだ喚いてるのは私と同じ吹奏楽部員の日野麻衣だ。台無しだよ。金切り声のように高い声が耳にキンキン響いて痛い。私の中では、フルネームでも四文字だし苗字か名前だけでも二文字で響きが悪いので、『マイマイ』と呼んでいる。これでも四文字だけど、『日野麻衣』よりはいいやすい。
「ゆーかー。聞いてんの?」
 こらこら。先輩に向かって「さん」も「先輩」っても付けないのは運動部だったら何されるかわかったもんじゃないよ。文化系でよかったね。まぁ吹奏学部は文化系だけど、他よりは上下関係は厳しい。といってもマイマイは私に対して言わないだけで、他の先輩たちのことはちゃんと先輩と呼んでいる。ああ、こうなってしまったのも全部。
「聞いてるって」
「分かったら和樹には近づかないでね」
 『和樹』というのは私の同級生でクラスの……というより学年の人気者で私が想いを寄せている人だ。和樹くんは男の子にも女の子にも好かれるけど、どちらかというと女の子の方に好かれやすいみたいでモテモテだ。そりゃあ恋敵がいることは重々承知だったけど、ここは退けない。
「そんなこと聞くわけないじゃん。マイマイは相手にもされてないみたいだし」
「いいもんっ、和樹は優しいから私のこと見捨てたりしないもん」
「優しいからマイマイのことを見捨てられなくて、和樹くんの負担になってるんじゃないの?」
 自分はなんてドSなんだ。でもこんなことを言っても、いつものマイマイにはダメージにならないみたいだけど……今日は違った?
「うぐっ……あんた痛いとこつくわね。……和樹は実はツンデレであたしのことのほうが好きなんだからっ」
 目を伏せ気味にそう言い残すと、音楽室を飛び出していった。やっぱいつもどおりだった。
 恋敵っていうのは分かるけど、思い込みが激しすぎてここまでくると可哀想な人に見えてくる。しつこい女は嫌われるのに。数日前から一緒にお昼食べたり、帰ったりしてるんだから私に気持ちが寄っているのは明確だ。でもこんな人望のなさそうな人でも生徒会役員になれるのだから世の中不思議。
 そうだ。マイマイの金切り声に頭がやられて忘れてしまいそうだったけど……今日は決戦の日だった。

 ――付き合ってください。

 なんてストレートな言葉だろう。
 和樹くんの後ろを歩きながら、学ランの裾を引っ張って。会ってまだ間もないのに……でも今日が最後の日だし。
 ここは音楽室。部活も終わり、私のほかには一人しかいない。妄想してしまったら息が漏れてしまった。
「はぁ」
 自分でも分かるくらいうっとりとした声を出す。考えただけでも顔が綻んでしまう。
「どうしたの、由香ちゃん」
 不思議そうな顔で私の顔を覗き込んでくるのは私と同じ吹奏楽部の真奈美。髪は肩くらいまで伸びていてストレートで、触るとサラサラしている。テレビのCMで見るような髪質だ。羨ましい。私はバリバリでうなじにかかるくらいで精一杯なのに。昔、髪を伸ばしたらうなじの部分にぶつぶつができてそれ以来髪は短くしている。
「……ちょっと、ね」
 通常時でも目を細めている。見えないんじゃないかってくらい細めている。元々細いんだろうけど。おっとりしていて、どんな行動も緩慢としている。そういうのが男の子の心をくすぐるのか、多数のファンがいる。守りたくさせるのだろう。正にお嬢様だ。……本当にご令嬢なのですが。
「ちょっとって?」
 いつもの鈍い真奈美は感じられなくて、間髪入れず聞いてくることに困惑してしまう。誰かこの不思議お嬢様をどうにかしてください。私と和樹くんの仲は知ってるはずなのに。すると真奈美は「あっ」と声を上げた。やっとわかったのだろう。鈍いなぁ。
「彼と何かあったの?」
「まぁそんなところ」
 正確には違う。私の勝手な妄想。
「えぇ〜!? 由香ちゃん、彼氏なんていたの?」
 真奈美は片手で口元を抑えて驚きの声を上げた。こっちが驚きたいくらいだ。こないだ言ったばかりなのに。勘はいいんだろうけど、天然過ぎてどうしようもない。
「あれ、真奈美は知らないんだっけ」
「初耳だよ〜」
 話を聞いてたのかな。それとも私の言い方がまずかったのかな。真奈美と接していると自分が悪いように思えてくるから不思議だ。でも。
「……彼氏とは呼べないよ」
 思わず俯いてしまった。
「えっと。そういう感じの男の子はいるんでしょ?」
「うん」
 この質問には即答できてしまう。けど彼氏となると……。あ、今って何時ごろだろう? 時計を見ようと顔を上げながら後ろを振り返る。
 そこには彼の姿があって。やんわり微笑んでいる。
 ――って、えぇっ!?
 予想だにしていなかったことに私は面食らってしまう。数瞬もしないうちに優しく心地よい声音が耳に入ってきた。
「永沢」
 彼が庄子和樹。整った顔立ちで、優しくいつも笑顔。笑うと歯列が整った白い歯が見えてとても爽やかに見える。バスケをしているせいか細身ではあるが、均整のとれた体つきである。頭のほうも良く、220人ほどいる学年の中でトップ5にはいるほどだ。明るい性格で誰とでもすぐ仲良くなれる。生徒はもちろん、先生からの信頼も厚く次期生徒会長と言われているが、本人はそんな気はないらしい。
「ど、どうして……和樹くんがここに?」
 彼がここに来るとは思っていなかったので驚きのあまり、どもってしまう。
「いつまで待っても永沢が来ないからさ、気になって来たんだ」
 混乱していた頭がようやく冷静になっていく。そんなに時間が経ったのか? と思って時計を見ると、既に六時半を回っていた。窓から外の風景を見渡すと薄暗くなり始めている。
「ごめん、なさい」
 頭で考えるより先に口が勝手に動いていた。
「……いいよ、それよりも早く帰ろう。よければ君も」
 私に向けられていた目線が真奈美に移る。真奈美は一瞬戸惑ったような表情をしたが、すぐ元に戻る。
「由香ちゃんが庄子君と二人っきりで話したいことがあるっていうから、私は先に帰るね」
 私がいつそんなことを……。話があるっていうのは本当なんだけど。勘のよさはピカイチだ。
「それじゃ。またね〜」
 いつもの鈍臭さは感じられず真奈美はばたばたと騒々しく音楽室を後にした。  二人っきりになり、しーんと静まり返った空間。和樹くんは静かに私の下へ歩いてきた。
「さっきの……どこまで聞いてた?」
「永沢が『うん』って言ってたところだよ」
 うん? 果たしてそんなこと言っただろうか。予想外の出来事に頭がパニくってしまって彼が来る前の記憶がぼんやりとしか残ってない。
「うん。そうだよ」
 そっか。「どこまで」って言ったんじゃ、そりゃあ「うん」と聞いたところまでとしか答えられない。和樹くんは窓のほうを向いた。端正な横顔だ。遠くを見るように目を細めた。
「それより」
 何かを言おうとしてるみたいだけど、躊躇している。やがてゆっくりと口を開いた。
「……話って何?」
「そっ、それは……その」
 和樹くんは再び私に顔を向ける。視線を浴び、咄嗟に俯いてしまった。どうしよう……こんなんじゃ告白するなんて、夢のまた夢だ。私はやれる子だ! そう自己暗示をかけて手に力を込める。
「かかっ、帰りながらでも話せることだし、そのときにするね」
 よし言えた! けど最初は舌が回らなかった。肝心なところでやらかしてしまった。
「そうだね、時間も時間だし。帰りながらにしようか」
 そんな私を余所に和樹くんは微笑む。気づいてるのかどうかは分からないけど、優しい。そして――そんな彼に惚れてしまった私は今日、告白する。


 二人で帰るようになったのは一昨日から。和樹くんも私も友達関係というものがあるので、その都合でだ。電車でもバスでも自転車でも単車でもない。二人とも学校と家の距離が近いので、歩いて通学をしている。それでも三十分ほどかかるから近いとは言えない。だけど、電車通学とかの人に比べれば十分近いだろう。
 学校の帰り道。私は和樹くんの二、三歩後ろを歩いている。本当は夕暮れ時がよかったんだけど、今日を逃してしまったら十月までお預け。そんなことは絶対いやだ。和樹くんに気持ちが向いている今言わないと、どんどん離れてしまいそうで。そんなに待っていたんじゃ、私の気持ちも離れていきそうで……。
「永沢と夜道歩くの初めてかも」
 和樹くんはそんな呑気なことを喋っている。これから起こることも知らずに。辺りはもう真っ暗で、街灯のおかげで歩ける。
 ……ふぅ。心の中で息を整えると、私は小走りして前を歩いている和樹くんの学ランの裾を引っ張った。
「ん」
 違和感に気づいたのか和樹くんは振り返ると同時に目を細め、甘ったるい声を出した。
「どうしたの?」
 この声を聞いてしまうと一瞬で体がほてるのが分かる。多分頬を染めているだろう。でも幸いなことに今は夜だ。気づかれないはず。
 あとは言うだけ――。唇をきゅっとかみ締め決意した。おもむろに和樹くんを見る。瞳も和樹くんを一直線に見る。暗くて分かりにくいけど、若干微笑んでいるように見える。
 これが私の全て。
「付き合って、ください」
「えっ……」
 言い終えると益々体温が上昇するのが手に取るように分かった。私は恥ずかしくなって、両手で頬を覆った。どうしよう、どんな反応するかな……恐る恐る和樹くんの様子を窺う。大きく目を見開いていて、その眼差しは私から離れない。時が止まったかのように瞬き一つしない。
 しばらくの間沈黙が続いた。その間に私の体温も戻った……はず。和樹くんはいまの出来事が理解できたのか、見開いていた瞼を肉眼で分かるくらい遅く閉じた。
「ごめん……まだ自分の気持ちが整理できてないんだ。だから、その気持ちには応えられない」
「そう……だよね」
 瞼を開き、哀切した表情を見せる。
 和樹くんの笑っている以外の顔を初めて見た気がする。和樹くんのこと何にもわかっていないのに……告白しちゃって、なんてバカなんだろ私。
「でもさ、これからも一緒にお昼食べたり、帰ったりはしようね?」
 そう言って先ほどまでの表情を感じさせないほど、和樹くんはにっこりと笑う。なんて優しいんだろう。こんな私にも笑いかけてくれて。また今までどおり同じように接しようとしてくれる。
「な、永沢?」
 妙に焦ってる。こんな姿も初めてだ。ああ、私は本当に和樹くんのこと何も知らなかったんだ。それなのにっ……それなのに。
 ふと頬に温もりを感じる。視線を落とすと、和樹くんの手が私の頬を触れているのが目に入った。
 あ。いつの間にか私は俯いていて……泣いてるみたいだ。どうしてだろう、涙が止め処なく出てくる。彼が優しくしてくれているから? なら、どうして涙が出てくるんだろう。優しいのに泣いてしまうなんておかしい。そんなの、そんなの……おかしい。
「永沢、今日はもう帰ろう」
 私はただ黙って頷くことしか出来なかった。また歩き始めると視界が翳み始めた。

*******

「永沢、ここで合ってる?」
 見慣れたマンション。ここは、私が住んでいるマンションの前だ。隣には和樹くんがいる。頭がぽかぽかして、胸が温かい気持ちで満たされている。
「合ってるよ。でもなんで?」
「あの後、永沢一人で帰すのが怖くて」
「怖い?」
 涙はもう止まっていた。頬には泣いた跡が残ってるけど……。
「オレに告白してきた後、オレの腹に手を回して縋り付いてくるから。ここで別れたら帰れないんじゃないかと思って」
 ……全然記憶にない。告白した後、涙が止め処なく溢れてきたのまでは覚えてるけど、その後どうやってここまで来たのか全く記憶にない。未成年なのに擬似酔っ払い体験をしてしまったのか。
 えっと、そんなことより。何も考えようとしないおぼろげな頭が徐々に冴え渡ってきた。和樹くんの話を聞く限り。
「ごっ、ごめん!」
 謝りたい気持ちと、恥ずかしさが込み上げてくる。和樹くんのお腹に手を回すなんて……っ! 鼓動が高まる。
「別に謝らなくてもいいよ」
 和樹くんはズボンのポケットに手を突っ込んで微笑んでいる。
「それじゃあまた明日」
「う、うんっ。また」
 和樹くんは歩き出したけど私の隣でぴたりと止まった。私の高さに合わせようと身を屈め、耳元で囁く。
「オレに縋り付いてくる姿、かわいかったよ」
 またすたすたと歩き出し、足音が遠くなっていった。限りなく甘い声で言われたその言葉に、鼓動が高まっていたのもあって私はまたしても頬を染めてしまった。和樹くんってそんなこと言う人だったっけ。なんにしても今日は初めて体験したことが多くて、一生忘れられない日だろうと私は頭の片隅で考えていた。

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2.返事【その1】
 今年も衣替えの季節がやってきた。麗らかな春の陽気も終わりを告げ、これからは日差しが地面を照りつけ、一年でもっとも暑い季節に入っていく。
 「最後」っていうのは衣替えのこと。告白にはYシャツより学ランを着ているイメージがあって、無理やり告白した。結果はダメだったけど、イメージどおりの告白が出来て満足してる。それに……和樹くんのことをもっと知りたいってきっかけにもなったしね。
 でも――あのときを思い出すと、何かがぐっと心に押し上げてきて少し息苦しくなる。それがなんなのかは自分でも分からなくて。
「……か、由香。どうしたの?」
 心配そうな真奈美の声に私は現実へと引き戻された。二時間目の休み時間。同級生たちが友達と楽しそうに話している姿が目に入る。
「また妄想なの?」
「ち、違うって」
 いつもなら黙って肯定するのだが、今日は違う。――和樹くんが目の前にいるのだ。妄想癖が激しいって知られたら、彼にどんな目で見られるかと思うと否定しないわけにはいかない。
「永沢、焦ってるよ」
「そんなわけないじゃない。和樹くんは私が妄想癖なんて持ってると思うの?」
 しまった。「妄想癖」と言うなんて自分から公言してるようなものだ。
「思ってないって」
 和樹くんは真顔で喋っている。こんな顔も見たことがない。本当に私は和樹くんの笑っている表情しか知らなくて、つくづく自分はバカだと思い知らされる。和樹くんのことなんて何も知らずに、和樹くんの気持ちなんて何も考えず告白してしまった。けどそんな私でも和樹くんは目の前にいて、前と同じように接してくれている。無理してるんじゃないか。って、そう思うと胸が苦しくなる。
 私が何も返してこないためなのか、和樹くんは私の隣にいる真奈美のほうに体を向き直した。
「あ、田上さん今日一緒にご飯食べない?」
「え? 二人に悪いよぉ」
「大丈夫。今日は亮も誘ってあるから」
 亮というのは和樹くんの親友でよく一緒に行動している人だ。そんなの聞いてないぞ。みんなで食べるなら事前に言っておいてほしい。
「それなら構わず行く〜」
「構わず、っていうのはちょっと考え物だけど永沢はいいよね?」
 そう言って和樹くんは私に顔を向けた。……いつもと同じ、微笑んだ顔で。
「真奈美ならいいよ」
「よかった」
 和樹くんは胸をなでおろしたみたいだ。私もよかった。
 一呼吸置くと、時間を計ったかのように授業を報せるチャイムが鳴った。ぞろぞろと同級生たちが席に座っていく様子を何気なく眺めていた。
 今日は授業が身に入らない。集中しようとすると和樹くんの顔が脳裏を過ぎる。私は窓際の列、和樹くんの席は私より三つ前の一つ右の席で、後姿は確認できる。和樹くんは居眠りはもちろん、頬杖をついて気怠そうに授業を聞いていたりというのは一度も見たことがない。頭がよくなる秘訣はそれなのかな、と思った私は既に頬杖をついていた。


 なんとか三、四時間目を終わらせ昼休みの時間に入った。
 ぼーっとしていると、和樹くんがにこにこしながら私に近づいて来る。続いて、渋々といった表情で亮と真奈美も私の前に来た。私のところに集まるなんて約束してたっけ。
「なんでみんな私のところに来るの?」
 私は素朴な疑問を三人に投げかけた。
「なに言ってんの、自分から動かないで〜」
 呆れながらも、返事をしたのは真奈美だった。ああ、そうか。動く気なんてまったくなかった。白々しく謝る。
「あ! ああ、ごめん、ごめん」
「由香さあ授業中、心ここにあらずって感じだったぞ」
 馴れ馴れしく私のことを呼ぶのは亮だった。和樹くんのことは亮から色々と聞いていた。
「そんな感じ」
 亮とは中学3年の時からずっと同じクラスで、プチ腐れ縁というところだ。数えるほどしか話してないのに、何故か携帯番号を交換するまでになっていた。亮は人懐っこい笑みを浮かべて、親しく話してくるものだから私も呼び捨てで呼んでいる。亮は私の斜め後ろの席で、私を観察しようと思えば観察できる位置にいる。親近感が沸く人で友達なら亮だけど、恋人なら……和樹くんかな。
「適当だなおい。つーか、答えになってねーし」
「まぁまぁ人間、そんな時もあるよ」
 私は得意気になって答える。カッコイイセリフを言ったつもりが、亮と真奈美は腹を抱えて笑っている。和樹くんは、いつもの笑い顔だ。開いている窓のサッシに後ろ手をついて、笑っている姿が爽やかだ。どんな仕種でもかっこよく思えてしまう。
「由香なに悟っちゃってんだよ。あー、おかしい」
 笑いながらも亮は必死に言葉を紡いだ。え、どうして? なにか面白いことでも言った? 私は大真面目で言ったのに。
 みんな笑ってる。頭の中が「クエスチョンマーク」でいっぱいだけど、私もつられて笑顔になった。

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2.返事【その2】
「ピロティにすっか?」
 亮のこの一言でピロティで食べることになった私たち。途中でマイマイとすれ違ったら、じろりと睥睨された。そんなに私と和樹くんが一緒にいるのが嫌なのか。他人事の振りをしてその場は切り抜けた。
 ピロティにはベンチが置いてあって、自動販売機も完備。休憩時間や昼休み、放課後は私たち生徒にとって憩いの場となっている。お昼休みである今もガヤガヤして騒々しい。テーブルも置いてあるため、今頃の穏やかな気候だと勉強している生徒もいたりする。私は学校で授業以外に勉強はしたくないから彼らの気持ちが分からないし、分かりたくもないけど。
「さ、座ろう」
 和樹くんに促されるまま壁に接しているベンチに仲良く座っていく。四人掛けのものなのに狭く感じてしまう。
「由香ちゃんが遅いからテーブル取れなかったじゃないの」
「私がいけないの?」
「そうそう。由香があそこで笑かすから時間食っちまったんだぞ」
 真奈美と亮に袋叩きにあってる。今日の真奈美は口調こそ変わらないが、いつにも増して攻撃的だ。私は笑かすつもりなんて毛頭なかったのに。
「たまには膝に弁当乗せて食べるのも悪くないと思うよ?」
 和樹くんはやや上目遣いでやんわり微笑んでいる。
「う……その顔で言われるとなあ」
 私もだ。どんなことでもしてあげたいと思ってしまう。がっくりと項垂れた亮は「はぁ」と軽く溜息をついた。
「じゃあ……」
「いっただきまーす」
 みんなの声が揃った。
 左隣にいる和樹くんを何の気なしに見ると、やっぱ左手で箸を使っている。しかも器用に。前から見間違いじゃないのか、と思って何度も見返しているけどやっぱり左手で箸を使っている。というのも勉強するときペンを持つのは右手で、バスケをしているときも右手を主に使っている。なんで箸だけは左手なんだろう。実は両利き? 文字を書くのは左だと書きづらいけど、食べるのに関してそういうのはないと思う。
「永沢、食べないの?」
 和樹くんは箸を置いて食べるのを一旦やめて心配そうに覗き込んでくる。私のことは気にしなくていいのに。
「ううん。ちょっと考え事。いっただきまーす」
 きょとんとした顔をしているが、やがて箸を持ち直し食べるのを再開した。よかった。その後は普通に高校生らしい今流行の話などで盛り上がり、みんな食べ終わった。
「ごちそうさま」
「由香、食べるのおせーな」
 亮の声だ。私は亮のいるほうに体を向けた。
「しょうがないじゃん、食べ始めるの遅かったんだから。それに女の子よ」
「そうよ」
 真奈美も加勢してくれる。鈍臭いけど女の子の中では食べるの早いんだよね。意外なところで俊敏な動きをするから、鈍臭いのは作ってるのかと疑ってしまう。だとしたら相当のやり手だ。
「ふーん」
 子どもっぽいと思いつつも、私はむぅーと膨れる。そんなことをしていると、くすくすと後ろから笑う声が聞こえた。
 声のほうを振り向くと、いつも見ている和樹くんの笑顔が目に入る。
 ……思い出した。食べているときには忘れてしまったけど、聞いておこう。和樹くんが食べ終わったときにこれはいけないな、と思いつつ見てしまったお弁当箱にはご飯粒一つついていなかった。
「そういえば、和樹くんはどうして箸は左手で使うの?」
 いかにも白々しい質問をすると和樹くんは「うーん」と唸り、眉間に眉根を寄せる。聞いてはいけないことだったかな。でもここまで言った以上引き下がれないし。そのうち険しい表情は崩れてゆっくりと口を開いた。
「子どものころ、父方の叔母さんが左手使ってるの見て、カッコイイと幼心に思ったんだ。それが……始まり」
 一気に喋り終えた和樹はニヤニヤ笑っている。
「ほら、両手使えないと困るじゃん」
 と付け足し今度は苦笑した。
 今のどこが笑えた? 右利きの人が左手を使うなんてよっぽどのことがない限り変えない。私もそうだ。左手に魅力を感じない。ただ、左手使ってる人は賢く見えるかなぁ程度でそうまでして賢く見られたくない。相変わらず周りはガヤガヤと五月蝿いが、私たちの周りだけはしんと静まり返っている。この状況を打開するため、無理やり笑う。
「あ、あはは。そんなもんだよね」
 和樹くんのようにうまく慰めることはできないし、強くもない。けど――これが私の有りの儘の姿。私が和樹くんを頼るように、和樹くんも私を頼って欲しい。
 今さらだけど……和樹くんが喋っているとき、目が完全に泳いでた。この前もウソをついているときは目が泳いでた。今のもウソなら、彼にどれだけ負担をかけただろう。でも仮にウソだとしたら本当の理由は一体……?

*******

 結局左手で箸を使っている本当の理由を聞けないまま二日が経っていた。あれが本当の理由なのかもしれないけど、信じたくない。どっちの手を使おうが一向に構わないけど、それが和樹くんのことだと思うと知っておきたい。
 今は学校の帰り道でまだ学校からそれほど離れていない。私と和樹くんは横から夕日に照らされて歩いている。私は、あのとき――告白したときのように和樹くんの二、三歩後ろを歩いている。和樹くんが言ったとおりお昼と学校の帰りは一緒だった。
 でも、二人の間には見えない壁のようなものがあって、話も弾まずどこか気まずい雰囲気が流れている。お昼は亮も真奈美もいたからまぎれていたけど、二人っきりになるとどうしていいか分からなくなる。
 不意に後ろから気配を感じ、振り向くと中年男性と思われる人がジョギングをしていた。顔はフードを被っているため見えなかったが、筋肉がすごく発達していて服越しからでも分かるくらい逞しい。
「ふぅ」
 和樹くんは深くため息をついて肩を落とす。私はその拍子に前に向き直る。初めて聞いた和樹くんのため息。その原因が私なんじゃないかと思うと肩に重いものを感じる。
 私は前を歩いている和樹くんの隣へと歩み寄った。
「和樹くん、どうかしたの?」
「……あ〜、なんでもないよ」
 こうなることは分かっている。けど和樹くんが何でそんな気持ちなのかが知りたくて。私が和樹くんのおかげでいい思いをしているように、和樹くんにも同じことをしてあげたい。
「永沢」
 いつもと同じ優しい声。それが私に届き、和樹くんに視線を向けた。和樹くんも前を向いていた視線を私に落として、見詰め合う。和樹くんの頬がほんのり赤く染まっていてちょっと、色っぽい。
「オレ、あの時から永沢のことが好きになっていって」
 ん。ああ、そう。
 ――えぇっ!
 理解するのに少し時間がかかった。あのとき。それが告白のときを指していることはすぐに分かった。でもなんで? あんな酷いことをしたのに? 和樹くんの心なんて置いていってしまって、一人で突っ走ってしまったのに? 疑問が渦巻いていく。
「でも……どうやって接すればいいのか分からなくて」
 和樹くんの声が切なくなっていき、だんだんと俯いていく。ほどなくすると、目を瞑って片手で両目の目頭を押さえ、顔を空へと向けた。すると急に笑い出した。頭おかしくなっちゃった?
「あはは。バカだなぁ。女の子に悩みぶつけちゃってさ。オレ、『男のプライド』っていうのがないのかも」
 その声は震えていて、少し嗚咽している。私はそのことに驚くことしか出来なかった。笑顔の裏にこんな気持ちを隠し持っていたんだ。和樹くんが泣くなんて、そんなこと絶対ないだろうと思っていた。でも現実は違った。目の前にいる彼は本当に泣いていて、感情を吐露してくれた。包み隠さず本音をぶちまけてくれた。それだけで嬉しい。一歩近づけた気がする。
 そうか。さっきのため息は自分へ向けたものだったんだ。
「だから……さ」
 和樹くんは私のほうに体を向き直す。その瞳はさっきまでとは別物なくらい真剣な眼差しをしていて、目尻が潤っている。
「どうやって接していいか分からないけど、出来る限りがんばる。永沢のこと好きなのは本当だっていうこと、忘れないで」
 言い終わると和樹くんは目を細めにこっと笑った。そのはずみに目尻から頬へ一筋涙がツウと流れた。「好き」って二回も、それに初めて言われたから頭がクラっときた。
「私もこういうの初めてで……分からないことばかりかもしれない。それでも、がんばるね」
 私も和樹くんと同じように、これ以上ないくらい満面の笑みを浮かべる。
 和樹くんの腕が目の前を通過して、頭に暖かい感触がやってくる。それって……ぽんぽんと頭を撫でてくれたのだ。嬉しいっ!
「それじゃあ、帰ろうか」
「うんっ」
 私は一生この光景を忘れない、と直感的に思った。たとえ苦い思い出になってしまったとしても。
Index
3.約束【その1】
「でででで、デートぉ!?」
 私が取り乱している原因は妹の絵里だ。平然な顔して何を言う。
「そうよ、デート」
 絵里は当然ながら年下。中学生のくせに恋愛の先輩で、半年ぐらい前から付き合ってる男の子がいる。会ったことはないけど絵里が話すのを聞く限り、そっけないらしい。けどそこがいいんだって。姉妹でも好みは違うんだな。
 そして何を隠そう、絵里がこの前の告白を仕立て上げた犯人だ。「勢いで言えば彼も付いて来るって」。そんな言葉を信じたのが間違いだった。というか、普通に考えれば付いて来るのは女のほうだろう。と今さらながらに思う。でもその結果、和樹くんに近寄れたわけでもあるから感謝せねば。
「デートは彼と近づく絶好のチャンス。学校だとどうしても周りの目があるから、と思ってしまって出来ないこともデートなら出来るはず」
 姉と妹の立場が完全に逆転して、姉として顔が立たない。けど恋愛に関しては疎いので絵里に聞いてしまう私がちょっと情けない。
「出来ないことって、例えば?」
「そうねぇ。手を繋ぐとか……キス」
「手を繋ぐとか、キスぅ!?」
 私は面食らってしまった。そんなことを考えたことは一度としてない。絵里は驚いている私を気にもせず続けた。
「彼が奥手だと出来ないかもね。お姉ちゃんも告白したとはいえ、恋愛に関して言えば奥手だし」
 なんでそんなこと知ってるの! と言いたい気持ちを抑え、図星なのでここは黙っておく。
「和樹くんが奥手、かぁ」
「心当たりあるの?」
「うん、たまに男の子らしい豪快なところはあるけど、基本は奥手だと思う」
「難敵。でもそれなら、お姉ちゃんが積極的にリードすれば付いてくるよ」
「絵里は和樹くんのこと何も知らないくせに〜」
 と口では言いつつも顔が引きつってしまう。和樹くんのことは私だって……全然知らないし、分からない。もっと知りたいこととかいっぱいあるのに聞けない。
「ポイントとしては、手を繋ぐタイミングね」
「いつぐらいがいいの?」
 恋愛のことは全て絵里に聞いているような気がしてきた。情けないお姉ちゃんをもって絵里は苦労人だなぁ。
「そのくらいは考えなさいよ。そんなんじゃいつまで経っても進歩できないでしょ」
「うーん……それもそっかぁ」
 ぱんぱんと頬を叩いて気合を入れ直し、立ち上がる。
「それじゃ。ありがとね〜、絵里」
 そう言い残し、私はすたすたと絵里の部屋を出て行った。


 昨日の今日だけど、デートの約束を取り付ける日だ。何が何でも成功させないと。入念に洗顔やら歯磨きをする。
 はぁ、それにしてもデートかぁ。洗面所で歯磨きをしている最中そんなことを思う。デートに誘うってことは決まったけど、一体どこに行けばいいのかな。それと午前なのか、午後なのかも重要だよね。もしかして、朝から夕方までずっと一緒とか? その考えを振り払うようにプルプルと首を横に振る。
 ……考えられない! 授業は一緒の教室で受けるけど和樹くんと一緒に受けてるって感じはしない。体育の授業になると元から一緒じゃないし……一緒にいるってことを感じられるのはお昼と帰り道くらい。
 あとは
「由香、時間大丈夫?」
「ああ! ふあぁ〜い。今行く」
 リビングからお母さんの声が聞こえてきたので、すぐさま返事をする。ささっと歯磨きを終わらせ、念のためもう一度顔を洗った。そしてからリビングに行き、椅子の横に置いてあるカバンを取った。お母さんしかいないな。
「絵里はもう学校行ったの? お父さんも」
「とっくに行ったわよ。由香が洗面所からずっと出てこないもんだから、お母さん少し心配しちゃった」
 母親として心配して当然だと思う。
「ううん、なんでもないよ。ちょっと時間かかっちゃっただけ。それじゃ行ってくるね」
「行ってらっしゃい。……全く、慌しいわねぇ」
 後ろを振り向いて時間を確認しようとしたとき、お母さんは言葉とは裏腹に嬉しそうに微笑んでいる姿が目に入った。私を大事にしてくれてるってことがよーく分かる。私を生んでくれてありがとう。なんて、いつもは思わないことを思ったのは和樹くんと出逢えたからだろう。

*******

 歯磨きに時間を掛けすぎたのか遅刻するのは分かりきっていたことなので、のんびりと歩く。どう足掻こうとも遅れるのが確実だって分かると人間、妙に冷静になるよね。「遅刻するのが分かってても出来るだけ早く来なさい」って先生に言われるけど、授業中に入ったら少しだとしても授業中断させちゃうし。……和樹くんにそういう姿、見られたくないし。
「一時間目が終わったらでいっか」
 私は知らず知らずの内にそう呟いていた。
「お、気が合うな。俺もそうしようと思ってたところだ」
 反射的にに身構える。……聞いたことのあるような声だった。声が聞こえたのは後ろからだ。私はぎこちなく後ろを振り向く。
 そこにいたのは、私に対して馴れ馴れしいあの亮だった。身近な人だと分かりほっと胸を撫で下ろす反面、二人でいるのはなんかいやだ。和樹くんを裏切ったみたいで。亮は緩慢に歩いてきて私の二、三歩前まで近づいてきた。
「珍しいじゃん、由香が遅刻するなんて」
「遅刻常習犯に言われたくないっ!」
 そう。彼は遅刻常習犯なのだ。中学のとき遅刻はなかったけど、高校に上がってからは遅刻を繰り返していて、1年のときは進級できるかどうかまでになった問題児だった。
「でも今はたまにしかしねーって」
 亮の言うとおり、2年に進級してからは遅刻の回数は減ってきて真面目な生徒になりつつある。
「遅刻はたまにするもんじゃないよ。時間を守るのは大事」
「うへぇ、和樹みたいだ。あいつは学校でしか時間厳守しねえけど」
 心底嫌そうな顔をしている。和樹くんが時間を守らない? あんな真面目な人に限ってそんなことあるはずがない。何の冗談なんだか。私たちは自然と壁にもたれ掛かった。
「どうして和樹くんみたいなのよ」
「その説教がましい口調」
「説教がましい?」
 私は亮の方を向いて、眉間にシワを寄せて考えようとすると
「まー、わかんないんならそれでもいいけどさ」
「んん……?」
「二人はお似合いだし」
 そう言うと亮は自嘲するような笑みを浮かべた。さらに意味が分からなくなってしまったぞ。和樹くんが時間厳守しないってのも分からない。謎だらけだ。むぅー。亮は覗きこんでくるように首だけ私のほうへ向けた。
「ていうかさ、和樹に何かされてない?」
 何も話さないからなのか、一方的に話題転換された。何かされた? 今までの出来事がぐるぐると頭の中を駆け巡り……つい最近のことを思い出した。
「頭、撫でられた」
「は? そんだけ?」
 もっと驚くようなことを言うとでも思ったのだろうか。そうですよ、手を繋ぐとかキスとかそこまでいってませんよ。亮は拍子抜けしてぽかんと口を開けている。
「そういえば……耳元で囁かれた」
「なんて?」
 すごい興味津々そうで私のほうへ体を向けて身を乗り出してきた。顔が近い。もう、そんなことされたら言うしかないじゃん。
「おれに縋り付いてくる姿、かわいかった。……みたいな」
 思い出すと恥ずかしくなってきた。亮の顔が目と鼻の先にあるのもあってか、心臓がバクバクと拍動している。
「縋り付くう!?」
「あのね、そういうわけじゃないの!」
 必死に否定する。意識があったんじゃ縋り付くなんてこと今でも出来ないっ!
「じゃあどういうわけなんだよ?」
「その、なんていうか……意識がなくて」
「ははぁーん。なるほど、そういうことか。あいつもなかなかやるなあ」
 納得したのか、うんうん頷いている。あれだけの説明で何を納得したのかが不明だ……男の子ってよく分からない。って、なんでこんなこと亮に話してんの!
 ――うまく乗せられた気がする。携帯番号を交換したときもこんな風に乗せられてついつい口が滑ってしまった記憶が蘇る。亮はズボンのポケットから自分の携帯電話を引っ張り出し、パカッと開ける。ネイビーのシンプルな携帯で、ちょっと前のタイプってところかな。ストラップは一つもついていない。男の子ってつけてても1つだよね。和樹くんはどうなんだろう。亮は携帯を閉じてズボンのポケットに戻すと、私のほうを向いて口を……あうあうさせた。心なしか目がトロンとしている。遅刻の理由は寝坊なのかな。亮はあうあうさせていた口を閉じて、キリッとした目つきに変わった。
 ちょっと……カッコイイと思ってしまった。でもそれで私の気持ちが変わるなんてことはない。和樹くんへの想いはそんな薄っぺらなものではない。気持ちがようやく落ち着いてきた。
「もうすぐ一時間目が終わるぜ」
「え、もう終わるの?」
 聞き返すと亮は再び壁にもたれ掛かった。視線は宙をゆらゆら泳いでいる。……おっと、今は人の観察してる場合じゃない!
「時間潰すのにちょうどよかった」
「急がないと」
「由香……何言ってんだ?」
 また顔を覗き込まれた。驚いた顔をしてもいいのだが、急がないと次の授業も出られなくなる。驚いてなどいられない。
「だって早く行かないと二時間目が始まっちゃう」
「あのー、ここ学校前なんすけど」
 私は冷静になって辺りを見回すと、見慣れた風景が広がる。壁にもたれ掛かったときは気が動転しててそれどころじゃなかった。
「さーて、いきますか」
「う、うん」
 よく考えてみれば亮は電車通学の人間だから、私が通学してるときに会ったら学校まではすぐだ。ああ、私のバカ。無駄に恥ずかしい思いしちゃった。
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3.約束【その2】
 昇降口に着いた。時間は丁度良くて、休み時間だった。
 廊下を見ると生徒がぷらぷらと歩いている。ピロティに人はいるけど、短時間の休みなので教科書を広げている人はいない。
 いつも通りの風景で、なんだか安心した。……隣に亮がいるっていうのがいつもとは違うけど。
 すれ違う人の中に和樹くんがいないかを確認しつつ歩く。そのことに気を配っていたので、教室に着くのはあっという間に感じられた。
 私は亮と一緒に教室の前に立ち、勢いよく扉を開けた。
「おっはよー」
 今日はやけに気が乗ってて、いつもよりテンション高めで教室に足を踏み入れた。
 入るとすぐ和樹くんを探してしまう。そんな自分がちょっぴり恥ずかしい。あれ、そういえば亮はなんで言わないんだろう。「おはよう」って。言うと何か問題でもあるのかな……。そんなことを考えている間に亮は席に座っちゃった。
「おはよう、永沢」
 その声に体がビクッと反応した。視線を上げると、和樹くんがズボンのポケットに手を突っ込んで歩いてくるのが見える。
「か、和樹くん。おはよー」
「どうしたの、永沢が遅刻するなんて珍しいね」
「ちょっとあって」
「そう。永沢のこと心配してたんだけど、何もなくて安心した」
 なんで遅れたかを聞かれなくて少しだけ傷ついたけど、聞かれたくないことだったから私も一安心。歯磨きしてて遅刻したなんて何があっても言えない! そうだ。デートに……誘わないと。でもみんなが見てる前で平然とは言えない。
「和樹くん今日、時間あるかな」
「今じゃ駄目?」
「その、今でもいいんだけど心の準備がまだというか、もっとちゃんとした場所で言いたくて」
 言いきると和樹くんはぽかんとした顔で口を開けている。ああ、また見たことない顔だ。もっと知りたい。近づきたい。そのためにデートに誘うんだ。
「うん、いいよ」
 和樹くんは開いていた口をきゅっと閉じて微笑む。
 いつもの顔。すごく安心できる。別の表情がいやってわけじゃないけど、私は笑っている和樹くんが好き。
 だけど違う和樹くんももっと知りたくて。
「お昼のときでいい?」
「うーん、帰りがいいな」
「……わかった。じゃあそのときに」
 ちょっと怪訝そうな顔を浮かべたけど、また微笑んでくれた。「永沢のちゃんとした場所って帰り道なのか?」って聞かれると思ってた。優しいな。私が何も言えなくなるのが目に見えてるのかな。
 ああ、でもこれって。――和樹くんは私に対して遠慮してるみたいで……こんなんじゃ近づきたくても、近づけない。「遠慮してちゃ恋愛なんてできない」ってお母さんが言ってたけど本当だ。和樹くんの気持ちが聞きたいのに、聞けなくてもどかしい。
 今日はそのことやデートに誘うシチュエーションばかりを考えていたら、いつの間にか放課後になり部活に行く時間になっていた。
「ま〜なみん。いこっ?」
「珍しいねぇ、由香ちゃんから来るなんて」
「これから一年間一緒でしょ。仲良くやっていこうよ」
「3年生になっても一緒だと思う……」
「3年になったらまたクラス替えがあるじゃん」
「由香ちゃんずれてる」
 今日の私は終始テンションが高かったみたく、みんなに面白がられた。「珍しい」と言われるのも今日は三回目だ。亮に言われ、真奈美にも言われた。そして……和樹くんにだって。
 デートに誘うってだけでこんなにもドキドキしてしまうのなら、当日はどうなってしまうのだろう。今から不安に押しつぶされそうになる。こんなにハイテンションだったのはそれをまぎらわせるため、なのかな。
 この不安に打ち勝たないと前に進めない……決めなくちゃ!


 部活が終わり、学校の昇降口にポツンと一人寂しく立っている私。後ろから背中や肩にかかる夕日は暖かい。日が暮れるのもだいぶ遅くなった。冬はこの時間にはもう日が沈んでいて真っ暗だ。寒くなってくると部活の活動時間が短くなるとはいえ、薄暗いだろう。今はいいけど暗闇の中待っているのは怖い。……それまで付き合ってるのかな。
 時間が経つにつれ、だんだんと暑くなってくる。風でも受ければ少しは違うかもしれないけど、ここは室内だ。風通りはあるけど、蒸し暑く感じる。夏の足音が間近に聞こえる。
 部によって若干の差はあるけど18時ごろには生徒達が帰宅し始める。私ももちろん例外ではなくて、半月ぐらい前までは友達と帰っていた。それからは和樹くんと一緒に帰るようになった。終了時間が他より遅いバスケ部なので、私は専ら待つほうである。
 和樹くんの様子を見に、たまに行ったりするとかっこよくて惚れ惚れしちゃう。制服姿はよく見るけど、体操着姿はここでしか見れないから体つきを見ると思わず顔がにやけちゃう。和樹くんはバスケ部に入っている他の男の子と比べると細身なほうだと思う。程よく筋肉が付いてて他の子より身軽そうに動く。
 衣替えしたあたりで半袖Tシャツ、ハーフパンツが主流になって和樹くんもそれに倣って着てるってことを……残念だけど亮に聞いた。そういえば六月になってから一度も行ったことないっけ。
「そうだ、行ってみよっと」
 今まで味わったことがないくらい心と体がウキウキしている。足取りも軽く、体育館までの道のりがいつもより短く感じた。

*******

 体育館の前に着きふと見上げてみる。この高校は建設されてからまだ二十年ほどしか経っていなくて、学校としては比較的新しいほうだと思う。壁は白くて所々に汚れがあって目立つけど、汚れのほうが目立つからこそ綺麗な証だよね。吹奏楽部の私には体育くらいでしか使わないから思い入れも何もないけど、運動部は思い入れとか、思い出っていうのがあるんだろうな。
「ゆかりんか?」
 足音が聞こえないのに声が聞こえてきたので思わず身がすくんだ! 後ろを振り向くと
「川澄先生!」
 瞬時に分かった。
 バスケ部の顧問で、私のクラスとは違うけど2年のクラスを受け持っている。担当している教科も体育で熱血馬鹿って感じがそこかしこからする。日本人らしい真っ黒な瞳、瞼は一重で大きな目をしている。意志の強そうな太い眉毛、髭は剃っていて跡が青く残っている。髪形はもちろんスポーツ刈りで、年は聞いたことないけど、見た目からして30代半ばってところ。筋肉隆々で服越しからでも分かるくらい盛り上がっている。今日は半袖を着ているので直にお目見えだ。筋肉はもちろんのこと血管がもっこりと浮き出ているのが男らしい。和樹くんも浮き出ているけど、盛り上がるほどではない。和樹くんは色白だから見やすいけど、川澄先生は褐色に焼けた肌なので判別が難しい。
「おう、やっぱゆかりんだったか」
 ニコニコしながら子どものように駆け寄ってきた。一歩足を進めるごとにズボンのジャージが擦れる音が心地良い。川澄先生が「ゆかりん」と親しげに呼んでくるには理由がある。初めてバスケ部の練習風景を見に行った日、私は不安で勇気がなくて体育館に入れなかったんだ。不審者のようにうろうろしてたから絡みづらかったと思う。でもそんなことお構いなしに川澄先生が話しかけてきて、不安が掻き消えた。話していくうちに私たちは意気投合してしまって、今みたいな感じなのだ。先生と生徒って関係じゃなくて、友達感覚で接してくれるのが嬉しい。現在は足音を立てずに歩く方法を研究しているらしい。何の意味があるんだか。
「川澄先生はバスケ部に渇を入れに?」
「そんなところだ。あいつら自主的に活動時間延ばしてるから先生も困るよ」
 冗談じゃなく落胆した表情をしている。自分の感情を隠さないところが先生らしい。インターハイに出るくらいの実力を持っているんだからそれくらいの練習をしても当たり前だと思うけどな。
「ゆかりんは何でここに?」
「用ってほどの用じゃないけど、バスケ部に」
「そうだよなあ。今、体育館使ってる連中はバスケ部くらいだもんな。それにしても、あんな男だらけのむさ苦しいところにおにゃのこか。もしやこれとこれの仲か?」
 そう言いながら親指と小指を上げて見せた。親指と小指、それが意味するのは……恋仲ということだろう。
「違いますっ!」
 全力で否定した。
 あれ。なんだか寂しい。全力で否定できちゃうなんて、迷わず否定できちゃうなんて。私と和樹くんってそんな仲だったの? 違う。違うって……言いたい。けど、まだ言えない。心の底から言えない。
「まあなんだ。中に入ろう」
 察してくれたのか、川澄先生が親指で体育館を指差している。私は川澄先生の後に付いていった。これ以上考えるのはやめよう。どうしてもマイナス方向に考えてしまいそうで、それが……怖い。
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3.約束【その3】
 体育館に入るとドンと球をつくような音が聞こえ、地面がわずかに振動している。ドリブルしている音だろう。
 胸がトクトクと鳴っているのが分かる。暑い。体育館内は熱気が篭っていてむんむんしている。いつもこんなところで練習しているのかと思うと背筋がぞっとする。音楽室は冷房が効いていて涼しい。あんまり使いすぎると先生に怒られちゃうけどね。
 川澄先生は体育館内に入っても表情一つ変えずにしている。慣れの問題なんだろうか……。内部に近づくにつれてボールをつく音が大きくなると思っていたけど、逆に止んだ。休憩かな?
 廊下を渡り館内を見渡すと、向こう側の壁面にバスケ部の面々が思い思いに休んでいた。その中にはもちろん和樹くんもいてバスケ部の人と仲良さそうに喋っている姿が見える。すると、隣にいた川澄先生が何か言うのかすぅ〜と息を吸った。
「集合〜」
「は、はいっ!」
 川澄先生が来たことに気づいてなかったのか、みんな慌てて返事をしている。可愛いやつらだなぁ。キュと体育館独特の足音が幾重にも聞こえ、川澄先生の元へ駆け寄ってくる。和樹くんは私に気づいたのか、一瞬足を止めたけどまた走り出した。徐々に集まってくるバスケ部の人たちの視線を感じる。こうやって見てみると和樹くんは他の人より一回り小さい。体育会系の部活に入っているのか疑ってしまうほど華奢な体つきをしている。周りにいる人たちはインターハイに出るだけあって他の人は180センチ以上はありそうだ。全員集まると川澄先生はゴホンと一つ咳払いをした。
「インターハイ県予選も終わり、気が緩む時期だと思うが再来月にはもう高校総体だ。各自、自己管理をきちんとして調子を合わせること。以上。今日は解散」
 気が緩むって、自主的に活動時間延ばしてる人たちに気が緩むも何もないと思うのですが。
「はい」
 揃った低い声。あまり聞く機会が少ないから少し威圧感を感じる。男の子ってこういうときすごい低い声を出してるような気がするんだけど、気のせい?
 和樹くんを見るときょとんとした顔で突っ立っている。「どうして」と言いたそうにしているが、周りの目を気にしているのか話しかけてこない。次第にざわざわしてきて、和樹くんが近くにいた数人と何か喋っている。耳を済ませるとだんだん聞こえてきた。
「あの子、誰よ?」
「マネージャーとか?」
「それはないだろう」
「うーん……」
「どうしたんだよ和樹。考え込んじゃって」
「あ、ああ。なんでもないんだ。なんでも……」
「和樹が焦るなんて珍しいな。あぁ……そうか。お前みたいな色男なら女を落とすことも難しくないか」
 そのとおりです。っていうか、男の子にもカッコイイって思われてるんだ。
「違うって。永沢は単なるクラスメイトだよ」
 ――違う。
 やっぱり和樹くんもそう思ってるのかな……。
「でも単なるってわけではなさそうだよなー」
「俺も一度は和樹みたいにモテモテになってみたいぜ」
「庄子」
 川澄先生が和樹くんを手招きしている。ん? なんで?
 和樹くんは逡巡して怪訝そうな顔をしたが、頷くと先生の前に歩み寄ってきた。他の人たちは後片付けに回っている。川澄先生は和樹くんの耳を手で覆い、小さく呟いた。
「これだろう?」
 耳を済ませていた私は小さい声に慣れていたのか聞こえてしまった。そして川澄先生は手を離し小指を立てる。
「えっ? 違いますって!」
 さっきより声が大きい。鋭い目つきで川澄先生を見据えている。私に質問が聞こえてないと思ってるのかな……。
「見たんだよ、先週の水曜」
「な、なにを?」
 思わず声が合ってしまった。顔を見合わせると、和樹くんは目を伏せた。そうか。今は『単なるクラスメイト』だから。私にも聞こえているのが分かったのか、川澄先生は私と和樹くんを交互に見やり、眉をひょいと持ち上げた。
「庄子とゆかりんが一緒にいるところ」
「はあ?」
「え?」
 和樹くんは「ゆかりん」に反応したのか、私より声を出すのが数瞬早かった。その呼び方は私と二人っきりのときだけにしてほしい。
「ゆかりんは永沢のことだよ」
「……そうですか」
 呆気にとられているが、どこか表情が翳っているように見える。そりゃそうだよね。先生が生徒のことをあだ名で呼ぶなんて相当な仲じゃないとできない芸当だ。
「見ちゃったんだよ。庄子とゆかりんが一緒にいるとこ」
 ああ、「見ちゃった」というあたり呵責していそうだ。
 でも……言われてみれば。帰り道にジョギングしている人を見かけた。筋肉が服越しでも盛り上がっているのが分かって。特徴もそうだ、川澄先生と同じ。
「そんなわけだからさ、先生は二人のこと応援してるよ」
 最後はトーンが上がり、「わっはっは」と笑いながら上機嫌で体育館を出て行く。私も和樹くんもいきなり事実を告げられたことにぽかんとした。


「和樹、お先にぃ」
 バスケ部の人たちは後片付けと着替えが終わって、帰るみたいだ。
「あ、ああ」
「ほれ、鍵」
「……おっと」
 投げてきた鍵をうまく受け取る。が、和樹くんはまだ呆然としている。体育館はあっという間に私と和樹くんの二人だけとなってしまった。沈黙が広い空間を支配する。
 どうしよう。なんて言えばいいんだろう。「見られても減るものじゃない」みたいなことを言う? ううん、違う。和樹くんを励ましたい。やがて、独り言のように和樹くんが呟いた。
「あんな恥ずかしいところ……見られてたなんて」
「見られてはいないと思うよ」
「え?」
 あのとき確かに見かけた。でもそのまま走り去ったような気がして。確証はないけど、安心させたい。
「そうなんだ……よかった。あのときのこと思い出したら、恥ずかしくなってきちゃった」
 思い出し笑いのようにくすくすと笑ってる顔は暑さなのか、恥ずかしさなのか赤らんでいる。私もつられて笑顔になってしまう。体育館の中に入ってから緊張が続いてたけど、これでようやく解れた。
 結局のところ和樹くんのバスケをしている姿を見れなかったけど、ハーフパンツ姿が見れただけでも良かった。脹脛がたぷたぷしていない。体毛もそれほど濃くなくて、艶やかな体だ。腕だけじゃなく足にも見える血管が更に色っぽさを増幅させて……ってこれじゃあ私、思いっきりセクハラ目的で来たみたいじゃん!
「永沢、オレ着替えてくるけどここで待ってる?」
「ここでって、もうひとつは更衣室に行くって選択肢?」
「……っ」
 瞬間、絶句。頭の中がセクハラ的考えだったからつい……。なんてことも言えるはずがなく。
「あ、ああ! ここで待ってるよ」
 我ながら白々しすぎる。さっきのは失言だった。
「う、うん……」
 左手で頭を抱えながらとぼとぼと更衣室のほうへ歩いていった。
 イメージダウン決定。流れに身を任せると大変なことになるね。これからは一つ一つの発言を考えてから言うようにしよう。
 ああ……でもカッコよかったなぁ。同じように筋トレしていても男の子と女の子じゃ筋肉の付き方が違う。脹脛なんてガチガチに硬そうだったし。何より血管が浮き出ているのがカッコよく感じてしまう。
 そうか、認めたくないけど私は血管フェチなのか。なんてバカなことを考えていると、和樹くんが更衣室から出てきた。
「永沢〜」
 あっけらかんとした声が聞こえてくる。何もなかったかのようにしてくれて、優しくて、優しくて、抱きしめたい。――ああ! だから、セクハラはやめよう。
「体育館の鍵閉めたら、鍵返しに職員室行くけど一緒に行く?」
「うんっ!」
 なるほど。さっきのは体育館の鍵だったのか。
「じゃあ行こうか」
 私たちは体育館を後にした。
Index
3.約束【その4】
 体育館を出ると夕闇がすぐそこにまで迫っていた。いつも遅いのを更に遅くさせてしまった。私のせいだと思うと、罪悪を感じずにはいられない。
「ごめんね。こんなに遅くなっちゃって」
「いいよ。遅いの慣れっこだし」
 そう言ってにっこり笑う。やっぱりこの笑顔には勝てない。何も言い返せなかった。
 体育館を出て職員室に直行し、ささっと先生に鍵を返した。
「これで大丈夫。……帰るか」
「うん」
 昇降口へ行き、上履きから靴に履き替える。先に外へ出ようとしたところで和樹くんに肩を軽く押さえられ、反射的に振り返る。
「永沢、今日話があるって言ったよね。なに?」
 首を傾げる姿を見ると男の子なのになんとも可愛らしい。……もうだめだ。今日はこの路線でいこう。
「そんなことも言ってたね」
「何で他人事みたいに言うの? オレ」
 まで言うと、口をつぐめた。なんだか怒っているようで眉を寄せて険しい表情をしている。冷たさを感じさせる声はどことなく低い。
「その話は後で。まずは歩こうよ」
「……分かった」
 やっぱりいつもと声音が違う。私怒らせるようなこと言ったかな? オレがどうしたのかも気になる。


 何も話さないまましばらく歩くと、街頭で明るく照らされている公園が見えてきた。
「和樹くん、あそこで話しよ?」
「ああ」
 相変わらずムッとしている。返事はしてもなかなか和樹くんは動かないから、手を引いて公園のベンチに腰を下ろした。
 ……はっ!
 もしかしたら私から初めて触れたかもしれない。頭を撫でてくれたときと同じ暖かい手で、それは思ったよりも大きな手だった。和樹くんはげんなりとした深いため息をついたが
「それで、話って?」
 いつもの声に戻っていた。安心する。周りに人はいなくて私たちだけ。これだけ暗くちゃさすがに誰もいないか。私にとっては絶好の状況だ。
「えぇと……うん」
 息を整え、和樹くんのほうを向くと訝しげに眉根を寄せていた。落ち着け。ここは平常心だ。不意に絵里の声が脳内再生される。
 ――勢いで言えば彼も付いて来るって。
 どうしてこの場面で出てくるんだ。勢いとかもうそんなんじゃない関係のはずなのに。ふぅ。瞼をゆっくりと閉じ、再び開く。
「デート、しませんか?」
「う……」
 一瞬で目を見開いて低く声を漏らした。いや、なのかな。和樹くんの瞳を見つめ直そうとすると、逸らされてしまった。……顔を曲げた首のラインが綺麗だ。横から見るとボコッと出ている喉仏が男らしい。「男の子」じゃなくてもう「男」なんだなぁ。観察していると喉仏が少し動いた。
「もちろん。本当はオレから誘いたかったんだけど」
 いよっしゃ!
 行動とは裏腹にオッケーを出してくれた。私のほうに向き直り、目を細めて笑いかけてくれた。私から目を逸らしたのはきっと照れ隠しだったんだろう。そう思いたい。ん、これって。どっかで味わった感覚だ。
 毎日会っている後輩の顔が頭に浮かぶ。……これじゃマイマイと同じレベルだ。私は妄想好きだけど、妄信はしたくない。
「いつ行く?」
 問いかけてきた。本当なら和樹くんに指定してほしいけど、今言っても遠慮されそうだから素直に答える。
「週末の日曜日かな。あ、日曜日は来週だよね」
「あはは。日曜か……大丈夫だよ。場所は?」
「この公園」
「あ〜、それで放課後だったんだ」
 そのためにここまで来たんだ。
 さっきまでの怒っているような感じは全くなくなっていて、いつもと同じになっていた。あれは一体なんだったんだろ。
「楽しみだなぁ」
 和樹くんは嬉しそうに口元を緩めて顔を綻ばせている。嬉しそうなときに聞くのもなんだけど……何かあるなら言ってほしい。
「さっき、なんで怒ってたの?」
「怒ってた?」
 途端に表情を曇らせる。やっぱ聞いてはいけないことだったんじゃないか、と頭では思っているけど続けてしまう。
「ように見えた」
「そう……あれは、なんでもないよ」
 私のほうをちらと見て、俯いた。悪いことしてるみたいだ。いじめてるみたいじゃないか。
「ごめん、ごめん。嫌なことは思い出したくないよね」
 すごい軽薄だ。笑って誤魔化そうとして。……こんな自分はいやだ。
「うん……それはそうとどこ行くのか決めてない?」
 顔を上げて聞いてくる。その顔にはもう曇った影はない。よかった。
「まだ。和樹くんはどこか行きたいとことかある?」
「うーん、そうだなぁ。……あ、オレ夏用の服あんまり持ってないからそういうとこ行きたい」
 それなら!
「最近オープンしたとこ知ってるんだ」
 私はふふんと言って得意気にする。ファッション情報は女子高生に任せなさい。……男物はあまり分からないけど。
「どこどこ? オレ、そういうのに疎いからすっごく助かる」
 興味津々そうに私の顔を覗き込んできた。声も普段よりトーンが高く聞こえた。和樹くんって服のセンスありそうだけど、本当のところはどうなんだろう。制服姿しか見ないから全く分からない。デート当日にどんな服を着てくるのか今から楽しみだ。
「じゃあこの公園に集合して、そのあと見に行こ」
「オレはいいけど永沢はそれでいいの? 振り回されて」
 振り回されるとか、わがままは大歓迎だ。決してMじゃなく、和樹くんにはもっと自己主張をしてほしい。私は自己主張しまくりなのに、和樹くんはあんまりしない。対等な立場でありたい。
「うん、私も欲しいのあるし。それに……デートっぽいし」
 思い描いていた理想のデートだ。街中を一緒に歩いて服を選んで、一緒に食べて……ってそれはないか。
「それなら良かった。色々と連絡も必要になると思うから、携帯番号交換しようよ」
「ぜひっ! 喜んで、ぜひ!」
「二回も言わないでいいから」
 笑いを含んだ声で、すごく楽しい。考えるだけでこんなにも楽しくなれるなんて思ってもなかった。デートへの不安は掻き消えた。
「ほら」
 紙切れを差し出された。携帯番号が書かれている。私も書かなきゃ。カバンからペンを取り出した。書いている途中、街頭からの光に影が重なったので見上げてみると和樹くんが不思議そうに覗き込んでいた。
「なに、やってるの?」
「え?」
 紙を見てみる。
 私は和樹くんが書いた紙に自分の携帯番号を書いていた。なんてバカなんだ。私も紙を用意しないと……そう思ったときには和樹くんが紙を差し出してくれていた。
「これに書いて」
 優しい。こんなに相手に気配りできるなんて私には無理だよ……。
「う、うん。あり、がと」
 手が震えて字が汚くなってしまった。
「これでいい?」
「ああ、完璧」
 改めて和樹くんのを見ると、とても綺麗な字だった。私はその紙を大事にカバンにしまい込んだ。
「いつでも電話してきていいよ」
 ニコニコしている。そして何かに気づいたのか「あっ」と声を上げて
「深夜はさすがに……」
 と付け足した。深夜に電話すると思ってるのかと思うと複雑な気持ちだ。
「分かってるって」
「よし、じゃあ帰ろう」
 和樹くんは風が巻き起こるんじゃないかと思うくらい勢いよく立ち上がった。その目はまっすぐ前を見据えている。先のことを見ているんだ。目の前のことだけじゃなく、その先のことも。少なくとも私にはそう感じられた。
「うん」
 今朝はいつもより気合を入れて歯磨きをしたのがすごい昔のことに感じられた。今朝と今じゃ気持ちも全然違う。デートに誘うという重圧から開放されて今は幸せな気分だ。デートへの期待も高まる。いつまでもこんな幸せな気持ちでいられたらいいな。
Index
4.すれ違う気持ち【その1】
 この五日間はとても長く感じられた。
 学校みたいにいつもどおり接していいのかとか、何の服を着ていこうかとか、……手を繋ぐタイミングとか。その日に考えればいいことも考えてしまった。でも不安より期待のほうが遥かに大きい。携帯は結局使わなかった。学校で会っているからそのときに細かいことは決めていた。午後1時にこないだの公園で会う予定だ。
 そして今。その公園の前で足が踏み出せないでいる。フェンス越しに公園を見ると子どもたちが砂場で遊んでいる。スコップを持ってはいるが手で砂を触っている。砂っていい感触だもんな。子どもが無邪気に遊んでる姿って心が和む。草の青臭さも相まって安らぐ。……おっと、今はそんな場合じゃなかった。バッグから携帯を引っ張り出し時間を確認する。
 約束した時間の2分前。そろそろ行かないとまた遅刻って言われそうだ。見たところ和樹くんはいなさそ
「ふぅ、間に合ってよかった……永沢」
 えっ?
 隣を見ると――和樹くんがいた。
「どうしたのっ!?」
「どうしたもこうしたも今日がデートの日だからだよ」
 威圧する他意なんてなかったのに、和樹くんは圧倒されてしまって身をすくめている。和樹くんが遅刻するなんてことは考えられなくて、集合5分前には来る人だと思っていたから驚きを隠せない。
「そんなに驚かれると思ってなかったよ。てかさ、なんで驚いてんの?」
 ズボンに手を突っ込んで、いじけてる子どもみたいに石ころ蹴って足をばたつかせている。もう、高校生の癖に可愛いんだから。
「和樹くんが後から来ると思ってなかったからつい驚いちゃった……」
「時間守るように見えるんだ?」
「そうじゃないの?」
 どこからどう見ても誠実で、時間厳守しているものだと決め付けていた。……あれ、そういえばこんな話をどこかで聞いたような。
「オレ、時間に束縛されるの嫌い。時間を気にしないで自由に生きていきたい。実際は時間厳守しないといけないけど」
 ええええ。そんなこと初めて聞くよ!
 社会人になったら出勤時間の10分前にはもう出社していて、爽やかに挨拶を交わして、仕事は期限内に完璧にこなして、退勤時間ピッタリに退社するような人だと思ってたのに。イメージが崩れ去るってこういうことなんだ。
「だから休みの日は好き」
「そう、なんだ……」
 意外な一面を知り驚愕するのを隠そうとがんばって平静を装ってみたが、私には無理だった。あやつの顔が思い浮かんだからだ。あやつの言葉を思い出したからだ。
 ――あいつは学校でしか時間厳守しねえけど。
 そういうことだったんだ。亮は私が知らない和樹くんを知ってそうだ。同性だから私に話しにくいことも亮になら話してそうだ。また今度話してみようかな、三人以上で。
「じゃあ、行こ?」
 私と同じ目線にあわせるために首を傾げて微笑んでいる。それがどうもおかしく見えて笑いを堪えるのに必死だった。
「ふっ……うん」
「ふっ?」
 疑問を示してきたがここはスルーしよう。
 不意につーんと草のにおいが鼻をつく。そうか。昨日は雨が降ったんだ。六月ももう半ばで、梅雨の時期に入っている。昨夜から今朝にかけて降った雨のせいか、空気が蒸していて体がジトジトする。だけどそれを感じさせないくらい今日は朝からカラっと晴れている。湿気が多いことに変わりはないけど、晴れていると幾分か気分が紛れる。
 私たちは同じ方を向いて歩き始めた。


 ようやく落ち着いてくる。いきなり出てくるものだからさっきまで胸の高鳴りが止まらなかった。隣を歩いている和樹くんをまじまじと見る。服はインナーに白いシャツで、その上から青と白のチェック柄の半袖シャツを羽織っている。第三ボタンまではきちんと閉まっている。Yシャツみたいに上までぴちっと閉めると息苦しくなっちゃうよね。ズボンは黒いジーパンだ。……服ないって言ってた割りにはセンスあるじゃん。ふと和樹くんが空を見上げた。
「雨、降らなくて良かったね」
 そして私のほうを見る。本当だ。梅雨にもかかわらず、雨が降ったときの予定なんて何も考えていなかった。でも行くところは屋内だからあまり関係ないか。
「そうだね。一時はどうなることかと思ったよ」
「オレも思った。初めてのデートが雨かと思うと落ち込む」
「初デート?」
「そうだよ。なんかおかしい?」
 和樹くんなら彼女は誰かいたと思ってた。
「おっ、おかしくはないけど付き合ってた人いるんじゃないかなぁって」
 性格も顔もいい和樹くんなら、そんなことがあっても不思議じゃない。こういう風に付き合う前は女子どもにチヤホヤされているのを何度か見たことがある。しかもたった三週間ちょっとで。マイマイは生徒会繋がりで本当に、親しげに話しているのを見たことがある。マイマイだけの特権。
「……あぁ、いたよ」
 早口だ。嫌なこと思い出させちゃったかな? でも、ここまで来た以上は。
「何人くらい?」
「何人ってレベルじゃ……うーん、中学は2人だったような」
「だったような?」
「オレにはそんな気ないのに、一方的に付き合おうって言われて。別れも相手のほうから」
「へぇ」
 私と同じだ。一方的に言ってしまって。けど違うのはこうして一緒にいること。
「オレの話はいいよ。大して面白くないし。永沢は面白そうな話持ってそう」
 和樹くんはそう言って苦笑した。
「あ、うん」

*******

 予定していたとおり服を買ってご満悦の和樹くん。ギリギリまで悩んで白いTシャツと黒のジーパンを買っていた。完全に今日と同じものだ。服がないっていうか、同じようなのを選びすぎなんだろう。タンスの中は白と黒でシマウマ調なんじゃないのか。
「永沢は買わなくてよかったの? 気に入ったのあったみたいだったけど」
「値札を見て驚愕だよ。5800円だった。学生にこの出費は痛すぎるって」
「そう。言ってくれれば出してあげたのに」
「それはダメだよっ! お金の貸し借りなんて」
「どうして?」
 天然なのか? 真顔で聞いてくる。お金の貸し借りはどんなに仲良くたってダメだって子どものころからしつこいくらい言い聞かされてた。……私と同じ学生なのにそれだけ出せるくらいなんだから和樹くんはどっかのボンボンなのかも? その可能性はないと言いきれない。でも食堂で見かけたことはないし、いつもお弁当持参だ。果たして真実はどちらなのだろう。
「和樹くんって普通の家柄だよね?」
「は?」
 きょとんとした顔で私の顔を見つめてくる。その顔は反則だ! 目がクリクリしていて可愛いじゃないか。……私より。
「だから、お坊ちゃま系列じゃないの?」
「違うよ〜」
 あっさり否定された。
「オレの家は別段裕福でもなく貧乏でもなく、普通」
「そうなんだ」
 『普通』なんていっぱいいるだろうけど、同じような境遇でちょっと親近感が沸く。最初に会ったときは共通点なんて一つもないんじゃないかと思っていた。
「弟がいてさ。祐っていうんだけど、昨日少しお金借りたから。いつもはそんな持ってないよ」
 和樹くんがお兄さんかぁ。さぞかしいいお兄さんなんだろうなぁ。私もお兄ちゃん欲しかった。
「仲良いんだね」
 お金を貸し借りするのはいただけないけど。
「そうでもないよ。ケンカばっかり」
「二人とも引き下がらないで自分の主張をする。仲がいい証拠だよ」
「そうかなぁ」
 和樹くんにはもっと自分のことや、考えていることを主張してほしい。
 思えば私は絵里とケンカしたことがない。あの子は私がケンカ腰になるといつも引いて、拍子抜けしてしまう。
「……普段は物静かなのにオレと話すと途端に元気になってさ。元気すぎてケンカしちゃう」
 だろうなぁ。私がもしも妹だったならそうなっていたかもしれない。祐くんか。私もそんな風に何でも言い合える存在になりたいのに、なれない。
「永沢は兄弟っているの?」
「私は妹がいるよ。生意気でかわいくないけど」
「そんなことないって。永沢の妹なら絶対かわいい!」
 珍しく語尾を強調している。優しいね。和樹くんは少しの間逡巡して一言呟いた。
「……オレ、会ってみたくなってきた」
「ええ!」
 予想だにしていない展開に戸惑う。えっと、絵里は今日……そうだ。
「妹は今日友達と遊んでる」
 和樹くんの優柔不断さにより、長居しすぎたせいか日は傾き始めている。が絵里はこんな早くには帰ってこない。っていうか、元気が有り余っている中高生は普通誰も帰ってこない。
「そっかぁ。残念」
 和樹くんは肩を落として長いため息をついた。本当に残念そうだ。なんでこういうときに絵里はいないんだ〜!
 あ、いいこと思いついた。
「私も祐くんに会いたくなってきた」
「ええ!」
 ついさっきのことだけどデジャヴだ。こうなることは予想できていた。どう出るかな。
「祐は……いると、思う」
「ほんとっ!?」
 期待に胸膨らませ、思わず確かめてしまう。
「本当だよ。祐は家にいること多いから、今日もそのはず」
「じゃあ目的地は和樹くんの家だ!」
「永沢が行きたいなら別にいいけど……」
 遠回しに自分の家に行かせたくないように聞こえるけど、いいということにしておこう。和樹くん家に行くのは無論初めてで、緊張してきた。
「永沢、こっち」
 渋々承諾したようで、私の少し前に立って手招きをした。
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4.すれ違う気持ち【その2】
 祐くんかぁ。やっぱりお兄ちゃんと似てるのかな? かっこいいのかな? 考えるとわくわくしてくる。ふと前方を歩いている和樹くんが足を止めた。
「ここだよ」
 え。
 意外と私の家に近くてびっくりした。徒歩で5分くらいの場所だ。でも『庄子』なんてありきたりな苗字だから気にすることもせず前を通っていた。
「ほぇ〜。ここが」
 二階建てで、壁は黄色がかっているが、レモンとかそれぐらいきつい色合いじゃなくて白を基調に黄色をちょっと足した程度。汚れや傷も肉眼では確認できない。新築の家、なのかな。
「新築みたいに綺麗だね。もしかして本当に新築とか?」
 言ってから気づいた。和樹くんは父親の転勤でこっちに来たんだっけ。そしたらここに腰を落ち着ける可能性は低い。
「まさか。もともとはお祖父ちゃんが住んでいて譲り受けたんだよ」
「譲り受けたって?」
「お祖父ちゃんはオレたちが前住んでた家に行って、オレたちがこっちに来たってわけ」
 住処交換というわけか。新しくどこかと契約するよりは楽なんだろうけど、手続きとか頭が混乱しちゃいそうだ。
「それで、綺麗なのは父さんが塗装しからだよ」
「すごいね、和樹くんのお父さ」
「別に父さんがやったってわけじゃないからね」
 先読み防御された。私の考えは筒抜けなのか。
「父さんはホテルの営業課長やってる」
「ホテルの営業課長って役職、全然分からない」
「あはは。無理ないよ。オレだって初めて聞いたとき分からなかったからね。まぁ営業のために動いたりフロント仕切ってるって感じだよ」
 そういう仕事もあるのかと感心していると、和樹くんは独り言のように「一人でオレたち養って大変だよなぁ」とボソッと呟いた。
「世の中色々な仕事があるんだね」
「そうだね。……さ、中に入ろう?」
 今の話に若干の違和感を抱きつつも、促されるままに家へと足を踏み入れた。


 目の前に階段がある。マンション住まいだと階段なんて上り下りくらいにしか使わないから家の中にあると新鮮だ。玄関は部屋や洗面所の窓から光が差し込んでいて、目が眩むんじゃないかと思うくらい明るい。夕日ってこんなにも明るいものなんだ。これだけ明るいと埃が宙を漂っていたり、小さなゴミでも見えそうだがそんな感じは一切ない。和樹くんのお母さんはキレイ好きな人なのかな。足元を見ると靴が綺麗に並べられている。こういうところは時間と違って几帳面だ。
 ガチャ。扉が閉まる音だ。後から入ってきた和樹くんも家に入ったと思ったら
「祐〜いる〜?」
 扉が閉まった途端、そそくさと靴を脱ぎ慌しく部屋を回っている。リビング、和室。トイレ、……風呂。
 ――トイレと風呂はないって! いたらそれはそれで私が困るって!
「おっかしいなぁ。この時間ならリビングでくつろいでるはずなんだけど。鍵は開いてたからいるはず。あ、永沢。適当なところでゆっくりしてて。今日は祐しかいないから安心して。オレは二階で祐探してくるね」
 一気に喋り終えた。よく噛まないで言えたなぁ。
「うん」
 私の声を確認して、ばたばたと二階へと駆け上がっていった。二段飛ばしだった。服が入っている袋を持っているっていうのに軽快だった。足長いな、私だったら二段飛ばしなんて股が裂けそうになるのにそれを軽々と。
 適当なところ。音を立てないよう慎重に首を左右に振ってキョロキョロする。やはりここはリビングに行くべきだろうか……。まずは靴を脱ごう。
「おじゃましまーす」
 小さな声で一応言ってみた。人の家に来て一人になるとどうしても音を立ててはいけないような気がして、細心の注意を払って行動するようにしている。
 リビングに入ってみると、私の腰と同じくらいの高さの本棚にびっしりと本が詰まっている光景。卒倒しそうだ。どれも分厚い本ばかりで背表紙には難しい漢字が使われている。読み応えがありそうだけど私はとても読む気にはなれない。一体誰が読むんだろうか。
 それはいいとして……なんだこれは。左側にはテーブルと椅子があり洋風、一方の右側にはコタツと座椅子がある。ごっちゃですやん。とりあえず座っておこうと思い、家でも学校でも慣れている椅子のほうに腰を下ろした。ふかふかしていて気持ちいい。おまけに肘掛着き。椅子もくるくると周り、まるで校長の気分だ。革張りじゃないのが普通っぽさを醸し出している。
 そうだ。一度やってみたかったんだっ。肘掛に肘をつけて頬に手を当てる。ひゃ〜! 偉い人にでもなった気分。……って。
「なが、さ、わ?」
 和樹くんがぎょっとした顔で私のことを見ている。私から目を離さないんじゃなくて、目を離せないみたいだ。ある意味釘付けだ。隣には……背は低いものの体はがっちりしていて、けれど優しそうな顔つきの少年がこちらを見ている。
「……祐、本当はこういう人じゃないんだ。わかってやって」
「あ、ああ」
 キミが祐くんか。ドン引きされた。そりゃそうだよね。見ず知らずの人が自分の家に入って椅子ではしゃいでるなんて、第一印象最悪だよね。って冷静に分析している場合じゃなーい! 誤解を解かなきゃ。
「ちっ、違うの! これには深いわけがあって」
「分かって、る」
 そう言いながらも引いてるのですが……。
「永沢、まずはその体勢崩すのがいいと思う。偉そうに見える」
「えっ」
 自分の体を見るとまだそのままの状態だった。慌てて手を膝に置いて俯いた。
「ねーちゃんかわいいな」
 かっ、かわいい! 思わず顔が綻んでしまう。和樹くんに「かわいい」って言われたことなんて告白した日の1回だけだ……。それを祐くんは初対面でいきなり。度胸ある。
「どうぞ」
 顔を上げるとお茶を差し出される。前には男の子二人。右は和樹くんで、左は祐くんだ。さっき二人で立っているときには背格好が違っていてあまり体感できなかったけど、こうして並んでみると目鼻立ちが似ていて、兄弟だということが明確だ。絵里と私はパーツが違いすぎて、姉妹だと判別できた人は十六年間生きてきて二桁にもならないと思う。
 一息ついて湯呑みに口をつけてお茶をすする。作法とか知らないから無礼だったら申し訳ない。
「祐、紹介するよ。この人が永沢、由香だよ」
 なんで「由香」で一瞬止まるんだろう。呼び方なんて気にしたことなかったけど初めて和樹くんの口から「由香」って言葉を聞いた。
「由香、か。よろしく。俺は庄司祐。……苗字は言わなくてもわかるか」
 いきなり呼び捨てか。祐くんが一番年下のはずなのに肝が据わってる。度胸に歳は関係ないか。むしろ子どものほうが度胸あるよね。
「初めまして。よろしくね」
 第一印象が最悪なのはもう拭えない過去だけど、イメージを良くしようと朗らかに喋って微笑む。祐くんも微笑む。その様子を見ていた和樹くんも微笑む。……みんな微笑んでいて少し気持ち悪い。
「じゃー俺はこれで。またなーねーちゃん」
「またね」
 条件反射的に手を振る。どっか行くのだろうか? こんな時間から。もう日が傾ぎ始めていて夕日が近い。
「気をつけろよ」
 ああ、なんて優しいお兄ちゃんなんだ。普通のことなんだろうとは思うけど、私は絵里にそんなことすら言ってない。今度からは言ってあげよう。「キモい」とか言われても。
 準備は整っていたのかリビングを出て、即行家を出て行った。
 扉が閉まる音を確認して、お兄ちゃんに聞いてみる。
「どこ行ったの?」
「プールだよ。祐は子どものころから水泳だけは好きみたいで、スイミングスクールの日じゃなくても行ってたくらいだよ。今はスクールやめて日曜にしか行ってないけどね」
「なにかに打ち込めるっていいことだよね」
「そうだね」
 嬉しそうに笑う。私に見せる笑顔じゃなく……本当に嬉しそうだ。和樹くんだってバスケに打ち込んでるじゃんか。身長の問題があってさすがにレギュラーにはなれてないみたいだけど、練習を人一倍がんばっていると聞いた。そうやって何もかも忘れて打ち込む姿って好きだな。
 祐くんのこと、和樹お兄ちゃんのことが少し分かって満足だ。でも少し物足りない。それは
「部屋見たいなぁ」
「えっ。オレの部屋?」
「決まってるじゃん」
 和樹くんは「うーん」と唸って頭を抱えた。強引……だったかな。有無を言わさぬ強い口調で言いきってしまった。いやなら「いや」だと言ってほしいけど、見たいのが本心で。
「いいよ」
 嫌そうな顔をしているが、いいと言ってるんだから行っちゃおう。
 ふかふかの椅子君、さらばだ。椅子に別れを告げてリビングを出た。
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4.すれ違う気持ち【その3】
「家の階段って久々に登る」
 友達もほとんどマンションに住んでるから屋内の階段っていったら学校くらいしかないな。階段の途中にある窓から差し込む光が青い。いつの間にか暗くなり始めていた。電気が必要な時間になっていたので、和樹くんが壁にタッチすると階段の黄色い電気が点いた。マジシャンか! そう思って見てみるとパチパチと左右に動く昔ながらのやつではなくて、押し込めば点くタイプのものだった。蛇口は上下させるんじゃく、捻るのが普通だと思ってる小市民なのでこれは憧れる。今度来たとき触らせてもらおう。
「そっか。永沢はマンション住まいなんだっけ」
「うん。高2になってからは初めてかな」
 そんなことを話しているうちに二階に着いた。部屋は三つあって左に二部屋、右に一部屋ある。それとトイレ、ベランダが見える。二階にもトイレがあるって結構なお金持ちだよね。でも譲り受けたって言ってたから本当にお金持ちかどうかは分からない。和樹くんのお祖父ちゃんはこれだけの家を持ってるんだからお金持ちなのは確実だ。
「ここがオレの部屋で、奥は祐の部屋と父さんの書斎。書斎はあんまり使ってないみたいだけどね」
 ふむふむ。左手前が和樹くんの部屋で、左奥が祐くんの部屋。ベランダへの道を挟んで書斎は右奥の部屋か。トイレはその書斎の前にある。それにしても譲り受けたと言う割には高性能な家だ。ここを買った当時は最先端の家だったんじゃないかな。それより
「オレが手前なのはよく出かけるからなんだよね」
 声が右から左に抜ける。そんなことどうだっていい。男の子の部屋って初めてだ。ドキドキする……。
 ドアを開けてもらって中に入ると、和樹くんの匂いがかすかに感じられた。前には大きな窓、それと垂直するように勉強机が右の隅に置かれている。左手にはタンスがあってその奥にはもう一つ窓があり、接するようにベッドが置かれている。
 階段の電気を消してから入ってきた和樹くんを見ると、恥ずかしそうに頭をポリポリと掻いていた。照れなくていいのに。
「散らかっててごめん。今日来ると思ってなかったから」
 ベッドにはさっき買ってきた服と、今朝着ていた服だと思われるのが投げ捨ててある。こういうところが男なんだなぁと実感する。でもそのほかは綺麗に整理されていて机の上には幾つか教科書が広がっているだけだ。生活感がないとも言う。私の部屋なんか生活感バリバリで人様には見せられない。帰ったら片付けておこう。
 ん。入ってきたところからは死角で見えなかった写真が机の上に飾られているのが見えた。森林をバックに男性が一人と、女性が一人、そして男の子が二人写っている。真ん中には虫取り網を持っていて、長袖シャツに膝上ぐらいの短パン姿だ。膝小僧のバンドエイドがなんとも子どもらしくて良い。その笑顔がかわいい7歳くらいの男の子がピースしていて、父親と思われるがっしりとした体型の人物がもう一人の男の子を肩車している。その傍らには優しい笑顔を浮かべている母親と思われる人物がいる。みんな笑っていていかにも幸せ。って感じで、見ているこちらが笑顔になってしまいそうだ。
「適当に腰かけていいよ」
「うん」
 言われるがままにベッドにちょこんと座る。さっきの椅子よりちょっと硬い。写真のことは野暮なんじゃないかと思って聞けなかった。和樹くんは勉強机の椅子に腰かけた。椅子というより『チェア』という表現のほうが合っているかもしれない。向き合っていると恥ずかしいので少し下を向く。ちらちら様子を窺っていると和樹くんは大きい窓のほうを向き、口を開いた。
「もうこんな時間か。ながさ」
「ゆか。由香って、呼んで」
 自分で言っておきながら気が沈んだ。さっき祐くんに紹介されたときから気になっていて……恋人同士なら名前で呼び合うのが普通だと思う。顔を上げると、和樹くんは心底困り果てたような顔をしていた。
「え?」
「私は『和樹』くんって言ってるのに。ずるーい」
「で、でも」
 突然の出来事に落ち着かない様子であたふたしている。あと一押しすれば言ってくれるはず。
「言って。言って欲しい」
 慌てる様子は消えて、静かに熟慮し始めた。言ってくれるかな。ああ、でもそれって
「……分かったよ」
 無理に言わせて嬉しいの? ううん、聞きたいけど今は聞きたくない。言ってくれるまで待つべきだったのかな。ちょっと後悔していると和樹くんは椅子に深く座りなおして、私のことを見つめた。視線が絡む。最善なのは言うまで待つのがいいんだけど、意を決してくれたんだ。それを止めさせる勇気なんて……私にはない。
「ゆ、か」
 もう少し。ゴクッと生唾を飲んだ音が耳に入ってきた。電気のジーという音が聞こえるだけの森閑とした空間。そこに響く震えた声。
「ゆか……由香」
 ――やっぱり、嬉しくなかった。
 言い終えた和樹くんは目を見開いたが、それは一瞬で収まり目を伏せた。険しく眉根を寄せている。つらさを掻き消そうとしているのか握り拳を作っていて、腕には筋肉の筋が立っている。なんでだろう、聞けたのはいいけど「由香」って名前に何かあるのかな……。和樹くんにさせたくないことして、私最低だ。
「ごめん、ね。無理させちゃって」
 返答がない。いつもなら返してくれるのに。
 ……私はそうやって自分だけ楽になろうとしている。ずるい。自分勝手だ。和樹くんに全てを背負い込ませている。和樹くんを見ると額から汗が滲み出ている。そこまで暑くはないけど、見ている私も暑く感じてきた。暑さでよく動いていた頭が一つの結論に至る。
 これで……やっと分かった。鈍い、鈍すぎる、ニブチンだ。
 今日会ったときに言ってた別れる理由が分かった。別れた人たちの気持ちが分かる。

 和樹くんは優しい。優しくて人を傷つけちゃうほどに。

 私に嫌な思いをさせまいとしている。今までもそうだ。デートに誘う前、口をつぐんでいたのは、それを言うと私が傷ついてしまうから。そうだと思う。必要以上に気を遣わせてしまって、つらかったと思う。私はそれが苦しい。心がちぎれそうだ。気を遣うような仲じゃこれ以上進歩しないよ。身を引かないで欲しい。自分を主張して欲しい。有りの儘の姿でいて欲しい。でもうまく伝えられない。言いたいけど、拒絶されそうで怖い。そんなこと絶対無いはずだって……言いきれない。自分はなんてちっぽけな人間なんだ。恐怖から逃げようとして、勇気も振り絞れないで。
 なんとか声を出す。この場から――逃げ出すために。
「今日はもう……帰るね」
「ああ」
 掠れた小さな声。そんな声を聞くなんて今朝は思いもしなかった。
 部屋を出るとき後ろを振り向いたが、和樹くんは「由香」と言ってから同じままの姿勢で立ち尽くしている様は……とっても失礼だが滑稽に見えた。
 うわ、最低だ。少しでもどす黒い感情が芽生えた私は……別れるべきなんだ。そっちのほうが和樹くんのためになる。相手が自分のために尽くしてくれているっていうのに、相手のことを表面上では慮って自分だけ逃げようとして打算的で嫌な女だ。こんな私といたって良いことなんてちっともないよ。


 真っ暗。几帳面な和樹くんは階段の電気を消すものだから、辺りは全くといっていいほど見えない。さっきまで電気の点いた明るい部屋に居たから尚更だ。人様の家に来て勝手に電気をつけるのは、はばかられるのでそのまま歩き出す。
 暗闇の中、足を踏み外さないよう慎重に階段を降りて玄関にある自分の靴を履いた。和樹くんの気持ちが分かって胸の奥が変だ。ムカムカともイラつきとも違う。そうだとしたら自分へだ。やり場のないこの気持ちはどこへやればいいんだろう。
 ……こんなこと考えてても無駄だ。今は出よう。そう思って玄関のドアノブに手をかけた瞬間
「送るよ」
 今日はもう和樹くんの声を聞くことはないと思っていたので身がピクリとすくんで咄嗟に俯いた。視界の隅に黄色い明かりが入った。階段にある電気の色だ。すたすたと後ろから足音が聞こえる。階段を降りているのだろう。……後ろを振り向けない。
「外は暗いよ。女の子をこんな時間に一人で歩かせられない」
 優しい声がすぐ隣にある。優しくされてるのに切なくて。涙が出てきそう。私は俯いたまま
「うっ……私の家近いからいいよ」
「そういうわけにはいかないって」
 見られようとするとそっぽを向いて泣くのを必死に堪える。
「じゃ、じゃあ……」
「行こう」
 扉を開けてもらって外に出ると夕日も完全に隠れてしまっていて少し肌寒い。強引だったけど嬉しい。名前を呼んでくれるより数倍。
「うぅ〜、さぶっ」
「大丈夫?」
 寒さで涙が引いていった。よかった。泣いている姿は見られたくない。急にふわりと背中を温もりが覆う。和樹くんの匂いがする。
 視線を自分の肩に落とすと――和樹くんが今日着てた半袖シャツを自分が羽織っている。
「ど、どうして?」
「寒いって言うから」
 暗闇の中、和樹くんを見ると中に着てた白いシャツ1枚だ。左胸のところに、夜目でも分かるワンポイントの印がある。描かれているのは鳥……かな。平然と見えるけど本当は寒いはずだ。優しくされると胸がきゅうって締め付けられた感じになって苦しくなる。和樹くんは私の数歩前まで歩き出した。今のうちに言わないとっ。
「悪いよ」
「いいって。オレなら大丈夫」
 顔だけ振り向いてニッと笑い、美しい歯列を見せる。それは反則だって。
 ……ああ、そうだった。結局手を繋げずじまいだった。そうだ。確かめてもいいかな。試すみたいでいやだけ
「えっ」
 左手に温もりを感じる。手を――繋いでいるんだ。
 暖かくて、大きい。そして少し汗ばんだ感じが良い味を出している。斜め前方にいる和樹くんを見るとそっぽを向いていて表情が窺えない。きっと恥ずかしいんだろう。さすがに指同士を絡める繋ぎ方は無理だった。
 これってもしかしたら私の気持ちを感じ取ってくれたのかな。……そんなことあるわけないか。冷静に考えられるようになると私も羞恥が込み上げてきた。どっ、どうしよう。手を繋いでいる。
「行くぞ」
 初めて聞いた男らしい口調。こんな和樹くんもカッコイイ。照れ隠しなのかな、声が震えていて頼りない。和樹くんが珍しく率先してくれてる。ここは身を委ねよう。私が黙っているのを肯定と取ったみたいで私の手を握り直してズンズン歩き出した。否定したらどう行動したんだろう……って、歩調が速くて転びそうになる。それに歩幅も広いから二段飛ばしで股が裂けそうになるような私じゃついていけない。必死に歩調を合わせようとするが無理だった。靴が引きずられている。ま、待って。
「ちょっと」
 切羽詰まった声でそう言うと気づいてくれたみたいで足を止めてくれた。はぁ、やっと息を整えられた。和樹くんは振り返って私のほうを見る。
「あ。……ご、めん」
 暗くても判るくらい頬が赤い。昼間の暑さが抜けきってないのもありそうだけど、手を繋いで恥ずかしくなったほうが強いんだろう。まさかはぁはぁ息切れしてる私を見てだったら……って、ナルシストか。こんなときに後輩のことを思い出す私。……マイマイは妄信家というよりナルシストというべきなのだろうか。
 それにしても人の温もりってどうしてこうもいとおしいんだろう。あんなことがあったのに……いや、あったからこそなのかな。ずっと手を繋いでいたい。再び歩き出すと、さっきみたいに荒い歩調じゃなくゆっくりと私の歩調に合わせるように歩いてくれた。やっぱり、優しいんだ。通行人や車の通りは少ないが、傍から見たらカップルにしか見えないだろう。
 そうこうしているうちにあっという間に、私が住んでいるマンションの前に着いてしまった。5分なんて本当にすぐだ。
「返すね」
 名残惜しくも手を離して羽織っていた上着を取り、和樹くんに手渡す。
「ありがとう、暖かくてほっこりした」
 にっこりして受け取ってくれた。この笑顔をぶち壊そうとしたのか。最悪だ。和樹くんには何の非もない。
「うん。よかった。じゃあオレはここで。また明日」
「また……またね」
 また明日。
 言えなかった。また明日も会うことになるんだろうけど、こんな気持ちのまま明日会ってしまったらまた傷つけてしまいそうで怖い。
 ……まずは中に入ろう。寒い。エレベーターに乗ってしまうと色々考えてしまいそうだから、久しぶりに階段を使ってマンションの角部屋に入った。お母さんの姿が目に入る。
「ただいま」
「あらおかえり。ご飯は?」
 夜だって言うのに玄関の掃除をしている。ついでに靴も磨いているみたいで「絵里ったらまた靴を汚しちゃって」と言って楽しそうに掃除を進めている。お疲れ様だ。
「まだ。でも今日はいらないや。ごめんね、せっかく作ってくれたのに」
 お母さんは靴磨きしていた手を止めたと思ったら、見る見るうちに表情を曇らせていった。なんだろう。
「そう。元気出しなさいよ」
「……うん」
 見事にばれていたみたいだ。十六年も付き合っていたら隠し事なんてすぐに分かっちゃうのか。私は靴を脱いで自分の部屋へと逃げるように入っていった。
 ドアを閉めてベッドに力なく倒れこむ。仰向けに直って腕を頭の後ろで組んだ。
 静かだ。さっきと同じ状況。そうなると今日のことをいやでも考えてしまう。瞬きしたらぼろぼろと雫が零れた。
 和樹くんに無理強いさせてしまった。告白して、自分勝手に振り回して。思えば全部私から行動を起こして、全部承諾してくれた。中には偽善もあったかもしれないけど、和樹くんは根っからの優男だ。それを感じさせない人間性がある。だから……いけないんだ。
 優しくしてくれているのに、苦しくて、切なくて、涙が出てきてしまう。人を傷つけちゃうほど優しい。私は気を遣われすぎて、居場所がないみたいだ。それがつらいんだよ。胸がチクチクする。
 和樹くんは何でもしてくれる。「キスして」と言ったらしてくれるはずだ。いやなら「いや」って言って欲しい。自分をもっとさらけ出して欲しい。自分の気持ちをぶつけてきて欲しい。……私のわがままなのかな。
 優しくて気配りできる人なのに一緒にいると……つらい。
 そういえば部屋の片付け……いいや。今日はもう寝よう。動きたくない、何も考えたくない。だるい。
Index
5.変化【その1】
 鳥の囀りが耳を翳め、次第に覚醒してくる。カーテンの隙間から太陽の光がこぼれている。朝だ。あれ、そういえばカーテンを閉めた記憶がない。……昨日は帰ってきてから何もしないで寝てしまったんだ。電気も消えてるしお母さんがやってくれたのかな。手間掛けさせちゃってごめんね。
 たっぷり眠ったから目覚めは爽快だけど、昨日のことを考えると落ち込む。
「由香、そろそろ起きないと遅れるよ〜」
 お母さんの呑気な声が部屋の向こうから聞こえてくる。今日は学校なんだった。支度しないと。……和樹くんと会うのかと思うと気分が優れない。昨日までは会えて嬉しい、って思ってたのに。一日でこんなにも気持ちって変わるものなんだ……。
 準備を済ませ、リビングへと足を進める。
「おはよ〜」
「おはよう」
 お父さん、お母さん、絵里が食べる合間に次々と返事をした。一番早く寝たはずの私が最後か。
「目覚めスッキリって感じね、目がパチパチしてる」
「よく寝たからね」
 パン袋を手に取る。何も変わらない日常。すごく安心できる空間だ。学校は……いつもどおり、なんてことはないだろう。少なくとも私が昨日のことを何もなかったかのように振舞うことは出来ない。
 食事を軽く済ませて、気持ちの整理がつかないままいつもより早く家を出た。


 入梅したのかと疑ってしまうぐらいの澄み渡った大空。日差しが肌に刺さる。スカッとした天気に気持ちも幾分か晴れたが、やっぱりダメだ。私もこの空みたいに隠し事一つしない透き通った心になりたい。
 学校に近づくにつれて和樹くんと会うのが怖いっていうのが手に取るように分かった。いつものように接してくれるのかな。それとも……。突然「あ」と後方から声が聞こえた。この声はもしや――
「ながさ……ゆ、か」
 ついにこのときが来てしまった。絶対そうだ。声が聞こえたほうを向くとそこには和樹くんがいた。ど、どうしよう。ここは一先ず。引きつった顔で挨拶をすると笑顔で返してくれた。作り笑顔に見えないのがなんともいやらしい。和樹くんはヒョイと眉を持ち上げる。
「登校時間に会うなんて初めてじゃない?」
 予想していたとおりいつものように接してくれた。
「そうかも。私ギリギリに来ること多いから」
「永沢らしいね」
 大仰にそう言った後、私のほうをじーっと見てくる。なんだろう。見つめられると恥ずかしいな。って、何のことかやっと分かった。いやだな、自分から言って欲しいのに。緩慢に体を背けて地面のコンクリートに視線を落とす。まだ六月だって言うのに昼間になったら熱気を発しそうだ。
「今は永沢でいいよ。和樹くんが由香って呼べるようになるまで待つ」
 再び向き合うと和樹くんの顔がぱぁっと明るくなる。
「うん、分かったよ。ありがと」
 自分の気持ちに素直な人だ。私もそうなりたい。邪な考えは全部捨てたい。相手のことを好きなら好きでいればいいのに、それが出来ないのは私の弱さ。「遠慮してちゃ恋愛なんてできない」ってお母さんがいつも言ってて、私も実行してるけど和樹くんとの距離は逆に遠退いていってると思う。こんな状態を続けていたら別れるなんて目に見えてる。それにしてもなんで私の名前を呼びたくないんだろう。……それが分からない。
 和樹くんと一緒に学校に行くことになった。話も弾まないまま教室に入り自分の席に座る。ぼーっとしているとHRの時間になった。担任の言ってることが頭に入ってこない。そして授業になる。やっぱり先生の言ってることが理解できない……んじゃなくて頭が考えようとしない。そんなこんなで憂鬱に過ごしてしまいお昼の時間になってしまった。
 和樹くんとお昼。いつもなら喜び勇んでいくのに今日はためらわれた。それどころかそろりと忍び足で教室から逃げようとしている。本心では会いたいと思っているけど、理性がそれをさせてくれない。私は……理性のほうが勝っているんだ。本当は和樹くんなんてどうでもいいって思ってるんだ。最低だよ、私。これからつらい道だと分かったらすぐ逃げて。それに比べて
「永沢」
 う。見つかって呼び止められてしまった。のっそりと振り返る。
 いつものように微笑んでいた。でも今朝と違ってどこかぎこちなく感じる。和樹くんも昨日のことは割り切れないんだ……。
「やっぱオレと居たくない?」
 優しい口調で核心を突かれ、思わず返答に窮する。居たくないと言えばそれもあるし、一緒に居たいと言えばそれもある。居たくないのが勝っているのはさっき分かった。でも和樹くんを目の前にすると
「……ううん」
 首を振って否定した。本人を前にすると理性は引っ込んでしまうみたいだ。こんな関係じゃ後はもう散る運命だって頭は分かってるのに、一緒に居たいよ。もう最後だって分かってるから逆に最後だけでもって思っちゃうのかな。和樹くんは目を細めて微笑んだ。
「じゃ、行こ?」
 頷く。
 ……あ。お弁当箱を持ってきてない。それを伝えて、急いでカバンからお弁当箱を出すと和樹くんはもう教室を出ていた。早くしないと。小走り気味に後を追う。教室を出てすぐ廊下を見ると和樹くんはゆったりとした歩調で歩いていた。ほっと一安心。すかさず背後についた。
 後ろにいると考えてしまう。大きな背中。この背中にどれだけのことを背負い込ませたんだろう。前に女の子と付き合っていて、気持ちがないっていうのは聞いた。もしかしたらその人たちも優しくしてくれるのが苦痛で逃げちゃったんじゃないかな。和樹くんのことだから、自分にはそんな気持ちがなくても相手を想って「好きだ」の一言を言ってそうだ。私と同じように優しくしてくれて……ってそれじゃあ私にも気持ちがないっていうこと?
 こんなことは考えたくないけど「別れよう」なんて言ったら、本当に別れてしまうかもしれない。私を求めて欲しい。わがまま言って欲しい。優しくしないで欲しい。

 ――気を遣われると苦しいんだよ。

 ああもう。今考え事をすると全てマイナス方向に考えていきそうだ。やめやめっ。
「今日はここにしよう」
 意識を現実に戻すと体育館の前だった。こないだデートに誘った日のことを思い出す。川澄先生だったらどうするだろう。恋愛経験豊富そうで異性だけど話しやすい相手で、なおかつ私たちの関係を知っている。でも私と川澄先生の接点なんてない。担当しているのは男子の体育、バスケ部の顧問と後は……生徒会の顧問教員。和樹くんは全てにおいて接点があるのに私はゼロだ。和樹くんに「会わせて」って頼み込むのもなんか変だし、話す機会があったらにしよう。あの日のように都合良く会えない場合が多いし、友達目線に立ってくれるとはいえ教員なので何かと忙しくて時間が取れないらしい。和樹くんは寂しげにポソリと呟いた。
「あんまり人いないし、たまにはいいと思うけどなぁ」
 和樹くんが言ったとおりあんまり人影が見えない。食堂に向かっている良家のお坊ちゃま・お嬢様集団はいるものの、ここからはそれほど見えない。
「ここでいいよ」
 食べられればどこでも良いと思っている人ですから。
「よっし。座ろう」
 クレッシェンドにそう言うと楽しそうに鼻歌を歌った。どうやら上機嫌のようだ。こんなにテンションが高い和樹くんを見るのは初めてだ。私はその様子に戸惑いながらも脇のほうに腰を落ち着ける。体育館の入り口に上がる階段――というより段差は砂やら泥やらで汚い。さすがにそこで食べるのは忍びないと思ったので避けた。私は自然と和樹くんの右側に座る。
 腰かけた拍子に空を見ると、雲一つない透き通った青空が見えた。今朝と変わりない空模様。それに比べて私はどんどん卑屈になっていってる。私の心にはどんよりと雲が漂っている。
 うぅ、さぶっ。日差しが強いとは言え風がひんやりするので体感温度はそれほど高くない。むしろ寒いくらいだ。私はやっぱ寒がりなんだなぁ。
 ふと和樹くんと過ごしたこの約一ヶ月間を振り返る。デートに誘った日の記憶が強すぎてすっかり忘れてたけど、この体育館前は和樹くんと初めて一緒に話して、ご飯を食べた日だ。あのころはこんなに仲良くなるとは想像してなかった。目の前のことで手一杯で。それから一週間経って告白。近づくきっかけになった。その後、色々あってデートに誘う。そして今に至ると。振り返ってみて分かった。
 私は前に出すぎて、和樹くんは引き下がりすぎだ。私は下がって、和樹くんが前に出てくれればいい距離感になる。でも……近づいてきてくれるのかな、遠くから見てないで寄り添ってくれるのかな。
 そうだ、そうだよ。和樹くんの真意が分からない。優しいのは真意なの? そんなことを考えているとローテンションに戻った和樹くんが箸を持つ。
「いただきます」
 先手を取られた。私も続く。
「いただきまーす」
 今日も左手を使って食べている。聞きそびれていた、左手を使う理由。どうしてなんだろう「叔母さんが使っていた」、そんなにも簡単な理由なんだろうか。私が同じ立場だったら叔母さんは左手使っててカッコイイな、程度で終わりそうだ。
「ね、どうして左手で食べるの?」
「……それはこの前言ったじゃないか。永沢も納得してたじゃん」
 ちょっとムッとしている。それくらいで引き下がる私じゃあ……
「それを言われると弱っちゃうなぁ。でもあのとき目が泳いでたよ?」
「……っ」
 心がズキンと痛む。
「それは……」
 そうか。ちょっとは引き下がれよ、私。また追い詰めて言わせなきゃいけない状況に陥れてる。
「待った!」
「えっ?」
 和樹くんは目を真ん丸くした。それは驚くよね。言わせようとしてるのに。
 自分から言ってくれるような状況じゃないといやだ。聞くの我慢するようにして、進歩したじゃん。と、自惚れていると怯えたような声が耳に入ってくる。

「聞かないでいいの?」
「朝と同じっ! 言ってくれるようになるまで待つよ」
 そう言いきって、和樹くんの顔を見ると私が言ったことにきょとんとしているけど、どこか嬉しそうだ。やっぱ言いたくないほどの理由があるんだろうな……。待つことは待つけど、それほど待たせられたくはない。クラス替えがある今年度の末までにお願いしたい。
「これあげる」
「ん?」
 和樹くんは箸を持ち直すと、自分のお弁当箱から玉子焼きを器用に掴んで私のお弁当箱に移す。これって。
「貰っていいの?」
「永沢がオレに無理強いさせてこなかったお礼」
 む、無理強いって。今までの行動を振り返るとそう言えなくもないのがもどかしい。……優しいんだ。でも……同時に切ない気持ちにもなる。
「ありがとう」
「玉子焼きってオレの得意料理なんだ」
 へ?
「和樹くんって料理するの?」
「中学上がったときから弁当は自分で作ってる」
 へ、へぇ。中学からお弁当だったんだ。……それよりも自分で作ってるだって? 私なんか目玉焼きが最高難易度に位置づけられているというのに。玉子焼きになったら遥か遠くだ。和樹くんは話を続ける。
「オレは夕食担当で毎日作ってるよ。朝は父さんが作ってくれるけど、仕事が忙しくて朝まで帰ってこないときとかはオレが作ったりしてるんだ」
 なんて得意気に言ってくれた。ちょっとムカつく。私より料理のレベルが高いのは歴然だ。目が泳いでないもん。そんなことより今の話……なんか引っかかる。和樹くんのお母さんは一体なにやってるんだ。家族にご飯も作らないで。……あれ、でも待てよ。こないだ和樹くんの家に行ったとき、お父さんが一人で養ってるって言ってたなぁ。となると、仕事はしてないってことで。でも家にはいない。それってつまり
「お母さんが何らかの理由でいないってこと?」
 ああああ。頭がこんがらがるからつい口走ってしまった。予期せぬ事態に和樹くんを見ると眉根を寄せて、悩ましげな表情をしている。
「オレには子どものころから母さんがいないからね」
 吐息が交じり気味で、悲しそうな声。私にはそれが『庄子和樹』という人の人生全てを物語っているように聞こえて、その言葉はずっしりと重く感じた。こっちまで暗い気持ちになりそうだ。
 お母さんがいない。
 そんなことはさっき考えたきりでその前は考えたこともなかった。親がいるなんて当たり前のことだと思っている。子どものときに親がいないだなんて想像できない。つらい思いをしてきたんだ。……そんな話を聞いたんじゃ、これくらいのことでへこたれてなんかいられない。
「さ、食べよう」
 あんな冷徹な声を出した直後なのにあっけらかんとした声を上げる。和樹くんのことが分かって嬉しい。でもお母さんはなんでいないんだろう? 離婚、かなぁ。……まぁいいや、和樹くんお手製の玉子焼きを食べよう。黄身が神々しく輝いているように見える。それだけで口端からよだれが零れそうだ。揺らしてみるとプルンとプリンのように踊った。和樹くんをちらと見ると、訝しげに眉根を寄せていた。そうだよ、普通揺らす人なんかいない。作り手の視線を一手に引き受けて箸で掴んだ。その瞬間からフワフワしているのが分かる。
「いっただきまーす」
 ぱくっ。口に入れた瞬間、じゅわりと油が口に溶け出していく。噛むと箸で掴んだときと同じフワフワ感とともに、更に口の中に油が広がっていく。白身が良い味出してるな、これ。
「どう?」
「おいしいっ!」
「そう? 喜んでもらえてよかった」
 油は嫌な感じがしないし、甘さも適度で万人受けしそうな味付けだと思う。冷めていてこれなんだから出来立てはもっと美味しいはずだ! 今度出来立てを頼んでみよう。川澄先生のことはためらわれたけど、これは良い。川澄先生には申し訳ないがこの玉子焼きは頼み込むだけの価値がある。世界に発信して欲しい。
「これなら料理大会に出られるよ! これで食べていけるよ。お店出せるよ! というか出して!」
「さすがにそれは無理だって」
 キミならいけるよ! これ以上言うとしつこい感じがしそうなので、やめておいたけど本当にお金取ってもいいくらいだ。これが料理5年目の実力か。いや、天性か。料理に恵まれた素質か。私もお母さんに頼ってばっかじゃなくて自分で作ってみようかな。最高難易度を玉子焼きにするために。
 その後は昨日のことなんてすっかり忘れて話しこんでしまった。卑屈精神も吹き飛ぶくらいに。でも優しくされるたびに切なくなるのは変わらなかった。
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5.変化【その2】
 翌日。お昼の時間になった。隣には亮がいる。
「ここにすっか」
 分からない。なんでこうなったんだか。和樹くんと行こうとしたら、今日は違う人と食べる約束があるって断られて何故か亮と一緒にお昼を食べることになった。今は和樹くんと話したい。仲直りする絶好のタイミングなのに。
「久々に室内っていうのもいいなあ」
 ここは校舎とは別にある建物内で、いわゆる食堂というところだ。この学校は学食もあるけど値段が高いためにお坊ちゃま階級の人たちしか使わないため、ガラガラなことがよくある。今日もその例のごとく良家の方々しかいない。小市民は私と亮くらいだ。お弁当持込も黙認されているがさすがに何も買わないのは気まずいのかそういう人はあまりいない。お金持ちだし。なんだか肩身が狭いと思ったけど『みんなで渡れば怖くない、赤信号』の精神で私たちはそんなことも気にせず奥の窓辺に並んで座った。私は思い切り嫌そうに亮のことを一瞥する。
「……言っちゃ悪いけど、何で亮が来るの?」
 お弁当に手をつける間もなく不満をぶちまけた。食い下がらなかった私も悪いとは思うよ。思うけどそれ以上に亮が悪い。
「由香一人にさせると寂しいんじゃないかな、と思ってのことだ」
 腕組みして「ふふん」と言って得意気にされても困る。
「友達くらいいるんですけど」
 亮と食べるくらいなら友達のほうがマシだ。不機嫌な口調で言っても亮の表情は何一つ変わらない。
「まあまあ。ここで引き返しても遅いから食べようや」
「分かったよ」
 粘ってもわがままを言う子どもみたいだから引き下がる。和樹くんの前だと引き下がれないのは和樹くんが甘いからなのかな。何でも言うこと聞いてくれそうだから……。
「いただきます」
「……ところで、和樹とはどうなんだ?」
 ぶっ。唐突過ぎる。余りの出来事に吹いてしまったじゃないか。まだ口に何も入ってなかったからよかったものの入ってたらどうするつもりだったんだ!
「まずまず」
「って何だよ」
 来ると思ってました! 亮のほうに体を向きなおす。
「そういうのって言葉では表しにくいじゃん」
「まあそうなんだが。由香の……昨日の雰囲気見てたけどさ、元気なかったぞ」
「ずっと見てたの?」
 私が気になっていたことを差し置いて淡々と続けた。瞳は真剣な色味を帯びている。
「その原因って和樹なんじゃないかな」
 ――え。
 そうかもしれないけど……認めたくない。昨日のうちにだいぶ仲直りは出来たはずだけど、和樹くんのことが頭に浮かぶと涙が出てきそうになる。仲直りできたって言うのは表面上であって優しくされるとつらく、苦しくなるのは変わってない。
「ほら。あいつのこと考えると元気なくなる。和樹に何かされたんだろ?」
「そんなことない!」
 腹の中から絞り出すように声を出すと亮はぎょっとした顔をしている。和樹くんが悪いんじゃなくて私が悪いんだ。……悪い子なんだ。また卑屈精神が沸々としてきた。でもこれは一人で解決できる問題じゃない。
「和樹くんには……自分を主張して……自分の気持ちをぶつけてほしい」
 言っているうちに涙が込み上げてきて、今まで我慢していたのも一緒に堰を切って止まらなくなる。力が入らなくなって思わず亮の膝に倒れこんでしまった。当然のことだけど和樹くんとは違う匂いがする。恋愛するっていうことがこんなにつらいものだなんて思ってもなかった。相手のことを『想う』ってこんなにもつらいものだったんだ。こんなにも苦悩することだったんだ。
「ゆ、由香?」
 さすがの亮も私が泣き出したのには驚きを隠せないみたいで、オロオロしている。でも次第に冷静さを取り戻して私を慰めようと頭を優しく撫でてくれた。和樹くんの前では泣けないのに亮の前で泣ける私って一体……。私はゆっくりと体を起こし、手の甲で涙を拭うと亮を見やる。制服は黒いズボンで目立たないけど一箇所に丸い染みが出来ていた。私がさっきまで泣いていたから……。二つの意味を込めて
「ごめんね」
 謝った。
「こんな話しちゃって」
「俺はいいんだ……けど和樹。女を泣かせるヤツには一発ビシッと言っとかないとな」
 冗談交じりに聞こえたけど、目がマジだった。ここで私が止めても結果は変わらないと思うので黙っておく。
「だからもう泣くのはやめろ。な? な?」
 えっ。頬を触るとまだ涙がぼろぼろと零れているのが分かった。……なんだか今日は亮がすごく頼もしい存在に思えた。

*******

 気まずい空気になることもなく無事にお昼も食べ終わり亮と別れた後、まだ時間があったので食堂裏にあるグラウンドを何気なく眺めてみる。風で砂埃が舞い上がった。梅雨の時期にもかかわらず、グラウンドの砂はサラサラして乾いている。連日の日照りですごく熱くなっていそうだ。最近は雨が降っていない。この調子じゃ旱魃しちゃって、ただでさえ食料自給率が低い日本が更に低くなっちゃうんじゃないかと余計な心配をしていると、遠くに人影が3つほど見える。この時間に誰が? と思って目を眇めるが、背の高い人が二人で低い人が一人ということしか分からない。気になったのでグラウンドに降り立ち駆け出した。
 だんだんと姿形がはっきり見えるようになってきて……。あ。
 和樹くんと川澄先生。それに……マイマイが真剣な顔で話し合っている。自然と足が止まり踵を返す。
「あれ」
「庄子、どうした」
「人影が見えたような……」
 和樹くんに気づかれた。やばい、隠れなきゃ。と無意識のうちに判断する。といってもこんな見晴らしのいいところだ。運動部の部室以外は影がない砂地だからどこに行ってもばれるだろう。観念して足を前に踏み出す。
「永沢? 永沢じゃん」
 確認するように私の名前を二回呼ぶ。マイマイは渋い表情に変わる。
「どうしたの?」
 いつにも増して抑揚がついていた。
「グラウンドを見たら誰かいたから気になって来ちゃった」
 ここで「てへっ」とか言ってやりたいと思ったが寸前のところで堪えた。マイマイだけならまだしも川澄先生もいる。そんなことでバカップル扱いされたらいやだ。手を繋ぐのが精一杯なバカップルなんてどこにいる。
「ああそう」
 何故かつっけんどんな口調だ。いつもならここで笑ってくれるのに今日は無表情だ。ちょっと寂しい気持ちになる。
「和樹、離れなさいって!」
 間に割って入ってきたのはマイマイだった。物凄い形相だ。そっけないのはマイマイがいるから? 勘違いさせたくないから? 考えても私には分からないことか。私たちの様子を黙って見ていた川澄先生が「ほほぅ」と意味深な声を上げ何か納得したみたいだ。
「ゆかりん。庄子のことが気になって来ちゃったんだ?」
 う。その呼び方は二人っきりのときだけにしといてよ。マイマイが一歩後ずさりして絶句してるじゃないか。和樹くんもその呼び方には慣れてないみたいで目を見開いてきょとんとしたが、それは一瞬で収まって呆れている。気になって来られるものなら最初っから来てるよ。まぁ亮とお昼食べたのは気持ちぶちまけていい方向に転がったけど。
「そうじゃないです」
「そうか……」
 きっぱりと言い切ると川澄先生は軽くため息をつく。残念がらないでよ。すると今度は嬉しそうに顔を綻ばせている。しょげた後に嬉しそうにするとか意味が分からない。意気投合している私にも奇行にしか見えない。
「人手は多いほうがいい。ということでゆかりんも手伝ってもらえる?」
「へ? 何をですか」
「永沢は先に戻ってていいよ。すぐ終わるし」
「優男が出たな」
 優しくされると言葉に詰まってしまう。和樹くんと少しでも一緒に居られるなら何でも手伝ってあげる心意気でいる。
「なにやるかはわからないけど、手伝うって」
「いいよ。オレたちで片付けるから」
 チクリ。やっぱり優しくされると心が痛む。そんな他意はないんだろうけど、私の力は要らないって突き放された気分に陥る。
「そうよそうよ。あんたは先に戻ってなさい」
 蚊帳の外状態だったマイマイが入ってきた。あっかんべーをしている。私を追いやって和樹くんと一緒に過ごしたいのは分かるけど、二人っきりじゃないんだよ。川澄先生という強大な敵がいたらイチャイチャなんてしてられないはずだ。
「……うん、分かった」
 言いきられてしまい、食い下がる気持ちも出ないのでここは退く。どうしてだかマイマイと張り合う気も起きないし。
 ――あ。その前に。川澄先生に近づいて耳打ちする。
「今日、時間空いてますか?」
 何をしようとしているのかも気になったし、これから私たちはどう恋愛をしていけばいいか指南してもらうためだ。川澄先生は険しく眉根を寄せる。ダメ、かな?
「今日はちょっとなぁ。……あ。明日の放課後なら大丈夫だから自転車置き場を訪ねてきて」
 私は親指を立ててオッケーという意味のグーサインを出した。何かと指を使うことが多い人なので私も真似ている。川澄先生もグーサインを出したのを確認して私は一人寂しくとぼとぼと校舎へと足を進めた。後ろから「先生と由香はどんな関係なんですか」と頭を裂くような甲高い声の問い詰め口調が聞こえる。ふふふ。マイマイが川澄先生に詰め寄っていて、川澄先生は戸惑っていて、和樹くんはその様子に苦笑していて。容易に想像できた。
 それより、三人で何をやるんだろう? 気になるなぁ。あの三人の関係といえば生徒会だ。でも生徒会で何かやるんならもっと大勢でやるはず。数の暴力で片付けると思う。結局何も分からないまま教室に戻った。和樹くんは午後の授業が始まる前にちゃんと教室にいた。マイマイは1年生だから分からないけど、たぶん戻ってるんだろうな。本当なんなんだろ。すごい気になるぞ。体は明日まで待てるけど逸る気持ちは制御しにくかった。
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5.変化【その3】
 足音を立てないで歩く研究が進んでいたようで、後ろから「わっ」と脅かされてそりゃあもうびっくりした。心臓が止まるかと思ったよ。今日はしとしとと雨が降っていて水溜りが出来ているからそこに尻餅つかせようとしたとしか考えられない。
 川澄先生は成功したのが嬉しいのかしたり顔をする。陰険だ。校舎から自転車置き場までは結構な距離があるというのに、傘を差さなかったから髪が濡れている。太い腕でガシガシと頭を掻いて水滴を飛ばす様子は爽やかな好青年を思わせて怒らせる気をなくします。スポーツしてる人って大概若く見えてしまう。こっちの身にもなってほしいものだ。会って早々だけど昨日のことを聞いてみる。


 それはなんとも妙なことだった。思わず聞き返してしまう。
「だから、運動部の部室で探し物」
 生徒会の人が部室に入るなんて不祥事でも起こしてしまったのか? そうだとしたら同じ高校に通う人間として情けない。この高校はバスケ部以外の運動部も強いけど、毎回準決勝・準々決勝辺りで負けてしまうためバスケ部の陰に隠れている。
「探し物は見つかったんですか?」
「いや……」
 重い言葉を返された。川澄先生の機嫌は芳しくない。そんなに重要なものなのだろうか。気になるな。
「運動部の資料って部室に保管されてると思ったんだけどな。違ったか」
「資料?」
「これまでの対戦成績などの資料は部室に保管することに決まってるんだ」
 ええ! そんな重要資料を部室に置くなんて無用心だ。普通は校舎に保管するべきだと思うけど決まりなら仕方がない。……あれ、なんかおかしいな。よく考えてみる。
 なんであの場にマイマイがいたんだろう。バスケ部顧問の川澄先生と和樹くんはいいとして、吹奏楽部のマイマイがいるなんてどう考えてもおかしい。生徒会で来ているのかと思っていたが、もしかしたら強引についてきたのかもしれない。あの性格だ。その可能性は十分あり得る。
「マイ……麻衣はどうして一緒だったんですか?」
 さっきから質問責めな気がするけど、そのために来たようなもんだ。
「日野は庄子と一緒に来たな。あの二人……」
 顎に手を置き逡巡する。もったいぶらないで早く言って欲しい。気になる。川澄先生をじっと見てると、仕方ないといった感じで長いため息をつく。そして元から大きい目がこれ以上ないくらい開かれた。血走っている。
「俺の目には甘い睦言を交わしながらに見えた!」
 は?
 川澄先生は自分の感情に素直な人だから、うそや冗談を言う人ではない。醜い三角関係を作ろうとしているなんて微塵も感じない。……と思う時点でちょっとでも感じてるか。マイマイが本格的に参戦してきたら私は……和樹くんを勝ち取れる自信が今はない。マイマイ以外にも和樹くん狙いの人はいるからここで私が少しでも引き下がってしまったらそれで終わり。でも、優しくされてつらい思いをする人なんて私だけで十分だ。それを乗り越えられるのは私だけだから。私だけ、私だけ。自己暗示をかけるように何度も心の中で復唱する。そうでもしないと和樹くんと一緒には居られない。……そこまでして一緒に居たいのかと問われるとノーだ。自然体のままで接したい。
「それで、ゆかりんは何の用で俺を呼び出し?」
 川澄先生は真剣モードに入っていた。野太い声カッコイイ。じゃなくて、和樹くんとのこれからについて聞いてみたい。川澄先生なら何か……そこまで考えて、なんておこがましいんだろうと思って自分が恥ずかしくなった。私たちのことを応援するとは言ってくれたけど、恋愛教授まで頼むなんて出過ぎだ。自分で考えろよ。恋愛にマニュアルなんかないって思えよ。間が空きすぎるのも不自然なのでなんとかはぐらかそうと天気の話をする。我ながら芸がない。
「今日は梅雨みたいにジトジトしてていやですねー」
 言いながら思った。人なんてそんなもんだ。暑かったら寒いほうが良いって言って、寒かったら暑いほうが良いって言って。恋愛っていうのはすごい。世界中に大勢居る中の一人だけを愛して、恋をする。熱が冷めて冷静になってもその人だけを好きでいられる。そんな人たちが結婚するんだ。だから違う人を求めて浮気する人が出てくる。川澄先生は怪訝そうな顔をする。
「昨日呼び出したんなら、その話題は」
 しまった! そこまで考えが回らなかった。こう見えて川澄先生は怜悧な頭脳の持ち主だから、矛盾してるところを見つけたらすぐ指摘してくださる。
「……庄子と何かあったろう?」
 あ。
 真実を見抜いている。やっぱり頭の回転が速い。亮は同じクラスで私をよく見ているらしいから見抜かれても不思議ではないけど、川澄先生はあの一瞬の間で理解できたのか。
「あったといえばありましたけど今はもう」
 仲直りできたのかな……。少なくともデートの翌日よりは関係が戻ってきている。
「そうか。それならいいんだが。何があっても俺は応援するよ」
 川澄先生に後押しされるとすごく心強い。でもこのままの関係じゃいずれ別れてしまうと本能が告げている。私はどうすればいいんだろう。恋愛に答えなんかない。川澄先生は感情が十二分に入った言葉を重々しく私に告げた。
「ただ、見栄は張らんようにな」
 的確な指摘が心に響く。和樹くんには有りの儘の姿でいて欲しいと思ったけど私はどう? 妄想癖があるのを知られたくないから隠して。見栄を張って和樹くんの前では泣かないようにしてる。私の部屋は散らかってて、ガサツな性格の持ち主だと言わなくて。私は厚い虚飾で自分を覆い隠していた。上辺を取り繕って自分を「良い女」だと見せかけて。相手のことよりまず自分が、見えてなかったんだ。自分から変わらなきゃいけない。嫌われたくないからって、ずっと我慢していた言葉がモヤモヤと頭に浮かんだ。
 そんな私に比べて和樹くんは包み隠さずいろんなことを言ってくれている。時間に縛られたくない、男の子は女々しいからってあまり口外しないらしい料理をしていることだって話してくれた。川澄先生は腕時計に目をやるとハッとした顔をする。
「期末テスト近いから勉強がんばってな。……俺も」
 その声はどんどん殊勝で弱々しくなっていった。それで忙しいんだ。なるほど納得だ。期末テストかぁ……それまでにはこの気持ちに蹴りがついてればいいな。川澄先生の哀愁漂う後ろ姿を完全に見送ってから傘を差す。しとしとと降っていた雨は勢いを増し降り頻る雨の中、校門を見上げた。
「この高校に入ってなきゃ和樹くんと会えなかったじゃん。これをチャンスにしないのは私なんかじゃない」
 少し前の私だったら「会えただけでもよかった」なんて思ってそうだ。遠慮してちゃダメ、か。
 一ヶ月以上前じゃ絶対逆だ。そのころは恋愛なんて1ミリも興味がなかった。私をこんなにも燃え上がらせてくれたのは真奈美だよね。
 ――好きな人はいる?
 そう聞いてくれなかったら今の私はいなかったかもしれない。ありがとう、真奈美。
 なるようになる、そんな精神でいればいい。ダメだったらそれまでの関係だったってことだ。割り切るのはとてもつらいと思うけど、それも運命だ。もし……もしそうなってしまったら受け入れよう。
 雨も相まって、久しぶりに一人で歩く帰り道に一抹の寂しさを感じた。
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5.変化【その4】
 やっと元に戻れた。
「ゆ〜か〜、和樹に近寄らないでって何回言ったら分かるの!」
 マイマイと張り合う気になれた。これが本当の私なんだ。和樹くんが居るからって気持ちを偽ったりしない。良い自分を見せようなんてしない。私に妄想癖があるのもいずれ暴露してやる。そのときの反応が楽しみだ。
「和樹くんは誰のものでもありません。和樹くんが決めることです。私と居たいから一緒にいてくれてるんでしょ?」
 私とマイマイの間にいる和樹くんは苦笑しながら頭を掻く。
「う、うん。まぁ」
 恥ずかしそうに言いおって……。マイマイにギロッと睨まれる。
「勘違いしないで! あたしを前にしてるから言えないだけ。二人きりのときだったら『麻衣、大好きだよ。オレは君のことしか見えない』って耳元で囁いてくれるもん」
 ここが学校の廊下だって言うことを全く気にせずそこまで一気に言うと、ぜえはあし始めた。どんだけ怒りが頂点に上り詰めているんだと思うくらい呼吸が乱れている。立ち止まって私たちのことを凝視している野次馬たちの視線が痛い。それにしても不憫だ。ここまで来ると逆に尊敬したい。私もそんな歯の浮くような恥ずかしいセリフ……聞いてみたいよ。
 和樹くんは微動だにせずマイマイを見据えていた。「私が好き」っていうこと、本心なんだよね。和樹くんは呆れたように短くため息をついた。だって
「前々から思ってたけど君とオレは生徒会で一緒なだけだ。オレに特別な感情を抱いてても別にいい。だけど、永沢とオレの仲を引き裂くように吹っ掛ける人なら軽蔑するよ。……実際はそうもいかないだろうけどさ」
 よく言ってくれました!
 野次馬から「おお」と一斉に唸る声が漏れ出る。……私もその中に混じっていた。和樹くんは「優しい人」で通っているから正反対のことをしたからだろう。和樹くんがこんなにも男らしくて格好よく見えるのは初めてだ。和樹くんから叱責を受けた、当のマイマイはというと涙を目尻に溜めて泣くのを必死に堪えている。いつもならここでめちゃくちゃな理由をつけて私を恨むけど今日は和樹くんにその矛先が向いたようだ。
「和樹のウソツキ!」
 マイマイ独特の金切り声ではなく、しゃがれ声でおかしなセリフを吐いて一目散に逃げ出して行った。この場にいるのが耐えられなくなったんだろう。和樹くんが「ウソツキ」なわけ……この感覚どこかで味わったような。もしかして。服のセンスがあるって思ってたけど実際は違った。時間厳守する人だと思ってたけど実際は時間に関して自由奔放だった。私は色眼鏡を通して見てるんだ。虚飾なんかどこにも感じない。私が色眼鏡を通すからそう見えるだけで、自分を飾ってなんか全然ない。嫌われるのがいやだって避けてるあの言葉は虚飾だ。川澄先生の言葉――「ただ、見栄は張らんようにな」と言われて、モヤモヤ浮かんだあの言葉をいずれ言わないとと思ってもう二日も経ってる。そろそろ言わないと踏ん切りがつかないまま終わってしまいそうだ。
 和樹くんの様子を窺うと切なげに眉根を寄せている表情が見えた。私はスッキリできたのに……険悪な雰囲気になってしまっている。
「……行くぞ」
 ちょっと……こわい。
 どすの利いた声でそう言うと野次馬を退けながら階段のほうに一人で歩き出してしまった。歩調が早い。私は急いで追いかけた。和樹くんが男らしい口調になるのは含羞を感じているときだけだと勝手に思っていたけど、今の状況で「恥じらい」を感じる場面はない。だとしたら……。階段を登っている途中、いつもと違う感覚が襲い、顔にほのかな風を感じた。うあっ
「あきゃっ!」
 痛っ。
 階段を踏み外して盛大に前のめりになって転けていた。変な呻き声を上げて。手首がかなり痛い。まだ少ししか上がってなかったから大事にならずに済んだ。顔が階段に直撃しなかったのはよかった。寸止めだ。睫毛が階段の縁に当たっちゃったような気がする。でも咄嗟に出た右手が階段の縁を掴んでいたけど力がなくてズルズルと落ちていってしまっていた。滑り止め付いてるのに。そのせいで手首を擦り剥いて微量だけど出血している。……って、ええええ。鮮血だ!
「大丈夫?」
「ぜっ、全然大丈夫じゃない!」
 既に踊り場にいた和樹くんは狼狽しながらも私に駆け寄ってきた。嬉しい。……また野次馬どもが奇異の目で見ている。そんなに物珍しいのか。というか、そんな目で見てくれるなら助けてくれ。さっきから思っていたけどなんとなく女子率が高い気がする。和樹くんが私にだけ異様に優しいのがそんなに気に障るのか。
「保健室行こうか?」
「これから午後の授業始まっちゃうから、先に行ってて。これくらい大丈夫」
「でも」
「いいから」
 これしきのことで和樹くんに迷惑を掛けたくない。さっきまでのうろたえていた様子はどこへやら揺らぎのない真剣な眼差しになる。
「永沢」
「なに?」
「無理しないで」
 乱暴に左手首を掴まれるが一瞬で力を緩めてくれた。和樹くんはくるっと振り返り、歩き始める。今日は最初からゆっくりと歩いてくれている。身を委ねよう。落ち着いて歩ける。午後の授業も近くなってきたのでさすがに野次馬たちもいなくなっていた。数名の不良さんたちからの熱い視線を浴びながら二人で学校の廊下を闊歩するのは新鮮だ。
「オレのこと、頼っていいから」
 突然そんなことを言い出すと、頬を紅潮させて恥ずかしそうに少し顔を背ける。私はコクンと頷いた。和樹くんは歩くのを止めて私のほうを向く。視線が絡む。細まった瞳に吸い込まれそうになる。
「オレじゃ頼りない?」
 即座に首を横に振る。
 そんなわけない。頼りがいあるよ。初めて会ったときよりずっと。あのときは異性というより同性という感じが強かった。「男らしさ」というものを感じられなかった。頼る、か。最近頼ってなかったな。自分一人でどうにかしようとしてた。和樹くん以外の人を頼ってた。
「もっと頼っていいからね」
 優しい声が体全体に共鳴する。それはいいけど手首が痛い。出血は治まってきたけど痛い。不良の皆様方から「お熱いねえ」なんて野次が飛ばされたがガン無視だ。急かすよう言うと分かってくれたみたいで、再び歩き出して保健室の前まで来た。
 ガラガラ……という音は鳴らず、保健室の扉が
「ありゃ、建て付けまた悪くなってんね〜」
 素直に開いてくれなかった。


「はい。これで大丈夫よ」
 保健室の、気立ては良い先生に怪我した手首を消毒され、包帯をぐるぐる巻きにされるとほっと安堵する。擦り剥いた範囲が広くて、バンドエイドじゃカバーしきれないからっていう理由で包帯になった。隣にいる和樹くんの額から頬にかけて一筋輝くものが流れる。和樹くんはそれを手で拭った。
「タイミング悪かったわね。最近調子良いと思ってたらこれだよ。校長に直談判しに行こうかしら」
 先生は冗談交じりにそんなことを言っている。あの後、和樹くんと保健室にいる男子生徒が両方から開こうとしたけど、五分くらい粘っても開かなかったから私が逆から開けたらすんなり開いてしまって、和樹くんも中にいた男子生徒も腰抜かしちゃったんだよね。
「手首擦り剥くなんて悲惨だったわね〜。どこでこんな怪我したの?」
 私の顔を楽しそうに覗き込んでくる。こんな派手に怪我する人は滅多にいないんだろう。
「階段で踏み外して自己防衛本能が働くとこうなるんです」
 和樹くんがくすくす笑い出した。な、なんで笑うんだろう。……でも久々だな。和樹くんの笑顔。やっぱり癒される。
「あらっ! そこで爽やかに笑ってる君。ちゃんと彼女を守りなさいよ。傷物にしたらただじゃおかない」
 そ、それは心強いけど……私なんか名前をようやく覚えられたぐらいなのに、そこまで干渉するものかな、普通。……あ。この人は普通じゃないんだった。鷹揚とかおおらかなんてそんな生易しいものじゃない。粗雑な性格をしている。和樹くんは生徒会の役員、頭が良い、ルックスも良くてハンサムくんだから二年生と教員の中で知らない人は一部でもぐりとか言われてるらしい。ってことはこの保健室の先生はもぐりってことか。
 先生は名前を知らない人は「君」で統一している。名前を覚えようとする姿勢が窺えないのが問題だ。こんな適当に仕事こなしてもお金貰ってるのかと思うと複雑な気持ちになる。和樹くんはぴたりと笑うのをやめて先生を見据えた。
「心配しないでください」
 強い意志が感じられた。私だったら絶対はぐらかしてる。強いな、和樹くんは。
「お、今どきの子にしては度胸あんね〜。『受けて立つ!』ってか。永沢さん、いい彼氏を持ったね」
 へっ? カレシ……?
 聞きなれない発音に耳を疑った。私と和樹くんは付き合っているからそう呼ばれておかしくないんだ。周りから見てもそう見えるんだ。黙っていると先生は不思議そうに私の顔を見る。
「なんだい。こんないい男を放っといたらいつか逃げられちまうよ」
 これだけの短い時間で和樹くんの何が分かったとか言おうと思ったけどやめた。そのとおりだ。和樹くんをここで逃してしまったらもう立ち直れない。割り切ろうと思ったけど無理だ。一生引きずる自信がある。どれだけ泥臭くても和樹くんに付いていこう。今日のマイマイのような扱いをされたとしても、和樹くんのことをスッパリ諦めきれるほど私は強くない。
「さ、授業に出ていらっしゃいな」
「ありがとうございました」
 保健室の先生に後押しされて元気が出る。川澄先生と話したときにモヤモヤしていたあの言葉が現実味を帯びて実体化してきた。
Index
5.変化【その5】
 亮とお昼を食べたのは結局あの日だけで、その後の三日間は和樹くんと一緒に食べた。私が亮と一緒にお昼を食べたとき、和樹くんは誰と食べたか教えてくれなくて。気になるな。まさかとは思うけど、マイマイ? グラウンドに一緒にいたから可能性はなくもない。川澄先生によると甘い睦言を交わしていたということだから、お昼を一緒に食べてそれで打ち解けてそのままの状態で来てしまったとか。話さないってことは何か良からぬことをしたんじゃ……和樹くんに限ってそんなわけないか。
 その和樹くんは水曜日から様子が変わった。何が変わってるのかはわからなかったけど、この三日間で確実に変化していることは分かる。大きく変わったのは――私の心のよりどころでもある笑う回数が減った。和樹くんが笑顔でいてくれると落ち込んでいるときでも気分が沸き立ってくる。それと……感情をよく表現してくれるようになったってことかな。ムッとしていることがよくある。今日だってマイマイと対峙した後、何かに怒っていたみたいだった。でも根本的に何が変わってるか分からないのがもどかしい。
「どうしたの、さっきから考え込んじゃって。らしくないよ」
 今は和樹くんと学校の帰り道だ。デートに誘ったときの公園が遠くに見える。明日は土曜日で学校が休みだからいつもよりウキウキ気分で足が軽い。が、和樹くんは昼間マイマイに会ったときからピリピリしているので気が休まらない。
「ううん。なんでもない」
 ピリピリムードを緩和させるために努めて明るく振舞い、微笑みを浮かべる。すると効果があったようで険しい表情は少し崩れた。
「そう。……オレが優しくすると永沢、寂しいような切ないような複雑な顔するでしょ?」
 そうだ! この変化だ。前までだったら「ならいいけど」とか言って話が終わりになる。って……今、なんて言った?
 ――オレが優しくすると永沢、寂しいような切ないような複雑な顔するでしょ
 胸がチクリとする。
 あ、あはは。……分かってたんだ。優しくされると私はどうすればいいんだろう? って気持ちになる。それは私を傷つけないようにしているから。かばうようにするから。私のミスも全部自分のせいにして。私の場所まで陣取って。そのせいで私は居場所を失ってしまう。
 自分一人で背負い込まないで。二人で背負えば負担も軽くなるよ。自分を押し殺さないで。つらいなら言って。つらく、切ない顔を見るのが私にとっても一番つらいことだから。いやならいやだとはっきり言って。優しさは時に人を突き放す印象を残すんだよ。優しさだけが全てじゃないんだよ。だから。嗚咽が込み上げる。喉の奥が苦しい。
 ……覚悟は、決めた。深呼吸をして心を落ち着けると、ずっと言いたかった言葉を差し出した。

「優しくしないで」

 掠れるほど小さな声で言ったその言葉は届いたのだろうか? ずっと溜め込んでいた一言を言えて溜飲が下がっていくのが分かる。頭がガンガンする。嗚咽が込み上げてきて気持ち悪い。コンクリートの地面に黒い染みができていく。それから数秒、間を置いて
「えっ……」
 私と同じすごく小さい声。胸が張り裂けそうな思いだけど我慢して、ぼろぼろの泣き顔を上げる。聞こえなくて言ったのか、耳を疑って言ったのかは分からないけど、驚いて目を見開いていることは事実だ。もうこんなつらい言葉、言えないよ。彼は肩をすくめて縮こまった。華奢な体つきがより一層小さく見える。
 やがて俯き、消沈したように呟いた。
「ごめん、許して」
 力強さがまったくない震えた声でそう言うと、振り向きざまに「くっ」と息を漏らして走り去っていく。涙は自然に止まり、私はその様子を呆然と眺めるだけだった。
 また自分で関係を壊しちゃったんだ。私たちは終わる運命だったんだ。張り詰めていた心が裂けて、血が流れた。

*******

 今まではどうにかまぎれていた。あの場にいることがとても罪悪に感じられて逃げるように小走りで家に帰った。できるだけ何も考えないようにして。帰るとお母さんがいたから気持ちがまぎれた。ご飯も食べ終わり、部屋に入って一人になると考えてしまう。
 デートの日突き放してしまったのに、翌日愛想を尽かさず話しかけてきてくれたのがすごく嬉しかった。それでまた関係を修復できてきて、やっと前みたいに接することができるようになったのに……。
 また壊してしまった。
 和樹くんは確実に近づいてきてくれているのに私が突き放してしまって……最低だ。近づいてきてほしいって願ってるのは私なのに、逆に拒んでるみたいだ。
 和樹くんがなんで私を好きなのか、その理由を知りたい。どうでもいいような人だったら、愛想を尽かしているはず。私は……。もちろん外見もあったけど、その笑顔、性格に惚れ込んで。……即答できないのが悔しい。話では優しいって聞いてたけど、第一印象は人懐っこくて構ってあげたい感じだった。思えば最初はあんまり優しくしてくれなかったな。でも今はそっちのほうが気楽だということに気づいた。あのころに戻りたい。
 好きなのに、好きなのに。和樹くんのことが分からない。
 やるせない気持ちで心が一杯になるとふと一人の顔が脳裏を過ぎる。こんな状態が続いたら本当に麻衣にとられてしまいそうだ。もうダメ。だってこれ以上、彼と付き合っていてもお互い傷つけあって生きていくことになってしまいそうだ。
 そうだよ。元々私みたいな影の薄い女と学年で人気者の和樹くんが釣り合っている訳がない。私といたら和樹くんに負担をかけてしまう。まるで調和が取れていない。つらいかも……つらいけど――好きな和樹くんのことは忘れよう。私と密接に関わると苦い思い出しか生まないよ……っ。和樹くんの近くには居られない。居ちゃいけないんだ。昼間のことを思い返す。

 ――どれだけ泥臭くても和樹くんに付いていこう。今日のマイマイのような扱いをされたとしても、和樹くんのことをスッパリ諦めきれるほど私は強くない。

 脆弱な覚悟。
 すぐに砕けてしまった小さな、小さな覚悟。逃げても、諦めても弱いんだ。私には突き放す勇気しかないんだ。関係を築こうとする強さは私には……ない。
 ……お風呂に入ろう。心身ともにさっぱりしたい。着替えを持って脱衣所に直行する。脱衣所のドアを開けるとお風呂場独特の匂いが鼻を打つ。服を脱いで……って、包帯してるんだった。満足できるほどシャワーは浴びられないけどお湯には浸かろう。手首の包帯に注意しながら服を脱いでお風呂場のドアを開け放つ。体を軽くシャワーで流して、慎重にたっぷり湯が張ってある湯船に浸かった。
 ふぅ。自分の部屋にいたときとなんら変わりない。考えてしまう。こんなことだったら寝るまで絵里の部屋にいたほうがよかったのかもしれない。
 明日は土曜日だ。つまり和樹くんとは会えない。仲直りできない。今日ばかりは思った。
「このゆとり教育め!」
 会う勇気もないくせに、そして独り言のように言ってもただ虚しくなるだけだった。反響する声が満たされない心をより一層掻きたてる。お湯に浸からないよう上げてる腕もだんだんと疲れてきた。
 こんな状態が二日も続いたら和樹くんも私もどんどん気持ちが離れていきそうで怖い。携帯があるけど……あんな別れ方をされたんじゃどうメールや電話をすればいいか分からない。もし会う約束をしても、私に合わせてるっていう優しさが垣間見えて苦しくなりそう。
 つらいけどこのまま忘れるのがよさそうだ。……何もなかった。和樹くんとは何もなかった。そうしよう。最悪なのは分かってる、でもこれ以外に良い方法を思いつかないから。つらいことから逃げるにはこれしかないよ……。
 外側からじんわりと体は温まっても、嫌な考えを生成する内側は心の底から冷え切っていて温まる気配は一切ない。
 私は大きく息を吐き出し、勢いよくお風呂から出た。
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6.理想と現実は紙一重【その1】
 この二日は永遠のように感じられた。一人になるといつも和樹くんのことを考えていた。切なくなるのに、考えていると時間がとても長く感じるのに、考えるのは止まらなくて。
 本当にこのまま別れてしまおうとする考えは

 ――永沢のこと好きなのは本当だっていうこと、忘れないで

 この言葉で決意がたゆたう。
 告白の返事をまだ貰ってなくて歯痒かったのを覚えてる。初めて話してから10日くらいのときだったかな。「好き」って言われた日。たまらないほど嬉しくて、私の中で忘れられない光景になってる。あのときの言葉がここまで心を動揺させるなんて考えもしなかった。こうなるなんてことはこれっぽっちも感じていなくて何もかもが面白かった日々。そのときのことを思い出して何とか踏みとどまっている。
 私は、どうしたいんだろう。和樹くんとの今までのことを忘れて、思い出にしてしまいたいのか、泥臭くても付いていきたいって脆弱な覚悟を貫き通すのかはっきりしない。考えが矛盾してる。


 結論の出ないまま、その悪夢のような二日間を乗り切ったんだけど……和樹くんが学校に来ていない。亮から聞いた話だけど、和樹くんは一年のとき、一回も休まず登校してきてたんだって。遅刻常習犯に言われても何の信憑性もないけど、今日ばかりは信用してしまう。
 二年生になっても一回も休まないで学校に来てたのに、原因は……絶対私だ。これも亮に聞いたんだけど、欠席理由は風邪だからとのこと。そのくらいで休むような柔な精神の持ち主じゃないことは分かってる。
「由香、今日も元気ないぞ」
 そう話しかけてきたのは亮だった。至って真面目な顔をしている。今は放課後。部活も終わって帰ろうとしたけど、昇降口で待ち伏せしてた亮に捕まり教室で二人きりという状況だ。
「そんなことないって〜」
 切ない気持ちをぐっと堪え、必死に作り笑いをする。
「……無理してる。和樹のこと考えてたんだろ?」
「う、うん」
 隠し事をしてもばれるのは分かりきっていたので素直になる。
「そんなに元気なくなるくらいなら……」
「なら?」
 そこまで言うと口を噤んでしまった。が、やがて口を重そうに開く。
「別れちまえよ」
 ――別れる。
 脳天に衝撃が走った!
 頭の中ではそんなことを考えていたけど、いざ口に出して言われるとうろたえてしまう。なんて弱いんだ。逃げることもできないなんて……っ。
「だから、さ」
 亮の顔を見ると、いつものおちゃらけた顔はどこへやら。見たこともないような真剣な表情で瞳には普段見せない激しい光が見える。やがて亮の顔が視界から消えるとふっと耳元に熱気を感じた。
「俺と付き合って。中学んときからずっと好きだ」
 耳元で低く囁かれる。
 ……言われたことがすぐに、理解できなかった。それってつまり
「私は和樹くんと別れて、亮と付き合えって言うの? 意味わかんない。冗談じゃないよ」
 亮がまた視界に入ってくる。顔なんか見たくない。背けようとすると顎を掴まれ、強制的に見るよう仕向けられる。
「冗談なんかじゃない。俺は大真面目だ。あいつのことなんか綺麗さっぱり忘れて、俺の女になって」
 え。どういうこと? 俺の、女……?
 そんなことを考えていると、顎から手を離されたと思ったときには亮の顔が近づいてきて背中に暖かさを感じた。これってもしかして……抱きしめられてる。体全体に温もりを感じる。気色悪い。和樹くんと手を繋いだときはそんなこと全然思わなかった。頭の辺りにちょうど亮の胸が当たる。……硬い。
「えっ……りょ、亮?」
 私を見向きもせず首筋に舌を這わせてくる。事態をようやく理解できたときには時既に遅く、体を包み込まれていて離そうとしても男の力の前に勝ち目はない。
「大好きだよ、由香」
 言い終わると同時に塞がれる唇。
 一体何が起こってるの? 和樹くんと別れろって言われて……好きって……。んんっ。亮の舌が口の中に入ってくる。私の舌に触れると執拗に追い掛け回されて舌を絡め取られる。
「んん……ふ……」
 そこまですると、亮は唇を離した。はあ……。安心したのも束の間、また強く抱きしめられる。
「好きだよ由香。俺のほうがあいつより何倍も、何十倍も好きだ」
 抱きしめられている力が緩み亮の顔が見える。ウソをついていないのが一目で分かる、私を一直線に見つめる艶っぽい瞳。でも私は
「ダメだよ。私は亮を異性として、見ることはできないよ……っ」
 眉根を険しく寄せた亮は、青ざめた表情でさらに腕の力を緩めてくれた。……力が抜けてしまった、というほうが近いのかもしれない。和樹くんに会いたい。会って声を聞きたい。唐突にそんな想いが胸の中で沸き起こる。亮と……いたくない。
 教室を出る前に亮を一瞬見ると悲痛な表情できつく目を閉じ、涙を零しているのが見えた。

*******

 ファーストキスだった。
 子どものときに冗談でやったのは抜かして。初めてだった。ファーストキスは和樹くんとしたかったのにっ……。
 私は無意識の内に手で唇を触っていた。まだ感覚が残っている。本当にキスをしてしまったんだ。私には好きな人がいるのにその人じゃない人に。かといって……亮を恨みたくはない。馴れ馴れしいやつで、好きじゃないけど嫌いでもない。私によくしてくれる良い友達だ。ふと疑問が浮かぶ。
 私のことが好きなの?
 だとしたら私と和樹くんが仲良くしてるのをよく思ってなくて、私たちはうまくいってないことが解った。だからあんな強行に出たのかな。確かに私を見る目は他の人と違っていた。でも私はそんなことに気づかず普通に『友達』として接している。好きって言わなかった当人にも問題があるけど、好きな人にそんな態度取られたら誰だっていやだろう。あれ……私って。和樹くんに告白はしたけど「好き」って言葉をかけてない。もしかすると和樹くんは心の中じゃものすごく不安なのかもしれない。いつだって私が「別れよう」と言ってしまえば一方的に別れられる。でも和樹くんが言ったんじゃ「好きなのは本当だっていうこと、忘れないで」その一言があるから、いくらでも言い訳が付けられる。逃げ道を自分で塞いだんだ。私はもしものときのために「好き」って言わないで逃げ道を残してる。……やっぱり、和樹くんは強いよ。
 ここだ。和樹くんの家。デートの日に行った記憶を呼び起こして、なんとか辿り着けた。もう日は沈んでしまって暗くてよく見えなかったけど、黄色がかった壁と携帯の光で照らした表札が『庄子』だったので確信を持てた。リビングはカーテンの隙間から明かりが零れている。家の裏に回り、鈍重に顔を上げると目線も同時に上へと移った。
 和樹くんの部屋の窓から明かりが見える。カーテンを閉めてないみたいで光が煌々と外に漏れていた。……よし。行こう。
 再び玄関まで戻り、インターホンをそっと押す。ピンポーン。その音は外にいる私の耳まで届いた。数十秒すると「はーい」と聞き覚えのある声が玄関から聞こえてきて、扉がゆっくりと開く。奥には祐くんがいた。
「お、ねーちゃんじゃん。今日はどうしたの?」
 どうしたの。
 その声が和樹くんとダブった。兄弟なんだなぁ。
「んっとね、和樹くんのお見舞い」
「兄ちゃんか……」
 そう言うと表情を翳らせる。もしかしたら
「金曜日から様子おかしい?」
 まるで他人事のように聞くそんな自分が少しいやになる。
「ああ……。帰ってきたと思ったら、何も言わずに自分の部屋に閉じこもっちゃってさ。その日はそのまま飯も作らないで、寝ちゃったんだ」
「えっ」
 その行動はデートした日の私に似てる。祐くんは寂しそうに続けた。
「土日も一緒。朝飯食べたと思ったらすぐ自分の部屋に戻っちゃって、昼も同じ。晩飯は作ってくれたけど、意気消沈してたみたいで元気なかった。何してても上の空ってカンジ」
「そう……」
 私もそんな感じだったけど、和樹くんは思っていた以上に酷いみたいだ。そりゃあ、あんなことを言ったら誰だって……。あの言葉が頭を駆け巡る。
 ――優しくしないで
 ジメジメとしていて、生暖かい風。夕日に照らされたコンクリート。視界の隅、その上に立っている制服の黒いズボンをはいていた和樹くん。すごく俯いていたから膝までしか見えない。言っている間にうろたえて一歩後ずさりした右足。たった一言、それだけなのに最後まで言いきれるのか、いいようのない不安に掻きたてられて。前後のことはほとんど覚えてないけど、その瞬間の記憶は鮮明にある。
「そうだ。ねーちゃん、お見舞いしに来たんだろ? 上がっていけよ」
 言葉遣いは乱暴だけど、優しい声で心がじわじわと温まる。
「そうするね。お邪魔しまーす」
 ん。家に入ると香辛料の良い匂いが鼻を抜けた。靴が前来た時より一足多い。靴を脱いで上がると、リビングから口髭を蓄えたダンディな男性が出てきた。黒い髭は口の周り全体を覆っていてここまでくると不潔を通り越してすがすがしい。祐くんはその人に体を向ける。お父さんだろうな。
「お客さん?」
「うん。兄ちゃんの見舞いに来たんだって」
「学校休むだけでこんなにも色々な人が来てくれるなんて、愛されてる証拠だな」
 和樹くんは高校入ってから学校休むの今日が初めてだ。それは心配する人も出てくるだろう。……私はお見舞い目的ではないけど。祐くんは私に体を向けた。視線を感じ、私はぺこりと頭を下げて会釈する。
「永沢由香です。和樹くんとはクラスメイトで……」
 まただ。「由香」ってところで、ダンディな男の人はピクリと反応して驚いて目を見開く。一体何なんだろう。でもすぐに真剣な眼差しになる。
「彼女か?」
 真顔で言われて吹いてしまった。開口一番それか。息を整えて返事をしようとする。ん。
 ……言えない。実際はそうじゃないけど、「違います」その一言が言えない。
「ん?」
 きっと、きっと亮だ。ここで否定してしまうと、またあんな目に遭ってしまうと本能が指令を出しているんだ。だからここは。
「そんなとこです」
「濁すなあ。まあ……」
 そこでダンディな男の人はゴホンと一つ咳払いをする。
「和樹の父親の和広です。和樹がお世話になってます」
「いえいえそんな。私のほうこそお世話になってます」
 通例の挨拶(?)を終えたところで、和樹パパをまじまじと見る。なんといっても目を惹くのがさっきも言った立派な口髭だ。まかり間違っても白髪になって欲しくない。体格は祐くん同様がっちりしていて、川澄先生を彷彿とさせる。そこまで筋肉隆々ってわけではないけど、正にこれが男! って感じがする。祐くんにも川澄先生にもない雰囲気だ。それは多分『年』だろう。年の功だ。
 和樹くんはお母さんに似たのかなぁ? 和樹くんは普通より細めなのに、祐くんと和樹パパはがっちりしていて、とても家族だとは思えない。でも
「ゆっくりしていきなさい」
 この穏やかで優しい口調は庄子家の血筋だ。祐くんは言葉遣いが乱れてるけど、優しさに溢れてる気がする。
「はい」
「それじゃあ祐。パパは夕飯作るの再開するから案内してあげて」
「分かった」
 すごく、暖かい。家族愛に満ち溢れている。和樹くんもこんな家族に囲まれたからあんな……あんな風に優しい性格になれたんだろうな。
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6.理想と現実は紙一重【その2】
「ここだよ」
 前を歩く祐くんが階段を登りきるとぴたりと足を止めて左側を指差している。私のほうを向き、耳に手を添えて、ひそひそ話のように小さい声で囁いた。なんだろう?
「この前兄ちゃんとやったんだろ?」
「はあっ?」
 予想外すぎる言動に私は一歩後ずさりしてしまった。……あう! 足を踏み外すところだった。もう階段で踏み外して落ちるなんて大惨事はたくさんだ。和樹くんの部屋は階段を登りきってすぐのところにあるので、私はまだ階段の途中。って、そんなこと考えてないで反論反論。
「違うよ」
 祐くんは「そっかあ」と吐息混じりに残念そうな表情を浮かべる。……まだキスすらしたことないっていうのに。……ああ。あのとき、スイミングスクールに行ったっていうのは祐くんなりの「優しさ」だったのかな。でも日曜は毎週行ってるらしいから自意識過剰かなぁ。
「ま、入りなよ」
 と促され、祐くんが部屋の扉を開けて中に入っていった。少し躊躇したけど私も続く。部屋に入るとむわっとした熱気と共に、和樹くんの匂いが前に来たときより強く感じた。
「兄ちゃん入るぞー」
「祐、人の部屋に入るときはノックしなさいってあれほど……」
 切望していた声。暖かな響きで心が落ち着く。私の顔を見た途端、言葉も表情も固まってしまっている。見てはいけないものでも見てしまったかのように凝固している。手が浮いたままだ。
「いーじゃん別に。兄弟なんだし」
 ピタリと音が止み、粛として声がしない。妙な沈黙が流れる。それを破ったのはその原因を作った和樹くんだった。
「ダメなものはダメなの」
「兄ちゃん、なんかおかしいぞ?」
「おかしくなんかないって」
 いや、どう考えたっておかしい。その声は弱々しくて、祐くんと話しているはずなのに、視線はこちらを向いている。ちょっと怖い。ある意味ホラー。
「ま、いいや。カノジョが来たんだから元気出せよ」
 そう言って静かに出て行った。祐くんがいなくなり落ち着いたところで和樹くんを見る。ベッドの背にもたれ掛かっていて、タオルケットを腰の辺りからかけている。お腹ら辺には本が一冊あって、私だったら読みたくもないすごく分厚い本だった。重そう。リビングの本棚にあった、背表紙に難しい漢字が使われていた本だろう。和樹くんが読んでたんだ。私があの本を読んでしまったら卒倒してしまいそうだ。いや、確実にする。
「永沢、どうしたの?」
 まだ驚きの声を上げつつ、本と一緒にタオルケットを押し退けベッドから体を出し足を床につける。ズボンは文字も何もプリントされていないシンプルな灰色ジャージで、上は胸の部分に鳥が描かれた白いTシャツを着ている。その服は――こないだ行ったデートの時に買ったものだった。胸が締め付けられる。だけど必死に我慢する。
「お見舞いにね。和樹くんが休むなんて滅多になかったから……」
「来てくれて嬉しいよ」
 刺々しい。
 ……本心なのかもしれないのに、優しくされてるって思うと、的確に胸が掴まれたみたいになって苦しくなる。そんな私の気持ちを汲み取ったのか、和樹くんは慌てて釈明する。「優しくしないで」って届いたんだ。
「あっ。今のは真意。本当だよ?」
 それがつらいのに。ああ、もうダメだ。和樹くんから優しさしか感じられない。やっぱ、会わないほうがよかったのかな……。目を泳がせていると、和樹くんと視線が合った。和樹くんを見たいと思って来たのに、ようやくまともに顔を見た気がする。顔色があまり良くない。高校生なんだからしっかりご飯を食べないと倒れてしまうぞ。髪はぼさぼさだけど、学校で見るセットしている状態とさして変わらない。
「まずは座りなよ」
 そう言って勉強机の椅子……もといチェアを、腕を目一杯伸ばして引っ張りポンポンと叩く。立ちたくないのかな。私は促されるままに腰掛ける。ちょっと高い。くるくる回るタイプのチェアで、和樹くんはいつもここに座っているのかと思うと、少し嬉しい気持ちになってくる。でもこれからのことを考えるとそこまで気分は上がらない。
 なんて話を切り出そう。和樹くんの表情から察して機嫌は芳しくない。当たり前だ。三日前に別れたときはあんなことを言ってしまって、それなのに私のほうからノコノコ現れて。でもここで黙ってたら和樹くんに助け船を出されてしまう。助けられてていいの? 弱いままでいいの?
 ――ああ、そうだったのか。うすうす気づいていたけど、私は弱いんだ。自分勝手に動いてわがまま言って。突き放したのに寂しいからって和樹くんに会いに来て、頼って。弱い。比べなくても……いや、比べるなんて馬鹿げてる。失礼だ。私なんかじゃ足元へも寄り付けないくらい和樹くんは強い。私に振り回されても構ってくれて。いつも笑顔をたたえていて。でもそれって。
 私は……『好き』という感情を忘れていたんだ。自分のことしか考えてない。
「和樹くん」
「なに?」
 首を傾げて聞いてくる姿があどけなくて思わず赤面してしまう。私は気恥ずかしくなってつい目を背けてしまった。
 あ。視界の端に写真が入る。前に来たとき気になってた写真……。小さな男の子二人と父親と母親と。机に飾ってあるってことは和樹くんの家族なのかな。飾ってある写真をそっと手に取る。
「ねぇ、これって」
 和樹くんは立ち上がり、私の隣にぺたぺたと歩み寄ってきた。
「オレの小さいころの写真だよ」
「この虫取り網を持った子が和樹くん?」
「うん。これは父さんと祐」
 そう言いながら食指を右側に動かす。その左側には優しい笑顔を浮かべている女性がいて、その人は……訊いたらダメだっ! 言ってくれるまで待つ。和樹くんの様子を窺うと、切なげに眉根を寄せている表情が見えた。つらいのかな……。
 やがて、押し黙っていた和樹くんは写真から視線を逸らさずにゆっくりと口を開いた。
「この人は……母さん」
 最後は消えかかるようなとても小さな声。訊くことを一瞬ためらわれたが聞いてしまう。自分が良ければそれでいい、自己中。
「子どものころにいなくなってしまったお母さん?」
「ああ」
 和樹くんは眉間にしわを寄せて、かなり懊悩している。つらいなら無理しなくていいんだよ。……声に、できなかった。こんなに穏やかな笑顔を浮かべている人を失う。それってどういう気持ちなんだろう。お母さんがいないなんて考えられない。いつも傍にいる身近な存在がない。想像しただけで背筋に悪寒が走る。和樹くんはふうと息を吐いて、私に顔を向けた。その瞳は真剣そのもので私だけを見据えている錯覚に陥った。……これじゃあ本当に自意識過剰だ。
「永沢には言っといたほうがいいかな」
「なにを?」
「オレの母さんのこと。……誤解されたままじゃ嫌だし」
 さっきまで悩み悶えていた顔とは思えないほど清々しい顔つきだった。吃音が全くない。一音、一音に揺らぎが感じられない。本当に必要だから話すことなんだ。しっかりとした力強さを感じる。どうやらこれは笑い事ではなさそうだ。一大事だ。真剣に聞こう。
「つらい話になるかもしれないけどいい?」
「和樹くんから言ってくれるなら何だって聞くよ」
 ここ一週間でつらいことには慣れてしまった。なんだってどんとこい、って気構えだ。和樹くんはおもむろに窓のほうを向く。私も立ち上がって隣に立つ。窓はきっちり閉まっている。だから暑いのか。カーテンは閉まってないため外を見渡せる。住宅街って感じで周りに一軒家がずらーと建っていて光が漏れている……もう真っ暗だ。よく見ていると窓ガラスにうっすらと私と和樹くんが映っている。横を向いて表情を窺うと目が切なげに細められて、遠くを見るように視線を宙に浮かせた。
「今から九年前。母さんが急に入院した。元々体が弱かったんだ。いつもは家で休んでれば治まったんだけど、そのときは眩暈が発作したのと同時に強い吐き気と嘔吐、それに耳鳴りがしたみたいで、複数の症状が現れて入院ってことになったんだ」
 持病か……持ちたくないな。
 情感が篭った話し方じゃなく、極めてドライに話してくれる。他人事みたいな……んじゃなくてそうでもしなきゃ話せない、のかな。
「その日は平日で学校があって、オレは帰ってきてすぐに祐の手を引いて母さんが入院してる病院に走った。でもそこには元気にニコニコしている母さんがいて。いつもより酷いって聞いてたのにオレはその落差に愕然とした。症状が症状だけに、医師にはまだ安静にしてたほうがいいって言われてその日はそのまま帰った」
 ここで何か言ってしまったらダメだ。じっと耳を傾けていよう。
「そんな状態が何日も続いた。母さんは『すぐ帰るからね』って言ってくれてたのになかなか帰ってこなくて……相当苛立ってたんだと思う。その日は第二土曜で学校がなくて昼前から病院に行ってた。そしてそのときが来た。母さんがオレに食べさせてほしいって言って……それで、オレッ。元気なのに退院しないことに腹が立って投げやりに食べさせたんだ。それが原因で母さんは噎せてしまって息ができなくなりそのまま帰らぬ人になった。悔やんでも悔やみきれない」
 変わらず、まるで他人事のように抑揚のない声で喋ってるけど、切なそうに顔を顰めている。そうでもしなきゃ話せない過去……つらいな。
「後から聞いた話だけど、母さんは表では笑顔でいたけど内面は衰弱しきっていたようで、オレは酷く後悔した。母さん――庄子由佳の葬儀でオレはそのことをずっと考えてて涙が出なかった。状況を飲み込めてない。というより、現実を認めたくなかったのかな」
 ……しょうじ、ゆか。
「母さんの親族の人は泣いてはいるけど、それが幼かったオレの目には同情に見えた。本当に心が荒んでいた。父さんが親族の人と話してるとき、他人事みたいに『これから一人で子育て大変ね』そのときの表情がうっすら嘲笑ってるように見えた」
 他人事。
 だからデートに誘う前、他人事みたいに言ったときムッとしたんだ。嫌いな態度なんだ。私も嫌いではあるけど、ついやってしまって自分の罪を消そうとしている。……やっぱり、弱い。
「そんなオレのことを構ってくれたのが母方の祖父。母さんから見れば実の父親。自分より先に娘に先立たれてつらいはずなのに、朗らかに話しかけてきてくれて。『お前の母さんはいつも笑顔で体は病弱だけれど、心は他の誰よりも強かった』って。母さんは誰よりも自分が衰弱しているのは分かってるはずなのに、誰かに泣きついたり弱音を吐いたりもしないで笑顔でいて。本当に強いんだ。そう思うともっとやるせない気持ちになって。やっと涙が出て、止め処なく溢れてきた。でもそんなオレを見てたお祖父ちゃんが言ってくれたんだ。『泣きたいときはいっぱい泣きなさい。けれど涙を流した分、笑顔になるんだよ。元気出すんだよ。君なら大丈夫』そう言ってくれて、心がジワリと温かさに包まれた」
 素敵なお祖父ちゃんだ。
「それ以来オレは笑顔で優しくしてきた。それでみんなが幸せそうに笑ってくれたから。けど、永沢は優しくするたびにつらそうな顔をして。正直言うと、どう接していいか解らない」
 そのとおり優しくするとつらくなるんだよ。優しさが皆無なのも問題だけど、ありすぎるのもダメってことだよ。
 ……訊きたいことがいっぱいある。まずは
「えっと……左手を使ってるのはお母さんが噎せたのが原因?」
「本当は右利きだよ。母さんが亡くなってからは食べることに関しては左手を使ってる。右手を使うとあのときのことを思い出しそうで」
 そう言って、右手を見ながら握ったり開いたりしている。
「なるほど……」
 だから食べるときだけ左手を使ってたんだ。
「ピロティで言ってた叔母さんの話は」
「あれも一因してるよ。左手使っててよかったんだって。そのときにはもうオレのほうが左手暦が長かったからお手本を見せてあげたよ」
 左手暦という新たな単語がお目見え。じゃあ和樹くんは左手暦九年なんだ。
「質問責めで悪いけど……私を好きになった理由は?」
 これに全てが集約されてる気がする。それと共に一番気になっていたことでもある。和樹くんは目を見開いたが、またふっと目を細めた。
「最初は母さんと同じ名前ってだけで近づいた。でもそれが本当の気持ちになっていって。基本は真面目なんだけどたまに抜けてるところが好きだ」
 つまり私の名前が「ゆか」じゃなければこんなことにはならなかったのかもしれない。
「でも名前を呼ぶのがこんなにつらいものだと思わなかった」
 ……私は酷い勘違いをしていたのかもしれない。和樹くんは私のことを想って優しくしてくれてたのに私は突き放すようなことをして。試すようなことをしようとして。そう思うと涙が込み上げてきた。
「ごめん……なさい」
 涙が壊れた蛇口のようにまなじりからも目頭からもボロボロと出てきて、堪えようとしても止められない。泣きたいのは和樹くんのほうなのに。私に突き放されてもめげないで優しくしてくれて。和樹くんのことを想うとまたぶわっと溢れ出してくる。
「謝ることないよ」
 震えている声。涙を手で拭い、おぼろげに見える視界で和樹くんを捉える。……泣いてない。強いんだ。泣くっていうのは『男のプライド』というものが許さないのかな。会って間もないころに見た泣いてる姿が瞼に浮かぶ。あれからまた強くなったんだ。私は何度も何度も「ごめん」と言い続ける。告白のとき、デートに誘うとき、デートのとき。和樹くんと一緒にいたとき。頭の中でその日の出来事が何回も再生される。謝る。謝っても謝りきれないことをしてきて、過去の自分を憎んだ。私が全ていけないのに奪うだけ奪って逃げる気だった過去の自分を。
「いいって」
 強い口調に思わず体がピクリと反応した。血の気が引いたかのように涙も引いていく。
「オレにも言えることだけど。『事が起こった後に後悔してももう遅い。くどくど考えても無駄』だって。そう父さんに言われ続けてきた。オレもそれは頭では分かってるつもりなんだけど、駄目だった。ここ三日間永沢のことばっか考えて、あのときああしてればって思った。でもこれからどうやって仲直りしようかっていうことも考えた」
 私への気持ちが本当だということが今の言葉で分かる。真っ直ぐに私を見据える瞳に一点の曇りもない。私は最低だ。現実に目を背けて逃げようとしてた。和樹くんは仲直りしようって道を考えた。つらい選択なのに現実と真正面から向き合っている。起こったことに後悔しないで、これからのことを考えて。和樹くんはもうちゃんとできてる。それに比べて私は……今までのことを忘れようとした。現実から逃げようとした。
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6.理想と現実は紙一重【その3】
 だけど今は違う。
 和樹くんは私のことを、私が犯したことすべてを受け入れて一直線に見ている。私はその気持ちに応えないと。そっぽ向いて横目でちらちら見てたら相手の誠実な気持ちに傷をつけてしまう。真正面から向き合おう。正対しよう。だから……このままじゃいけない。
 体を向き直し和樹くんの瞳を見つめると、視線が絡む。いろんな色味を帯びる丸く黒い瞳、それを覆うシャープな二重瞼、長い睫毛の上下が先端でぶつかり合っている。よく寄せられる眉、ちょっとつんのめった鼻、青白くて薄い唇。男の子らしい短髪のぼさぼさした髪の毛。高校生のクセにニキビ一つないきめ細かい肌が恨めしいけど……。その全てが今はいとおしい。こんなに嘗め回すように見たのは初めてで、本当に端正な顔立ちだということを今さらながら思い知る。そして、こうして長々と見つめ合ったのも初めてだ。でも不思議と恥ずかしさは込み上げてこなかった。……こういう状態になってこそ告白というものはするものなのかもしれない。
「永沢」
「和樹くん」
 声が合った。何を言うかは予測できている。「どうぞ」と先を譲ると、頷いてくれた。私に対して遠慮なんてあっちゃいけない。ズンズン押し進んできてほしい。「レディーファースト」という言葉はこの際どうでも良い。
「永沢の気持ちに配慮できないかもしれないけど、こんな。こんなオレでよければ付き合ってください」
「喜んで。これからつらいことがあっても二人でがんばっていこうね。和樹くんは遠慮しないで。私はもっと自分を抑えるから」
 自己中っぷりも、なんてそこまでは言えなかった。窓ガラスほどの薄い虚飾はまだ残っているから。弱い、弱いけどこれからがんばって強くなっていくよ。悪いところは直していけばいいんだ。きっと和樹くんにだって悪いクセはあるはずだ。押し固めていた理想像ほど理想の人じゃない。同じ人間なんだ。私みたいに悩みもある。恋愛の仕方だって試行錯誤の連続だろう。会ってから一週間後、告白する前に思っていたように近い存在だったんだ。
 言い終わってから一秒もしないうちに返事をするのに驚いたのか、面食らっている。大きく目を見開いて腫れ物に触るかのように怯えた様子で確認してきた。
「ほんと?」
「本当だよ。じゃなきゃ言わない」
 真意で、決してウソなんかじゃない。
 ここでおだて上げたところで、何の意味もありゃしない。むしろ逆効果。もしそれに和樹くんが気付いたら傷つけてしまうことになる。私たちの関係をこれからは隠さないことにする。だってこれからは本当に、正式に付き合っているんだから。その気持ちを裏切ってはいけない。和樹くんの足元には到底及ばないけど――これが私の「優しさ」だよ。
「やった!」
 浮かれている和樹くんを見ると、今日来てよかったと心の底から思う。大仕事をやってのけたと体が思ったのか力が抜けてしまってその場にへたり込んでしまった。和樹くんはすかさず膝を立ててしゃがみ込む。
「どうしたの、大丈夫?」
 ずっとこの声を聞けると思うと幸せな気持ちになってきた。
「大丈夫だって。それよりも和樹くんは明日から学校来られる?」
「それは永沢のせいじゃん」
 遠慮がなくて思わず笑ってしまった。和樹くんは無邪気に笑いながら、足を伸ばし後ろ手をついてリラックスする体勢に入る。このパターンは初めてだ。私が笑って和樹くんがつられて笑う。この無防備な体勢と遠慮がない感じ、好きだ。すごく身近に感じられる。今までは近くにいてもどこか遠くに感じていた。掴める距離、抱きしめられる距離。もう離れない。
「明日からはちゃんと行くよ。欠席日数が就職のときに響いたら嫌だし」
 もう未来のこと考えてるのか……。私はまだ何にも考えてない。とりあえず学校に行ってるって感じだ。また気分が沈み始めると、コンコンとやけに大きいノック音が部屋に響き、思わず顔を見合わせると二人してぎょっとした顔をした。それがおかしく思えて笑いそうになったけどぐっと堪え、扉のほうを見る。ゆるやかに開いた扉の先には祐くんが立っていた。
「楽しそうだね。まさか笑い声が聞こえるとは思わなかったよ。ねーちゃん、何したの?」
 さっきノック音がでかかったのは祐くんなりの私たちへの配慮だろう。さっきお兄ちゃんに言われたのもあるのかな。それにしてもこの家の人はみんな優しいな。
「……秘密」
「気になる。何言っても兄ちゃんは木偶の坊みたいに感情出さなかったのに」
 ここは言うべきだろうか。別に隠さなくてもいいんだけど、言ったら言ったでそこには深い深い事情があるわけで。それを説明したらいつまでかかるのやら。でもこの状況は打開したい。言うしかないか。
「それはねぇ」
「こらこら。誘導尋問しないの」
 今まで黙っていた和樹くんが助け船を出してくれた! 言いたいなぁ。和樹くんと私は付き合ってるって自慢したいなぁ。言っちゃうか!
「私はお兄ちゃんと付き合ってるのです。そういうこと」
 答えじゃない気もするけど、自慢してやる。祐くんも将来はカワイイ女の子を見つけるんだぞ。和樹くんを見やると、少し俯いて恥ずかしそうに顔を赤らめている。愛いやつだ。
「ふーん、そっか」
 ……そ、それだけ? 照れ隠し? もっと言うことがあると思うんだけど。「付き合ってるんだ! すげー」くらい言って欲しい。思春期のころって恋愛に憧れてると思う。……あ、でも私も「ふーん」で終わるかもしれない。そういう傾向にある人が多いってだけで、判断基準にはならないか。和樹くんは理解したのか「ああ」と声を上げた。なんで?
「祐は彼女がいるからそこまですごいことだとは思わないんじゃない? さっき、永沢のこと『カノジョ』って言ってたしね」
 え。そ、そんなこと。和樹くんに気を取られていて全く気が付かなかった。
 って、中3の分際で彼女っ? 聞き捨てならない。私は最近になってようやっと恋に芽生えたというのに……なんか負けた気分だ。
「ねーちゃんならいいけど、他のやつには言わないでくれよ」
 祐くんは手で後頭部を持って視線を左上に移した。ここで来た照れ隠し。彼女がいることは自慢しちゃっていいのに。私はこれから言いふらしまくる予定だ。もう、隠さないって決めたから。「優越感に浸っちゃって」とか言われても気にしない。負け犬の遠吠えよ。
「そろそろご飯だぞ〜、降りてこい」
 小さいころから和樹くんを男手一つで立派に育て上げたパパの優しげな響きを持った声が下から聞こえてくる。
「はーい!」
 和樹くんと祐くんの声が揃う。もうそんな時間か。帰らないと。
「じゃあ私はそろそろ……」
「食べていきなよ。父ちゃんはそのつもりだと思う」
「え、なんで?」
 お見舞いに来たってだけなのに、それは申し訳なさ過ぎる。
「なんで、ってねーちゃん来たの七時過ぎだったぞ。それは食べていくと思うだろ」
「そうだよ。食べていきなって」
 二人に押し切られて私は和樹くんの家で食べることになった。家に電話して、その旨を伝えると「迷惑かけないように」と念を押された。まだ子どもと思われてる。迷惑なんか誰が良くてかけるかっつの。
「じゃ、いこ」
 祐くんの後をついて、部屋を出る。かすかだけどスパイスのいい匂いが鼻を抜けた。今日はカレーだ! 好きなほうではあるけど、あんまり辛いのは苦手。男の人ばっかだし、辛そう。祐くんを前に和樹くんを後ろに、階段を降りてリビングへ入ると向かい合わせのテーブルには思ったとおり、湯気をほかほか立てている出来たての四人分のカレーと、中央には瑞々しいキャベツや大根をメインにトマトが添えられているサラダが置いてあった。和樹パパは一番奥に座っている。和樹くんに促されて左手奥の椅子に腰をかけた。隣に和樹くんが座る。
「和樹大丈夫なのか?」
「うん、もう大丈夫。心配かけちゃってごめんね」
 和樹パパに心配された和樹くんは、「えへへ」と言いながら引きつった笑みを浮かべつつポリポリと頭を掻いている。
「彼女がお見舞いに来てくれたんだ。本当なら逆の立場になってほしいが……」
 昭和的思考の持ち主なのだろう。さっきの後悔の話でなんとなく見えた。男はこうあるべきだ的な教育を受けてきたから、女性に弱みを見られたくないんだろう。すると和樹パパが私に視線を合わせてきた。ドキッとする。
「こんなやつですが、これからもよろしくお願いします」
「はい」
 でも和樹くんは断じて『こんなやつ』なんかじゃない。強くて、優しくて。すべてを包み込んでくれる包容力がある。それが一時ダメになった原因だけど、今はありがたく感じる。不器用な愛情表現だけど、私のことを本当に好きでやってくれた。きっとその気持ちにウソはない。
「なーなー、早く食おうぜ」
 祐くんの悠然な声でみんな食事モードに突入した。
「いただきます」
 ……ああ、そうだった。流れで左側の奥の席に座ってしまったけど、失敗だった。和樹くんと腕がぶつかってしまう。いつもはここに座っているんだろうな、と思うと申し訳ない気持ちに駆り立てられる。でも座ってしまった以上、位置を交換するわけにもいかない。私はスプーンを右手で持って、いつもより肩を広げないよう注意しながら四分の一に切られたジャガイモをぱくっと口に入れた。
「あふふ」
 熱い。でもこうしながら食べるのもなかなかいい。思ったより辛くなくていい具合だ。
「どう? 口に合う?」
「うんっ。さいこー」
 ちょっと過剰表現しすぎてしまっただろうか。でもまぁ美味しいのは事実だし。前にいる和樹パパの顔が綻んでいる。料理って家族に褒められるより他人に褒められるほうが嬉しいものだよね。そういうことにしておこう。その後は人様に聞かせられないようなくだらない話で盛り上がった。さすが男子率が高いだけある。言えるところだと、和樹パパはホテルの営業課長という仕事柄いろんな人と会ってるみたいで、態度がなってないお客相手は面倒って愚痴をこぼしてた。和樹パパは初対面なのに無遠慮すぎやしないか。ご子息とは大違いだ。


「ご馳走様でしたっ!」
 威勢良く言うと、和樹パパが嬉しそうに顔をにんまりさせた。口髭にルーがつかないように食べる技術は素晴らしい。
 体格を見ても分かるとおり、祐くんと和樹パパはお代わりをしたが和樹くんはしなかった。だから細っこいんだぞ〜。サラダはあまり食べなかったから本当に体調が悪いみたいだけど。そんなことより、食べ終わるまで一度も腕がぶつからなかったのがすごい。手を完全に伸ばさなくても届く距離だから遠くはない。和樹くんは縮こまって食べてたからそれだと思う。相当な鍛錬をしてきたのかな……もう九年だしね。血管が浮き出ている左腕を見つめていると、和樹くんは私のほうを一瞬見て自分の左腕に視線を落とした。
「なんかついてる?」
「いや、ここまで綺麗に食べるまでどのくらいかかるのかなぁと思って見てた」
 カレーの器は綺麗だ。私より綺麗に食べてるんじゃないかと思うほどだけど、性格を考えると納得してしまう。いつも作ってくれるお母さんのためにも、これからは綺麗に食べるよう心がけよう。
「どのくらいかな……どのくらい?」
 和樹くんは左腕にあった視線を祐くんと和樹パパに移す。息子から視線を貰った和樹パパは反り返って天井を見上げた。「あっはっは」と大仰に笑ってらっしゃる。
「左手で食べ始めたときは完食すらできてなかったよなあ」
「もう。そのときのことはいいよ」
「二、三年くらいじゃねー? 自分でそうし始めたんだから覚えとけよ」
 祐くん……実の兄に対してその言動は乱暴すぎるよ。
「うん、気をつける」
「これからじゃ遅いだろ!」
 つい突っ込んでしまった。というかここで引くから嘗められるのだろう。
「二、三年だって」
 動揺を見せず私に話してきた。真顔で。気づいてない振りなのか、本当に気づいてないのか掴めない。たまに天然っぽいのが出るとどう対応していいか分からなくなる。和樹くんとの付き合いはまだまだだ。
「今日は泊まって行くんだって?」
 は?
「そうそう。ねーちゃん、泊まっていきなよ」
「うーん……泊まっていくの?」
 私がいつそんな話をした? いきなりすぎる。食事のお誘いといい、庄子家の結束が固いことはよく分かった。でもさすがにそこまでしてもらうのは悪い。してもらってもお母さんへの説明が大変だ。女子高生が外泊なんて似ての外だと自分でも心得てるし、明日も学校はあるから教科書を取りに一度は家に戻らないといけない。女の人がいないから寝間着も借りられなさそうだし。丁重にお断りして、食器を持って台所に向かう。無償で食べさせてくれたんだから、何かお返ししないと気分が悪い。
「いいよ。オレがやるから、永沢は休んでて」
「体調の悪い和樹くんには任せられない」
 図星なのか俯いてしまった。あれ、酷いことしちゃった? 私が慰めようとすると
「俺がやるよ〜」
 予想外だ。祐くんが名乗り出た。家事なんていっちばんやらなさそうなのに。
「い、いいの?」
 祐くん相手だと押し切られてしまいそうだったので、最初からやってくださいムードを振りまく。祐くんには第一印象が最悪な私、それはさらに底知れぬくらいどんどん落ちていってる。表面上はそんなこと感じ取れないけど、私の中で祐くんから見た自分の株が下がってることをひしひし感じる。これからどう付き合っていけばいいんだろう。
「ああ。まかせとけ」
 その様子を見ていた和樹くんは「ホッ」と息を吐いて胸を撫で下ろしていた。祐くんを隣から見る。凛々しい。台所に男の子が立ってると違和感を感じざるを得ない。和樹くんが毎朝自分のお弁当と夕食をここで料理してる姿を思い浮かべると、やっぱり違和感を感じる。和樹くんのエプロン姿……それは案外似合うかもしれない。この九年間、そしてこれからも庄子家のキッチンには男の人しか立たなさそうだ。
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6.理想と現実は紙一重【その4】
「今日は何から何までしてくれてありがとうございました」
 玄関で男の人三人に囲まれている。脅威がないって分かっててもちょっと威圧を感じてしまう。隣には和樹くんがいるから幾分か和らぐけど、やっぱりちょっと怖い。
「いやいや、これぐらいしかおもてなしが出来なくてすまないね」
「十分です。カレー美味しかったです! サラダも」
「そう言われると作った甲斐があるなあ」
 和樹パパはふんわりと微笑む。今日何回目だろう。それくらい嬉しそうにしてくれる。言った甲斐もあるわけだ。決してお世辞などではない。和樹くんのあの玉子焼きを知っている人間からすると劣ってしまうけど、家庭で食べるレベルだったら相当高い。庄子家の血筋は料理センスに溢れているんだ。
「ねーちゃん、またなー」
「うん。またね」
「いつでも遊びに来なさい」
 すごく歓迎されてる。和樹くんはこんなに優しい家族と一緒に過ごしたから、あんなにも穏やかなんだ。母親がいなくても愛情を一身に受けて伸び伸びと育ってる。
「はい。それではまた」
 この思いが届けばいいなと思いつつ、私は目を細めて嬉しそうに言った。また……また来ます。
「それじゃあオレは永沢を送るよ」
 和樹くんは私が帰ると言い出したら、大慌てで二階に駆け上がって上のジャージを持ってきた。女の子を夜道に一人では歩けさせられないのだろう。最近は物騒だからありがたい。こないだ雨の中、一人で帰ったときはウチまで後ろに気配を感じつつ歩いた。怖くて振り向けなかったけど、今思うとストーカーとかそういう類の人間だったのかもしれない。もう九時を回っていて危ない時間帯だ。玄関の扉を開けると、思っていたより生暖かい風が顔にかかった。
「結構暖かいね。Tシャツだけでよかったかも」
 和樹くんは出て早々私が思ったことをポツリと呟いた。
「そうだね」
 この前来たときを思い出していた。あの日は今日みたいに風が暖かくなくて、冷たかったんだよね。そして和樹くんに寒い思いをさせてしまった。この前と今日の風、逆だったらよかったのに。……あ。これが『事が起こった後に後悔するのは遅い』か。確かにそうだね。過去はもう変えられないんだから。私が言ったこと、やったことは全部変えられない過去。それをくどくど考えても無駄の極みってものだ。和樹パパ素敵。
 後ろを振り返る。そうすると和樹くんも少し遅れて後ろを振り返った。
「名残惜しい?」
「ううん。ここに来たときと今じゃ、私も和樹くんも気持ちが全然違うってふと思ってさ」
「そうか……そう、だね。今日はありがとう」
 コクンと頷く。笑ってくれると思ったんだけど、感慨深げに言ってくるのにちょっと驚いた。和樹くんは変わろうとしてるんだ。私もがんばらないと! 再び歩き出すと和樹くんの様子がなんだかおかしい。何か言いたそうに口をもごもごさせてるけど、逡巡してる。「遠慮しないで」って言ったばかりなのに。
「なに?」
 私に向き直ると手をじっと見つめてきた。ドキンと胸が高鳴る。ど、どうしよう。これはもしや……。手に向けていた視線を私の顔に移す。街灯に照らされた瞳が潤っているのが見えた。
「……手、繋ぎませんか?」
 見つめ合ってそう恥ずかしそうに言うのが堪らなくかわいい。
 しかし、ここで敬語っ。そういうところが和樹くんらしい。でも、私もどっちかっていうとそうだったな。断る理由は何もない。
「うん、いいよ」
 承諾を確認すると和樹くんは口元を緩めてニヤける。少年のように喜ぶ笑顔は私の活力剤だ。そしてサッと手を差し出してくる。私はゆっくりと手を伸ばしその手を取った。正直言って、熱を感じたくなかったけど和樹くんの手を握ることはいやじゃない。私と初めて手を繋いだときは、強引に掴まれてちょっと怖かった。今は私も和樹くんも本当に手を繋ぎたくて繋いでいる。これってとても幸せなことだ。どちらか一方が自分の気持ちを強引に押し付けたりしないで、二人の気持ちは「繋ぎたい」ってそれで整っている。
 指を絡めあうことはできないけど、すごくポカポカあったかい気分になれる。それももうすぐ終わりだ。もう少し二人でいたい。この手の温もりを感じていたい。
「……どうしてさ、オレのこと好きなの?」
「は?」
 突然そんなこと言い出すから歩調が乱れて手を離してしまった。和樹くんは驚いて目を見開いている。
「そんなに変なことだったかな……」
 不貞腐れるようにそう言うとポケットに手を突っ込んですねてしまった。全然変なことじゃない。ただいきなりそんなことを言うのに驚いてしまっただけで。
「最初は外見に惹かれたけど、今はその人間性……強さ」
「強さ?」
 そ知らぬ振りをしてどうするつもりだ。とぼけるなんて自覚持ってなくてさらに強く見えちゃうじゃないか。和樹くんは強い。何があっても私と関係を絶つなんて選択肢は入れなかった。どんなにつらく過酷な道程でも受け入れられる強さを持っている。そう話すと怪訝そうに私を見てきた。
「永沢はオレを美化しすぎ。……オレはそこまで強くないよ」
 え……。
 和樹くんは見栄なんか張ってない。色眼鏡を通して和樹くんを見ている私の眼にそう映ってるだけで本当は、違うんだ。和樹くんの言うとおり美化しすぎていたのかもしれない。さっきも考えたけど、和樹くんだって悩んだりすることがある。ただそれを私に見せないだけで。不釣合いなんかじゃない。同じ高校生なんだ。些細なことで壊れる高校生なんだ。調和が取れている。微妙な空気が流れる中、また手を繋いで少し歩くとマンションに着いてしまった。
「じゃあオレはここで」
「待って! もうちょっとだけ」
 全然自分を抑えられてない。人のことはあれだけ言っといて。明日からはがんばるから……今日だけはお願い。
「うん? どうしたの?」
「……部屋の前まで」
「ん〜、いいよ」
 優しいな。私も人に優しくしたい。「優しさ」にいやな感情が芽生えることはなくなっていた。
「ありがとう。じゃあエレベーターで行こっ」
「オレがついてくるってだけで嬉しそうだなぁ」
 もちろんだよ。ほんの少しだけでも、一秒だけでも長く一緒にいたい。和樹くんの手を引いて全速力でエレベーターに駆け込む。「痛い」と声を上げていたが無視だ。考えとは矛盾してるけど同じマンションの住民に見られたくない。けど冷静になって考えてみる。
 今の行動間違えた。
 客観的に見ても和樹くんはカッコイイ。そんな人の手を取って強引にエレベーターに連れ込んだんじゃ誘拐か何かと間違われてもおかしくない。悲鳴上げてるし。まぁ……仕方ない、やってしまったことだ。しかし、この狭い空間に二人っきり。同じ空間にいるっていうことを強く感じる。隣を向けば吐息がかかる距離。胸の高鳴りがピークに達していて頭がどうにかなりそうだ。早く出たい。私の部屋は三階にあるからすぐ着く。心臓がバックンバックンいっていて、音も鳴らずにエレベーターのドアは静かに開いた。即行脱出だ。風を感じて少しは落ち着いた。
「オレ、あんまりエレベーターって使わないから一瞬くらっときちゃった」
 エレベーターを降りて和樹くんがそんなことを言う。仮にも体調が悪い人なんだ。無理させてしまったかな。私の部屋は三階にあるから階段を使ったほうがよかったかもしれない。エレベーターの密室空間にもいたくはなかったし。次からは階段を使おう。健全な高校生なんだから体動かさないと鈍る。
「ごめんごめん」
「……ちょっと、恥ずかしい、かな」
「え?」
 なにが。
「さっきまで暗かったからよく見えなかったけど、こうして光に照らされて手を繋いでるってことが明白になると恥ずかしい」
 そんなことを言ってたら日中は手を繋げない。でも改めて自分と和樹くんの繋がってる部分を見ると恥ずかしくなってきた。でもその体勢のまま和樹くんの手を引っ張って私の部屋の前まで行く。
「ここ」
「角部屋なんだ」
 マンションで角部屋じゃなかったら死ぬかもしれない。室内でも少しは日を浴びたいものだ。夏はウンザリだけど、冬は恵みの光だ。
「じゃあ今度こそオレは帰るね。また明日」
「う、うん……」
 言えなかった。「上がっていって」って。でもこのくらいの距離感がちょうどいいのかもしれない。時間も時間だったしね。和樹くんはにこやかに笑うと私の手を解いて階段を下りていった。私も帰ろう。
「ただいま」
 一応玄関で言うけどリビングまで届かないので、リビングでもう一度言ってる。お母さんしかいない。お風呂場から音が聞こえたからお父さんはお風呂だろう。絵里は部屋の電気が漏れてたから自分の部屋かな。
「おかえり、遅かったね〜」
 お母さんはおったまげた声を上げる。食べてからのんびりとしすぎた。今の時刻は九時十五分を回ったところだ。電話でお母さんには「外で食べるから夕食はいらない」とだけ言っておいた。
「色々とお世話になっちゃってね」
「どこで食べてきたの?」
「か……」
 何故か後ろめたい気持ちでいっぱいだ。お母さんには一番に自慢してやろうと思ってたのに。
「か、ねぇ。あ、分かった! 彼氏の家?」
 よくあれだけで解ったなぁ。でもお世話になって「か」なんて言おうものなら解っちゃうか。お母さんは嬉しそうにひゃーひゃー喚いて、「どんな子? カッコイイ? 歳は?」とか立て続けに訊いて来る。弱い部分もあるけど、和樹くんの自慢できるポイントはたくさんある。上げるときりがないくらい。ここは一先ず今日改めて再認識したことを。
「カッコイイ、とは思うよ」
「そっかぁ。まさか由香に彼氏ができるなんてねぇ」
 傷つく言葉をサラリと言ってのける。でもその後に
「がんばりなさいよ。母さん応援してる。由香、帰ってきてから口元が緩んでて嬉しそうだったもの」
「えっ?」
 思わず口を覆う。そんな嬉しそうにしてたかなぁ。これからのこと、和樹くんのことを考えると目元が緩む。ああ、これか。
「ほーらね。……今日は疲れたでしょ。早く寝なさいよ」
「はーい」
 まだ子ども扱いされてて、お母さんに隠し事をしても何でも見透かされてしまう。これなら言いなりになってたほうが良さそうだ。お母さんがいるってだけで幸せを感じられる。心配してくれるだけで幸せを踏みしめられる。和樹くんと会っていなければこんな気持ちはかけらも生まれなかっただろう。ありがとう、お母さん。
 私は自分の部屋に入ると全体を見渡した。もちろん整理されていない。マンガ本が散らかっていたり、机の上にノートが広げっぱなしだ。乱雑すぎるのも問題だけど、このくらいでいいだろう。見栄を張っていたって、もしいつか……同棲することになったらばれることだ。隠す必要は何もない。
 唯一、物が散乱していないベッドにバタンと突っ伏した。デートに行ったあの日の夜とは全然違う気持ち。考え方が正反対だ。あのときはもう最低だった。人のせいにして、自分は変わろうともしないで狭量になっていた。優しさを受け入れる『強さ』がなかったから。私はひっくり返って仰向けになる。白い蛍光灯に黒い点が見えた。虫が一匹張り付いている。もう少ししたら虫がたかっていてもおかしくなさそうだ。時は確実に経っている。
 今日のことを思い返すとこれからの未来が楽しみで仕方がない。思わず顔がニヤけてしまう。
 幸せな一日だった。ただあのときを除いて。和樹くんとはこれから仲直りしていけそうだけど……亮とはもうダメかもしれない。あんなことを言ってしまった。明日、学校に行くのは気が軽く感じるところもあるけどその反面、気が重く感じるところもある。すっと起き上がり、息を吐いて全身の力を抜いた。
「がんばろう」
 気負けしないように。
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7.エピローグ
「おっはよ〜」
「今日は元気だねえ」
 亮は肩を落として残念そうに言う。結局、亮は何事もなかったかのように接してくる。立ち直りが早いのか、それとも半ば諦めていたのか。事情は本人にしか分からない。
「おはよう、永沢」
 亮に見せ付けるために和樹くんの腕に飛びつこうと思ったけど、やめた。そんなことを教室でやったら他の女子たちにどんな目で見られるか分かったものじゃない。今でもどんな目で見られてるか分かったものじゃない。嫉妬心でメラメラしてそうだ。
 午前の授業を受け、お昼は和樹くんと一緒にご飯を食べて、午後の授業を受けた。いつもと変わらない。そして部活の時間になる。教室の出入り口のところで無意識のうちに足が止まり振り返った。それに気づいた真奈美が首を傾げて近づいてくる。
「由香ちゃん、行こぉ?」
「うん」
「教室気にしてどうしたの?」
 亮のことが気になって仕方がない。部活をやってないのか、私が吹奏楽のために音楽室に行くときでもまだ教室にいる。亮は机に頬杖をついて外を眺めてる。クラスメイトはもう部活や帰宅で教室を出ており、人はまばらだ。人が少ない状況で亮を見てると教室で二人っきりになったときを思い出してしまう。奪われたファーストキス。怒りが込み上げてくるけどそれを亮にぶつける気は毛頭ない。気づくと私は亮の元へツカツカと歩み寄っていた。
「このままでいようね」
 そう声をかけた途端、亮の表情が凍り付いていく。悪いこと言ったかな?
「同情?」
「違うよ」
 亮は呆れたように椅子に深くもたれ掛かると、「フン」と鼻で笑った。それはないんじゃ
「同情だろ……。想いを伝えた相手に同情されるのが一番つらいんだよ」
 ……っ。
 私も和樹くんに告白したとき「これからも一緒にいよう」みたいなことを言われて、すごく心が温まったのを覚えてる。でも亮と私の状況は違う。亮は異性として見たい相手――すなわち私に「好きになれない」ってきっぱり否定されてる。もしも、私が和樹くんに否定された状態で「このままでいよう」なんて言われてたら……同情された、って思う。
「俺は由香と友達以上の関係になりたかったんだよっ、コンチクショウ」
 亮は悔しそうにそう言い放つと持つものをもって、すぐさま教室を出て行った。またギクシャクした関係に後戻りしてしまった。亮は……亮のこと友達としては好きだ。私には和樹くんという恋人がいて、異性として見ることはできない。落ち込んでいると真奈美の能天気な声が頭に響いた。
「由香ちゃん、モテモテだねぇ」
「そうだけど……モテるってつらい」
 落胆したまま音楽室へ向かい、一歩入るとマイマイの金切り声が頭に響いた。さっきの真奈美の声より頭に響くんですが。
「ゆかー。やっときたね。早く準備しなさい」
 ん? いつものマイマイじゃないぞ。相変わらず呼び捨てなのと上から目線は変わらないけど、和樹くん以外のことで私に絡んでくることは珍しい。そんなことを考えているとマイマイに背中を押された。一体何なんだ。調子が狂う。それが気になって、演奏中もちらちら見てたら次の音が何か忘れてしまう事態に陥ってしまった。『譜面を見ていよう』頭の中でぐるぐるとその言葉が繰り返されて、練習したって気にちっともなれなかった。後片付けが終わって解散した。案の定残ったのは真奈美とマイマイだった。今年に入ってから放課後はここでよく三人でいると思う。
「ゆーかー」
 その声のほうを向くとマイマイが嫉妬オーラをいつも以上に噴出させていた。
「最近は和樹と仲良いみたいじゃない。あたしより先を越そうなんて許さないわよ」
 しつこい。
 はぁ……和樹くんにあれだけ言われても懲りないのか。ここは私が一遍たしなめてやろう。この程度で引き下がる人じゃないのは重々承知の上でだ。
「何言ってんの。私はもう和樹くんと付き合ってます」
 たしなめるつもりが途中から誇るように変わってしまった。マイマイも真奈美も驚いて大きく目を見開いてる。
「そっ、それがどうしたってのよ! そんなの一時の夢かもしれないじゃない」
 さすがのマイマイでも動揺は隠せないみたいだ。これを冗談じゃなく事実として受け止めてるあたり素直なのだろう。本当に冗談じゃなく事実なんだけど。
「この前とはえらい違いだね〜。彼氏なんて呼べないって言ってたのに」
「うん。苦難を乗り越えられると、それは本当の愛になる。ってね」
「由香がそういうこと言うの気持ち悪い」
「そうそう。由香ちゃん悟りの境地入っちゃったね」
 うぐっ。二人していじめないでよ。本当のことなんだから。苦難があってそれを乗り越えられるからこそ、愛は再認識できるんだと思う。何の障害もない平坦な道だったら、平凡な恋に終わってしまうと思う。和樹くんと順風満帆に行っていたら今の私たちはないだろう。
「最近は妄想してることも少なくなったよねぇ」
 言われてみれば。和樹くんと会うようになってからあまり妄想をしなくなったかもしれない。妄想癖ばらそうと思っていたのに。それは多分
「和樹のこと考えてれば満足?」
「マイマイが言ったことに同意する日が来るとは思ってなかったよ」
「うそぉ〜?」
 鈍臭い真奈美がいち早く反応した。ウソでそんなことを言うくらいだったら、もっとマシなウソをつく。
「ウソじゃないって」
「つまり『恋は盲目』期間が終わったらまた妄想の激しい由香に戻るのね」
「こんのっ……」
 マイマイに辛辣な指摘をされぶっ飛ばそうかと思ったが、傷害事件を起こしたらあんながんばって和樹くんと付き合った意味がなくなってしまう。……そうじゃなくて! 以外にも的を射た意見に感嘆してしまった。マイマイはこれでも生徒会役員だから頭はいいはずだ。
 ……おっとそうだ。和樹くんが待ってる。
「じゃあ私は帰るね」
「またあした〜」
「和樹に手を出したら許さないからね!」
 マイマイと別れるときはいつもこんな調子だ。無視を決め込んでる。私は颯爽とした気分で音楽室を出た。すると背後から
「本当に付き合ってるのかな?」
「さあ。でも由香に和樹は渡さない」
 そんなやり取りが聞こえた。マイマイは私がいないときでもそんなことを言ってるのか。いい加減現実に気づけばいいのに。そう思った私は「ふふ」と笑っていた。


 結構話してしまったのか昇降口にはもう和樹くんが待っていた。
「ごめーん」
「気にしないで。オレも今着いたところだから」
 これはよくあるパターンだ。本当は長い間待っていても、口では「今着いた」っていうの。額に汗が滲んでいる。ここは風通りが悪いから太陽の光だけ浴びると、真夏より暑いんじゃないかって思う。それで汗かいてるんだ。先に歩き始めた和樹くんの後をパタパタと付いていく。外に出ると風の恩恵を与れる。生暖かい風でも無風状態よりは幾分か暑さも和らぐ。後ろから様子を窺っていると和樹くんはポケットからハンカチを出して額の汗を拭った。いまどき高校生がハンカチを持っているなんて珍しい。私は持っているけど、男の子と女の子じゃ事情も違うだろう。
 それにしても、暑い。もう本当に夏を間近に感じられる。夕日と呼べるほど紅くない太陽。確実に日没までの時間が長くなっていってる。空を見るとまだまだ青くて夕刻と呼べるような時間ではない。雲が青い空を遮っている。それはまるで今の私の心のようだ。隠している自分の性格、それが雲。いつか言ってこの雲を消してやりたい。何も隠さないで、青空が全て見えるような透き通る関係でありたい。時は確実に、意味を持って経過している。それはもちろん私たちの関係も同じで、引き寄せあったり離れたり。それでも着実に一歩ずつ……小さな一歩だとしても距離が近づいてきている。
 すると、少し歩いたところで
「永沢?」
 和樹くんは振り返ると切なそうな顔をした。
「もしかして」
 視線を地面に落として、少し躊躇ったけどまた視線を私に戻して続けた。
「オレが永沢のこと……『ゆか』って言わないから怒っちゃった?」
 そんなわけない。この前言ったように和樹くんが「由香」って呼べるようになるまで待つって言ったのに。
「ううん、そうじゃないよ。怒ってるように見える?」
「……見える」
 怒ってるように見えるとすれば、昇降口のところで和樹くんがウソをついたってことだ。
「まぁいいや」
 ホッ。男の子って言ってももう十七歳だ。問い詰められるとちょっと怖そう。和樹くんは再び歩き出す。私はその少し後ろを歩いていると、また和樹くんが振り返った。今度は何だろう?
「隣に来てよ。オレのこと、怖い?」
 あ。
 ……亮。亮のせいだ。ああいうことがあったから、男の人に近づくのは無意識に避けていたのだろう。和樹くんは大丈夫って分かってても……体が。
「昨日、手繋いだよね」
 優しい口調だけどちょっと怖い。低い声が怖い。昨日大丈夫だったのは亮のことを忘れたかったから、人と長い間一緒にいたかったんだ。人恋しかったんだ。
 でも――これを乗り越えて。相手を信頼して、初めてそこで恋愛になるんだ。
「並んで歩こう?」
 和樹くんの眼差しは私の瞳を一直線に見ている。真意だ。そして色々な意味が込められた言葉だと思う。自分が寂しいからじゃない。私のことを想っての深い一言だ。
「うん」
 私も、和樹くんも、相手に手を差し出していた。手を繋ぐとどちらからともなく指を絡めあった。和樹くんは頬を少し赤らめたけど、目をそらすなんてことはしないで真っ直ぐ私を見る。私はそれに物怖じしないで見つめ返す。今までこんなことは考えられなかった。こんな至近距離で見ていると……思わず笑いが込み上げてきた。和樹くんもほぼ同時にくすくす笑い始めた。
「あぁ〜、おかしい」
「ほんとだね」
 前にいる和樹くんとの距離を詰めて、並んで歩き始める。四回手を繋いでようやく分かった。私はやっぱりニブチンだ。和樹くんは私に歩調を合わせてくれている。やっぱり、優しい。もう傷つく「優しさ」は微塵も感じなくなった。和樹くんを見ると、前をしっかりと見据えていて端正な横顔が更に映える。これからの未来……つらいことや大変なことが待っていると思うけど、それだけ幸せも返ってくるよね。二人で一緒に力を合わせて前に進んでいこう。そうすれば明るい未来が私たちに来るよね。
 ね、和樹くん。

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